海は荒れていた。
天候は晴れそのもので、空の色を移す海原は鏡面のように照り輝いている。強い風が吹き荒び、その鏡を割ると、踊り始める波が高速で海上を移動する艦娘たちの姿を隠しては出してと繰り返す。夕立はそんな波の踊りを楽しげに見ていた。
「何をそんなに楽しそうに見ているのですか、夕立さん?」
響が小首を傾げながら夕立に訊ねる。
「響か。お前はこの荒れる海をどう見る?」
「へっ?」
逆に問い返されて、響は言葉に詰まった。いきなりどう見ると言われても、荒れているなあとしか思えない。勿論、夕立はそんな答えを待ち望んでいるわけではないので、何と答えるべきか言葉に詰まったのだ。
「目を凝らし、耳を澄ませろ。さすればお前にも分かる筈だ」
「分かりました」
言われた通りに響は目を凝らし、耳を澄ませた。
最初は何にも分からなかったが、次第に見えて聞こえて来る。波の踊りは歓迎に、波の音は歓声のようであった。
思わず、響は夕立へと視線を向けた。
「分かったか。そうだ、皆が私たちを迎えてくれているのだ。母なる海へと散って行った同胞たちが、此度の私たちの出撃を歓迎してくれている。ソロモンの奪還を待ち望んでいたのは、私たちだけではない。海の屑作戦を、私とお前以外にも心待ちにしている者たちがいたのだ」
「皆が……」
「うむ。今を生きる私たちも、英霊となった者たちも、想いは一つだ。永久に続く大海原を突き進み、皆で戦い、皆で取り戻そう――ソロモンを」
「二人で盛り上がっているところ、水を差すようで悪いんだけど、失敗した場合も視野に入れてるんだろうねぇ」
厳しい表情で二人の会話に入って来たのは北上だった。このままだと、英霊たちと共に戦い、そのまま仲間入りしようと言わんばかりのように思えた。それをしてもらっては困ると数日前に夕立に話したのだ。よもや忘れたわけではないだろうな。
北上の言葉に、夕立は「無論」と頷いた。
「無理だと判断すれば撤退する。お前に言われたことを忘れたわけではない。それに私はもう、容易く死を選ぶわけには行かなくなったからな」
一瞬、後方遠くへと視線を向けて、夕立は微笑んだ。視線の先にあるのは鎮守府である。何と温かみを含んだ優しい笑みであろうか。響と北上が微笑みの意味を悟るのにさほど時間はいらなかった。
「えっ?」
「はっ?」
何とかこの一言とも言えない言葉を吐き出すと、驚きのあまり響と北上は寂として声が出なくなった。度肝を抜かれてしまったのである。
声の出なくなった二人に変わり、聞き耳を立てていた長良が口を開く。
「夕立、とうとう明石と?」
「うむ。とは言っても、まだ付き合うことにしたわけではない。人類と深海棲艦との戦争に終止符を打ったその時にと決めている」
「はは、夕立らしいね。まっ、それでこそだ」
長良が如何にも愉快そうに笑った。
その賑やかな笑い声に響と北上はハッと我を取り戻した。
するとその時、偵察機を放っていた重巡洋艦の羽黒が敵艦を発見したという知らせを夕立に届けた。既に深海棲艦の支配領域に突入しているのだ。深海棲艦たちは、夕立たちをソロモンへは向かわせまいと、立ちはだかって来る。
「前方に敵艦隊発見です! 戦艦一、重巡三、軽巡三、駆逐六、以上です!」
報告を聞いた夕立は鼻を鳴らす。
「ふんっ。その戦力で私たちの前に立ちはだかろうなどと、身の程知らずどもめ。悲願がようやく成就されようと言うのだ。小物ども如きに邪魔をされてたまるか!」
気勢を上げた夕立が声を張り上げ指示を出す。
「空母艦娘は第一次攻撃隊を発艦させろ。出来るならばお前たちで全滅させてしまえ! 他の艦娘たちは、念の為に水上砲雷撃戦の用意だ! こんな所に時間を掛けるわけにいかない! 一気に突破するぞ!」
おうと艦娘たちは声を揃えて返事を轟かせた。
空母艦娘たちが指示通りに艦載機を飛ばす。矢を番えて上空にハッシと放つと、それが分裂し艦載機の形となる。或いは巻物を瞬時に開いて飛行甲板と成し、懐から取り出した艦載機の形に切り取られた紙に力を込めて、それを具現化させる。
「行けっ!」
そう叫んで、空母艦娘たちは深海棲艦の下へとまっしぐらに艦載機を飛ばせた。先制攻撃で反撃させる暇もなく撃沈させるつもりであった。目算では数えきれないほどの艦載機は空中で隊を作り、喚声のごとくエンジン音を唸らせ宙を切って進んで行く。
空母艦娘たちが水平線上に深海棲艦を目視出来るようになると、艦載機群は競い合って急降下し爆撃を加えて行った。爆発と共に海の水が塔を成して天へと突き上がる。
戦場慣れした夕立の目は、濛々と上がる黒煙の中に生き残りが二体いることを捉えた。
「よしっ! 奴らを私自ら血祭りに挙げて、英霊たちの無聊を慰めるとしよう」
そう決意するや佩刀し、疾駆する。
二体の深海棲艦は一人突出して来る夕立の姿を捉えると、砲撃を放ち撃沈させようとした。狙いは正確であったが、軽々とそれはかわされる。
「雑兵のへろへろ弾なぞ」
接近した夕立は刀を振り上げ、振り下ろした。刀は風を斬りながら宙で踊り、重巡深海戦艦を斬り裂く。人間や艦娘と同じ、真っ赤な血が飛び散って海を染めた。
「沈めっ!」
斬り捨てた深海棲艦を気にすることなく、夕立は二太刀を振り下ろした。首を狙った一刀は深海棲艦の首を飛ばすことなく漆黒の髪だけを斬り払う。
「悪運の強い奴め!」
返す刀で三太刀め。今度は青白い首筋に白刃が光り、戦艦型の深海棲艦は首と胴が離れ離れとなった。
最初の戦闘はこれで終了した。戦闘ではなく蹂躙と呼ぶべきかもしれない。艦娘側に一切の被害はなく、深海棲艦は碌に戦うことも出来なかった。正しく完勝である。
刀を鞘に納めた夕立は満足であった。
「幸先が良い。さあ、このまま駆け抜けるぞ!」
★ ★ ★
夕立ら三十六人の艦娘はこの後三回ほど戦闘を繰り広げた。そのどれもが完勝と呼ぶに相応しいものであった。この結果に艦娘らの士気は絶頂にまで高まり、そしてついにその時がやって来たのである。
「驚くほどに深海棲艦が脆いな」
武蔵が言った。
確かにと夕立が頷く。
「先日、閣下が私に仰った。どうやら深海棲艦どもの勢力が急激に弱まっているらしいと。此度の戦いを制すれば、戦争の終わりも近い」
言い終わると、何かに気付いたのか「あれを見ろ」と指をさした。
視線の先は、一見変わらぬ海原だ。今の今まで突き進んで来た海原とどこも変わるところはない。だが、夕立には分かっている。あれこそ、あの海こそが、二年間、帰ることを待ちに待ったソロモンの海であると。
「さあ、いよいよだ」
一足先に夕立がソロモンの海に突入した。懐かしい海の匂いが香って来る。海の荒れが激しさを増し、この地に眠る同胞たちの歓喜の声がまざまざと聞こえて来るようであった。
全身で故郷の海を感じていると、その内に他の艦娘たちもドッと踊り入って行く。夕立と同じこの海が故郷の響、この海を第二の故郷と呼ぶ長良も、気持ちを高揚とさせる。
「のんびりと昔話に花を咲かせたいところだが、どうやらお出ましのようだな」
夕立はぎりぎりと奥歯を噛み、胸を引き締める。眼裂の鋭い目がカッと見開かれた。
瞬間、次々と現れる黒い影。視界を埋め尽くすほどの深海棲艦が海中より出でて、ソロモンの海を刹那の時間に黒染めした。ものすごい数だ。夕立たちはこれを突破して、敵の本隊の下へと向かわなくてはいけない。
夕立は刀を抜いた。
それからスーッと深く息を吸い込み、
「おおおおおお!」
雄たけびを上げた。味方も敵も魂が凍えるような凄絶な雄叫び。明確な指示ではないが、明快な指示ではあった。これが作戦開始の、あるいは戦闘開始の合図であった。
艦娘たちがそれぞれ動き出す。弓を構え、砲を構え、喚声を上げた。
夕立は雄叫びと一緒に抜き放たれた矢のごとく突進する。深海棲艦は気付いた時に、仲間を三体失っていた。
「怨恨渦巻く青き世界に、再び秩序と平和を取り戻すために」
空中で艦娘と深海棲艦の艦載機が激突する。時折、空には赤い炎と共に鈍い灰色がペイントされた。空から艦載機がパタパタと落ちては水柱を乱立させる。
洋上では五体の深海棲艦の首が宙を舞った。
「同胞たちの安らかなる眠りを妨げる悪しきモノどもを、我が正義の剣をもって斬り払うために」
複数の重々しい轟音が爆発を引き起こす。主砲を交わし合う艦娘と深海棲艦。中には拳や足も雑ぜて戦う者たちもいた。
夕立は斬るばかりではなく、刺し貫いた。二体の深海棲艦が苦悶の表情を浮かべて沈んでいった。
「軍人としての我が責務を果たすために」
一振り、二振り、三振り、目に付く敵を容赦なく斬り伏せていると、四体の深海棲艦の生命が消えた。この戦いが始まって一分も経っていないと言うのに、十四体の深海棲艦が夕立一人の手で轟沈した。まさにあっという間である。
夕立は刀から滴り落ちる血を振り払って、一拍を置き、叫んだ。
「ソロモンよ、私は帰って来た!」
それは心底からの魂の叫びであった。
夕立を除く三十五名の艦娘は、その叫びを聞いて、鬨の声を合わせるのであった。