その日の夜。夕立は興奮からか中々眠りにつくことが出来なかった。もう直ぐもう直ぐと心が逸って、落ち着けないのである。身体が火照り熱くてしょうがない。
まだか。
まだなのか、と身体が急かしている。
二年間待ち続けたのだ。後数日ぐらい大人しくしてくれないものかと、自分の身体に訴えかけると同時に、その身体の熱い思いを理解する夕立がいた。
とにもかくにもこのままじゃいけない。出撃の命が下されるまでずっと起きているわけにもいかないのだ。そんなことをしていたら身体がもたない。
ベッドから起き上がり、用を足すべく自室を後にする。ついでに身体を冷やすべく風に当たろうと思った。身体の火照りも夜風に晒せば丁度よくなるだろう。
明かりのない廊下を進み、トイレへと向かった。トイレで用をすませば、夜風に当たるべく外へと向かう。正直なところ、部屋のベッドから降りた時から、身体はそこそこの冷えを感じていた。だからもう夜風に当たる必要はないのだが、どうしてか理由がなくとも当たりたくなったのだ。故に、外へと向かっている。
途中、夕立は一人の艦娘と遭遇した。誰あろう、北上であった。
嫌な奴に会ってしまったものだ。単純に面も見たくないというのはあるが、北上と顔を合わせると碌なことにならない。罵倒試合は序の口、この前は殺し合いの一歩手前にまで発展したのだ。いや、もう殺し合いだった。
身体の火照りを抑えたい夕立としては、北上と顔を合わせるなどもっての外なのだ。冷えるどころかマグマのように煮えたぎってしまう。
無視をしよう。それが夕立にとって正しい選択だった。
しかし、北上にはそんな気がさらさらないようで、
「夕立」
と、声を掛けて来た。
夕立は顔を歪める。またぞろどのような嫌味が、あの忌々しい口元から飛び出して来るのやら。身構えていると、予想していた嫌味の類は一向に飛んで来なかった。
そればかりか夕立が聞いたこともないような声音で北上は言う。
「ちょっと話があるんだけど」
言外について来てほしいという意味を含ませながら、北上は夕立に背を向ける。一体何を企んでいるのかと警戒するが、どうも様子が変だ。いつも顔を合わせる時に感じる殺気や憎しみが感じられないのだ。
怪訝さを押し隠しながら、夕立は三歩距離を取って、北上の後を追った。
「入って」
案内されたのは北上の部屋であった。北上が自分の部屋に夕立を入れるなど天地がひっくり返ってもあり得ない話だと言うのに。ますますもって気味が悪い。
「何を考えている?」
「いいから、さっさと入って」
夜のためか周囲に気を遣って、小声で夕立をせき立てる北上。何かあればその時はその時だと、胸を張り堂々しながら部屋の中へと入った。
北上の部屋は一人部屋である。もともとは二人部屋だったのだが、同室の艦娘は既に名誉の討ち死にを遂げているので、現在は、北上が一人で使っていた。同室だった者の名は大井――北上が愛した人であり、夕立への感情を憎悪に変えた艦娘である。
「適当に座ってよ」
「では、失礼しよう」
夕立はドアを背に胡坐をかいて座った。部屋の中央には布団が敷かれており、そこに北上が腰を落ち着ける。
しばらく北上は沈黙した。
夕立も黙っている。
静かな空間だった。物音一つとして存在しない奇妙なまでに静かな空間。しかし重苦しさは感じられない。夕立と北上――不倶戴天の敵同士、ともすればお互いに深海棲艦より嫌っているのではないかという二人が揃う空間だと言うのに、穏やかな静寂さがあった。
夕立は口を開かない。用があるのは、自分に話したいことがあるのは北上の方である。どう話を切り出すべきか迷っているのであろう。ならば、その考えが纏まるまで待ってやるだけであった。
やがて、北上が口を開いた。
「あんたってさ、人を愛したことあるかい?」
唐突な質問だった。意図がまったく読めない。いきなり何の質問をしてくるのだと思った。そもそもお前にそんなことを訊かれるような仲じゃないとも思った。だけど、答えないと話が進みそうにないし、珍しく北上が殊勝な態度を取っているのだ。真面目に答えてやることにした。
「ある」
夕立は人を愛したことがあった。未だ新米の艦娘だった頃、自分を一人前の艦娘にするべく指導をしてくれた人に。今の夕立を形作っている基になっているのは、その艦娘である。彼女のようになりたいと日々鍛錬を続け、常に彼女と行動を共にした。そうしている内に、憧れが変化したのである。身体は大きく、心は広く、心技体揃ったまさに艦娘の、軍人の鏡。そんな人でありながら、可愛らしいものやチョコ菓子なんかには目がなかった。そのことで少し失望したこともあったが、夕立はその艦娘を確かに愛していた。
「愛した人、今は?」
「死んだ。当の昔に、な」
「そうかい」
今より三年程前のことである。
驚いたような表情も馬鹿にするような表情も見せず、北上はただ頷くだけであった。
また沈黙。
今度は夕立がその沈黙を破った。
「おかしいとは思わんのか? 私が恋だの愛だのを肯定するのは」
軍人たるもの、艦娘たるものは鎮護の剣たれ、と常々口癖のように言っている夕立が、実は愛していた人がいた。色恋沙汰を優先するのは恥ずべきことだと言っている夕立が。
北上は首を横に振った。
「別におかしいとは思わないよ。そもそもあんたがいつも言っていることは、恋愛の前に艦娘として深海棲艦を倒すことに集中しろ、恋愛に必要以上にかまけるなって意味でしょ? 恋愛を全否定しているわけじゃないんだし、あんたが恋愛してもおかしくはないさ。まあ、あんたに恋や愛が分かるとは思えないけど」
「どういう意味だ?」
「一つ聞くけど、好きな人が死んだ時、あんたはどう思った?」
どう思っただろか。
最初は信じられない気持ちが強かったかもしれない。あの人が沈むなどあり得ないと容易には信じられず、現実が見えて来た時は、あの人の分まで戦い、一刻も早く海の秩序を取り戻さなくては、と思った、のだろう。
夕立は北上に話した。
「やっぱり、あんたのそれは、恋や愛じゃないよ。もっと別の感情をその人に抱いていたんだ。それを恋や愛と勘違いしている」
「何?」
「本当に好きな人が死んじゃったら、そんな風に割り切るなんて無理でしょ」
大井が死んだ時は、北上は荒れに荒れた。廃人のようにボーっとしている時もあれば、いきなり大泣きすることもある。途端に怒りだすこともあるし、狂ったようになることもあった。愛する人の死は、そこまで北上を追いつめたのである。
そんな北上だからこそ、夕立の思いは別物だと断言する。恋愛の価値観なぞは人それぞれのことだと言えばそれまでであるが、ともかくとして北上にとっては違うのだ。
夕立にしてみれば、そんなことはない。あれは恋や愛だったと言える。自分はあの人に惚れていて、確かに愛していたのだと。
ただ、それを議論する気は毛頭なかった。もう既に終わったことだ。何としようもないし、仮に北上の言う通りだったとしても、仕様のない。
北上にしても同じこと。そこに本題があるわけではなかった。重要なのは愛する人が死んだ時、残された人はどう思うのか、ということ。
北上が夕立に話したい本題はここからだった。
「単刀直入に訊くけど、明石があんたを愛していることは、知ってるでしょ?」
「……ああ」
面と向かって言われたことはない。けれどあそこまで露骨に訴えられれば、気付かないわけはなかった。夕立は人の感情に鈍感なわけではないのだ。
そして明石が自分に気持ちを伝えて来ない理由も分かる。自分の意思を尊重してくれているのだ。軍人としての自分を全うさせてくれようとしている。ありがたかったし、どことなく心苦しくもあった。
「だったら話は早いね。あんた――死ぬんじゃないよ」
北上は極めて真面目な表情を作ってから言った。夕立の切れ長な瞳をしっかりと見据えている。
「今度大きな戦いがあることは、この鎮守府内では周知の事実だけれど、その戦いって、あんたの元いたところを取り戻すための戦いらしいじゃないか。そして、あんたがそこを奪還するためだけに生きていることも、だいたいの艦娘は知っている。だからさ、自分が死んででも奪還するだなんて気は起こすんじゃないよ。無理だと思ったら撤退しろ」
「お前に死ぬなと言われるとはな。それこそ不吉なことが起きそうだ」
夕立が笑いながら返すと、北上は眉間に皺を寄せる。
「勘違いすんな。アタシはあんたのことなんざどうだって良いんだよ。と言うか死ねって思ってる。でもさ、明石のことを考えれば、あんたが死んでもらったら困るんだよ。明石のあんたに対する惚れっぷりは尋常じゃない。それこそアタシが大井っちに対する想いと同じぐらい。あんたが死ねば、明石はやばいことになるのは明白だ。だから、死ぬんじゃないよ。絶対に生きろ」
分かった、死なない、と夕立は言わなかった。
死ぬ気はない。
けれども死んで目標が達成されるのなら、喜んで死のう。
だが、自分が死ねば明石が、大井を亡くした時の北上のようになると考えると、死ねない。
激しく心を揺さぶられる夕立。この心の動揺を悟られないよう、ただ、うっすらと微笑みを浮かべるだけで、それ以上は何もしないし、何も言わなかった。