真っ黒な傘を広げた上に、深い青のインクを垂らした。
色が溶けたら、その上に。
光るイエローのペンで、ビーズのような円を浮かべてみる。
1つ、2つ、3つ、4つ――
幾つも幾つも、飽きるほど、想いを残した光を描いて。
見上げれば――そんな、夜空。
見下ろす月が――退屈な心と、重なる。
「なんでだよ、くそぉ……」
右手にある仄かな機械熱が移したのか、吐息まで、熱を孕む。
押し殺すように、喉で転がる想いの丈を、いっそ叫んでしまいたい。
板垣天使は、怒っているような、泣きそうな、ぐるぐる混ざった顔で、夜空を睨んだ。
握り締めた右手の中にあるのは、淡いピンクの携帯電話。
彼女が待つメールも電話も、まだ来ない。
騒がしい群像が発する数多の喧騒にすら煩わしさを抱いてしまうほど、天使には余裕がなかった。
「何してんだ、あのバカウサギ……」
夜空に混ざる千切れた瑠璃色を宿した瞳が、苛立たし気に紡がれた言葉とは裏腹に、不安そうに細くなる。
川神の地域に幾つかある内の一つのゲームセンターの、直ぐ目の前。
年季を感じさせる、白いペンキが所々剥げ落ちたガードレールに器用に座りながら、落ち着かない右手が、握り締めていた携帯電話。
メールも、電話着信も、そこには無い。
浮かぶ待ち受けのプリクラに映る、笑顔の彼女に腕を組まれて、仏頂面にそっぽを向いた白い少年の姿を見て、また一つ、天使の心がささくれ立った。
もう、既に五回もメールを送信した。
電話も、十分置きには一回。
それでも、彼――一方通行との連絡が繋がることはなかった。
「学校ってのが、そんなに楽しいかよ……」
今現在、彼が何をしているか、何処に居るかなど、天使には分からない。
そもそも、一方通行と遊ぶ約束や、共に過ごす予定もあった訳ではない。
それならば、連絡が繋がらないことに対して、憤りや不安といった感情を一方的に抱くことは、子ども染みているという自覚はあった。
「……連絡ぐらい、さっさと返せんだろうが」
休日は一方通行と共に居ることが多い天使には、彼がアルバイトをしている今日が休みだということは承知している。
ならば、彼が返事を返さないのは、一方通行の身に何かがあったか、友人と夢中になって遊んでいて、天使のメールや電話に気付いていないのか。
前者である事は、考えにくい。
何かトラブルに巻き込まれたとしても、自身を含めて一家全員が一目を置いている一方通行ならば、簡単に問題を解決出来ているだろう。
だとしたら、後者。
素っ気ないような落ち着いた態度を取る癖に、親しい者には何だかんだ甘い所のあるあの男は、険のある面立ちや雰囲気の割に、友人もそこそこ多い。
学校終わりに友人と何処かへ、という事だって少なくないのだから、あり得る事ではある、のだが。
「クソウサギ……」
深く落とした重たい吐息に、混じる寂寞と、不安。
どうしてか、とても胸騒ぎがしたのだ。
単なる気のせいかも知れないのに、どうしてか、棄てきれない。
脳裏にちらつく男の顔が、泣いているように見えてしまった、それだけの事なのに。
飾り物の様に散らばった、星屑浮かぶ夜空の下。
彼からの返信は、帰って来ないまま。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目を閉じなくとも、陶酔する事は出来る。
良いモノを素直に良いと、口にする事は未だに出来ない時があるが、それでも。
溜め息が唇から零れ落ちてしまう様な、美しく景色を眺める時とか。
アルバイト先の、仏頂面の店主が作る料理に舌鼓を打つ時だとか。
ふとした拍子に巡る、いつか見惚れた女の笑顔に、だとか。
「……」
目を閉じれば、雑踏の間からでも器用に鼓膜へと届くギターのアルペジオ。
――御世辞にも、上手いとは言い切れないけれど。
小綺麗な詩と、切ない旋律。
思いの丈をギターに託して、青臭い情感を載せた男の歌は。
紛れもなく、自分の心を溶かしているから。
「……」
例えば、遡るように。
目を、閉じなくとも、思い出せる。
あの日の罪は、脆く崩れやすい張りぼての心の裏側で、共にある。
寄り添うように、無垢なままで。
どうして、私達を、殺したの。
そんな事すら、言ってやくれない。
彷彿する記憶の群れが、センチメンタルを切り開くフレットノイズと重なって。
「……、──」
例えば、変わるように。
強い生き方と、羨望を覗かせた男の問い。
心配しなくとも、そこに優劣など存在しないと、彼は苦笑する。
かつて己が、道標とさえ憧れと共に掲げたあの男ならば、きっと言うのだろう。
強い生き方、そんなものは幻想だと。
フィンガーボードをスライドして鳴る度に、過去と今とで行き来した価値観を浮き彫りにさせる。
「──、……」
例えば、追憶するように。
強くなんてない、きっと、弱くて脆い。
そんな自分に出来るのは、誰にも勝る強い生き方などではない。
そんな自分に出来たのは、せめて、負ける事のない生き方だけで。
不慣れながらも曲に寄り添うアルトの歌声が、想い綴った詩に乗って、感傷をあやした。
「────」
行き交う人々の靴の音をコーラスにしたこの弾き語りを聞く度に、どうしても浮かび上がるのだ。
道標を与えてくれた、女の横顔。
見上げた月には重ならなくて、目を閉じる。
縋りつくことは、しない、けれど。
目蓋に浮かぶ彼女に、寄り添うくらいは許されるだろうか。
──
────
「全く、師匠の歌声に痺れてくれるのは嬉しいけどさ。後にそう突っ立たれちゃ、俺に見惚れる女の子の割合が少なくなるんだよなぁ」
「誰が師匠だ、笑わせンな。俺がどこに立とうが、そりゃァ、俺の勝手だろォ」
「あんらま、相変わらず素直じゃないよコイツ。まぁ別に、誰かに師匠って呼ばれるほど、上手くはないけどよ」
ブーツ、スニーカー、ビジネスシューズ、種類を挙げればキリなんてない。
雑踏の織り成す足音のオーケストラは、帰宅ラッシュの時刻だからか、所々ピッチが速い。
人々の闊歩する川神駅前の広場の半ば、足安めに設置されるベンチの背凭れに浅く腰掛ける一方通行は、飄々とした笑みを浮かべる男の言葉に、顔をしかめた。
薄色の、彼が薦めたロキシオのサングラスの奥で、琥珀色の瞳が人懐っこく彼を見上げる。
バランスの良いカジュアルな服装で、そこそこ値段の張るアコースティックギターを膝に載せる男の、師匠面のなんと愉快なことか。
一方通行が、彼からギターを少々教わっているのは事実なのだが、師匠面を肯定してやれば、途端に調子づくのだ、この男は。
飴と鞭は2:8の割合で良いと彼の恋人から戴いた教えを、一方通行はしっかりと実践している。
「……ン」
視界半分、一瞥する程度に顔を向けて、白い指先が微糖の缶コーヒーをひょいと差し出せば。
柄にもなく照れているんだろうなと当たりを付けて、ニヤリと腹の立つ笑みを携えて、男が彼からの差し入れを受け取った。
プルタブを開けて、くいっと一口。
熱くなっていた喉には都合の良い、冷たいコーヒーに男は満足とした笑みを浮かべる。
「いやぁ、気が利くってのもイケメンの必須科目ってか? 全く惚れ惚れする、一昔前の俺なら憎しみのあまりカニぶつけてたぜ」
「意味分かンねェ、なンだよ蟹って、オイ。同じ海に生息してンだ、ちったァ丁重に扱ってやンねェと、いつかチョキンと往かれンぜェ?
なァおい、『フカヒレ』くンよォ……?」
「『シャーク』だっつの!! 」
小馬鹿にするようにクツクツと笑う顔は、上品とはいえないが、冷然とした顔立ちの一方通行には、良く似合っていた。
聞き捨てならないとばかりに叫ぶ男の名前は、鮫氷 新一。
鮫という名をシャークと称えて欲しい、そんな彼の願いを嘲笑う白い面持ちは、どこかイキイキとしていて。
何時にも増して落ち着いた風に、らしさが戻った事は喜ばしいが、自分を貶してまで付け上がられれば、複雑という新一の心には同情を禁じ得ない。
「ったく、なーんで皆その名前で呼ぶんだよ。一方通行、ほんとに誰かにその仇名、教えて貰ってないの、真剣で?」
「教えて貰ってねェって言ってンだろォ。呼ばれンのは、ヘタレ過ぎるオマエが悪い、うン」
「いやいやいやいや学生時代ならまだしも、俺今割と大人になってるから!! ヘタレって言うのは俺じゃなくてレオみたいな奴の事を言うんだよ!」
「対馬さンはフカヒレと違って尻にしかれちゃいねェだろォ。あの店長の手綱握れンの、あの人ぐれェだしィ? どっかのヘタレは指輪渡す踏ン切りもつかねェままだしィ?」
人の痛い所を抉る容赦のない悪人面でさえ、顔が整ってる分、絵になってしまうのだから、腹立だしい。
師匠に当たる自分はフカヒレ呼ばわりなのに、彼の幼なじみである級友には敬語を使う所が、分かり易いほどに軽視されているのだと。
指輪――つまりは婚約指輪を探すのに以前彼を引っ張った事が仇となったと、新一の目頭がじわりと熱くなる。
「だ、だって豆花は今、料理人の修行で忙しそうでさ……なんか、細々とフリーターしながらギターやってる身な俺からしたら、もうちょいアイツに余裕が出来てからの方が良いかなって……」
「物販でもしてみりゃ良いだろォが。最近、週末辺りは人も集まるようになったって言ってなかったかァ?」
途端に萎れる新一をフォローする訳でもないが、思い切ってCDの一つでも物販してみればと、然り気無い自身の要望も兼ねて、提案する一方通行。
自身では下手だと言っているが、ギターに関しては普通に上手いと一方通行は思っているし、それは彼が務めるバイト先の女店主も同意見である。
歌に関しては入れ込みや練習の下地が薄かった為か、ギターに釣り合うほど上手いとは言い切れない。
しかし、鮫氷新一という男の歌詞は、とても深みがある。
聞けば聞くほど掴んで離さない奥深い詩に惹かれて、彼のファンになる者だって少なくなかったのだから。
事実、ギターの方こそ趣味程度で教わっているが、一方通行が新一と知り合う切欠になったのは、彼の歌う唄に、柄にもなく心打たれたからである。
「物販、かぁ……レコーディングとか、死ぬほど緊張してまともに歌えなそうだしなぁ……」
「だからヘタレって言われンだろ。優柔不断」
彼の何気ない風の提案に、少なくとも心は動かされている。
しかし、純粋なメンタルの問題と金銭面が関わってきて、なかなか即決とはいかないもので。
そう簡単な問題じゃないことは承知しても、取り敢えず憎まれ口は叩くスタンスを一方通行は崩さない。ドSの性、本領発揮である。
実際、頼まれれば川神学園で宣伝してやっても良いとは思っている癖に、敢えて自ら提示はしない一方通行。
肝心な事は自分で決める、それくらいは曲がりなりにも師匠を名乗るのだから心得て欲しいとほくそ笑んで。
ふと、此方へと駆け込んでくる騒々しい足音に、意識が向いた。
「新一、お待たせアル! 一方通行クンも、久し振りネ」
妙な抑揚と、独特のイントネーション。
鈴が転がるような透き通った声を発したのは、少女としての面影を残した、一人の美人だった。
「お、今日は速いな豆花。お疲れ」
「……お疲れさンです」
ベージュのカーディガンに、薄いピンクのスカート。
低いヒールシューズをカタカタと鳴らしながら歩み寄る女性に、一方通行は静かに頭を下げる。
楊 豆花、という名前の響きと、少し不慣れな日本語が、彼女が中国人である事を裏付けていた。
傍目から見ても際立つ肌の白さが目を惹く、秀麗な顔立ち。
モデルでも充分やっていけそうな彼女が新一の恋人である事を始めて聞かされた時は、抜け目ねェなという新一にとって有難い感想を戴いていたものである。
「料理長が、たまにはゆっくりしろ、ていうから御言葉に甘えたヨ。一方通行クンも、最近は対馬亭での修行はどんな感じカ?」
「……ボチボチ、てところっすねェ。まだまだ簡単には追い付かないよォで」
「料理とは奥深いモノ、精進するヨロシ」
対馬亭という名の小料理屋でアルバイトをしている一方通行の料理の腕の上達が気になるのは、高級中華の厨房に務める料理人の性なのだろう。
あまり頻繁にとは言わないが、良く新一と共に対馬亭に訪れる豆花に、少し前から多少ながらも料理を任される事になった一方通行は、自分の出した料理を吟味して貰っていた。
良い所は良い、悪い所は悪いと批評をハッキリと口にする彼女の言葉には、色々と考えさせられることも多かった。
対馬亭の店主と並んで、一方通行の、料理に関しての指標である。
「……ン?」
ふと気になって、制服のポケットに入っている携帯電話を開く。
豆花の仕事が終わるのが早まったとはいえ、それでも結構な時間になっているのは間違いない。
フランクとの一件で考え込んでしまったり、新一の歌に耳を傾けていた事もあって、今の時刻がどれくらいなのか分からないのだ。
パカリと開いた携帯電話のディスプレイで時刻を確認しようと試みるが、つい視点が流れてしまう。
『着信履歴11件、受信メール8件』
「オイオイ……」
気になって履歴を漁れば、15分前の梅子からの一件以外は、全て板垣天使からの着信。
ご丁寧に10分置きに着信が続いており、それを辿れば二時間前から着信があったということ。
学園から出た時に、サイレントモードを解除していなかったのが仇となったらしい。
げんなりとした溜め息を落としながらも、メールをチェック。
梅子からの『今日帰宅したら、話がある』という一件と、小雪からのやたらテンションの高い、しかし彼女とのメールでは頻繁な内容のが一件。
あとは『学校終わった?』という天使のメールから始まり、まだか、無視すんな、電話出ろ、へとシフトしていき、最後には恨み書き連ねた罵詈雑言のオンパレード。
あまりの口汚さに閉口するが、腹は立たない。
梅子からの連絡も気になる所だが、早いとこ天使の機嫌を取らないと後々面倒な事になるのが見えていた一方通行は、仕方なしに腰を上げた。
「ん、どしたんだ? もう帰る感じ? 梅子さんから遅くなるなって言われてたのか?」
「まァ、そンなとこだ」
「あや、残念アル。私お腹空いてるから、皆で対馬亭行こう思ってたのに」
「あァ……ソイツは間が悪かったっすねェ。まァ、そっから先はお二人でどォぞ」
折角恋人二人で時間を過ごすというのに、自分が混ざっても気にしない風な二人に、やれやれと苦笑混じりに茶化す。
新一としては多少ながらも二人で居たいという意志も見え隠れしているけれど、口には出さない所は優しさと受け取っておく事にした。
馬に蹴られるのもあれだしな、と別れの挨拶に交えて焚き付けるような発言を残し、踵を返す。
分かり易いくらい動揺する新一と、隣で静かに頬を染める豆花。
肩越しに見えたその光景にやれやれと肩を竦めて、背を向けたまま手を振った。
少し吃りながらも挨拶を返す新一の声を残して、携帯電話を開く。
さて、センチメンタルな気分に浸った分、清算しなくてはならない勘定が積もってしまった。
通信ボタンを押すのに躊躇うくらいには、今の彼には余裕が戻っている。
耳に宛てた携帯電話から聞こえてくる、無機質なコール音。
叫んで来るなら疲れる程度、黙って拗ねていたら骨が折れる程度。
どちらにせよ、宥めることには変わらないのだから、楽にいければ幸いか。
見上げた夜空のシルエットが、なんだか少し、柔らかく見えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
掲げられた案件二つを処理する場合、基本は優先順位を設けて処理するのが一般的といえるだろう。
同時に行えるのならば、行うに越したことはないが、今回に関しては余計ややこしくなるのは目に見えているので、一先ず伏せておく。
では、次は優先すべきはどちらかを決めねばならないのだが、生憎、それは既に決定済みである。
より簡単な方から行う方が、後の問題に余裕を以て対処出来るからである。
――とどのつまり、一方通行は困惑していた。
目の前に対処すべく転がっている案件は二つ。
一つは、ボロボロになったフライパンと焦げ付いた料理。
これに関しては帰宅と連絡が遅れた一方通行にも非がある。
天使の拗ねさせた侘びとして休日付き合う事を述べた一方通行が帰宅した際に、部屋に充満した見覚えのある煙と焦げ臭さを感じた瞬間、原因は分かったが。
大方、もはや時たま訪れる風物詩と化した失敗劇が開幕されていたのだろう。
しかし、もう片方の案件は流石に厄介である。
鬼小島と呼ばれているあの小島梅子が、酷く肩を落としたまま、一言も話さない。
帰宅した時に一度、名前を呼ばれて以降、彼女はずっとこの調子なのだ。
「…………」
取り敢えず、先ずは処理のしやすい案件の方から片付けていこうと、ボロボロになったフライパンの底を、使わなくなった歯ブラシでゴシゴシと磨く。
蛇口から流れる水道水の音と、カチコチと鳴る古時計の秒針に、時折、どこか遠慮がちな梅子の微かな溜め息が混ざる。
そんな彼女の様子に、一方通行はただ困惑せざるを得ない。
危うく火事一歩手前まで惨事を起こしてしまった事に対して凹んでいるには、梅子の様子に違和感を感じてしまう。
まるで、聞き難そうな事を尋ねることに、躊躇っているかのような。
「……なぁ、一方通行」
「……ン?」
どれくらいの沈黙が居座ったのかも分からぬまま、買い直しはするけども休日までには繋ぎとして使えるぐらいには処理出来たフライパンを片付けて、次は弁当箱へ。
泡立てたスポンジで女性らしさを感じさせる淡い赤の弁当箱を洗う白い背中に、名を呼ぶ声一つ。
背中と背中を向かい合わせたままの会話は、どうしてか距離を感じた。
「私は、お前の姉として……ちゃんと、お前を守れているか?」
白い指先が、止まる。
紅い瞳は、変わらぬまま。
「放課後、フランクさんとの一件について、彼自身から内容を聞かせて貰ったんだ。お前に銃を向けた事、問い質した事……人を、殺したと答えた事も」
「……」
テーブルの上で握り締めた掌が、震える。
女の瞳は、閉じられたまま。
「――私は、お前を守ると決めた。あの地震の時、お前の事を教えて貰った時に」
脳裏に過るのは、二年前の惨劇。
奇跡が起きたと、歓喜の声を挙げる人々の傍らで。
自分の腕の中で満足そうに笑った、血塗れになった彼の顔を、忘れることなど出来やしない。
その日に、誓ったのだ。
例え世界の誰もが彼を危険だと恐れたとしても、小島梅子は彼を信じ、守り続けるということを。
「なぁ、一方通行……私はッ――」
その先は、紡がせてはいけない。
泡にまみれた白い指先が蛇口を開いて、再び流れ出した水道水の打ち音に、梅子の言葉が遮られる。
全くどうして、自分という人間はこうまで分かり難いのか。
きっと、フランクに関しての一件を、一方通行が彼女に伏せていたという事実が、彼女を不安にさせたのだろう。
彼女が、一方通行を守れているか……そう聞く癖に。
彼女が、一方通行を守るという事を、信じてくれているか……そう聞きたい癖に。
自分は分かり難すぎて。
彼女は分かり易すぎて。
正反対の癖に、変な所で臆病になるのは、良く似ている。
「――ったく、なァンなンですかァ?」
振り向かず、そして掌はスポンジと弁当箱を握ったまま。
自分の所為で、少し泣き虫になりがちな女の背中に問い掛ける。
「オマエが信じてくれンなら、俺にはそれで充分だったのによォ……」
『私が信じてあげるから……そんな私を信じなさいよ、一方通行。そしたらさ――』
――自分だけの現実だなんて、寂しい事、言えなくなるでしょ?
今日は全く、良く彼女の事を思い出させてくれる日だなと、涼しげに笑いながら頬を掻く。
指先に残った洗剤から飛び立って、ひらひらと紅い視点の先に舞う、小さな小さなシャボン玉。
虹色に彩められた風に運ばれる宝石に、手は伸ばさない。
そこにあるだけで――それだけで、いい。
やがて地に落ちて、シャボン玉は消えてしまったのだけれど。
「今じゃ寧ろ、ちっとばかし欲張りになっちまったンだ」
彼が信じたい者、信じている者。
必要以上に背負っては、心のどこかで見返りを求めていた自分は、もういない。
背負わずとも、隣り合って歩ければ充分なのだから。
少し綺麗過ぎる生き方が、肌に合わないと苦笑してしまうことはあるけれど。
「だから、そンなに心配すンじゃねェ……分かったかよォ――――バカ姉貴」
古時計の秒針と、水道水が強く流れる音。
姿勢の維持に疲れたのか、右へ、左へ。
重心が流れる方向へ、彼の長い後ろ髪も同様に。
2つ、3つと浮かぶシャボン玉を傍目に、白い掌は未だに弁当箱とスポンジを握ったまま。
汚れなんて、とっくに落ちてる。
指先で擦れば、きっと良い音が鳴るだろう。
けれど、水音は止まない。
白く綺麗な食器をカチャカチャと洗う音も、止めない。
秒針の刻む音に重なる――誰かの泣き声。
聞こえないフリをしてあげるには。
きっとこのまま、もう少し――
『迷い猫のカンタータ』--end
.
フカヒレに関してはやり過ぎたな……けど後悔なんて浮かばないこの不思議。
つよきすメンバーが出ることはあんまないです。番外編とかで輝くみたいな。