星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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十節『悪気のない雲の裏』

フカフカと浮かぶ柔雲の輪郭をなぞる深い瑠璃も、面を覗かせ始めた光のラインに溶かされて、薄混じりの夜明けを空へと敷いた頃。

 

世の奥様方が、不平不満を呟きつつもなんだかんだで手離せない仄かな家庭を築ろうと目蓋を擦る時間帯、ここ最近は、対象の保護者として立つ女教師に、柔らかな表情を浮かべる事が多くなってきたと、本人が聞けば気難しいそうに頭を掻いて聞かなかったフリをしそうな評価を囁かれている白い青年は、仏頂面でキッチンに立っていた。

 

黒い無地のエプロンに、さして手入れもしてない割には枝毛一つ見当たらない白一色の長髪をヘアゴムで纏めたポニーテール。

丁寧に使う事を信条とされているのか、新品に近いと言えるシルバーの鍋に汲まれた水の沸騰具合を一瞥しつつ、まな板に寝かせた油揚げを均等に切り分ける姿は、世の奥様方となんら変わらない。

 

中性的な横顔に加えて美しい長髪、背の高さはあれど線の細い印象を受けるシルエットは、この存在が女性であればどれだけ眼福モノだっただろうと一部の同性愛者を除いた男共を嘆かせる事か。

かといって相対的に見ても、昨今の家庭的な男性を好意的に捉える女性陣としては交際を視野に入れる者も多い事だが、逆に女性としての自信喪失に繋がる要素も溢れているので油断は出来ない。

 

何せこの男、世界的に有名な財閥の令嬢に荒々し過ぎる太鼓判を押されるほど、料理が出来る。

かといって財閥の抱える一流レストランのベテランシェフと肩を並べるレベルなどと誇大な評価を受けている訳ではなく、どこか郷愁を覚える様な、どこか侘しさや温もりを求めてしまう様な、言葉を並べれば誉めているのか疑わしい要素が含まれているという不思議な味に、令嬢は好奇と愛着を抱いたというのが真相ではあるが。

 

 

「……くァ……ッ……」

 

 

切り分けた油揚げを骨張った掌と包丁の腹とで包み、沸騰した鍋へと投入した拍子に、込み上げて来たじんわりとした眠気に、しっとりとした吐息が睡魔と共に吐き出された。

何故だか悔しさも混じった紅い瞳がクルリと首を捻って見据えた時計が指す時刻は、午前5時30分。

冬に後ろ髪を引かれた春の夜空は、まだ暗い。

 

 

「眠ィ……」

 

 

寝そべった癖に寝心地でも悪かったのか、不満気に尻尾を揺らす猫が、納得いかないと喉を鳴らすのと、彼のもそもそとした呟きは良く似ている。

しぱしぱと長い睫毛を瞬かせて、苛立ちを含んだ舌打ちと、抵抗もなく浮かぶ仏頂面。

 

そもそも彼が普段よりも随分早く起きる原因となった紅い女性の名前を憎々し気に呟きながら、一方通行は油揚げを湯上げする為のザルに手を伸ばした。

 

 

―――

――

 

 

 

「稲荷寿司だァ?」

 

 

「……復唱を求めてはいないのですが、自ら畏まる姿勢だけは評価しておきましょう。しかし、語尾を間延びするのは戴けない。軍人たる者、毅然かつ整凛とした言葉遣いを心掛けなさい」

 

 

「勝手に俺を軍属にしてンじゃねェ。どっかのクソ犬と違って、首輪付けてアヘ顔晒すのが趣味なマゾと同列なンざ……ってそォじゃねェだろ、聞きてェのはンな事じゃなくてだな」

 

 

「ア、ヘ……? 誰の事を言っているのかは兎も角、ウサギは随分と伝達力に欠けた言葉を使う。良いですか、言語は理路整然に、言葉を選ぶのにも慎重にならなければいけない。伝達力の欠落は、戦場では致命的です。重要な報告を上官にするケースなどでそのような体たらくでは、厳しい懲戒を与えられても文句は言えないでしょう。気を付けなさい」

 

 

「なァンなンですかァ!? 俺の疑問に対しての回答そっちのけでひたすら斜めに話広げてンじゃねェよ! つかなンでオマエは時々皮肉が通じねェンだよ、オマケになンで俺がオマエの部下になってンだよ! ンで俺が聞きてェのは飯食い終わるなりいなり寿司を作れだとかとち狂った事言い出した意味だクソが!」

 

 

「汚い言葉遣いをするな、狩りますよ?」

 

 

「上等だクソ犬、オマエの骨をそこらに撒いて綺麗な花ァ、咲かせてやる。日本の童話再現にオマエが礎となりゃ、日本に御執心の大事なお嬢様も顔を綻ばせるだろォよ!」

 

 

「あぁもう、やめんかお前達! 毎度毎度、無駄に殺伐とした空気を作り出すな! いい加減少しは仲良く出来んのか、その内、この家が持たなくなるぞ!?」

 

 

「ごめンなさい」

 

 

「ごめんなさい」

 

 

響きたる雷鳴の勢いの余りに、耳を塞ぐ間もなく雷神に頭を垂れた、昨晩の回想、夕暮れも過ぎ去った時。

平日の食事担当である一方通行作の夕食を平らげた後、何やら複雑な面持ちで箸を置いたマルギッテが、不本意ながら、渋々、とした不穏な引っ掛かりを抱かせる様子で切り出した要求が、事の発端であった。

 

御世辞にも良いとは言えない出会いの仕方が響いたのか、何かにつけては牙を立て合う二人は、ここ最近の小島梅子にとっての頭痛の種と言って相違ない。

 

 

 

 

――

 

 

 

 

「……で、突拍子もなく稲荷寿司を作れってのはどォいう事なンだよ。食いてェなら自分で勝手に作りゃ良いだろォが。食材ならあるぞ」

 

 

湯気立つマグカップに満たされたコーヒーを一口啜り、未だに冷めやらぬ怒気を幽かに滲ませながら冷蔵庫を顎で差す一方通行。

熱し易く冷め易いという地を隠せていない辺り、対面に座るマルギッテとは相性が良いのか悪いのか、判断が難しい所である。

 

対して花弁のラベルで柔らかく彩られたティーカップを傾げながら、砂糖控えめのミルクティーを味わう緋色の彩女は憮然とした態度を崩さない。

そもそも一方通行との口論がヒートアップした原因が自分に僅かなりとも在るとは思ってはいないからこそだが。

 

 

「作れるものならばそうしている。しかし、私ではお嬢様の満足に足る一品を作るのが少々困難といえる、スキルが足りない」

 

 

淡々と自己分析を述べながらも、言葉を連ねる彼女の表情の端々からは明確な悔しさを浮かばせている辺り、彼女の言うお嬢様に対しての傾倒っぷりには一方通行も閉口する。

ドイツ出身の令嬢が如何な理由で稲荷寿司という若干マイナーな気がしなくもない日本料理を所望しているのかさえ、瞑目しつつ首を傾げる白い青年には今一つ掴めないでいた。

 

緩やかなカーテンドレープの向こう側のベランダで、洗濯物を干しながら白猫と紅犬の関係にどう対処したものかと頭を捻る梅子ならば、ああ成る程と、新たな教え子となった日本贔屓のブロンドの少女を思い浮かべていただろうが。

 

 

「そうとなれば、作れる者に命ずるのが最善と判断したまでです。そして都合良く、腕もまぁ、その、不本意ながらも上々と認めざるを得ない者が目の前に居るのであれば、その……後は分かるでしょう、察しなさい」

 

 

「……それで精一杯頼ンでるつもりなら一周回って哀れだよ、抱き締めたくなっちまうぐれェに」

 

 

不遜に尽きる態度かと思えば、僅かなりとも一方通行の料理の腕を認めていることに気恥ずかしさでも抱いたのか、徐々に視線を横へ横へと泳がせるマルギッテの姿は、口振りは兎も角、言い表せない愛らしさがある。

 

かといって、可愛いので不遜な物言いは許してやる、とは行かない一方通行からすれば、素直に頷いてやる訳もない。

頼み事があるなら少しでも誠意を見せてくれと言わんばかりに肩を竦めて、マグカップを手に取った。

 

 

「……で、大事な大事なクリスお嬢様は稲荷寿司をご所望だとして、だ。なンか理由でもあンのかよ?わざわざ『俺』にまで頼ンでまで、稲荷寿司を渡すっつゥのには」

 

 

マルギッテの願いを、きっぱりと断る事は出来る。

しかし、一方通行の胸に違和感として引っ掛かったのは、同居人ながらも彼と険悪な仲である彼女が、色々と思う所があるにせよ、結果、彼を頼るという決断をした事。

 

正直な話、稲荷寿司などスーパーの惣菜コーナーに行けば手軽に手に入るし、街興しとして食文化に力を入れてる川神の商店街にでも行けばグレードの高い稲荷寿司だって、探せば見つかるだろう。

溺愛するクリスにそこらの品を渡す訳には行かないと奮起したとしても、クリスの為ならば如何なる困難にも対峙するであろう、フランク・フリードリヒが抱える軍事集団ならば特級の稲荷寿司くらい即座に用意していても不思議ではない。

というか、そうしないのが不思議である。

 

 

けれど、マルギッテが取った選択は何れも当て嵌まらないという事ならば、クリスがただ稲荷寿司を欲しているから、とはどうにも結び付き難いと一方通行は考える。

寧ろ、サプライズだとか、そういったニュアンスが、らしくない選択をしたマルギッテから漠然と感じられるのだ、と。

 

 

「……」

 

 

問い質すというには語気は弱く、窺っていると云った方が近い紅の眼差しに、マルギッテはどこか落ち着きなくミルクティーをスプーンでかき混ぜる。

彼からして見ればもっともな問い、その筈だというのに、簿かしていた背景を覗かれたかの様な錯覚に、微かな動揺が、どうしてか隠せない。

 

ミルクと紅茶、境目など無くなるほど溶け合った二つを、無遠慮な白い指先に別たれた様な錯覚は、薄く桜の映える唇を、するりと紐解いた。

 

 

――お嬢様が、明日、正式に風間ファミリーに迎え入れられるらしい。

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

 

 

「……ン」

 

 

油揚げの煮詰まり具合に頷きをひとつ残して、炊飯器の隣に鎮座させた携帯電話のメール画面を見詰める。

どこかたどたどしい文章ながらもしっかりと手際が書かれているメールをカチカチとスクロールしながら、念には念を、と記憶照合する辺りやっぱり面倒見が良いんだなと、彼に請われてレシピを提供した少女ならば、苦笑を浮かべているであろう生真面目さ。

元の性格が凝り性なのか、眠気はとうに失せた奥深い眼差しで台所に立つ青年の横顔には真剣味が浮かんでいた。

 

 

――蓋を開けてみれば、案外分かり易い経緯だった。

 

 

 

一方通行とはそれなりの交友関係がある風間ファミリーに、留学生のクリスが加わる事になった事を祝して、彼女の好物を贈りたい。

贈るとなれば、それなりの物を。

早くに母親を亡くした少女には、市販の物や高価な物ではなく、僅かでも家庭を感じられる物が良い。

 

勘繰るまでもなく、深読みするまでもなく、そこには、一人の姉としての優しさが一つ、あっただけ。

 

どこかの誰かが向けてくる様な、無償の愛があっただけ。

 

 

「……甘粕の奴、食えンのかねェ」

 

 

色味の薄い唇に指を軽く添えながら、のんびりとした口調でごちるのは、急な要望にも構わずレシピを教えてくれた隣のクラスの少女の腹具合。

到底高校生には見えないほどに幼い体躯をした彼女に御礼として幾つか稲荷寿司を持って行こうと考えた訳だが、如何せん、ちんちくりんな外見通りに食も細いので、些か不安であるが、彼女の友人辺りが食べれるだろうから良いかと一息。

 

クリスにマルギッテが贈る分と、真与への御礼と、昼食の弁当に詰める分も問題ない。

概ね出来上がる頃には朝食と弁当の準備にも取り掛かれるであろう。

 

 

――朝に弱いオマエが明日、確実起きるという保証はない。故に私も起床して、同時に監視します。ありがたく思いなさい――

 

 

「……アイツの事となった途端に、ネジ緩むのがデフォなのかよ、アホ犬が」

 

 

単純に信用出来なかったのか、一方通行が了承した事に対する分かり難い照れ隠しなのかは、さて置いて。

 

何がなんでも一方通行よりも早くに起床するつもりだったのか、彼女の部屋のベッドではなく備え付けのデスクに突っ伏してマルギッテの姿を見た時は、様々な情感がごっそりと抜け落ちていく様な溜め息を落としたもので。

 

蹴り起こしてやろうとも思ったが、結局実行出来ずにいたのは、姉としての優しさを見せようとするマルギッテに、多少なりとも感じるものがあったのだろうか。

思い返して舌打ち一つ弾ませる一方通行の目尻には、どこか母性を束ねた穏やかさが浮かんでいた。

 

 

 

――

―――

 

 

 

「失態です、この私が……」

 

 

 

気が緩んでいたとしか良い様がない、戒めを抱かざるを得ない失態に、普段の彼女が浮かべる自信に満ちた姿勢は欠片もない。

常在戦場を心掛け、また、己以外にもそれを強いていた彼女だからこそ、寝落ちという事態を招いた己に辟易としている。

けれど、それよりも。

 

 

「失態です、この、私が……」

 

 

姿勢の悪い格好で寝る事など幾らでも経験してきた彼女にとって、学生ならば誰もが通る、机にうつ伏せて寝てしまったが為に節々が痛むという事態に陥る事こそ無かったが、覚醒一番に視界に飛び込んできた朝焼けに青ざめるというお約束は間逃れなかった。

寝起きが為に崩れた身形など、文字通り形振り構わず向かったリビングには、既に朝食を咀嚼しながらテレビのニュース番組を眺める梅子が居ただけで、白雪を彷彿とさせる青年の姿は、何処にもない。

 

お早うと、挨拶と共ににべもなく梅子が差し出したのは、ラップの掛けられた朝食と、サイズの異なった飾り気のない弁当箱が二つと。

 

 

 

「――失態です」

 

 

 

半分に折られたルーズリーフに『遅刻だアホ犬』という一言の、殴り書き。

 

 

そこには、文句の一つがあっただけ。

そっぽを向いた微かな優しさ一つがあっただけ。

 

 

 

――登校するには早すぎるだろうに、どうせ河川敷辺りでぼうっとしてる。恥ずかしくでもなったのかな。

 

 

――可愛い所もあるだろう、私の弟も。

 

 

目尻を緩めながら言い終えて、味噌汁を啜る梅子の言葉に、頷いてしまった事が、何より失態なのだ、と。

抗いきれず、僅かに頬を染めて。

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

替え時もそろそろだろうと、以前訪れた時よりも明色の落ちた天井のシーリングライトを眺めながら、どこか主婦染みた感想を抱くには、胡散臭い雰囲気の事務所という舞台はどうにも場違いといえる。

探偵事務所と名打った部屋にはお似合いの遮光シートから覗く夕焼けでセピアに彩られても、どこか物々しい雰囲気は隠せない。

 

如何にも渋い顔をした刑事が遮光シートの隙間を広げて外を窺えば、有りがちな刑事ドラマのワンシーンが直ぐにでも出来上がるだろう。

『宇佐美探偵事務所』の看板を引っ提げた室内に、気休め程度で置かれた観葉植物へと視線を移して、滑らかな革のソファに身体を沈める。

曲りなりにも高校生とは思えない、服装、外見、合わせて殆ど白一色の青年の落ち着きっぷりに、対面で煙草を燻らせていた宇佐美巨人は苦笑を一つ、浮かべるだけには留まらない。

 

 

「葵や井上もそうだが、俺のクラスはどうしてこう、所謂青さってやつを見せてくれないのかねぇ。その歳でそんなに達観してたらこの先の人生、光陰矢の如しになっちまうぞ?」

 

 

「お陰様で割と充実した学生ライフを嗜ンでるンでな、光陰矢の如しには成らねェよ。だがまァ、無為に飛び矢の如くキャバ譲に貢ぐ宇佐美くンからのありがたァい言葉だ、頭の片隅には留めておいてやンよ」

 

 

「だァァァ、もうほんと可愛いくねぇなお前さんは! 切り返し一つ一つがえげつないんだから、お前さんにいっつも言い負かされてる不死川が気の毒でしょうがねぇよ」

 

 

「ほォ……十河の奴、『UA』のアルバム買ったのか。俺も久々にショップ寄るか」

 

 

「いや不死川の話になった途端、スルーしてやんなって。あの娘に対しての弄り方極まり過ぎだろうに」

 

 

頬杖をつきながら会話など打ち切ったと云わんばかりに携帯をつつき出す一方通行の、不死川 心に向けたサディスティックさに巨人は戦慄を抱く。

どうやらお薦めしたアーティストのCDを巨人もよく知る教え子が購入した事に青年は機嫌を良くした様だが、この場に居ない心にこうまできっちり弄ぶ姿勢がブレないのは、如何なものだろうか。

 

クツクツと口角を緩やかにする青年の横顔に漂う無邪気な妖艶さに空回る高飛車な少女を思って、巨人は静かに十字を切った。

 

 

「ま、与太話は一旦置いといて、だ。本題に入ろうかね」

 

 

大きく吐き出した紫煙が曖昧に宙へと溶け失せたのを見届けて、プラスチックの灰皿にまだ葉の残った吸殻を無理矢理に捩じ込むと、陽気な横顔に密かな険が走る。

表情に些細な変化も見当たらないというのに、引き締めた空気を途端に造り上げる手腕は鮮やかで、一方通行には未だに真似が出来ない一つの高み。

 

返信の打ち込みも途中のまま、携帯をポケットに突っ込んで、彼もまたソファの背もたれから身体を離し、拝聴の姿勢を作る。

学校の空き教室ではなく、彼の持つ探偵事務所に呼ばれたということは、此処から先は、児戯ではない。

きな臭さと欲望を交えた姿の見えない隣人達との、光当たらぬ盤戯でしかない。

 

 

「ここ最近、数字でみりゃほんの僅かだが、ドラッグのマーケティングのいざこざが増えて来てる」

 

 

「有りがちな話だなァ……親不孝通りか?」

 

 

「いや、違う……『川神市内』で、だ」

 

 

「――チッ」

 

 

吐き捨てた舌打ちに籠められた明確な苛立ちが、麗利な白貌を一瞬にして鋭さを纏わせる。

動揺よりも、狼狽よりも、先ず浮かび上がるのは事態の厄介さに対する途方もない疲労感。

 

この事務所に持って来られた案件な上、わざわざ一方通行の手を借りるという判断を、宇佐美巨人が下した以上、生半可な事ではないと理解していたが。

 

 

「潰せてねェってことか」

 

 

「あぁ、そういう事だな。掴まえて吐かせても、出てくるのはダミーの出所。潰した所で、どこからともなく沸いて出やがるんだとさ」

 

 

 

親不孝通りでドラッグの商的やり取りで、縄張りだの面子だの黒々とした面で暴力団同士による抗争に発展する事など割とザラではあったが、川神市内となれば話は大きく変わってくる。

川神市内となれば、下手をすれば地方警察より余程厄介な、天下の川神院のお膝元である。

 

諸外国からもその武力を恐れられる程の組織の手前でドラッグ売りなど、川神院は勿論、親不孝通りやその奥の工業地帯に蔓延る暴力団にとっても到底見過ごせない事である。

表には表の、裏には裏のルール、または暗黙の了解という物が存在する中で、今回の事案はその両面に唾を吐く事に等しい。

 

極め付けて厄介なのは、その両面を相手取った上で、尻尾をまるで掴ませていない、ということ。

 

 

「知り尽くしてやがる。川神の地を」

 

 

「その上で愉快犯染みた行動を取る、と思えばとんでもなく慎重だな。面倒なのは、取り扱う商品にもダミーが混ぜてあるって事だ。一つ一つの質がバラバラなんだと」

 

 

「……商売目的じゃねェな、ソイツらの狙いは。寧ろ、撒き餌か」

 

 

「ブラフと決め付けるには材料が足りねぇが、俺もそっちの線だと思う。寧ろ目的、いや標的は――」

 

 

「「――川神そのもの――」」

 

 

 

仮定に仮定を重ねて、至った結論は互いに同じ。

 

吐き出した吐息の重みに、事務所に立ち込める空気が悲鳴をあげたかの様に軋む。

寧ろ、考え過ぎであった方が余程良いとさえ思える予測に、結論を導いた二人の男は辟易と姿勢を崩した。

 

考え過ぎであれば良い、どこかの頭足らずの馬鹿が巻き起こした珍事であれば、失笑で済むのだから。

けれど、考え過ぎでなければ、事態がどれほどの悪化を見せるのか、想定も難しい。

 

今はまだ、緩やかに。

しかし、身の毛も弥立つ危機はいつだって気付かぬ内に忍び寄る物だということを、彼らは幾度となく経験していた。

 

 

「……西か、北か。下手すりゃ外って線もあるだろォが」

 

 

「ブツの流し所が掴めればある程度は分かるんだがな、実に巧妙に隠して下さってるよ。外ってのは考えたくないが、泣き言は言ってられねぇか。俺は北と外を洗ってみる」

 

 

「となれば俺が西、か。次いでに川神も。しかし随分と面倒なネタ持って来やがったなァ、宇佐美くン。 報酬は弾んで貰えるんだろォなァ?」

 

 

ある程度の方針を定めたからか、張り詰めた空気を霧散させた青年の口元がどこか加虐的な歪みを残している辺り、抱いた遺憾を消し切れない青さに、巨人は小さく安堵する。

最低限の説明だけで手短に事態の把握と警戒を行う様は、到底、陽の当たる日常に身を置いていては掴めない。

 

だからこそ、彼が時折見せる微かな隙を見つける度に、彼の本質を見失わないで済むのだ。

それが自分にとって偽善的な慰めだったとしても、どこか救われる気になるのだから、救えないなと、自嘲して。

 

 

「ヤマがヤマだからある程度弾むつもりだが、現金一括ってのは色々と宜しくないからな、ほれ」

 

 

「なンだ、これ――温泉宿の無料券?」

 

 

拙い音頭を鼻歌混じりに響かせながら、スーツの胸ポケットから取り出したチケットを一方通行へと投げ渡す。

ヒラヒラと無軌道に舞う紙を微妙な表情を浮かべながら乱雑に摘まみ、記された内容へと紅い視線を走らせる青年の顔が、徐々に呆れた面持ちへと変わる。

 

『秘匿の温泉宿に無料でご案内、5名様迄』と横書きされた内容は兎も角として、彼がこうも分かり易く巨人をじっとりとした眼差しで見据えるのは、たかだか温泉宿に興味が沸かないという理由ではない。

全く想像していたリアクションとの違いにどうにも落ち着かなくなって、冷や汗を流す巨人に、それすらどうでも良いと云わんばかりに、一喝。

 

 

 

「宇ゥゥゥ佐美クゥゥゥン? お前これ、渡す相手間違えてンだろどォ考えても。年甲斐もなくビビっちゃったってオチか? ン?」

 

 

 

「え、あ、前賃がショボいとかそういう感じではないの? それに関しては文句はないと」

 

 

「おォ、温泉もたまには良ィだろとは思うがそこじゃねェよ。 なんでお前これでウチの姉を誘わねェンだよ。 入手経緯も正直どォでも良いが、これ口実に誘ったりすれば良かっだろ」

 

 

ピラピラと二本指で挟んだ無料券を揺らしながら、何処と無く憮然とした面持ちで尋ねる一方通行は、割と本心で言葉を紡いでいた。

別段、奥手という訳ではない巨人がこれを口実に梅子に迫っていないのが不思議だと云わんばかりに。

 

しかし、この時ばかりは白い青年の配慮が足らなかったと言えよう。

見る見る内に肩を落としていく巨人の、名前とは正反対の縮こまり具合に、明確なミスを確信するが、後の祭り。

 

 

「……いや、言ったんだけどな……今週と来週の週末は両方とも講習会とか職員会議で埋まってるんだとよ」

 

 

「ごめンなさい」

 

 

「良い、良い。今回ばかりは普通に日が悪かっただけだったからな……というか、職員会議とか忘れてた俺も悪い」

 

 

先日の焼き回しの様にきちんとした敬語で、立つ人は違えど教員に謝罪する羽目になった一方通行であったが、此ばかりは巨人に同情を禁じ得ない。

にべもなく断られるなら兎も角、予定合わずという理由では彼としても梅子に諭す事も出来ないのだ。

 

何かしらの因果でも込められてそうな不穏なチケットをポケットに仕舞いながら、取り敢えず、凹み始めた目下の男を気の毒そうに慰める一方通行だった。

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

「経過は逐一知らせてくれよ。連絡つかなきゃ、忠勝にでも良いから伝えといてくれ」

 

 

「おォ、つってもそう簡単には割り出せねェだろォがな。そっちも何かあったら連絡寄越せ」

 

 

「はいよ」

 

 

下手をすれば大事になるとはいえ、断片的な情報があまりにも少ない現状では対策を煮詰める事は難しいので、ある程度の確認事項を最後に、一方通行は細い体躯をソファから立ち上がらせる。

川神と、川神より西に広がるエリアに探りを入れるには、ただの学生身分である一方通行には極めて困難といえるので、先ずはツテを当たる事から始めなくてはならない。

 

 

霧夜、九鬼、橘、鉄、川神。

 

 

次々と有力な情報源となり得そうなツテをリストアップしながら事務所の出口へと向かう背中を、疲労混じりの煤けた低音が呼び止める。

 

 

「……すまんな」

 

 

苦々しいとも言える、気軽とも言える、相反した情感をブレンドした謝罪は、安易に返す事すら躊躇わせる程に、深く、重い。

今回の案件は、巨人一人にはとても身に余る事なのは明白だが、それでも、一人の大人として立つ男にはケジメが必要だったのだろう。

 

だからこそだろうか、振り向きもしない白い背中は、さも重み一つさえ感じていないとでも語るかの様に。

 

 

 

――式場で、姉貴を隣に侍らせながら言えてりゃ格好つくぜ、その台詞。

 

 

 

小さく余韻を残した扉の先には、鮮やかな白い鍵尻尾はもはや姿形も見えない。

去り際の一言で、予想だにもしない、けれど望んでいたかの様な染み入るモノを残すのは、魅せる男の仕草の一つ、口説き言葉の常套句の様なモノだ。

 

そんな御手本をむざむざと見せられた巨人は、やれやれと云わんばかりにグッタリとソファに背を預けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……歳かねぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『悪気のない雲の裏』―end.


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