星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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壱ノ調『Ever Green』

聴力に長けるというのは、同時に集中力が高いと同義してもいい議題である。

例えば一線級のピアニストともなれば、雑踏の中からでも百メートルほど離れた地点に小石を落とした音さえも聞き取れる者も居るというが、それは常日頃に行えるという訳ではない。

音に対しての聴力の錬磨、鍵盤の鼓動を読み取る感性、雑音を遮断する集中力を高めに高めて行われるアートの技術。

 

心頭滅却すれば火もまた涼しという至言はまさにそこへ繋がる。

故に、そう。

意識さえ高めれば。

集中力さえ、高めれば。

 

如何なる雑音雑踏すら遮断して、耳元に寄せた電話越しでの対話のみに意識を傾ける事が―――

 

 

 

「あ、てめっ、この糞天!! 何が一口だコラ、それじゃ一掴みだろうが!俺のおっとっとが殆どなくなってんじゃねぇか!」

 

 

「うるっせぇんだよ、こんくらい我慢しろよ竜兄ぃ! 良い歳こいて菓子の一つや二つで喚くんじゃねーよ」

 

 

「うーんやっぱ、あーくんの髪の毛は手触りがたまんないねぇ。 つるつるだしすべすべだし指通り抜群で……飽きないなぁ、千切って持って帰っていい?」

 

 

「うるっせえェェェンだよ!! オマエらさっきからホントにィ!! 菓子取り合ってる馬鹿二人は黙って潜水艦でも探してろォ! あと辰子、今すぐ俺の髪から手を放さねェと愉快なオブジェにしてそこらの山に放置するからなァ!」

 

 

 

「アンタも充分うっさいんだがね……後ろのアンタらも、これ以上ごちゃごちゃ騒ぐってんなら、私の本気のドライブに付き合って貰うよ?」

 

 

 

 

 

「「「「…………」」」」

 

 

 

 

 

「宜しい」

 

 

 

石を投げた水面の様に、或いは棒につつかれた蜂の巣の様に。

まるで動物園かと額に皺を寄せて、余りの騒がしさに耳に当てていた携帯電話を握り潰しかけた一方通行だったが、彼の怒号に続いたドライバー、この場における命綱も兼ねる亜巳の鶴の一声で静寂を取り戻した車内に、そっと安堵を落とした。

 

フィルターの淡い色膜の張った窓越しに流れる鬱蒼とした木々、林の深緑の景色は、眉間に皺寄せ獰猛に吠えた彼の荒ぶった心情を静寂に禊いでいく。

 

光輪を重ねて我が物顔で空に咲く太陽と、それに侍らう蒼のガーデンが見下ろす午前の山道を悠々と駆けていく、携帯電話ごと助手席の窓に寄りかかる青年の瞳と良く似たレッドカラーのそこそこ値の張る乗用車。

一方通行の保護者である小島梅子が『色々と弾けたかった、反省してるけど後悔はしてない』と思い切って昨年衝動買いしたらしい乗用車に乗り込んだ彼と板垣家族一行は、先日宇佐美巨人に貰ったばかりの温泉宿へと向かっていた。

 

――というのも随分と急な話ではあるが、五人分無料というある意味一方通行に都合の良すぎる人数設定を添えた美味しい話、彼としても利用しない手はない。

 

 

いつぞやに機嫌を損ねさせた埋め合わせをしなくてはと、板垣天使に連絡を取り軽い気持ちで誘ってみれば、異常な程に食い付いてきた彼女は二の句を告げる暇もなく彼女の家族全員を召集。

電話口の一方通行を放置しながらいつ行こう早く行こうそうだ明日行こうと天使の外見そのままに落ち着きのない様子でまくし立て、そうだなそうしよう準備しなくてはと誘った当事者である彼の意見などまるで意に介さず、物凄くノリノリで話を進めてしまった残りの三姉弟。

 

 

え?明日?Tomorrow?え、マジで?

 

 

電話越しなので顔は見えないながらも、満面の笑みで宿泊の準備を進める板垣家族の姿は容易に想像出来るので、しかも誘った手前、話が早過ぎるだろと苦言を呈するのも憚られて。

予定を空けなくてはと、職場へと連休を貰いに電話をかけた板垣亜巳の、鬱屈のない、珍しく心から愉し気な甘い声を彼の優れた聴力が拾ってしまった辺りで一方通行は腹を括った、という経緯なのだが。

 

 

 

「……正直、はやまったなクソ」

 

 

 

『いきなり何だ……何をはやまったと言うんだ、一方通行。というかさっきから汚い言葉遣いだぞ。常日頃から言動にも気をつけておかないと、何時しか言動だけじゃなく性格も習慣も悪くなっていくんだと、お姉ちゃんはいつもいつも……』

 

 

「だァれがお姉ちゃンだ駄乙女がコラ。対馬さン離れをいつまでも俺に引き摺ってンじゃねェよ」

 

 

『だ、駄乙女って言うな!それに私はレオの事なんて引き摺っては……引き摺って……なんか……』

 

 

 

「あァ、また始まったよ面倒クセェなもォ……」

 

 

 

凛としていたと思えば、途端に女々しく萎んでいく清麗なアルトの響きに如何にも相手したくないと顔を顰める一方通行の束ねられた後ろ髪を、機嫌を損ねた飼い猫を宥める飼い主のように辰子がさらさらと細指で梳いた。

 

白色ながらも健康的な決め細やかさを宿した指先の間を、癖になりそうな手触りと陰りの出来た車内ですら雪原の白銀を彷彿とさせる髪が、意志などない癖に妙に色っぽくしなだれるのを、辰子のエメラルドの瞳が微笑まし気に見下ろして。

武骨な肉体にトライバルのタトゥーと刺々しい形姿の板垣竜兵が貪る、まるで似合わない人気菓子を簒奪しようと目を光らせていた天使が、白髪を転ばせる辰子を羨望の眼差しで見つめるが、見つめるだけで手出しはしない。

 

 

板垣辰子は、惰眠を貪ることに次いで、一方通行の髪を玩具のように玩ぶ事を至福の一つとしており、彼女の家族のみならず、一方通行の保護者である小島梅子も呆れながらも承知している事である。

何せ、放っておけば一時間でも平然と玩び続けるし、引っ張ったり結んだり、挙げ句の果てには口に含んだり、と。

しかも一方通行と亜巳、梅子以外の誰かがそれを阻害しようものなら酷く機嫌を損ねるし、最悪暴れる。

故に、板垣天使は指を咥えるようにその光景を眺めているしかない。

 

 

「……で、頼み事は聞いて貰えるって事で良いンだな?」

 

 

『あぁ、それは任せておいてくれ。鉄家の方も探りを入れるとお爺様も仰っていたし、姫も、滅多にないお前からの協力要請に乗り気だったぞ』

 

 

「そうかィ、出来れば貸しを作りたくはねェンだが、こういう泥臭ェ裏事にはアイツの『鼻』は頼りになる。鉄の爺さンにも、礼を言っといてくれ」

 

 

電話越しにでも清麗な声の持ち主が逞しいバイタリティで立ち直った事を確認して、改めて話を本題に戻す。

宇佐美巨人からの依頼の前報酬を既に利用させて貰う以上、彼が動かない訳にはいかない。

川神に這い寄る下卑た穢泥を探る為に、一先ずは一方通行の持つツテを行使して、方々の有力者に情報の収集を依頼する。

 

先ずは、霧夜グループの令嬢である霧夜エリカ。

次いで、川神流総師範である川神鉄心。

 

そして電話口でやたら自分が一方通行の姉貴分であるのだとプッシュする、彼曰くポンコツ駄乙女との不名誉を頂戴する彼女こそ。

武道四天王の一角を担う麗人――鉄乙女。

 

 

 

『あぁ、伝えておく。あっ、勿論お姉ちゃんも弟分の為に一肌脱いでやるぞ! どうだ、嬉しいだろう!』

 

 

「……いや、頼むから危険な真似はすンじゃねェ、頼むから。残念な結果にしかならないンで」

 

 

『なっ、なんだどうした一方通行。珍しくお姉ちゃんの心配だなんてそんな……ま、まぁ案ずる必要なんてないぞ、あれから更に鍛練を重ねて腕を磨いたのだ、そう簡単に誰かには負けたりしないぞ!』

 

 

選ばれたのはツンデレでした。

取り残された残念ブラコン。

 

そんな余りにあんまりな凶悪フレーズを霧夜エリカに囁かれて凹んでいたかつての一幕を思い出しながら、皮肉も通じないのかコイツはと、ガーネットをそのまま埋め込んだような紅い瞳が疲労を持って細まっていく。

 

 

四天王に数えられるだけあって、鉄乙女の実力は疑いようもない程に強い、それこそ並みの武道家程度では触れることも出来ないくらいに。

けれど今は目的のハッキリしない、見えない敵を探る情報収集の段階であり、必要なのは慎重さと相手相応の狡猾さ。

ある程度の弁えはあるとはいえ、狡猾さなどまるで無縁な彼女に余計な動きをされては、今後の動きに支障が出る。

 

乙女の言う通り暴れ回って勝って貰っては困るのだ、蔓延る掃き溜めを纏めて一掃するには、正道の拳よりも外道の毒で以て制するのが最上。

 

 

そんな彼の心境などまるで気付いていないのか、滅多に素直にならない弟分から心配されたと舞い上がっている駄乙女の耳には、終ぞ一方通行の悩まし気な溜め息など聞こえはしなかったのだった。

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

「それで、どうするのさ、あんた達。先に温泉に入っちまうかい?」

 

 

「あぁ?こんな真っ昼間から温泉ってのは……いや、待てよ。久々の豪勢な夕飯の前に激しい運動ってのも悪かねぇよなぁ……いいぜ、昂ってきた。そうと決まれば善は急げだ一方通行」

 

 

「山の畜生共の豪勢な夕飯になりたいってンなら素直にそう言えやクソホモ野郎が」

 

 

「ホモじゃねぇよ、ゲイだ」

 

 

「どォでもいいわボケ」

 

 

 

山岳の間に建つノスタルジーを感じさせる外観の温泉旅館へとついた一行が粛々とした妙齢の女将に案内されたのは、優しくも厳粛な畳の香と目を癒す落ち着いた色彩が品性を感じさせる、広々とした一室。

感嘆の息を落としながらもそれぞれが持ち込んだ一泊分の着替えや携帯ゲーム機、間食や夜食分のお菓子などを詰め込んだリュックや鞄を置くと、板垣一家の長である亜巳がこれからの予定を尋ねる。

 

三人もの妹弟を女手一つで支えてきただけあって仕切り役にも母性を窺わせる彼女とは打って代わって、生々しい欲望を隠そうともしない竜兵に肘を打ち込む一方通行。

屈強な筋肉に覆われた硬い胸元とはいえ鋭く穿たれては堪らないのか、鈍い唸り声と共に竜兵の顔が青褪めていった。

 

 

「じゃあ、あーくんは私と一緒に入ろっかぁ、背中流しちゃうよー」

 

 

「性転換してからどォぞ、てかいつまで弄ってンだ、そろそろ放せ」

 

 

「やだ」

 

 

ぐったりと畳に巨体を横たえた弟をあちゃーと哀れみながらも特に何も言わず未だ彼の後ろ髪を玩び続ける辰子が薄情なのか、竜兵が単に自業自得なのか。

車内でも旅館でもやる事は変わらず一心不乱に白髪を梳く板垣辰子の姿を目しても、尚眉一つ動かさず奉仕の心で彼らを案内していた女将はなかなかの剛の者ではないだろうか。

 

とはいえ、男に続いて女に風呂へと誘われているこの状況にもその姿勢を貫けるのかは、推して測るべしである。

 

 

「でもねーあーくん、折角の温泉なんだから一緒に入るくらい良いじゃない。あっ、ちゃんと前は隠すよ?」

 

 

「そういう問題じゃねェだろ。身体隠すより平然と男湯に入ろうとするその残念な思考を隠せ。というか棄てろ」

 

 

「……何言ってるの、男湯には行かないよ。私達が行くのは混浴の方だよぉ」

 

 

「 えっ!?混浴あんのタツ姉!」

 

 

「なンでオマエが食い付いてんだオラ」

 

 

我が儘を強請ろうとするすると彼の程よく肉が付いて骨張った背中に豊満な身体をべったりと寄せる辰子の何気ない一言に、のんびりと寝転がっていた天使があんぐりと目を剥いた。

板垣一家の末妹、花も恥じらう乙女な年頃には混浴というワードには興味を惹かれざるを得ないらしい。

 

 

「べ、別に食い付いたりとかしてねーよバカウサギ。今時混浴なんてあるのにビックリしただけだ、勘違いすんじゃねぇ!」

 

 

「うわァ……分っかり易ゥ……」

 

 

「……? 天ちゃんは一緒に入らないのぉ?」

 

 

「うぇっ!? ちょ、タツ姉なに言ってんの!?入る訳ないじゃん!」

 

 

 

拗ねたようにそっぽを向いて姉妹に共通したきめ細やかな柔肌に、薄らと羞恥の紅を添える天使は、それなりに付き合いがあるとはいえ、異性相手に辰子ほどの開広げて接する事が出来ない。

ましてや兄弟である竜兵相手でも渋るというのに、よりにもよって彼女にとって一番身近な異性である一方通行と一緒に風呂に入るなど、湯に浸かる前にのぼせてしまうのは間違いだろう。

 

 

頬どころか小振りな彼女の耳すら朱紅と彩めた思春期のあどけなさに、色濃い紫紅の髪を揺らしてクツクツと微笑を浮かばせた亜巳が挑発する様に一方通行の膝へと寝転がった。

 

 

「なんだい、天は一緒に入らないのかい?勿体無いねぇ……こういう機会は滅多にないんだ、遠慮することなんて無いさね。それに……」

 

 

実の妹には余りに艶めいた響きが、妖艶に舌で濡らした唇から、背筋に指を這わせるかのような吐息と共に紡がれて、より一層天使の整った顔を朱色に彩めて。

閑静な和の一室から夜の淫靡な春色に様変わりさせるような悩ましい肢体をくたりとさせたまま、呆れを過分に含んだ紅い瞳で見下ろす男のスッキリとした顎に指を添えて、蛇のようにゆっくりと撫でた。

 

 

 

「――目の保養になるよ、コイツの身体は」

 

 

「ぶぇっ!? ほ、ほほ保養ってアミ姉……って、も、もしかして見たことあんの!?」

 

 

「さぁて、想像にお任せするさ。で、どうするんだい?アタシは無理に、とは言わないけれどねぇ?」

 

 

「ぐむむ……」

 

 

「とぉっても綺麗だけど、ちゃんと筋肉も付いてるし……くっきりした鎖骨とか、スラリとした脹ら脛とか、ちょっとゴツゴツとした背中とかぁ……えっちなんだろぉな、あーくんのかーらーだー」

 

 

「うぅ……うぐぐぐっ」

 

 

亜巳の調子に合わせて、へばりついていた背中から更に身体を押し付けて、嬉々としてエメラルドの瞳を輝かせながら一方通行の肩にそっと顎を乗せると、小動物のように首筋へ瑠璃色の髪ごと頬を転ばせる。

しなやかに噎せるほどの色気を醸し出しながら下を這う淫靡な雌豹と、のんびりとしながらも無邪気故の凶悪な色香を漂わせながら上に纏わる無垢な雌猫。

 

男ならそれだけで昂りを抑えきれずに情動のまま彼女達へと性の猟銃を以て征服しかねない、余りにアダルトな光景の中、世の男からすれば血涙を流して呪詛を送りかねない極上の褒美を預かっている青年は、明らかに本来とは異なる方向へと昂っていた。

 

 

「……っのォ……ベタベタといつまでも鬱陶しいンだよ痴女共がァ!! お天道様がガッツリ登ってらっしゃる時間からどいつもこいつも盛りやがってボケがァ! そンなに下の口が渇いてンなら今すぐ男湯行って前も後ろもぶち込んで貰って来いやオラァ!!」

 

 

あ、拙いと添えていた顎から慌てて掌を離したのだが、既に時遅し。

月に吠える狂狼もかくやと謂わんばかりに紅月めいて鋭く吊り上がった瞳が、怖気や畏怖を背中に這い上がらせる獰猛な紅月を見上げているかの様に錯覚させる。

 

天使をからかう意図があったとしても、少し調子に乗り過ぎたなと腕を組んで小さく溜め息を吐く亜巳と、加減を失敗したなとぷっくりと舌をちろりと出して曖昧に笑う辰子に、とんだとばっちりを受けた天使が可愛らしく頬を膨らませる。

一方で事の成り行きを静観していた竜兵は腹を抱えて爆笑していた。

 

 

「まぁ、とりあえず温泉でのお楽しみは後にするとして。確かこの宿の近くには川があるんだろう? アタシとしてはそっちで羽を伸ばしても良いかと思うんだけどね」

 

 

「私は山で遊ぶのも良いかなぁ……森の中で寝ると気持ち良さそうだよねー」

 

 

「俺はアミ姉に一票だな。久々に河釣りしてぇ……竿と餌も貸してくれるみてぇだしよ」

 

 

「ウチは……どっちでも。あ、でも釣りやってみたい」

 

 

「みんな川行きかぁ。んーでも川で泳ぐのも気持ちいいし、水着もあるし丁度良いねぇー……あーくんはどうするー?」

 

 

「……俺も川で良い。決まったンなら、サッサと行くぞ」

 

 

 

気を取り直して、と再び仕切り役である亜巳が主張と共に意見を促せば、ポンポンと小気味良い調子で各々の意見を紡いでいく板垣一家。

さっきまでの混浴の件は何だったのかと今一腑に落ちないのか、再び遠慮なく獅噛み付いてくる辰子の額を手の甲でぺしりと叩くと、一方通行は窶れ気味に紅月を瞼に隠した。

 

のっそりとしなやかな体躯を翻して、言葉の通りさっさと温泉宿の近隣にあると云う川へ向かおうとした彼の後ろ髪を、引き止める掌。

文字通り後ろ髪を引かれてしまった彼はさながら尻尾を掴まれた白猫の如くに不機嫌そうに背後へと振り向く。

 

 

「……あンだよ」

 

 

「あーくん、水着は?着替えるよねぇ?」

 

 

振り向いた先で、春に咲く錦木の花弁の色を染めたような無垢な瞳が、尋ねるようで尋ねず、一方通行の水着姿が見たいのだと分かり易く爛々と煌めいて、彼に反論を許さない。

 

着替えると言わない限り離さないと謂わんばかりに、膝を付きながらも、両の掌で彼の後ろ髪の先を扇子の代わりに広げて、弧を描いた桜色の唇を隠した。

豊かな果実を実らせた胸元に出来た谷間に彼の髪を添わせて、口元を隠して上目遣いと不必要な程に色を纏う彼女の様子に、まだ先刻のノリを引き摺っているのかと眉を潜める彼ではあったが。

 

 

「……あァ、クソ。分かったから離せ、水着取りにいけねェだろォが」

 

 

「んふふーたっぷり泳ごうね、あーくん」

 

 

思惑通りに彼が折れた事に御満悦なのか、大人びた容姿とは裏腹に、幼い少女が浮かべるような碧い麗人の透明な笑顔が一方通行の諦観をより一層確固たる物へと近付けていく。

優しさであれ、慈しみであれ、幼子が見せるようなまっさらで無垢な感情は、どうしたって敵わなくて、抗う気すら起こさせてくれない。

 

いつか、どこか、誰かに言った、ガキに振り回されるのは大人の特権どうこうという言葉は、子供ながらに大人で居ることを強いられた彼の、未だに変わらないちっぽけな矜持として残っていた。

 

 

「川ン中でも引っ付いて来やがったら、ガチで沈めっからなァ」

 

 

「えぇー」

 

 

彼の云う通り引っ付くつもりだったのか、愛らしい顔立ちがぷくっと不満気に膨らむ。

異議を申し立てるように口を尖らす辰子を、クツリと喉を鳴らして嗜虐的な紅い瞳が見下ろして、鋭く放たれた白い指先が彼女の額を軽く小突いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

 

 

 

 

出会いと別れ、芽吹く桜と生物達の産声の歌曲。

春と云う季節に纏わるイメージは暖かで朗らかで生命の光に煌めいている。

永く冷たい幻想的な冬の厳しさを乗り越えて漸く訪れた雪解けに、優しく抱かれる温もりを思う者も多いだろう。

 

 

けれど、忘れてはならない。

 

置き去りにしたとはいえ、決して姿を隠した訳ではない冬のなごり雪は、春夜の冷たき風として、曙の凍てつく雨として。

そして、流るる清水の河川として、時として命奪う厳しさを以て、姿見えぬ隣人として寄り添っていてくれる事を。

 

 

 

「寒ィ寒ィ寒ィ、寒ィンだよクソッタレ」

 

 

 

そして絶賛その厳しさを、鞭で打たれる如くその身で教えられている哀れな白兎が一羽、成す術なく震えている。

グレーのパーカーに鳥の片翼を模したデザインを白のラインで走らせた黒と朱の水着と、彼の纏う服装は防寒性にとてもではないが期待出来ない。

シルバーのチェーンに飾り気のないシンプルなペンダントが垂れ下がる胸元は、幾つかの水滴と共に分かり易いほど鳥肌が立っていた。

 

 

 

「大の男がだらしないねぇ。そんなに弱々しくするなんて、私に責められたいのかと勘繰っちゃうじゃないか」

 

 

 

「あーくん、寒いの苦手だったもんねぇそういえば……ほらほら、どう、暖かい?」

 

 

 

普段の、大人びて飄々とした態度はまるで微塵も感じさせない程にみっともなく身体を縮込ませる白貌の青年に、黒の上下のマイクロビキニが官能的な妖香を放つ圧巻のスタイルを見せ付ける亜巳がやれやれと首を振る。

そんな彼女の苦言など聞こえてはいないのか、無言のままの一方通行を見兼ねて、亜巳とは対照的な白のホルターネックのビキニを纏った辰子が勢い良く震える彼を抱き締めた。

 

 

「…………」

 

 

危うく溢れてしまいそうなバストと柔らかな肌は人肌を色んな意味で暖めそうなモノだが、どうやらそれは彼とて例外ではない。

子供は風の子という格言に触れるものがあるのか、容姿とは真逆で幼い心を持った辰子の身体は暖かく、安堵の吐息を思わず吐いてしまうほどで。

 

けれど、目を見張る程の胸元と肉付きの良い太股の感触を殆ど生身で感じてしまえば、意識しないというのは一方通行といえど非常に厳しい。

ほんのりと微かに頬に朱を帯びている彼に気付かない辰子はより一層肉体的な距離を埋めて来る事によって、彼の強靭な理性が振り払えと叫んでいる。

 

かといって彼女が離れてしまえば人一倍寒さに弱い彼としては苦しむ未来に身を投じる事に抵抗を覚える、しかし悪意なら兎も角善意で彼を包み込もうとする優しさが、何より一方通行の理性を刺激した。

 

 

「……もォいい、辰子」

 

 

「えーホントに? でもあーくん暖かいからもうちょっとギュッてしてたいんだけど」

 

 

「……離れろ。いや、離れて下さい、こっちも結構ギリギリなンで」

 

 

「はーい」

 

 

本能を理性を以て制する。

離れていく柔らかさと温もりを惜しまず、また一つ男の高い壁を乗り越えたと、どこか誇らしげに安堵の吐息を零した男の背中を、ニヤニヤとした笑みを張り付けた生暖かい視線が貫いている事には気付いていない、気付いていないったらない。

 

 

「なんだ、ちゃぁんと男っぽいとこあるじゃないのさ、一方通行?」

 

 

「……これはオマエの情操教育にも問題あンだろ、亜巳さァン?」

 

 

幾ら彼の中で気付かないフリを貫いたとしても、人の晒された弱味をムザムザと見逃さないのは、流石夜の女王に君臨する亜巳と言えよう。

苦々しく喉を唸らせて、精一杯の恨み言を返す一方通行に一本取ったことに満足したのか、彼女達よりも更に下流の位置で竿を垂らす二つの影へと視線を移した。

 

 

 

「それにしても、竜兵もやるもんだねぇ。あんなにヒョイヒョイ釣れるもんなのかい」

 

 

「大漁だねぇ」

 

 

「……まァ、意外な才能ってとこか。だが、弟の方はそォでも、妹の方はからっきしみてェだな」

 

 

経験がある、と釣り始めの時から、やけに自信満々に宣っていただけあって、その見事な手際と成果には思わず一方通行も唸らずには居られない。

素直に彼らが感嘆する板垣家長男とは対照的に、末妹である板垣天使の方はまるで宇立が上がらないようで、不満そうに膨れながら竿を垂らしたまま携帯ゲームに勤しんでいた。

 

 

「……まぁ、きっとアタシや辰子でも天とおんなじ結果になってただろうけどねぇ。あんたも釣りの経験は無いんだっけ?」

 

 

「あァ。仮に釣れたとしても、彼処まで入れ食いにはなンねェだろ。つゥか、あンなにバカスカ釣ってどォすンだ」

 

 

「何匹か旅館に持って帰れば、刺身なり天婦羅なりしてくれるそうだよ。夕飯がより豪勢になるんなら、アタシとしちゃ歓迎だけどね」

 

 

「うーん、なんか眠たくなってきた……」

 

 

海に比べて河の方が釣れるモノだとしても、精々が三、四匹が関の山だろうと、経験も自信もない一方通行は、特に深く考えるまでもなくそう評する。

しかし、亜巳の評価もまたすんなりと納得出来るのか、微かに苦笑を浮かべた。

辰子はまず間違いなく釣りの最中に寝てしまうだろうし、亜巳は虫が苦手なので、釣具に餌を付ける事が出来ない。

 

板垣家のキッチンで蜘蛛を見付けていた時など、さながら彫像のようにピシリと固まっていた事もあるらしく、その事を天使に語られた際には、普段の大人の女らしさを霧散させて頬を染めて恥ずかしがっていた彼女。

冷徹な美貌が珍しくたおやかな乙女の表情に変わったいつかの一幕を思い浮かべ、そのままそっと心の中に仕舞い込んだ。

 

 

「――あン?」

 

 

「……どうしたのさ、一方通行?」

 

 

「……あれー? 何か、近付いてきてない?」

 

 

過去の光景に一人ほっこりとする彼の背筋に、奇妙な悪寒が走る。

何かに追われる様に川の上流を振り返った一方通行に続いて、辰子もまた近付いて来る何かの気配を察した。

 

 

 

――ェ……アァァァァ………――

 

 

 

 

 

 

「――来る」

 

 

「――オイ、クッソ嫌な予感がすンだが……」

 

 

「な、なんだい……これは、声……?」

 

 

 

――ラ……レェェ……タアァァァァ……――

 

 

 

真夏でもないのに、背筋を伝う冷や汗に、紅の瞳がうんざり気味に瞼へと隠れる。

持ち主の意思をしっかりと反映して、彼にとって見たくもない現実から世界を隔絶する。

しかし、彼の――人一倍優れた聴覚は、遠鳴りに響く声を脳へと伝え、人類の叡知にも等しい頭脳はあっという間にリストの中から正解を導き出した。

 

そう、忘れる訳もない、この声は。

 

 

 

 

 

 

 

――アァァクセラレェェェタァァア!!!――

 

 

 

 

 

 

「なンでオマエが居ンだよ……川神百代ォ……」

 

 

 

 

武神――川神百代。

 

一方通行にとって、出来れば休日にまでも会いたくない人物TOP3に堂々君臨する女が、水飛沫と共に彼らの前へと飛び立った。

 

 

 

 

 

 

『Ever Green』__end.

 

 


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