星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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弍ノ調『Starduster』

空が翳した古来よりの火之神は、飽きもせずに宙の黒色を灼熱で焦がしながら踊り続けて、広がる光のスカートを時には恵みとして、時には命奪う毒として蒼穹の彼方より届けてくれる。

朝頃にはその光に侍っていた白雲も繰り返される光のダンスに飽きたのか、今や蒼空と太陽の独壇場だ。

 

 

春休みの最中に依頼された清掃業者の仕事っぷりにすっかりと白化粧を整えた長い長い廊下の隅で、開けた窓から入り込んだ春風が、陽光のブーケを飾ってキラキラと光輪の粒を纏った暮紅の髪をそっと愛でる。

黒のスーツを嗜めて装えた暮紅の女性の瞳は、揺れることなくただ静かに。

 

 

「……」

 

 

春が咲いて、夏が過ぎ、秋に染まって、冬に願って。

季節と共に置いていった思い出の欠片は瞳に映らなくとも、かわる変わる心のアルバムに焼き付いて、色褪せない。

 

また、一年が過ぎる頃、こうやって私は弱くなっていくのだな、と。

慌ただしく過ぎる日々の中で、引っ掛かっている不安を拭い去るのが、こんなにも難しくなっていく。

 

静かに、ただ静かに。

小島梅子は、罪科を数える聖職者のように、静寂を伴侶にして瞳を閉じた。

 

 

――だからそンなに心配すンじゃねェ……分かったかよォ、バカ姉貴

 

 

リフレインする、ほんの少し前の過去。

たった少し時間が過ぎただけでもう『過去』になってしまう、そんな当たり前の事に、少しばかりの侘しさと、少しばかりの寂しいさと。

 

大きくなった、暖かくなった、強くなって――しまった。

彼を愛しく想うばかりに、大切に想うばかりに弱くなってしまう自分と、強く逞しくなっていく彼。

いつか羽ばたいていくだろう彼女にとっての幸福の証は、もう、群れる事を恐れたりはしないだろうけれど。

 

 

「……情けない」

 

 

喜ぶべきだろう、満足して頷いて、彼の背中を押してやるべきだろう。

そうでなくては、あの子の姉たる資格なんてない。

空を駆ける先々で、時折振り返って欲しいだなんて願いは、彼を支えてきた者の姿としては余りに不恰好だ。

 

 

けれども、心は手放すことを恐れてしまっている。

彼が離れていくことを、何よりも怖がってしまっている。

そんな当たり前の筈の感情を弱さと告げる己の不器用さに、彼女自信が気付いていない。

 

 

『あァ……まだ生きてンのか、俺は』

 

 

三年前の聖なる夜。

玄関の前で物言わず倒れていた彼を慌てて拾い上げて、ベッドへと運んで、目を覚ました少年の、初めての言葉。

喉の渇きを潤そうともせずに砂漠で佇んでいる老人の様に、死の宣告を待つ囚人の様に、感情すら色褪せた悲し過ぎる囁きに、どうしようもなく腹を立った。

 

それも、もうとうの昔に『過去』のこと。

 

 

度々触れる感傷は、時折遠い星を眺めていた孤独な瞳に影響されでもしたのだろうか。

ならば、いつか彼の様に、優しく慈しむかの様に、空を眺める日が来るのだろうか、と。

 

 

けれど、そんな寂しそうな背中をいつまでもさせる程、彼女に孤独は似合わない。

 

 

 

「……お疲れの様ですね、小島先生」

 

 

「えぇ、少し。今日は綾小路先生が張り切ってらしたから」

 

 

そんな顔をしないでください、と素直に言えるほどの青臭さがまだ残っていれば、こんなに苦労しないのになと、消え入りそうな背中に声を掛けてから去来する侘しさに、つい大人ぶった苦笑を張り付けて。

 

きっと一人で浸らせてあげる時間も必要なのだろうけど、想い人の憂い顔よりは笑顔が見たいと、考えだけは青臭いのはきっと彼女には通用しない武器にしかならないだろう。

 

 

「今頃、しっかり羽根を伸ばせてるんでしょうかねぇ……アイツは」

 

 

「そうでなくては、折角譲ってくださった宇佐見先生に申し訳が立ちませんよ」

 

 

漸く一つ笑顔が咲かせる事は出来たなと、失敗したアプローチも少しは挽回出来たことに宇佐見巨人は世知辛い思いもない交ぜにして肩を竦める。

ここで凹んでいれば、適度な惰性で以て応援してくれている白い青年にまた一つ叱咤の声を挙げられるところだった、と。

自分にとっては恋敵と取っていい難敵の筈が、蓋を開けてみればただ義姉を心配するだけのあの青年に、これ以上尻を叩かれているのは、余りに格好が付かない。

 

 

「……」

 

 

常に凛として、背中に定規でも差し込んでいるのではと勘繰ってしまいそうな程にピンと張られた背中。

生徒も、或いは同じ立場である教師にも、生き様すら凛々しいと思える程の清麗さに憧れる者は幾らでもいる。

 

けれど、常に相手と視線を合わせて会話をする筈の、その真っ直ぐさに焦がれさえした暮紅の瞳は、窓の外の遥か彼方を朧気に眺めて。

 

――あぁ、こんなにもこの女性は華奢だったのだな、と。

 

 

「……小島先生」

 

 

自分はいつだって生徒相手にすら臆病で、妥協を美徳と履き違えては、ただただ誰からも嫌われない程度の距離感を心の中で測り続けている。

傷付けない、深く介入しない、心の底から相手を見据えず、迷い苦しむ者にさえ妥協するのも大事だと説いて。

それも一つの大人だと、若者達に示して来た。

無論、それは宇佐見巨人自身の辿ってきた道々で彼なりにその意味を吟味し捉えた末の教訓、そこに嘘はないし、彼の言葉に共感を覚える者も少なくない。

 

 

「……はい、どうしました?」

 

 

けれど、不思議そうに振り向いた彼女は、時に傷付けながらも、何事にも親身になって、真っ直ぐに相手を見詰めて、妥協などに落ち着いては欲しくないと最後の最後まで相手に対峙する、宇佐見巨人とはまるで正反対の聖職者。

 

眩しいとすら、目を細めてしまう融通の利かない小島梅子の生き方に、年甲斐もなく焦がれている。

自分には真似出来そうにもない生真面目さに、憧れすら抱いている。

一回り年下の、今はただ、弱々しく目尻を下げた彼女に。

 

 

「……この後、お茶でも、どうですか?少し、私からお話しなくてはならない事があるんですが……」

 

 

「お話し、ですか?」

 

 

だから、彼女の生き様を少し真似て見ようと思う。

自分なりに、傷付けることを恐れず、深く相手に接する勇気を、ほんの少しだけ出してみよう、と。

 

彼女を誘う声が、柄にもなく微かに震える。

普段張り付けている筈の飄々とした笑みに、綻びが浮き出されてしまう。

好意を持つ異性を相手にする思春期の少年の様な青臭いみっともなさだな、と余裕を失っている自分を見て、脳裏の片隅で苦く微笑んだ。

 

 

 

「えぇ……一方通行の事で、ね」

 

 

きっと、嫌われるか軽蔑されるか。

どちらにしても今の自分では年甲斐もなく凹んでしまうだろうけれど。

そうなったらそうなったで、酒を伴侶に傷を癒していけばいい、忠勝が面倒そうに作ってくれるつまみもあれば、尚の事。

 

これは――ケジメ。

大人として、義理とはいえ子を持つ親としての、ケジメ。

御得意の逃げや曖昧に濁す事は、きっと許されないだろうから。

 

 

力無く揺れていた瞳が、鮮やかに光を灯して行く。

華奢に俯いていた彼女の弱さが、こうも簡単に掻き消えて行く。

 

 

――嗚呼、全く。

 

 

――妬けるぜ、畜生。

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

「しっかし、まさかお前があんな美人さん方と知り合いだったとは思わなかった……というか、お前の周りは幾ら何でも美人が多過ぎるぞ!しかも基本的にナイスバディだし!独占するな、少しは分けろ、共有財産化はよ!」

 

 

「るっせェよ、ンなこと俺の知った事か。というかオマエは、ホントに何処に居ても鬱陶しさに変わりがねェな……ウゼェ」

 

 

「え、ちょ……ガチなトーンでそんな面倒臭そうな顔するなよ、流石に傷付くぞ。あ、いや、ごめんなさいお願いだから本気でウザがらないでくれ私が悪かったって」

 

 

「あーくん、眠い……」

 

 

「オマエもオマエでブレねェな……ンで乗っかってくンなよ、人様の背中で寝よォとすンなオラ」

 

 

「……なんか、何処に行ってもこんな感じで苦労人なんだな、一方通行。羨ましいけど正直シンパシー感じる」

 

 

山中の昼下がり、木々森林を駆け抜ける春風が奏でた木の葉のバラードの静謐に身を委ねる事も出来ずに、くっきりはっきりと疲労やら呆情やら諦観やらその他諸々の負の感情を隠そうともしない白い美貌のモデルは、キャンパスに描くには相応しいとは言えない。

 

いつになく辛辣に顔を歪めた冷謐な横貌に珍しく動揺する武神、川神百代。

山籠りでもするつもりなのか、肉付きの良いしなやかな肢体を草臥れた胴着を纏わせるちぐはぐな格好と、普段は凛とした鋭さを灯したガーネットの瞳が、棘の有る一方通行の素っ気なさにアワアワと曇る。

面倒臭がりながらも何だかんだで投げ遣り気味ではあるが、相手にはしてくれていた彼の、わりと本気なトーンで告げられた冷たい言葉を受け止めてしまえば、幾ら陽気でおちゃらけたスタンスの多い彼女とはいえ、冷静では居られない。

 

別段一方通行としては其処まで意識している訳でもなく、朝からの板垣一家への声を張らした牽制に、太陽が高く昇って多少は緩和されてはいるがそれでも尚肌を刺す水際の風の冷たさが積み重なって、言の葉の端に添える温もりすら惜しんでいるだけである。

そしてそんな彼の機嫌などさして考慮する事もなく、マイペースに彼の細い背中に身を委ねる辰子を見て、隠し切れない羨望と同情を添えて直江大和が苦笑を浮かべた。

 

 

「……それにしても、同じ日に同じ旅館で、ほぼ同じタイミングで近場の川で遊んでたとは……偶然って恐いな。寧ろ運命染みてる気さえするよ」

 

 

「つまり大和と一方通行は運命レベルで繋がっている、と。いつかその赤い糸でお互いの身体を結び付けて、色んな部分も結び付いちゃったりして……あぁ、凄い、妄想の波が留まる事を知らないッ!」

 

 

「直江くン、その蠅が沸いてそォな女の口を塞げ、今すぐに。つゥか、仮にそンな運命だったら助走付けて神様ブン殴るわ」

 

 

「是非とも俺の分も殴っといて。んで京、塞ぐって言っても口と口はご遠慮願うから、キス待ちの顔を止めようね。段々近づいてくるのもなしで。うん、勿論下のモノでも塞ぐつもりはないから、チャックから手を離してね」

 

 

運命だとしたら恣意的な悪意を感じられずには居られない状況に苦々しく溜め息を一つ落とす一方通行を余所に、真っ昼間から夜の営みを実行しようとジーンズに手を掛ける椎名 京と、曖昧に笑いながらも結構本気で抵抗する大和とのしょうもない攻防が繰り広げられていた。

 

彼等、風間ファミリーの面々が一方通行達と同じく温泉旅館へと訪れているのには、彼らのリーダーである風間翔一が商店街の福引きで当てた招待券が発端となり、ついでに新しく彼らのファミリーとして加入する事になったクリスティアーネ・フリードリヒと黛 由紀江との親睦を深める事も視野に含めての旅行、という経緯である。

 

 

――となれば当然、彼らの以外のファミリーの面々もこの場に居る訳で。

 

 

「あ、クソッまた僧侶が死にやがった!回復役コイツしかいないってのに!おい、モロっち、ウチはどうすりゃ良いんだ、教えろ!」

 

 

「え、えっと……うーん、そのステージはザコ敵の攻撃力が高いし、AIも優先的に体力と防御値の低い僧侶を狙ってるっぽいから、最初に防御魔法でこっちを堅めれば良いんじゃないかな? もしくは、他のキャラの装備を僧侶に回す、とか……」

 

 

「へぇ、頭良いなモロっち! じゃあさじゃあさ、この一個前の街で……」

 

 

「あ、う、うん……」

 

 

川沿いの大きな岩にブルーシートを敷いた上に胡座をかいて携帯ゲームに熱中する天使と、その隣で妙に縮こまった体育座りという態勢で、時折彼女から求められるアドバイスにおどおどしつつも的確に答える諸岡卓也。

異性に免疫が無いながらもある程度は思春期ばりに興味を示している彼には、お構い無しに可憐な少女が顔を近付けて来る、嬉しくも恥ずかしい展開は正直持て余しがちなのだが、さして卓也に抵抗感を覚えない天使が気付いてくれる訳もない。

 

頬を染めて額に背中に緊張の汗を走らせている青少年の心情を推して測るには、彼女もまた経験値が足りていなかった。

 

 

――また、一方で。

 

 

「いいか、変に力を入れたりすると魚は素直に食い付いちゃくれねぇ。それに餌に反応があっても、そう直ぐには持ってかれやしねぇから、慣れるまではとにかく心を静めんのを心掛けろや」

 

 

「な、なるほど……心頭滅却すれば火もまた涼し、という訳か。流石は釣りの達人、その若さで日本の極意を身に付けているとは」

 

 

「俺より若ぇガキがなに言ってやがる……っておいコラ、そこのクソ犬、誰が其処まで食って良いって言った、アァン!?」

 

 

「ぐまぐま……えー良いじゃないこれくらい。まだまだ沢山あるし、けちけちしない! それにさっきあたしのキットカットあげたじゃないの」

 

 

「あれがホワイトチョコなら俺も考えてやったが、てめぇは食い過ぎなんだよ!おっとっとまで手ぇ出してたら川に沈めてたぞ」

 

 

「おっとっともあるの!? むむむ、外見に似合わずチョイスが良いわねぇ……あ、じゃあ後で潜水艦探ししましょ。どっちが先に見つけられるか勝負よ!」

 

 

「ほぉ、この俺におっとっとで勝負を挑むなんざ良い度胸じゃねぇか、受けてたってやらぁ」

 

 

「……ん?お嬢様、竿に反応がありますよ、魚が掛かったのでは?」

 

 

「え? お、おぉ、引いてる! 引いてるぞマルさん!……りゅ、竜兵殿、どどどどうすれば良い!?」

 

 

「お、やるじゃねぇか。良いか、釣りは魚と自分との我慢比べだ。かといって素人が力任せに引っ張んじゃねぇよ、慎重に、じわじわと、だ。軍人の姉ちゃんは俺が良いって言ったら網で掬ってやれ」

 

 

「は、はい。慎重に……慎重に……」

 

 

「大丈夫です、お嬢様にならば不可能ではありません。我々の傍には釣りの神が控えている、陣営に隙はない」

 

 

卓也と天使の直ぐ近くで、僅か短時間でマルギッテ・エーベルバッハに神格化すらされてしまった見事な釣りの手並みから、師事を頼まれた竜兵が、外見にそぐわぬ丁寧さでクリスの指導を行っていた。

ドイツでは釣りの文化が浸透していないのか、単純に彼女自身に経験が無い為か、豊かなブロンドを棚引かせる異国の乙女は蒼い瞳を輝かせて、幼子の様に頷きながらも竜兵の指導を心に刻む。

 

派手なタトゥーに粗暴な外見である彼に最初は正道に潔癖な嫌いのあったクリスは抵抗感と不快感を覚えたが、何か思う事でもあったのか、込み上げる正義感からの言葉を喉元で必死に押し留めて。

相手の事情を考慮せず、ただ自分の感情を押し付けるのは決して正しい事ではないと、彼女は仲間に漸く気付かされたのだから。

 

そんな彼女に付き添う形でついてきた川神一子は、威圧感を持ち合わせる竜兵を、見た目以上に強そうだと評する以外は特に何とも思わない。

屈曲な身体付きと狂暴な雰囲気とは裏腹に、ひょいひょいと魚を釣り上げながら用意していた数々の御菓子を味わう男の姿は寧ろ興味を誘ったらしく、元来人懐っこい彼女はあっさりと打ち解けた。

無論、釣りに興じる時は心を静めることに注意を置くことに傾注している為か、竜兵の普段の粗暴さは鳴りを潜めていたという背景も関係しているが。

 

 

「いいぞぉ、そのまま、ゆっくりとだ……よぉし軍人、今だ」

 

 

「……っ、やりましたよ、お嬢様!」

 

 

「よ、よし!ありがとうマルさん! ふ、ふふふ……まだまだ、最低でも後三匹は釣り上げてみせるぞ、師匠!」

 

 

「ふん、俺の弟子を名乗るんなら、10匹くれぇは軽くこなしてみせな、金髪」

 

 

「も、勿論だとも!マルさん、網は頼んだぞ!」

 

 

「お任せください、お嬢様。我々に掛かればその程度のノルマ、実に簡単な事だと教えて差し上げましょう」

 

 

「ほへぇ、クリもやるもんねぇ。そんじゃ、勝負と行きましょうか!ふふふ、腕が鳴るわね」

 

 

「十年早ぇぜ、犬ッコロ」

 

金色の乙女に寄り添う紅月の麗人もまた、板垣竜兵をクリスに近付けるのも如何なものかと排他的な眼差しを彼に向けてはいたが、クリス自身が仲間との経験を経て成長している様を見て、マルギッテもまた、その感情を留める事が出来た。

それに外見はどうあれ、呑気に釣りと駄菓子を嗜む男に悪感情を向けていた所で、釣りを学ぶクリスの愉しみを阻害する結果しか生まないだろう。

 

そして、何より。

稲荷寿司の一件以来、少し見る目が変わった一方通行の友人であるのならば、少しは信頼しても良いのでは、と。

 

 

いや、一方通行を信頼している訳ではなく、まぁほんの僅かな程度なら信頼しても良いとは思うが、いやここはやはり竜兵の釣りの腕が決め手だったという事にして……

 

 

そんな犬も食わない葛藤が彼女の中に繰り広げられていたそうだが、余談の一つとして留めて然るべきである。

 

 

――そんな彼らの後方で。

 

 

 

「た、たまらねぇ色気だ……いや、一方通行に張り付いてるお姉さんも充分ヤバイが、食い込んだビキニが……うごごごご」

 

 

「あ、あの……大丈夫ですか、島津さん。お、お腹痛いんですか?」

 

 

「だから食べ過ぎんなって言ったのによー。ガクトは相変わらずしょーがねぇな」

 

 

「やれやれ、色んな意味で純情な坊やたちだこと。まぁ、アンタくらい明け透けになれば丁度良い堅物野郎よりはマシだろうけどねぇ」

 

 

「くっ……こんなお姉さまに堅いだとっ……一方通行のスケコマシやろぉ、ガチで羨ましいぜぇ」

 

 

『おぉっと、ガクトっち。それ以上はいけねぇ、世の少年少女にはとても聞かせられないストレートな下ネタにオイラも思わずドン引きだぜ』

 

 

「……お嬢ちゃんも充分、明け透けのようだね。全く、アタシが言えた話じゃないけど、アイツの周りは変わり種しかいないのかい」

 

 

流るる川の水飛沫がキラキラと太陽の光に反射して人には手に余るダイヤモンドリングが浮かび上がる光景を、彼方此方で騒がしく盛り上がる声をBGMに腰を降ろして眺めていた板垣亜巳。

彼女の滑らかかつ扇情的な肢体と挑発的な水着姿は非常に悩ましく、島津岳人は己の中で煮えたぎるパトスとリビドーを抑え切れず、妖艶な紫紅の雌豹を前に頭を垂れるように平伏した。股間を抑えながら。

 

 

そんな憐れな情動の犠牲者を若干心配そうに見詰める風間翔一と黛 由紀江の心配する方向のあどけない眩しさに亜巳は苦笑を禁じ得ない。

翔一はともかく、由紀江の方は同性ながらも魅力的に映る亜巳の豊満な胸元や瑞々しい太股にどぎまぎとしつつ、柔らかそうな白い頬をほんのりと染めている辺り、純情のニュアンスが異なるけれど。

 

それに、由紀江の手にちんまりと乗っかった黒馬を模した人形が放つ軽快な台詞からして、純情そうなのは見かけだけか、と微笑ましそうに亜巳は肩を竦める。

純情どころか性に対しての興味すらない翔一と、大和撫子然とした可憐な外見とは裏腹に馬のマスコットを用いた腹話術と奇抜なキャラクターである由紀江。

 

翔一や性に正直な岳人はともかく、一方通行すら対処に悩んだ由紀江を相手にさして表情を変えない亜巳に、由紀江自身も内心ではこっそり驚いていた。

とはいえ、板垣亜巳は知る人ぞ知る夜の女王達の上に君臨する女帝であり、政界の大物から場末のサラリーマンまで幅広いジャンルの世界の歪みを鞭の一刀を以て征してきた覇者である。

 

たかだか腹話術をする高校生程度、亜巳からすれば可愛いモノで、女帝を敬愛する誇り高き畜生共とは比べるまでもなかった。

 

 

 

 

「なーなー、アンタ、一方通行の昔からの知り合いなんだろ?アイツの昔話とか聞かせてくれよ」

 

 

「なんだい、坊やは一方通行に興味があるのかい?」

 

 

「……あ、それは私も興味、あります。あの人には多大なご恩がありますから、好きなモノとか知っていれば教えて欲しいです」

 

 

「ふぅん……まぁ、アイツが誰かの面倒を見るのは別に珍しくもないし、そんなに気にしなくてもいいと思うけどねぇ」

 

 

「あぁ、そうだぜ、まゆっち。一方通行と友達になりたいって気持ちは分かるが、多分物とか受けとらねぇぞ、アイツは」

 

 

「へぇ、ガクトって言ったかい? なかなか分かってるじゃないのさ。この坊やの言う通り、そんな肩肘張った形で渡しても、あの白兎は喜びやしないよ。受け取るには受け取るかも知れないけれどね」

 

 

不意に翔一が尋ねた一方通行の過去というワードに、亜巳の形の良い眉がほんの少しつり上がる。

しかし、あの謎多き白貌の青年に興味を抱いているのは恩返しがしたいと宣う由紀江と、表面上には出さないが内心では気になるのか姿勢を僅かに正した岳人も同じらしい。

 

それにどうやら、筋骨隆隆な外見と男臭い願望が明け透けな見てくれの割に、人の深い部分を見る目はなかなかどうして確かな岳人の言葉に、思わず愉快そうに亜巳はぷっくりとした唇を湿らせた。

 

 

由紀江の言う恩と云うのがどういった経緯かは彼女の知るところではないが、由紀江の真意は一方通行と友達になりたいというシンプルなモノ。

けれど、それを目的として恩返しをしたところで、恐らくあの堅物白兎はそんな幽かな打算すら簡単に見透かしてしまうだろう。

他でもない、見透かされては歯痒さに熱の籠った吐息を堪えるしかなかった亜巳だからこそ、その結果は見えている。

 

 

深い深い、飲み込まれてしまいそうな紅の瞳で、いつだって心の奥底にある感情の色を掬いあげては、弄ぶ。

欲しいモノ、欲しい言葉。

鋭い茨の蔓で囲っても、薄い薄い膜を何枚も重ねて覆い隠しても、そんな存在など意に介さぬまま透り抜けて、白い指先は望みの輪郭をなぞるだけ。

そのもどかしさに熱を浮かされて喘ぐ様に強請っても、彼はいつも応えてはくれない。

気付いてない振りをして、何でもないと振る舞って。

 

――そうしてアタシの知らない所で、独りで後悔してるのさ。

 

 

だから、この娘の願いはとうの昔に分かってる癖に、どうせ優しく手を回す癖に、そう簡単には望む通りにさせはしないのだろう。

 

 

「そういう、狡い男なのさ――アイツはね」

 

 

「な、なるほど……」

 

 

「……ぐぬぬ」

 

 

「……」

 

 

ほぅ――っと、陽光の散る蒼の世界をそこだけ淫靡な夜の床上に染めてしまうような、爪先の端から果てまで女の性愛に満ちた吐息に、揺蕩う渇きを濡らしてと請うように、流るる河の煌めきを見つめる暮紅の瞳。

神話の情婦を目の当たりにした様な、板垣亜巳の本能的な美しさに、その姿を眺めるだけで頬が熱を帯びてしまう。

 

その魔性は、如何に性欲のない男と仲間内から囁かれている風間翔一とて我関せずとは言えなくて、よく分からないけれど、なんか顔が熱くなる、とそんな戸惑いを作り出すほどに色香に満ちていて。

けれど、確かに――少なくとも彼女が自分の何倍も一方通行と云う男を知っているのは間違いない、と。

 

一方通行を自分のファミリーに入れたい、というより彼の友達になりたいという意志は、恐らく由紀江よりも強い翔一は熱を持った自分の身体の異変を不思議に思いながらも、心のままに彼女へと尋ねた。

 

 

「な、なぁ……教えてくれねぇか、えっと、亜巳さん。頼む、俺はそんなにアイツの事を知らねぇからさ、その、聞きたいんだ。亜巳さんから見た、アイツの過去とかさ」

 

 

「……お、おいキャップ、まゆっち?」

 

 

「わ、私も是非!お、御礼とかじゃなくて、純粋に知りたいんです」

 

 

精悍な顔付きをほんのりと赤く染めて、時折目を逸らしながら彼らしくもないつたない口調で亜巳へと言い縋る翔一の姿に岳人は動揺を隠せない。

殆ど幼なじみからの長い付き合いである彼がこんなにも切羽詰まったというか、異性相手に言葉を選ぶように接するなど始めてだったからだ。

 

対して付き合いが浅いとはいえ、ある事情から風間ファミリーの中では彼女と一番接する距離の近い岳人からすれば、腹話術を一切挟まないまま懇願する由紀江の姿にも驚愕を禁じ得ない。

一方通行に対する興味というよりは、彼をそこまで理解している亜巳に対しての憧れの方が強いのだろうが、まるで二人とも亜巳の魔性に熱を浮かされて舞い上がっているかのようで。

 

 

「……やれやれ、欲しがりだねぇ。でも、そういうのは本人に聞いてみるのが一番さ。ねぇ、一方通行?」

 

 

「――ふン、一丁前に良い女気取りやがって。俺とオマエだけの話にはならねェ事ぐらい分かって言ってンのか?」

 

 

河辺の砂利を踏み分けて、魔性の魔女が生み出した熱情の波を凍てつかせる魔性の麗人の淡いテノールが、そっと蝋燭の火を摘み取るように彼らの赤く染まった耳元を通り抜ける。

振り向けば、風に揺蕩う白銀の月が淫夜の空間を暴力的に白く塗り潰した。

 

嗜虐的に、或いは悪戯気味に美しい綺白の美貌は、熱に浮かされた青い若者の息を止める様にゆっくりと微笑を浮かべて。

そして、魔性の魔女さえも。

 

 

「まぁ、そうだろうね。けれど、アンタが話すんなら『あの坊や達』もそんなに気にはしないと――」

 

 

「――亜巳」

 

 

色も添えず、温度も灯さず。

けれど名前を呼ぶテノールの響きはあまりに優し気に、やんわりと抱き止めるように、その先を語ることを許さない。

あまりに短い時間の中で交わされる声なき声のやり取りを、二人の魔性に呑まれそうな彼らには一欠片すら推して測れない。

 

 

「……分かったよ、一方通行」

 

 

――だから、アンタは狡いのさ。

 

 

その冷たい優しさに、苦しんでいる女だっているという事も気付いているだろうに、近付く訳でもなく、遠ざかる訳でもない。

 

どうしたいのか、どうして欲しいのか。

 

それを教えてくれない癖に、気付けばまた、彼は人として強くなっていく。

 

ほら、また、そうやって。

 

悪ィな――と小さく詫びるのだから。

 

 

 

――

――――

 

 

 

「その、ですね。こんな私ですが、皆さんにしっかりと受け入れて貰いまして……だから、その、ありがとうございました」

 

 

「……口の締まりが悪ィのは、どっかのアバズレだけじゃねェみたいだなァ、脳筋?」

 

 

「うるせぇリア充、呼ぶなら筋肉美と呼びやがれ。それにお前、あん時喋るなって一言も言ってなかったじゃねぇか。喋って欲しくねぇなら最初っからそう言ってりゃいい」

 

 

「……フン、確信犯がほざいてンなよ」

 

 

結局、亜巳から話を聞き出す事も、一方通行に口を割らせる事も出来なかった事に不満を覚えたのか、拗ねたように、好調に釣りを続けているクリス達の元へと離れた翔一を、読み取れない静かな感情を宿した紅い瞳で眺めていた彼は、小さく鼻を鳴らして視線を移す。

視界の端に映るのは、絶えず光の反射に煌めいた水面を見詰めたまま、静かに言葉を交わす亜巳と、その柔らかな膝に頭を預けてスヤスヤと寝息を立てる辰子と、川神百代の華奢な背中。

ガールズトークをしようと、おどける訳でもなく、しかしどこか挑発的なチェシャ猫の笑みで亜巳を誘う百代の横顔に、厄介な事になりそうだと溜め息を付きたくなる心持ちではあったが。

 

 

それよりもまずは。

柄でもなく世話を焼いた事のツケの精算を済ませなくてはならないだろう。

 

 

 

「……どォだ、案外脆いモンだったろ、現実なンて」

 

 

「……はい。といっても、私一人じゃきっと無理でした。いつもの様に、また部屋の隅っこで泣いてたのかも知れません」

 

 

甘い花の薫りに陶酔するように、胸に手を当て静かに瞳を閉じた清麗な面立ちは、かつての様に背筋を丸めて相手ばかりを窺っていた彼女より、少し大人になったのだろうか。

まだ胸を張るには自分に自信を持ちきれなくて、大人に至り切れない少女特有のソプラノの声も落ち着きなく震えているけれど。

 

 

少しずつ、少しずつ、変わろうとしている彼女を見詰める優しい紅の瞳がそっと隣へと移されたなら、自信げに腕を組む精悍な男が、応えるように意味あり気に口角を上げる。

変わりたいと悩んでいた少女が、変わるのだと決意した虹も掛からぬ晴れた日の屋上の、ほんの一幕の後のコト。

遠い星の彼方から今でも一方通行の心に寄り添うどこかの誰かのお節介を、たまには見習ってみようかと彼が焼いた小さな御世話。

 

 

「けど……島津先輩と、ファミリーの皆さんと……そして、貴方のお陰で――私、友達が出来ました」

 

 

なんてことはない。

ただ、以前、河川敷で岳人から聞いた、彼の母が寮母を務める島津寮に居る変わった新入生の話を『偶然』にも覚えていた一方通行が、たまたま教室への帰り道に寄った教室で騒いでいた彼を捕まえて、ただ少しだけ、囁いただけのこと。

 

オマエの所の後輩は料理がとても上手だと。

案外それを持て余しているらしいから、今日の夕食でも頼んでみてはどうだろうか、と。

寂しがり屋らしいから、断ったりはしないだろう、と。

 

 

だからこそ、彼女が一歩を踏み出せなければそれまでだったろう。

しかし、そうはならなかった。

たったそれだけの話。

 

 

 

「ですから、改めて……ありがとうございました!」

 

 

 

少しだけ、先程よりも凛と背筋を伸ばして、ちゃんと余裕

をもって、綺麗な御辞儀と共に感謝の意を示す。

そっぽを向くように隣立つ岳人を見やれば、受け止めてやれと言わんばかりに静かな黒の瞳が見返すだけ。

 

そもそも、いつも一人で口籠っていた彼女をちょくちょく気にかけていた男の、他人面で此方を促している男がやけに腹立だしく映るものだ。

 

 

「クカカッ」

 

 

けれど、まぁ――

 

気儘に時間をかけて待つ予定だった『虹』も、予感通りに早く架かりそうだな、と。

であれば、もっと良く彼女の『虹』が綺麗に見える特等席を探してやる努力くらいは、してやってもいいかも知れない。

 

 

 

「――どォいたしまして」

 

 

 

「はいっ」

 

 

 

遠くの方で、感嘆の声があがる。

 

興奮気味に手に持つ大きな魚を掲げるクリスの弾けたような声が眠りの世界にまで届いたのか、眠り足りないといわんばかりに瞼を擦りながら辰子が大きく伸びをした。

 

 

遠く果てない蒼穹にさえ響く笑い声を、遥かなる先で聞き届ける様に。

 

蒼に紛れて小さく光る、二つの星が煌めいた。

 

 

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「……成る程、そんな事が」

 

 

「えぇ……今はまだ、表面化こそしてはいないが、それも時間の問題かも知れません」

 

 

「違法ドラッグ……それを調べる為に、あの子は今、色々と動いているんですね」

 

 

カチャリとティーカップを置いた緩やかな衝動で揺れる紅茶色の水面に浮かぶ散り散りに咲いた電灯の半月を見詰めて、そこに彼女が何を重ねているのか、対面に座する宇佐美巨人には読み取れない。

 

夜の湖に浮かぶ水面の月を眺める詩人は想い人をそこに重ねて詩を唄うのならば、目の前の麗人はどうだろうか。

忍ぶのか、憂うのか、想うのか。

けれど、誰を浮かべているのかなんて、今更考えるまでもない事だけは、臆病風に好かれている彼とて簡単に分かる事だ、と。

 

 

少し前は歯痒いとさえ思っていた会議は終わって、どこか寂し気に黄昏ていた梅子を連れ出して、ジャズィーのレコードがどこか懐かしい巨人が良く通っている喫茶店へと落ち着いて。

そこで、紅茶を一口、気付けばカラカラに渇いていた喉を潤した巨人は、彼女に総てを語った。

 

近日川神に蔓延る鈍色の悪意と、彼らが持ち出した劣悪でありふれた手段と、彼が、宇佐美巨人が、一方通行に頼ったことを。

 

例えどれだけ優れた存在だとしても、まだ未成年の、守られるべき存在を、大人が守ってあげなくてはならない存在を。

自分だけでは手に余るだろうと、彼の持つ頭脳と、裏の世界にさえ通じる強大なパイプに目をつけて、利用してしまったことを。

 

 

「そうですよ、小島先生。動いてくれているんですよ、本来……ただの学生に過ぎない彼が、私の所為で」

 

 

「……」

 

 

ほんの少しだけ水嵩を減らしたティーカップをテーブルの隅へと押しやって、重ねていた両の掌に自然と力が入る。

 

受け止めなくてはいけないのだろう、これも要領の良いやり方の一つだと、自分なりの言い訳を用意して一方通行を巻き込んでしまった事への罰。

持て余してしまうほどに溢れた、彼にとっては大切な者達が住む川神の地を守る為ならば、きっと面倒臭がりながらも全力を尽くしてくれるのだろうと、打算を以て彼を頼って。

かくして、宇佐美巨人の予想通りに、彼は動いてくれている。

 

 

彼の大切な者達の為に。

 

 

――小島梅子を守る為に。

 

 

 

「……では。失礼ですが、宇佐美先生。顔を上げてくださいませんか」

 

 

「えぇ、勿論。ご心配せずとも、頑丈ですんで、遠慮なく頼みます」

 

 

凛とした、彼が焦がれる彼女の強い声に、静かに瞑目して俯かせていた顔をあげる。

嫌われる、それは確かに辛いけれど。

軽蔑される、それは確かに苦しいけれど。

ケジメをつける、そう決めた。

 

 

ただ、心残りは。

 

 

 

――気に入ってたんだけどな、この店。

 

 

 

真っ昼間から、女に平手打ちされるのだ。

もう此処には来れないな、と場違いな後悔に苦笑して。

せめて格好だけつける為に、彼女が手首を痛めなければいいなと、しょうもない願いを片隅に描いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――教えて下さって、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

――……

 

 

 

 

 

「……は?」

 

 

降り掛かるであろう痛みと罵倒に身構えていた巨人は、恐らく梅子と出会って初めて、間の抜けたような唖然を彼女の前で晒してしまう。

 

無理もない、平手打ちが来るものだと、寧ろ来て貰わなければ困るのだと思ってすら居た彼の目の前で小島梅子は――ピンと張っていた背中を折り曲げて、巨人に頭を下げていたのだから。

 

 

「……こ、小島先生? なんで貴女が頭を下げる必要が……謝らなくてはならない、いや、頭を下げなくてはいけないのは私の方なんですから、小島先生が頭を下げるのはおかしいですよ」

 

 

 

「――いいえ、宇佐美先生。私は貴方に御礼を言わなくてはいけません。よく、部外者である者には聞かせられない筈の事を教えてくださいました。だからこそ、貴方に御礼を言わなくてはならないんですよ」

 

 

アタフタと、余裕をもった大人としてはまるで相応しくないほどに狼狽えながら長い腕を右往左往とさせる巨人を見据えて、その珍しい慌てぶりに紅茶色の瞳を見開いたのは一瞬で、次第に優し気に細められていく。

 

違う、そんな優しい目で彼女に見詰められて良いような事を、した覚えはない。

そもそも彼女の大事な存在である一方通行を巻き込んで危険に晒した男に、どうして頭を下げて御礼を言うのか、まるて理解が出来なかった。

 

 

「わ、私は……俺は、巻き込んだんですよ? 一方通行を、貴女の大事な義弟である彼を」

 

 

「えぇ、貴方がそうだと言うなら、そうなんでしょう。けれど、宇佐美先生。貴方はあくまで頼っただけで、きっと強制はしていないんでしょう?」

 

 

「いや、しかし……それは、アイツが貴女や他の奴等を守る為に断る訳がねぇって、クソみたいな打算があって――」

 

 

「――打算など、通用しませんよ、一方通行には。そして、そうなればあの子は、私の愚弟は。分かった上で『自分の意思』で宇佐美先生に協力する事を選んだんですよ」

 

 

「――……」

 

 

嗚呼、駄目だ。

 

これ以上、彼女の顔を見ている事なんて出来ない。

 

衝動の波で、息が止まりそうになる。

 

なんて綺麗に、彼女は笑っているのだろうか。

 

 

「ならば、私はあの子を信じます。しっかりと前を向いて生きる事を選んだあの子の選択を、信じます。勿論、何度も心配はしてしまうでしょうが」

 

 

「……だから、俺を許すって……言うんですか」

 

 

言葉が途切れて、ただ並べるのは不細工な音の羅列が惨めに震える。

 

穏やかに、清らかに、流麗な彼女の声に比べれば、なんて幼稚な言葉しか紡げないのか。

 

 

「……許す?」

 

 

可笑しそうに、擽ったそうに、自分にはあまりに美しく、あまりに眩しくて直視すら困難な暮紅の女性は静かに笑う。

一回り長く生きた男を、まるで物分かりの悪い生徒を相手にするように、仕方ないな、この人は、と。

 

 

 

「ですから、御礼をと言ってるじゃないですか、私は。許すも、許さないもないんです。一方通行が自分で選んで決めたことならば、私が宇佐美先生を責める理由なんてない。貴方が教えてくれなければ、きっと隠し事の上手いあの子の事だ、何も知らない儘、蚊帳の外で終わっていたに違いない」

 

 

 

……嗚呼、畜生、本当に参る。

 

 

惚れた相手が悪過ぎる、自分じゃあまりに勿体無い。

良い女にも、程があるだろ、畜生。

 

 

 

 

 

――貴方のお陰で、私は……全てが終わったその後で、こんな無茶をするなバカ者と。

 

 

――あの子の姉として、胸を張って叱ってやれるんですから。

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

歳かねぇ、と。

 

込み上げて来る静かな情動に、目頭の熱を抑えるように組んだ掌に顔を押し付ける。

どこまでも優しく彼を想い、その度に弱くなり、その度に強くなる。

 

一方通行を慕う者達には、気の毒だ。

きっと彼を一番想う者の座は、宇佐美巨人が知る以上では、小島梅子に敵う者など有り得ないだろうと。

 

けれど、あぁ、そうだ。

こんな良い女を諦めろというのも無理な話だろう。

だらしない、みっともない、そんな男にも意地がある。

 

 

こんな惨めな男のケジメさえ、優しく包んでくれた彼女を、幸せにしたいと想うのは、決して可笑しな事ではない。

 

――だから。

 

 

「……ハハ。ですが、なるべくお手柔らかにしてあげてください。私の所為で折檻されるのは、正直アイツに申し訳ないんでね」

 

 

「さて、それはどうでしょうか。事が事ですからね。それに――」

 

 

行き場を失ったしょぼいケジメは、待つ事を選んだ彼女の代わりに、一方通行を支える事で付ける。

 

まずはそこから。

 

 

「――バカな弟を叱れるのは、姉の特権ですので」

 

 

「成る程、では一方通行にはせめて別口で手当を支払うという事で、私の無念の落とし所と致しますかね」

 

 

脇において、少し冷めてしまった紅茶を一息に飲み込めば、憑き物が落ちたように気楽な笑顔が浮かべる事ができる。

気丈ながらも羽衣の様に柔らかな慈愛でもって微笑んでみせた彼女に、改めて心の底から感謝を。

 

けれど、やはり自分はいつもの様に飄々と、余裕を作った大人として。

 

 

あぁ、それと、と彼女に付け加えて。

 

 

 

「今度、お食事でもどうですかな、『梅子』先生?」

 

 

 

「えぇ、またの機会に、宇佐美先生」

 

 

 

呼び慣れない名前を擽ったように微笑みながら。

いつもの様に、にべもなく誘いは断られる。

だというのに、嗚呼。

 

 

 

「――さすが、そうでなくては」

 

 

 

少し近付けたと思うのは、自惚れだろうか。

 

 

 

 

 

『Starduster』__end.


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