星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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参ノ調『I'm dolphin』

――山中や、菊はたおらぬ、湯の匂。

 

春夜の冷やかながらも静謐な山の息吹を薫らせる空気に浮かぶ、千切れ千切れの湯煙みたいに霞んだ記憶の、隅の隅に置かれた一句。

五七五の調べを口遊む事もせず、ただぼんやりと吐息に乗せて無音のままに、空へと溶かす。

仄かな硫黄の香りに身を委ねた誘うきめ細やかな肌が、冬の雪原から春に舞い咲く桜の花弁へと、鼻の抜ける様な色香を持って染まり行く様は、性の隔たりすら奪って固唾を滑らせる程に美しい。

 

 

石垣に雫滴る背と細長くしなやかな右腕を預け、雲も架からぬ夜の葵すら優しく母の如く照らす銀の弓月を愛でる、紅玉の眼差しが静寂に揺蕩う。

腰近くにまで届きそうな白雪の梳き髪を猫の細く纏めて、借り物の黒い簪で括ったその後ろ姿に、他の宿泊先は潜った湯先を間違えたかとどぎまぎしながら疑わざるを得ない。

 

 

湯に解れる快感に麗笑を携えて遥か夜空を見上げる彼は、高き屋根の上で尻尾を揺らめかせながら、退屈そうに浮かぶ銀の月を宥める為に歌うたう白猫の様で。

懐旧より並べられた、揺り籠で眠る赤子へと語るべき童話の世界にでも迷い込んでしまったのかと疑う様な不思議な神秘さに、見蕩れて、見惚れる。

 

 

「……ねぇ」

 

 

「……どォした」

 

 

「僕、速攻で逃げてった竜兵君とガクトの気持ちが今凄く分かる。ほんと、分かりたくないのに分かっちゃう」

 

 

「奇遇だな、モロ。俺も今、自分の中で目覚めそうな可能性と云う名の獣の神を殺すのに全神経を傾けてる。ぶっちゃけ温泉を楽しむどころじゃないんだけど」

 

 

確かに神秘的かも知れないが、童話の語り絵に欲情するのは以ての他で、心奪われる風景画に頬を染めることはあっても、息を荒げる必要なんてある筈がない。

けれど、月を嗜み降り積もった無穹の星霜を数える白い横貌は普段でさえも気を抜けば見惚れてしまうというのに、

湯煙に混ざって扇情的な情動を誘う青年の美麗さは、あっさりと逆上せてしまう程に色っぽくて。

 

 

青い心を逆剥れ立たせる白貌の君をなるべく見ぬ為に、序に熱り立ちそうな己の矜持を鎮まれと願う為に顔を俯かせた青少年二人の燐憫な呪詛が、ちゃぷちゃぷとした水音の中で虚しく木霊する。

新たな扉をユニコーンしてしまいそうな彼らの必死さを怪訝そうな眼差しで一瞥する辺り、当の本人は一片たりとも自覚していないのが、堪らなく憎らしい。

 

 

「つゥか、タオルを湯につけンのはマナー違反だろォが。どいつもこいつも、風情を嗜まねェ阿呆ばっかかよ」

 

 

「いやその発端にして唯一の元凶が何言ってんのさ!風情どころか温泉の効能すら実感出来ちゃいないよ!」

 

 

「うんまぁモロも人の事は言えない立場だけどさ、それで一方通行、お前はヤバい。寧ろタオルを腰に巻くのが今この時はマナーに書き換えてしまうお前がヤバい。いっその事、辰子さんと一緒に混浴行っててくれた方が何倍も良かったレベルでヤバいんだよ、自覚してくれホント」

 

 

「……え、ちょっと待て、オマエらって、まさかそっち?竜兵だけじゃなくて、オマエらもそうなのか? 何それこわい」

 

 

「だから、タオル片手に後退んな、余計女っぽく見えちゃうだろ!? というかこっちがどんだけ必死で開きそうな新しい扉を絶賛封鎖作業中だと思ってんだ!」

 

 

色々と地に足付かない心理に駆られる直江大和の恫喝染みた叫びに、じりじりと後退りながら路上に転がる腐敗物を見るが如し侮蔑と冷淡に鋭くなっていく紅い瞳。

隣で頬を染めながら、気丈にもお前の方が悪いんだぞと物言いたそうに睨む諸岡卓也も、大和の言う様に非常に中性的ではあるが、目の前の白い青年の反則染みた色気には遠く及ばない。

 

 

彼等二人に限らず、この場に湯を愉しむべく参じた、性を知らぬ少年を除いた宿泊客数人は、揃って真っ白なタオルを腰に巻いている。

そして、湯に浸かるのもそこそこに、蕩れてしまいそうな歪んだ煩悩を追い払う為に、最大限の強さに調整したシャワーで打たれながら無言で佇む悲しき背中は、数分前に風呂場から退室した島津岳人の姿と同じ哀愁を背負っていた。

 

 

「なンで俺が風呂に浸かるだけでンな阿呆臭ェ謗りを受けねェといけねェンだ、男に欲情するイカれた自分を悔いろよ。椎名辺りに告げ口してやろォか?」

 

 

「いや待って、それだけは止めとこう一方通行。よりにもよって京に話したら、多分きっと俺達みんな傷付く結果にしかならないと思うんだ」

 

 

「下手したらこの話をネタに文芸部にでも持ち込まれて、最悪、秋の文化祭でバラ蒔かれる可能性が……」

 

 

「……変態を矯正する妻役足るには、オマエの女は歪み過ぎてたかァ」

 

 

彼からすれば、単に温泉に浸かって喧騒と狂騒に包まれた昼下がりを癒していただけだというのに、目の毒だと文句を言われる儘に引き下がるほど、自分の美貌に確信なんて抱いてない。

けれど、理不尽な状況を挽回すべく打った一手は、知神として畏怖される彼としては珍しく悪手であった。

 

男と女のロマンスより、男と男のアバンチュールに涎垂してしまう直江大和の妻役たる少女の反応は、理想と現実では悲しい程に歪んで異なる事を、その旦那役に敷いた少年の必死の説得により理解し直した青年の、なんと悲壮に陰ったことか。

 

 

無情な虚無感に打ち菱がれる憐れな男達に純情を、掬い上げては悪戯に零れ落とした銀月が、変わらず夜空に揺らめいていた。

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

「……あぁ、何て言うか、あれだ。うん、一周回ってムカつくわ、お前。男の癖に、何だその尋常じゃないエロさ!何かムラムラするわ!幾ら私でも軽く自信喪失に陥るわ!」

 

 

「しょ、正直、自分は今までで一番マルさんを尊敬した。こ、こここれほどにセクシィなモノを毎日。じ、自分では一日と持たず音を上げる自信があるぞ」

 

 

「非常に、非っ常に、不本意ではありますが……この兎のこの艶姿に、眩暈を覚えてしまった事は確かにあります、お嬢様。しかし強靭な精神と揺るぎない矜持さえあれば、人に克服出来ぬモノなどありません」

 

 

「不本意なのはコッチだ緩マンビッチ共!!雁首揃えてガン見し腐るかと思えば、下品な上の口で意味分かンねェ事を垂れ流しやがってェ……」

 

 

温泉旅館といえば、湯上がりの後のソファ型マッサージ機と相場が決まっていると、男二人の理不尽な物言いを不満に思いながらも白の滑らかな生地に無数の小さな菫が黒糸で刺繍されたデザインの浴衣を纏った彼が向かった先。

そこそこに拓けた卓球場で、一般人ならば目を疑うレベルのハイスピードな対戦が繰り広げていた四人の淑女は、ある程度は耐性が付いていた紅い麗人を除いて、彼を見るなり呆然とラケットを手落とした。

 

マルギッテ、クリス、百代、そして――卓球台から離れた長椅子にくったりと、健康的な美肌を晒しながら仰向けに寝かされた、黛 由紀江。

 

僅かな余裕を残して、肉付きはあれど何故だか華奢に見えるしなやかな肢体を包んだ浴衣の、開けた首元から見え隠れする、くっきりと浮かんだ鎖骨の艶やかさ。

しっとりと濡れて、照明の電光に御来光もかくやと謂わんばかりに煌めきを放つ白く長い髪に、時折見え隠れするスッキリとした二の腕。

湯から上がったばかりな為か、ほんのりとした朱を舞い散らせた頬と、逆上せ気味に潤みながらもどこか冷徹な紅い瞳と、世が世ならば彼の肖像を描かせてくれと著名無名の絵描き達が殺到しても決して可笑しくはない美しさ。

 

ある者達は女としての自尊心を深く傷付けられ、ある者達は美しい男という者の禁忌的な情動に戦慄し、そして由紀江の様に、その淫靡とさえ言える美に倒れ伏してしまった気高き戦死者は少なくない。

女としての憤りすら隠そうともしない百代の憤慨っぷりに、そして彼方此方から集まる、彼女達以外の宿泊客達の熱の籠った視線にうんざりとしながらも、一方通行は牙を剥いた。

 

 

「ガクトが悔し涙流しながら壁に頭突きしてたのを見て、ついに頭をやっちゃったかなと思えば……そうか、これより更に上の全裸バージョンを見ちゃったからか。アイツも立派な犠牲者だったんだな……」

 

 

「え、でも一緒に出てきた竜兵殿は凄く嬉しそうだったぞ。自分が、どうしたのかって聞いたら、これから暫く食事には困らないって……むぁ」

 

 

「お嬢様、いけません。その事について深く注釈するのは幾ら何でも兎が不憫です。流石の私とて、其処までの仕打ちを受けさせるのは心苦しい……」

 

 

「まさかオマエに救われる日が来よォとはな……だが、今回ばかりは素直に感謝するわ。ありがとう、ホントありがとう」

 

 

「なっ……何をそんな大袈裟に捉える必要がありますか、らしくもない。これは寧ろ、これ以上穢れた世界をお嬢様に見せまいと……えぇい、普段の憎まれ口はどうしたのですか兎! 慣れない事をおいそれとされては、此方の調子も狂うのだと知りなさい!」

 

 

一方通行の外見に全ての原因があるとはいえ、仮に空想だとしても、同性相手に性の捌け口として利用されるという身の毛も弥立つ実情を知らしめるなど、彼と度々反発しては牙を向け合うマルギッテとて流石に良心が痛んだのか、首を傾げる純粋な乙女の口をそっと掌で覆う。

 

複雑な燐憫を宿した片月の瞳で、どこか気拙そうに対面の白い麗人を探るように見遣れば、マルギッテの苦渋の擁護に多少なりとも救われたのか、半分虚ろながらにも素直に感謝の念を携えた紅い瞳が迎えて。

皮肉でも飛んでくるのかと身構えこそしなかったが、予測は立てていた彼女にとって、素直に礼を述べた彼の態度は普段の冷徹冷静な彼女の静寂をいとも容易く崩してしまうには充分と言えた。

 

 

彼らと同じ屋根の下で暮らしている小島梅子が聞けば驚きながらも深い頷きを残すであろう一幕である事は間違いない。

 

 

「――ハッ……な、何だかとんでもなくショッキングなモノを見てた気が……」

 

 

『いやぁ流石のオイラもぶったまげてしまったぜぃ……アフロディーネが性別取っ替えて降臨でもしちまったのかと……』

 

 

けれど、そんな一方通行にとっても予想外からの援護に束の間の休息を、彼女本人の意思とは裏腹にぶち壊してくれる由紀江と、謂わばもう一人の由紀江こと松風の、大袈裟な様で真理を付く覚醒の声に、陽炎に似た希望の光を取り戻した筈の瞳はまたも無情の陰りに閉ざされる。

 

分かり易くショックを受けて項垂れる彼の珍しい姿に慌てて何とか元気を出せと目を泳がせながら励ます百代と、牙が抜けた彼の儚さに動揺したのか、顔を赤らめながらも心根は大和男子なのだから自信を持てと激励するマルギッテと、意味が分からず不思議そうに首を傾げたままの、戦力外クリス。

彼の姿を、かの美の女神と評して着実にトドメを差してしまった事に気付かぬまま、再び目にした彼を見るや由紀江の可憐な顔が即座に耳まで朱に染まった。

 

 

「あ、あのあのあの、た、大変失礼な真似をしてしまって、申し訳ありません!つい数時間前に御礼を言えたばっかりなのに、また一方通行さんに対して無礼を……」

 

 

「……うン、全然気にしてないから」

 

 

「いやホント、私もエロいとか変なこと言って悪かったって! ていうか今日はどうしたんだ一方通行、なんか色々とらしくないぞ!?そんなメンタル弱かったかお前!?」

 

 

「百代の言う通りです、罵詈雑言に弁の立つ貴様がどうしたのですか、その体たらく。温泉では日々の疲労を癒し切れなかったのですか……? そ、その、多少なりとも兎には借りがありますし――ンッ、ンンッ……か、簡単なマッサージぐらいであれば、してやっても良いかと思わなくもありませんが」

 

 

「そ、そうだぞ一方通行!自分もたまにマルさんに肩を揉んで貰うんだが、かなり上手だ。きっと一方通行の疲れも取れる筈だ、喜んでいいぞ!え、えっと、だから元気を出してくれ」

 

 

約一名、どうして一方通行が凹んでいるのかすら理解出来ずに、取り敢えず場の流れに沿ってちぐはぐな応援をしている者が居るが、その心根は彼女の瞳の様に透き通っている事だけは推して測るべきである。

 

百代の的確な指摘は兎も角、クリス以外に励ましの言葉を送った経験など殆ど無いドイツの紅い猟犬は、日頃何だかんだで家事を行っている側面からマッサージ役を申し出る程にテンパってしまっているようで、態とらしい咳払いを交えてまで彼を案ずる辺り、一方通行に対する険悪な姿勢は少しずつながらも緩和しているようだ。

 

普段の余裕の欠片も窺わせない一方通行ではあるが、そう歳も代わらない同級生の男達には情婦を見るような視線を、一方通行ですら見てくれは充分良い方だと評する美少女や美女達に淫靡なモノを見るような視線を、見ず知らずの数々の宿泊客からは熱っぽい様な、粘っこい様な、向けられるだけで疲労を募らせる無遠慮に晒されたのだ、彼の摩耗した心理が追い詰められるのも、無理はない。

 

 

「……ったく、そっとしとくって選択はねェのか、オマエらは。マッサージは次の機会に取っといてやるから、精々腕磨いとけ、猟犬。黛は良い加減謝ンな、俺の見てくれが普通じゃねェ自覚はある。クリス、オマエも変なフォローすンな、寧ろ逆効果だ」

 

 

「ふ、普通じゃないと言っても、決して悪い意味ではありませんよ?けれど……あ、いえ、何でもないです」

 

 

 

「……フン、元の調子に戻ったかと思えば威勢の良い。やはり貴様は不遜な男ですね、憎たらしい事この上ない」

 

 

「む、やはり自分にはこういった気遣いは難しいな……」

 

 

しかし、柄にもなく打ち拉がれていた所で、一方通行の周りもまた柄にもない行動に移るという滑稽で喜劇的な顛末に、落ち込むだけ無駄だと悟った彼は、呆れ半分に普段の調子を取り戻す。

相変わらずマルギッテにだけは犬猿の仲を醸し出す様な、若干照れ隠しの様な言葉選びに、彼女もまた何故だか安堵したように口角を上げた。

 

 

けれど、一人鮮やかなスルーを決められた武神はといえば。

 

 

 

「なぁ、なぁ、おいって!あの、一応私も精一杯慰めたり励ましたりしてたつもりなんだが? それをお前……ノータッチ? 全力スルー?ちょっと泣きたいんだけど、本気で……」

 

 

「いやァ、タメの男掴まえて、エロい言ったりムラムラしたりすンのはちょっと……」

 

 

明らさまに、的確に、恣意的に疎外された事には、彼の機嫌を損ねた一端とはいえ、流石に不平不満を表に出すのも仕方がないだろう。

特別、百代はスルーといった仲間外れにされる行為を嫌うのだ、拗ねてますと云った不快感を隠そうともしない紅い瞳を迎え撃つのは、妙に他人行儀で言動にも行動にも距離を取る青年の意地の悪さ。

 

徹底的な反逆心を胸の奥にひっそりと隠して、内心でほくそ笑む青年を前に、ふにゃりと表情を崩して士気を挫かれた百代に、勝機など一欠片とて残ってなかった。

 

 

「ひっ、酷いっ!? いやまぁムラムラとかしたのは本当だから今更言い訳しないが、其処まで引くなよ、寧ろこんなグラマーな美少女に欲情されたんだぞ?照れ隠しとかならまだしも、ドン引きはないだろー!?」

 

 

「うわァ……欲情とかうわァ……あ、ちょっと半径5メートル以内に入ンないで貰えます?百代先輩が恐いンで、ホント勘弁して下さい」

 

 

「――あ、ガチでキッツいなこれ、冗談抜きで泣きそうなんだけど、私。お前に本気の敬語使われると、なんか人一倍距離を感じる……」

 

 

「はァ、そォですか、どォいたしまして」

 

 

「悦んでなんかないやい!本気でやめて欲しいやい!」

 

 

無表情、無感情、無遠慮の三拍子から繰り出される真冬の豪雪もかくやと謂わんばかりの、被虐的な趣向をお持ちの紳士淑女なら大変御満足戴けるであろう冷徹なバストーンボイスは、無形の白蛇が巻き付いたかの様に容赦の一切もなく、百代の心を締め上げていく。

言霊にこそまだ幾分の余裕は見られるが、自画自賛するだけはある美麗な表情は見る見る内に泣き出しそうな少女の如くくしゃりと歪んで、瞳が微かに潤んでいた。

 

 

「「「………」」」

 

 

怒涛の言葉攻めを目の当たりにしている少女淑女の三人が

纏めて挑み掛かっても負ける可能性の方が高いであろう、武の化身、川神百代。

容姿端麗に付け加えた圧倒的は強さで世界に名を轟かす彼女を、言葉だけで膝を付かせる事すら容易であろう対峙する白貌の者は、一体何者になるのだろうか。

きっとどこかの、普段から散々彼の白貌の者に鼻っ柱をへし折られている高慢ちきな高貴なるらしい少女も、今の百代を見ればとてつもないシンパシーを感じる事は間違いない。

 

いよいよ心の牙城も主柱を巨蛇の腹に巻き付かれたのか、頭を垂れそうな程に俯いた百代に見えない位置で、心の底から悪どい笑顔を浮かべる白の魔王の静かに弄ぶ様に、百代への同情を募らせながらも割って入る勇者にはなれる気がしない、クリスと由紀江。

 

そんな二人の影で、情け容赦などなく、神話の悪魔メフィストフェレスでもその身に降ろしたのか、言葉巧みに更にジワジワと百代を追い詰めていく一方通行の嗜虐的な貌に本能の奥底で眠り続けていた被虐的な欲求の輪郭を指先でつつかれる様な、背筋を長い舌に愛撫された様なゾクッとした感覚に、その幽かながらも甘美な違和感に、マルギッテは静かに動揺していたりするのだが。

 

誰に告げる訳にも行かず、自然と自覚のない情欲に染まってしまった顔とやけに騒がしく鼓動を刻む心臓を隠すように、紅い麗人は身体を斜に逸らしながらも、視線はバッチリ白い魔王と哀れな犠牲者に向けられていたのだった。

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

夜、という闇の代名詞は、人の心を不安にさせる。

 

黒く塗り潰した奥行きの、果ての、果ての果て。

すべてを呑み込んでしまいそうな、ぐるぐると巡る深遠の深淵。

 

先の見えないところ、暖かさのないところ、何があるか分からないところ。

 

理解出来ない恐怖に脅えて、だからこそ人は闇を払う太陽や、夜を謡う月や星屑を愛している。

愛するからこそ、太陽は恵みを、月は灯りを、星々は夢を掲げて人を愛してくれる。

 

 

だから、愛してしまえばいい。

夜を恐れず不安にも負けず、理解して受け入れて、愛してみれば、きっと答えてくれるだろうから。

 

 

――目を凝らせば。

 

 

薄らと、光閉じた世界に青が混ざって白んでいく。

夜の闇に慣れた視界に、黒の世界が形を帯びていく。

黒の葵へと微かに明らんだ色の温度は、冷たくなんてない。

 

そして、彼女の視界の先で、白い影が揺らめいている。

 

 

「ン――ふふ」

 

 

クツリとなるべく音に紡いでしまわないように堪えたものの、安堵の吐息と共に流れ落ちる幽かな笑み。

夜の闇でさえ尚耀くエメラルドの瞳が、普段の彼女とは似ても似つかない情愛を灯して、天を向いたまま僅かな寝息を立てる白い横顔をただ、じっと。

 

普段彼女――板垣辰子が、好んで触れて撫でて梳いて、解かしている、男の白い髪は括られている事もなく、織姫と彦星の間に流れる星屑の大河の様に彼の首元から光を放つ。

姿勢善く眠る白貌の青年を象るその殆どのパーツは、夜を照らす深月と同様に、美しく魅せてしまう魔性のヒトカタ。

 

 

自然の宝玉たるあの銀月や綺雪に良く似ている、首の痛みなど構いはせずに、見上げ続けては夜の月を愛する歪み者を、惹き付けてしまう魔性と、掌に掴まえても温もりに溶けて、気づけば形ない水へと移ろうところとか。

 

本当に、良く似ているのに、自然なモノではなく、不自然に象られたかのような、不確かで、曖昧で。

臆病な黒猫が、真っ白なペンキで無理矢理塗りたくられてしまったみたいに、歪まされた、綺麗だけれど、気付いてしまえば、とても不自然。

 

貴方はそれでも綺麗だよ、と。

そんな心を込めて撫でてみても、此方の眼を覗き込んだ白猫は鏡代わりに自分の姿を見詰めて。

どこか悲しそうに、あァそうかい、と鳴き声を挙げるのだ。

 

 

「……」

 

 

夜の静寂に、壁側の布団で大の字で寝転んだ竜兵の弛んだ鼾と、彼の腹に無造作に脚を乗せて乱雑な体勢で器用に眠る天使の甘い寝息が響く。

そのすぐ隣で、華奢な身体を猫の様に丸めて、いつも浮かべるような、妖艶な表情を無邪気な少女の寝顔の様に、普段は隠れた愛らしさと可憐さを浮かべた亜巳が静かに眠っている。

きっと振り向けば直ぐに、辰子の姉が恥ずかしがって、なるべく見せようとしない可愛らしさを拝む事が出来るのだろうけれど。

 

 

けど今は、白い横貌を見つめていたい。

見つめるだけで、手を伸ばさないまま。

光当たらぬ夜の中で溺れながらも、彼と出会う前からも、彼と出会ってからもずっと届かないお月様を。

 

 

「――――」

 

 

彼が夜に浮かぶ月なら、自分は暗い夜の海を泳ぐイルカだろう。

夜を愛して、波を千切って、遥か遠くに浮かぶ大きな月にキスをしたくて、暗い暗い海を飛ぶ。

 

碌に言葉を知らない癖に、月を求めて足掻いている。

 

例えこんなにも、手を伸ばせば直ぐに触れてしまえそうなくらいに近くにいても。

静かに眠る彼にだけは、板垣辰子は手を伸ばせない。

許されるのは、彼の意志がきちんと介在している時だけ。

己に課せた秘め事一つ、ただ律儀に守っている。

 

 

きっとそんな彼女よりもずっとずっと、手を伸ばしたくて、触れたくて、抱き締めてあげたくて、けれど彼の中の大切な何かを傷付ける事が分かっているから、勇気を持てなくていつも諦めてしまう姉の想いを、知っているから。

 

 

だから。

 

 

「――あーくん」

 

 

喉元を置き去りにして滑り落ちた、辰子だけがそう呼ぶ名前。

彼女にとっての唯一の、彼が仕方なしに許してくれた、大事な響き。

 

きっと、彼は許した覚えなんてないと。

けれど、決して強く止めはしないんだろうと。

 

 

 

「――ねぇ、あーくん」

 

 

 

昼間の川際、姉と、もう一人の女の子とで語っていた事。

 

浅い眠りの微睡みの中で、ほんの少しだけ切なげに零した、姉の呟き。

 

 

 

 

 

――アイツは強いよ。

 

 

――継ぎ接ぎだらけの癖に、綻びばっかの癖に。

 

 

――前を向くのを止めないのさ。

 

 

――それで転んで、継ぎ接ぎの結び目が解けたとしても。

 

 

――いつも結んでくれるんだろうね。

 

 

――アイツの心を、抱き締めてる誰かが。

 

 

 

あぁ、そうだ。

きっと、恐いのは自分もなんだ、と。

触れた先で、抱き締めた先で。

彼の意志が介在しない夜で。

彼が愛する知らない誰かに。

 

 

敵わないなと、思い知るのが恐いのだ。

 

 

 

「――だよ、あーくん」

 

 

 

だから、イルカは言葉を紡げず。

いつも、浮かぶ月を追い掛けるだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

『I'm dolphin』__end.





モチーフにした曲は、自分の大好きな曲
分かる人は、聴きながら読んでくれたら嬉しいです
あんなに綺麗には書けなかったけど
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