星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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肆ノ調『Nostalgia to you』

少し伸ばし過ぎた人差し指の爪の先、指に宿る白い半月が、角張ったフォントの英語がプリントされた黒いラベルの缶コーヒーを気紛れにノックする。

掌の中で小さく鳴る無機物の賛歌は、朝焼けの小鳥の囀りや街中の静かな生活音とシンフォニーを奏でるには、音の響きが小さ過ぎた。

 

どこか遠くから木霊して届いた、始発電車の線路を渡る鈍い音の方が、彼の白い手に収まった恥ずかしがり屋の楽器に比べれば随分と勇ましい。

けれど侘び寂びを怠ったのか、或いは音の鳴りが鈍すぎたのか、顔を顰めた鳥達が朝陽を覆う薄曇の下を飛び立ち羽ばたく姿を、紅い瞳が見上げていた。

 

 

男にしては長いけれど細い脚を組ませて、まだ人の居ない朝の公園の青いベンチに腰掛けて、猫の髭代わりに風揺れる長い睫毛をそのままに、缶コーヒに口付ける。

ほんの少し土色に濡れた薄い彩りの唇を、朱赤い舌先がチロリと舐めた仕草は、やはりどこか猫の面影を浮かばせた。

クレーンゲームのアームみたく指先だけでぶら下げた缶コーヒーは、さながら彼にとっての水浮かぶ皿といったところか。

 

 

「く、ァ――」

 

 

ブラックコーヒーのカフェインは未だ身体を巡っていないのか、短い欠伸を吐き出した彼の瞳がほんのりと微睡みに揺蕩って、潤いを浮かべて。

想定外の遭遇もあって、より一層喧騒に塗れた休日も過ぎ去れば、学生である一方通行にもいつもの退屈させてはくれない日常がやってくる。

 

二人分の朝食の準備と三人分の弁当と洗濯と、学生と云うよりも主婦然とした朝の恒例行事を淡々と済ませて、旅行の疲れがまだ残っているのか少し重い身体をそのままに、悠長に余るほどに余裕を作った早めの登校。

朝礼が始まるまで、後一時間と三十分。

 

白のブレザーがより一層、綺白を際立たせる彼は、たまにこうして朝のゆとりを怠惰に耽る事を好んでいる事を知る者は少ない。

知る者の一人である彼の保護者は優し気に白い背中を見届けて、知らない者である紅い同居人は怪訝そうに遠退いて行く後ろ髪を見送って。

 

 

思い浮かべるのは、日々のこと。

思い巡らせるのは、人々のこと。

思い手繰らせるのは、錯綜する闇のこと。

 

そして。

想い耽るのは――いつも。

色褪せてくれない、ノスタルジア。

 

 

「……フン」

 

 

つまらなそうに鼻を鳴らして、細く白い首筋を、まるで何かを探す儚い手付きが、感傷の痕を撫でるようにして擦る。

努めて、思い出そうとしている訳でもないのに。

描いて、思い巡らせるつもり等ないと云うのに。

 

初めて、『彼女』と会った朝の公園とは、場所どころか、星の距離さえ違うというのに。

あまりに簡単に、継ぎ接ぎだらけの心はあの日の女の笑顔を、紡いでしまう。

 

 

――けれど。

 

 

 

「マシュマロ、食べる?」

 

 

チャンネルを切り替えるかの様に白い青年の追憶を遮った、無邪気な声に振り向けば。

鏡合わせに映したような、彼に良く似た少女が、満面の笑みを浮かべて、白菓子を此方へと差し出していて。

 

 

「――いらねェよ、バカ」

 

 

「えーたまには食べてよ、いっつもいらないって言ってるじゃん。美味しいよ、甘いよ?」

 

 

「だからいらねェって言ってンだ、良い加減覚えろ」

 

 

瞳の色、髪の色、肌の色。

何も知らない第三者から見れば、恋人か友達と云うよりは、まず必ずしも兄妹なのだろうなと映る程に、一方通行と榊原小雪はとても良く似ていた。

 

不思議そうに赤い硝子細工の瞳を丸めて、まるで仔猫が匂いを嗅ぐように息も掛かるほど距離を詰めて、僕とそっくりだねと嬉しそうに囁いた、小雪との最初の邂逅の一幕が、雪溶けに似た感覚と共にそっと反芻する。

 

あの時と、今と。

流れ行く刻は姿形を女性らしくはさせたけれど、仔猫みたく遠慮もなしにすり寄って来る無邪気さは、変わらない。

愉快そうにくりくりと輝く赤い瞳は、あの日から随分と虹架かるほどに澄み切ってくれているけれど。

 

 

「とーうっ」

 

 

「おい」

 

 

彼の背中から、彼の隣へ。

妙に張り切った、頬緩ませる甘いソプラノの掛け声と共にベンチへと降り立つ彼女の天真爛漫さに、気圧される訳でもなく、無遠慮な左手が小雪の頭をペシリと叩く。

僅かに前のめりになりながらも、口を窄めて拗ねることもせず、拗ねて剥れる反応も見せず、寧ろ嬉しそうに笑顔を浮かべるのだから、彼としても手に負えない。

 

呆れ半分諦め半分を程好くブレンドした紅い瞳が、どこか擽ったそうにゆっくりと細まった。

 

 

「今日は早いね、良く眠れなかったの?」

 

 

「そンなンじゃねェ。オマエこそどうしたよ、バイとハゲは何してンだ」

 

 

「トーマはまだ寝てるよ。ハゲは知らなーい」

 

 

此方を窺う無邪気な紅い眼差しに投げ遣り気味に応えて、小雪の保護者役である葵冬馬と井上準を含みのある蔑称で呼びながら尋ねれば、呆気らかんと、つまりは置いてきたとそう宣う季節外れの雪の妖精。

光に反射してきらきらと煌めく雪原の如し可憐な笑みを面倒そうに紅い瞳が見返して、白い青年は内心で嘆息する。

つまり、この天真爛漫な少女の手綱を握るべき存在は暫く現れず、その代役を担わなくてはならないかもしれない可能性に。

 

 

「そして僕は暇だったから散歩してたのだ! うぇーい!」

 

 

「あァ、そうかい。なら散歩を続行して来い」

 

 

「え、やだ。アクセラで遊ぶもん」

 

 

「愉快なオブジェでアスレチックになりてェならそう言えよ。三分クッキングよりも簡単に仕上げてやる」

 

 

今日はアクセラ呼びで行くのかと、ひくつかせる頬と苛立ちを孕んだ獣染みた恫喝を囁く裏側で、どこか他人事のような事を脳裏に走らせる。

見る者を魅了するにこやかで可憐な笑顔を絶やさない目下の少女は、色んなパターンで彼の名前を呼んでいる。

 

そこまでバリエーションは無いものの、一方通行限定でコロコロと呼び方を変える小雪を不思議に思う同級生も少なくはないが、諦めたのか面倒なのか、寧ろ喜んでいると云う事はないだろうが、呼ばれている当の本人はさして気にしている様子はない。

 

彼がその名で呼ぶなと制止したのは一度だけで、それ以外は大抵何だそりゃ、と苦笑するか顰めっ面を浮かべるかのどちらか。

いつかの秋に、あーくんと何気なく呼んだ時は、それは先約済みだから止めとけと、なんだか優しげに細められた瞳に、面白くないなと珍しく拗ねてしまった一幕があったが、それ以降は一度も呼んでいない。

 

 

「ねぇねぇ、アクセラ。僕、コーヒー飲みたい」

 

 

「あァ?……ったく、甘ェモンばっか食ってるからだろアホ」

 

 

どういったつもりでかは謎めいているが、何故かブレザーの中に着込んだクリーム色のセーターとカッターシャツを手を潜り込ませて、紺色のネクタイに指を絡ませクルクルと小さく回しながら、小雪は彼にコーヒーを強請る。

 

鬱陶しそうに端麗な顔を歪ませながらも、払い退ける事はせず小雪の片手に収まったマシュマロの菓子袋を見詰めて苦言を呈す一方通行。

嘆息一つ風に溶かして、手に持っていた缶コーヒーをベンチの脇に置いて、彼の財布が入っている学生鞄へと手を伸ばした所で。

 

 

「違う違う」

 

 

「……ン? なンだよ、買いに行くンじゃねェのか?」

 

 

カラカラと擽ったそうに笑う声に織り交ぜて、彼の指先を遮る少女の声。

何が違うというのか、と怪訝そうに細められた瞳を、愉しそうに、嬉しそうに、いつまで経っても曇りやしない綺麗な赤の宝石が輝いて。

 

公園の出口の直ぐ傍、細い車道とコンクリートの色の燻んだ電柱を挟んだところに退屈そうに立ち惚けた自動販売機の背中を顎で促す男に、一回、二回と首を横に振る。

白魚のような染みのない白い少女が指先で指し示したのは、ベンチの隅のブラックコーヒー。

つまりは、そういう事で。

 

 

「……オマエ、苦いの好きじゃねェだろ。もうちょい甘ェのもあンだぞ?」

 

 

「いいよ、マシュマロあるもん。だからアクセラのヤツ、ちょーだい」

 

 

「……変なヤツ」

 

 

「変でもいいの、ちょーだい」

 

 

甘い菓子ばかりをいつも持ち歩いては食べて、時折人に食べさせる川神学園七不思議の一つになってしまっている小雪が、苦いモノや辛いモノを口にしている所は殆ど見掛けない。

食べられないという事は無いらしいが、彼の中の膨大な記憶の中に、そんな光景は精々、一方通行の弁当のおかずを横取りしている時ぐらいだろうか。

 

クイクイとネクタイを弄ぶ頻度を上げながら頂戴頂戴と請う小雪に苦笑しつつも、仕方なくコーヒーを差し出す一方通行と、御満悦な様相で微笑みながら受け取る小雪。

 

白と白、紅と赤。

 

アルビノの猫の親子が戯れる光景は、春先の和やかな空気に良く似合う。

どちらが親で、どちらが子なのかは、言うまでもない。

 

 

「……プレミアムだわ」

 

 

日々自分を高めるべく行っている日課のランニングをこなしていたとある下級生は、猫達の在籍する二年S組でしか中々に見られない、希少で貴重な光景を見て、思わず惚けたように脚を止めた。

 

片や川神学園どころか全国模試でも一位と噂の知神、片や川神学園の七不思議の内の一つとして謳われる美少女。

 

こんな早朝に見掛けられる光景の中では、成る程、確かにプレミアムであったのかも知れない。

 

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

開いた窓から入り込んだ風に膨らまされた真っ白なカーテンのドレープが、幼子の機嫌を愛すように窓際で不貞腐れながら無言で弁当の唐揚げを啄む白い青年の髪を幽かに撫でる。

カーテンの隙間をすり抜けた光の微粒子達が、白い雪原のスケートリングを陽気に踊り、その反射がキラキラと一層白銀を彩めた。

 

 

しかし、その繊細な白髪の持ち主の機嫌は宜しくはないようで、キリリと吊り上がった紅い瞳は剣呑な耀きを宿しながら、彼の機嫌を降下させる原因の一端を睨み付けている。

 

そんな事を、知ってか知らずか。

 

 

 

「……犯罪、犯罪だわこんなの。綺麗とかそんなレベルじゃない。こんなの目の前にしたら、腰抜かしてもおかしくないって」

 

 

「写真一つでここまで我が軍の戦力を削ぐとは……これがエレガントチンクの湯上がり姿…………てか、これが男って事が未だに信じられない。っていうか、男でこれなら私は何?何なの?鬱だ死にたい……」

 

 

「……ぐふっ、あ、ちょっとゴメンティッシュ分けて。なくなっちゃった……あ、やばっ、制服に鼻血付いちゃった」

 

 

「十河……元気出しなって。気持ちは分かる、気持ちはすっごく分かるよ、そりゃ私も最初は衝撃的過ぎて自分の携帯握り潰しそうになったけどさぁ……その、しょ、勝負が付いちゃった訳じゃないんだし、気を取り直してアピール続けないと、ねっ、ほらっ」

 

 

「小田原さん……で、でも……流石に自信無くなっちゃうよぉ、こんなの……私なんかよりよっぽど色っぽいし、綺麗だしぃ……」

 

 

一方通行に不機嫌そうに睨まれている事に気付いていないのか、それともそれすらどうでも良いと思える程のダメージを負ったのか。

膝を折り、頭を垂らし、ある者は涙を流し、ある者は鼻血を流し、またある者は咆哮し、またある者は心の電池が切れたのか茫然と立ち尽くしている壮絶な光景は、憐れな敗者達の成れの果て。

 

各々携帯電話を握り締めながら、中には悔しさの余り携帯を叩き折ったり、鼻息荒く画面を嘗め回すように凝視していたりといった女生徒達の様相に、残されたクラスの男子達は百鬼夜行でも見ているかの形相で、戦慄していた。

 

 

「……女子って大変だな、南坂」

 

 

「いや、うん、正直俺これなら抱けるとまで思っちゃったけどさ、うん、まだ俺はマシな方なんだな」

 

 

「ぼ、僕たちは男だからまだアレなんでしょうけど……女子からすれば流石に心折れても仕方ないのではないでしょうか……」

 

 

「なんかもう、嫉妬すら思わん。F組の奴等もなんかいつも以上に騒いでるし……もはや同情するわ」

 

 

「どちらにです?」

 

 

「……両方」

 

 

耳を澄まさなくとも、彼の優れた聴力ならば容易に聞こえてしまう、隣のクラスからも女子達の黄色い悲鳴や阿鼻叫喚に、眉間の皺がどんどん強く、一方通行の纏う気配が張り詰めていく。

さも不機嫌不平不満と珍しく歪められた白い貌に、極力目を合わせない様に逸らし続ける男子生徒達。

なまじ整い過ぎている顔立ちが怒りに歪めば、その威圧感とそこから抱かざるを得ない恐怖心は並ではない。

 

騒ぎの原因となっているのは、一方通行の温泉上がりの浴衣姿の写真。

どこからが発端か恣意的に依るモノかは、さて置いて、短時間で急速に拡散されてしまった、川神学園でもトップクラスの有名人である彼の艶姿に、何の感慨も抱かない生徒は一人として居なかった。

 

問題は、意図的か想定外は兎も角、写真の出所は『とある聖夜の王座陥落』にてかの武神を倒したとされる一方通行によって業火の焔に包まれる未来しか描けなくなった、という一点に尽きる。

どこぞの誰かは知らないが、虎の尾を見事に踏み抜いてしまったであろう愚か者の冥福を、心から祈るモブ男子生徒一同。

彼らの心は、責任とって怒りを収める生け贄となってくれ、それで以て成仏しろよ、といった優しいのか薄情なのか微妙な祈り一色に染まっていた。

 

 

 

「……」

 

 

険の鋭い表情のままにふんわりとして綺麗な卵焼きを咀嚼しつつ、携帯電話に届いたメール画面に表示された文字の羅列を眺めている一方通行。

表情こそ、例えば昔の彼ならば、彼の中で浮かぶ今回の発端の心当たり達に、今にでも襲撃を掛けても可笑しくはない程に禍々しい物ではあるのだが、弁当を食べる余裕が彼に残っている理由は、昔よりも牙を抜かれて丸くなった為、というのもあるが、このメールにも要因があったりする。

 

 

『だから千花ちゃんは一方通行さんに悪気があったんじゃなくて、一方通行君の格好いいところを自分だけ独り占めしちゃダメだと思ったから、色んな友達に教えちゃったんだと思います。絶対恥ずかしい想いをさせようとか、そんなんじゃないんです。だから、どうか許してあげて欲しいです。御願いします!』

 

 

カコカコと、丁寧な言葉遣いと多くて長い文面を白い指先でスクロールしながら、内容を確認するべく上から下へと静かに文字を追い掛ける紅い瞳。

憤怒に燃え滾る激情の紅でも、凍り付く程の冷徹な紅でもなく、ゆっくりと動く視線は、不満顔を浮かべる割には静かなモノで、実際は男子生徒達が思っている程、激情を溜め込んでいるという訳ではない。

 

目立つ事をなるべく避けたがる彼としては、腹立だしいことには違いはないのだろうが、噂を拡張してしまった主要人物たる小笠原千花は、よもや学園中に広まってしまう事は完全に予想していなかったらしく、現在は顔を真っ青にして彼方此方へ写真の削除を願うべく奔走しているらしい。

一方通行の怒りに触れるという、コトの重大性を直江大和に忠告され漸く気付いた彼女が半泣きになりながら友人達に駆け回っている事を、千花の親友である甘粕真与にメールで教えられた事もあり、多少溜飲が下がってはいた、実際には後の祭りではあるが。

 

 

『本当は直接謝りに行きたいんですけど、千花ちゃんも放っとけなくて……簡単に許せる事じゃないと思ってますし、直江君も覚悟はしておかなくちゃいけないって言ってたから、謝られても一方通行君の怒りは晴れないと思います。けど、千花ちゃんは本当に悪い娘じゃなく、むしろ優しくていい娘なんです、本当です!』

 

 

 

生真面目で努力家な甘粕真与らしい、丁寧で誠実な、焦りからか所々変な言い回しになっている部分も多いが、友達を許して欲しいという想いの必死さが嫌でも伝わって来るメールが、五件にも分かれて受信されたのだ。

全く反省せず、寧ろより一層舞い上がっていたのだとしたら多少お灸を据えてはいただろうが、本人は後悔に反省を重ねているらしいし、何よりも友達を守ろうとする真与の想いを跳ね除けてまで制裁を加える程、彼は器が小さくはない。

 

 

『何度もしつこいと思うんですけど、お願いです、許してあげて欲しいんです。許せないんだったら、代わりに私がなんでもしますから!』

 

 

どうしてそうなるんだ、と。

そこまで自分が怒り狂っているとでも思っているのだろうか、と。

仮にそうでも、怒りを鎮める為には自身を犠牲をするしかないと思われているのだろうか、と。

 

恐らく写真の出所であるファミリーの誰かの為に、なるべく事態の収拾に動いている大和が大袈裟に忠告したのも理由の一つだろうが、それにしても彼女も大袈裟に捉え過ぎである。

周りがパニックに陥れば寧ろ冷静になるのが心理という物で、これでは怒るどころか一周回って呆れてしまう。

 

 

『また後で、二人一緒に謝りに行きますから、出来れば待っててくださいね。P.S.今度この前もらったお稲荷さんの御返しもさせて下さい』

 

 

「…………はァ」

 

 

最後にそう締め括って終わった、五件もの長文メールを非常に微妙な気分で読み切った彼は、疲労感を多大に蓄積させた盛大な溜め息を一つ、零した。

徒労に揺れた紅い瞳が、ゆっくりと開いたメールの返信画面を眺めて、細い指先が力の無い動きでカチカチと文字を打つ。

怒ってないから気にするな、ただそれだけを打ち込んで返信して、投げ遣りな動作でテーブルの端へと携帯電話を置いた。

 

 

旅行期間のいつの間に写真を撮られたのかは分からないが、客室で惚けて涼んでいた所を撮られている辺り、写真を撮ったのは板垣天使だろう。

あの時他に客室に居た辰子と亜巳は普段携帯なんて弄らないし、翌日の昼に、師岡卓也と川神一子とアドレスを交換していたのだから、状況証拠としてはほぼ確定。

 

恐らく卓也と一子のどちらか、或いは両方からファミリーに伝わり、千花へと渡り、この有り様。

今頃、ファミリーの面々に釘を刺さなかった、若しくは刺した所で無意味だった事に、直江大和も後悔に暮れているのだろう。

彼がどうやって事態を収拾するか愉しみだと、もう開き直るしかない一方通行は嗜虐的な冷笑を浮かべる辺り、意地が悪い男である。

 

 

白い悪魔がほくそ笑んでいると更に恐怖を加速させる男子生徒達の視線の中に、明らかに今出て行っては餌食になる事は間違いないであろう少女が、とことこと歩み寄る。

彼のサディスティックさに何時も翻弄されている彼女が絡んだとなれば、結果は火を見るよりも明らかで、鴨が葱を背負って煮えたぎる釜の中に飛び込む事と何ら変わらない。

空気を読めない少女の愚かさと行く末に、少年達はそっと十字を切る。

そこまで分かって止めない辺り、やはり薄情であった。

 

 

 

「にょほほ、冬馬に見せて貰ったぞ一方通行。粗末な浴衣ではあったが、着こなしは中々であったぞ。どうじゃ、今度、此方直々に最高級の浴衣を選んでやっても良いぞ」

 

 

「オイ、脳ミソが腐ってンのか、眼が節穴なのかは知らねェが、見て分からねェのか、食事中だ」

 

 

「……また失礼な言い草をしよってからに。食事中な事ぐらい、理解しておるわ」

 

 

桜色の豊かな色彩に、薔薇、百合、牡丹と種類様々な花の刺繍が織物としての格式高さを見事に表現した一級品の着物を纏った、不死川 心の高飛車な発言に、途徹もない程に冷たい視線を寄越す一方通行。

どうやら彼女もまた、例の写真を見ているらしく、しかし他の生徒とは違って彼の浴衣の着こなしを評価するという斜め上の反応を見せる。

 

実際は写真を見るや特徴的な奇声をあげるなり真っ赤になってバタバタと小さく暴れてはいたのだが、そんな事に一方通行が興味を割く訳もなく。

彼の視界の隅には居たのだが、完全に意識から外されていた少女は、彼女なりの計らいも鮮やかにスルーされた事にもめげずに、けれど彼の皮肉に気付く事なく拗ねたリアクションを取った。

 

煩わしそうに見据える紅い瞳の中の、愉しげなサディズムに気付けない事が、何よりも不幸であったと言えよう。

 

 

「理解してンなら弁えろよ。飯に蠅が集ったらどォすンだオラ」

 

 

「にょぶぇ!!? お、ま、あ、一方通行!こ、ここ此方をおっ、おぶ、 汚物と同義に並べたか!? 失礼にも程があるのじゃ!」

 

 

「いや、でもオマエ毎日着物ばかりじゃねェか、一年も同じ服着てたら、そりゃ蠅の一つでも湧いても可笑しくねェだろ」

 

 

「湧くか!!ちゃんと洗濯させておるに決まっとろう!第一同じ着物ばかり着てはおらんわ!三学期は白なり青なり異なる着物も着ておったろうが!無駄に優れた記憶力持っとる癖に何言っとるんじゃ!」

 

 

会話を始めて未だに一分とて時は進んでいないというのに、既に半泣きの心を相手に、見えない鞭の連打は一切緩められる事はない。

昼の休憩時間まで半分以上残っているのに、既に僅かしか残っていない弁当箱の乗る一方通行の机を、駄々っ子の様に叩きながら、心は顔を真っ赤にして彼に異議を申し立てる。

しかし、つい先日、言葉だけで川神百代に膝を付かせた彼の白い魔王を相手取るには、余りに足りないモノが多すぎる。

 

 

「……?」

 

 

「不思議そうな顔をするでない!わざとであろう!あっ、目を逸らすでない!そんな真剣に悩むでなぁい!!」

 

 

「……いや、オマエに関しての記憶を俺の脳が拒否してンだろォな。流石俺の頭脳、賢い」

 

 

「可笑しいじゃろ!! そなたの中での此方の扱いが雑ってレベルじゃないであろう!Sクラスの生徒ならば兎も角、あの下等な山猿共すらちゃんと相手する癖に、なんで此方ばっかりイジワルなのじゃ!?」

 

 

「……?」

 

 

「むっきぃぃぃぃぃ!!!また、またか!絶対わざとじゃろうが一方通行!」

 

 

時には辛辣な罵詈雑言、時には圧倒的な強者として羽虫を見下すが如き冷淡冷徹冷酷な眼差しで、時には絶妙なタイミングのスルーという、同級生の少女相手に向けるには余りに鬼畜の所業。

かの夜の女帝、板垣亜巳も感嘆と共に御見事と称賛しそうな、鞭と蝋燭のコンビネーションによる言葉責めに、心の精神は息も絶え絶えである。

 

そんな彼らのやり取りにゾッとしながらも固唾を飲み見守る者達に混ざって、別の意味で喉を鳴らして食い気味に見入る一部の紳士淑女も居たりするが、特に触れはしない。

薄桃色のプラスチックの花が幾つも連なったヘッドドレスを柔らかな栗色の髪に装飾した、クラスの委員長タイプこと十河は、唯一人、ハラハラと落ち着きなく慌てていた。

 

 

「まァ、わざとだな」

 

 

「開き直るでない!そもそも、この振り袖はファッションじゃ、高貴たるモノじゃ!故に高貴なる此方が高貴たる格好して何が悪いのじゃ!」

 

 

「論点滅茶苦茶ずれてンだろ、何処が高貴だ、オマエの何処が。第一、ファッションってのは季節によって色ンな着こなしをしてこそなンだよボケ。それをオマエ、飽きもせずに毎日毎日……着物専門店でマネキン代わりに一生ポージング取ってろド阿呆」

 

 

「にょ、にょわくそぉぉぉぉぉ!もう、もぉ、もぉぉぉぉぉ!!一方通行のいじわるぅぅぅぅ!!!」

 

 

鬼、悪魔、魔王、鬼畜、冷酷の大喝采。

全くと言って良いほど主導権を握らせず一方的に靴の裏で這いつくばる者を踏み抜く様なえげつなさに、驚異のメンタルで耐えていた心も、ついに音を挙げた。

 

ブンブンと風を切る程に両手を振るって彼に殴り掛かろうと殺到するも、凄く適当に、けれど的確に、一方通行の白く長い腕に頭頂部をがっしりと抑えられてしまい、渾身の反撃もただの駄々っ子パンチに成り下がる。

日の本に名前の響いた名家である不死川の一人娘と、そんな彼女を躊躇なく雑に扱う冷徹な悪魔、一方通行。

 

同級生同士の非常にシュールなやり取りに、流石の十河すら気の毒そうに閉口してしまった。

 

 

しかし、かつて日の本で最も長い幕府を開いた、かの偉大な征夷大将軍、徳川家康。

彼は苦難の嵐を堪え忍び、忍耐の末に栄光を掴んだ。

 

ならば、怒涛の毒舌や辛辣に耐えた不死川 心にもまた、奇跡が舞い降りても――可笑しくはない。

 

 

「しょうがないであろうがぁ、ふつーのファッションなんか知る機会なぞなかったんじゃもん……誰もファッションなんか教えてくれなかったんじゃもん……着物しか持っとらんもん……」

 

 

「……あァ?じゃあ買えば良いじゃねェか、オマエなら其所いらのブランドでも安いモンだろ」

 

 

すっかりと心を凹まされてしまった心が、グズグズと鼻を鳴らしながら、力なく彼の足元で塞ぎ込む。

かつて、彼女と最初にファッションについて口論となった昨年の夏よりもその落ち込みっぷりに拍車が掛かっていた。

 

 

実はあれから言い負かされた一方通行を見返してやろうと、こっそりと、少しは勉強しようとしたものの、先ずファッション雑誌を購入しようとしたが、女性誌ともなれば意外と種類が多く、取り敢えず心の付き人である従者に適当な物を一冊購入するように命じた、のだが。

 

付き人はしっかりと『ファッションの特集が載ってる雑誌』を命じられた通りサーチし、一番売れているらしい大衆雑誌を購入し、彼女に届けた。

意気揚々と鼻息一つ吐き出して、いざ、と部屋に籠って不死川 心は大衆雑誌を読み始めた、ここまでは良かった。

 

 

しかし、ファッションの知識など碌に無い心に、コートの種類一つ取っても非常に多い女性服の善し悪しなど分かる筈もなく、更に合間合間で挟まれる聞いた事もないファッション用語に疑問符を並べるしかない。

取り敢えずざっと見通しては見たが、元来着物にしか興味もなく、興味を持ちそうな女子の友達など居ない彼女に、結局ファッションの事を理解など出来なかった。

 

更に、大衆雑誌といえば『特集』以外にもコーナーがある。

フードグルメ、スポーツ、化粧品などなど。

 

 

そして、思春期の女子が興味を示す事といえば、異性との恋愛であり、その延長事。

性への興味であり、そういった悩みや睦事の体験談などが生々しく書いてあるページがあるのは、購入者のニーズに応える編集達の当然の判断であり。

 

 

幾ら高慢で高飛車な心といえど、思春期であるのなら、そこに動揺しつつも、ついつい目を通してしまうのは、もはや御約束と言えよう。

 

つまり、結論を言えば、ファッションの事など分からず終いで幕を閉じたのである。

 

 

無論、そんな背景など一方通行が知る筈もなく、又、知ったところでどうでも良いで済ませるだろうが、兎も角、彼の言うブランドなど心が分かる訳もない。

 

 

「……知らんもん。此方に友人がおらん事くらい知っておろうが、この鬼。ブランドなんて着物以外分からんのじゃもん」

 

 

「……筋金入りかよ。箱入りだろォが、オマエ一応女子高生でそれはどォよ」

 

 

「うるさいうるさい!一応は余計じゃ馬鹿者!どぉせ此方は友達もおらんブランドも知らん女子高生じゃ!悪いか!」

 

 

完膚無きまでに心を折られてしまったのか、いつもの気丈な彼女なら決して口にしないであろう、悲しい悲しい開き直り。

 

その余りの残念っぷりを見兼ねてか、凝り固まった選民思想を持つ心に僅かな苦手意識を抱いていた十河が、彼女自身、ファッションについては詳しくはないが種類くらいは分かるので、良ければ教えてあげようかと優しい決意と共に落ち込む彼女へと声を掛けようとした、その時。

 

 

容赦ない言葉の鞭を堪え忍んだ彼女に、漸く、奇跡という名の与えられた。

 

 

 

 

「……あァ、分かった分かった、仕方ねェな。ンじゃオマエ、明日の放課後は暇か?」

 

 

「この期に及んで嫌味か……暇に決まっとるじゃろう。習い事は週末しかないし、平日に遊ぶ友も……」

 

 

幾分か温度を取り戻したテノールが暇を問うが、もはや皮肉としか取れない彼女はふにゃりと崩れさせながらも、正直に自虐する。

しかし、彼の言わんとする事は恐らく嫌味だとかそういう事ではないと云うのは、十河がかつて心奪われた、穏やかな紅の瞳を見れば明らかで。

 

風向きが変わった、という何処かから漏れたギャラリーの呟きに呼応して、そっと春の風が一陣突き抜ける。

フワリと膨らんだカーテンのドレープが、どこか神秘的に、一方通行の背後を光の雨で彩った。

 

 

「なら、決まりだ。明日、オマエにファッションってやつを教えてやるよ」

 

 

「…………………………ぇ?」

 

 

聞き間違えかと思ったのか、それとも夢か幻かとでも錯覚したのか。

風に沸き上がって翻った白銀の髪に、春風に流れて横にずれたカーテンの後ろから差し込む光を背に受けた男の姿は、彼女の心を折る白い悪魔から、神託を授ける神々しさを纏った天使の様で。

 

我も忘れて見惚れた心の頬が薄く、徐々に広がって、やがて耳元まで朱紅が届くまでの長い静寂を終えて。

漸く、その意味を理解する。

 

 

「どっ、どどどどどどどういうつもりじゃ一方通行!?こっ、こなこなっ、此方に、え? ファッション?」

 

 

「ン。明日、放課後に……まァ適当に街にでも出りゃブランド服が置いてるとこくれェ幾らでもあンだろ――ただし、明日は制服で来い。まずはそっからだ」

 

 

「ほ、放課後……ま、街に、か。せ、制服……制服を、着てくれば、此方を連れてってくれると……?」

 

 

「さっきからそォ言ってンだろ。遠慮してェなら別に」

 

 

「い、行く!行く!行くったら行くのじゃ!い、今更冗談とか言うても遅いぞ!?」

 

 

「ハイハイ、ンでオマエ制服忘れンなよ、ちゃンと着て来い。まずはまともな服装してくれねェとコーディネイトし辛ェし」

 

 

「わ、分かっとるわ!制服じゃな、制服……明日の放課後……………………えへへ」

 

 

「……今、冗談っつったら面白そォだな、コイツ」

 

 

与えられた飴の至極の甘さに夢中なのか、だらしなく、ふやけて、そしてその場に居合わせた男子達の殆どを虜にしそうな、可憐な笑みで頬の緩みを隠せない心。

そんな彼女を見て、此処から突き落としたらどうなるか、と嗜虐的な笑みを浮かべる一方通行。

 

彼らは気付いていない。

というか、一方通行からしてみればただ単にファッションについて叩き込むという、ただそれだけのコト。

 

 

しかし、ギャラリーの面々からしてみれば、明日の放課後に行われるであろう事は、ぶっちゃけただの制服デートである。

大衆の面前で、恋人でもない相手にデートの約束を取り付けるスケコマシと、つい先程まで情け容赦なく泣かされていた相手に誘われて、破綻するほどに喜ぶドM。

 

なんというか、壮絶なプレイの末に普段のイチャイチャを見せ付けられている様な、そんな気分。

 

 

「虐め抜いてからの救いの一手、それを教室で平然とやってしまう……これがイケメンか」

 

 

「あぁ、やべぇ……不死川ってあんな可愛いのか……」

 

 

「エレガントチンク……恐ろしいです、僕にはあんな技、一生掛かっても出来ないですよ」

 

 

「不死川さん……えっ、これつまりデートだよね?制服デートだよね?えっ?」

 

 

「あ、やばい、胸焼けしてきた……誰かティッシュ、ティッシュ頂戴」

 

 

「なんで鼻血だしてんのよアンタ……でも、あぁ、羨ましい……あたしもコーディネイトされたい」

 

 

「私は寧ろあそこから突き落とされたい。嘘だよ糞虫って言われたい」

 

 

「うん、分か……えっ?」

 

 

「えっ」

 

 

案の定、ざわざわと空騒ぎ出す少年少女達。

もはや彼らの中では一方通行の浴衣姿など頭になく。

かくして一方通行は自身の気付かぬ内に、自分のクラス内での騒動を収拾し、また新たなる騒動の風を吹かせてしまう。

けれど、不死川 心は浮かれ切ってそれどころではなく、一方通行は明日のコーディネイトをどういった切り口で攻めて行くかのプランの組み立てに没頭している為に、彼らのざわめきに未だ気付けず。

 

 

「十河?十河ちゃーん?もしもーし?あ、駄目だこれ、流石の私でもフォロー出来ないわこれ」

 

 

「――――」

 

 

十河 、16歳、華の女子高生。

 

最近の悩みは想い人へのアプローチと家族以外で下の名前で呼ばれない影の薄さ。

 

一年生の春以来にずっと募らせている片想いの相手は、白く麗しのあんちくしょう。

 

ついその先程まで、そのあんちくしょうにデートに誘われた少女へと救いの手を伸ばそうとしていた、正真正銘の天使である彼女は。

 

 

「こんなの……嘘だよぉ……」

 

 

 

一方通行が全く意に介さない形で、心を折られてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『Nostalgia to you』__end










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