星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

24 / 40
以前、九鬼揚羽は九鬼の当主と書きましたが、訂正。ちょっと設定に無理が出てしまったので。
肩書きは九鬼家の軍部総括となります、すいませんでした。




.


陸ノ調『Velvet Kiss』

広く絢爛な、如何にも精巧に作られた光飾に張り付けた分厚い窓に、リズムを刻むように無数の雨達が貼り付いて、音に微睡んで静かに滑り落ちて、やがて一つになる。

透明な空を舞台に落ちていく透明な箒星の、手を伸ばせばいとも簡単に触れれる透明な小宇宙を流れる無色の流星群を、ベッドの隅に置かれたランプの仄かな燈が染めていく。

 

響く雨音は、けれど部屋を包む静かな空気すら微睡ませるように奏でられた旋律に溶け込んで、大きな薄赤の瞳をくりくりと丸めた少女の耳には届かない。

 

見詰める先は、目の前の綺白。

 

細く繊細な銀糸を集めた美しい髪を持つ小柄な乙女は、ベッドの上にペタンと座り込んだまま、エレキアコースティックギターを奏でる青年を、じっと見つめていた。

 

 

白く滑らかな肌をした、骨張った右手の指が弾く弦が、恥じらうように震えて音を鳴らし、弦を抑える左手がスライドする度にキュッと渇いた音が、少女の鼓膜を優しく撫でる。

絶え間なく彼方此方を動きながら、時には主旋律を、時には副旋律を、耳の五線譜に書き連ねて一つの曲へと導いていく。

彼の腰掛けたスピーカーから流れてくる甘く張り詰めて、けれどどこか苦い孤独の音の粒は、外の雨滴を、手品のように雪にすら変えてしまいそうだと思うのは、何故だろうか。

 

『クリスマスイブ』

何を弾くのか聴かせてくれるのかと、胸に溢れる期待感を隠そうともしないまま尋ねた少女――九鬼紋白に、苦笑気味に答えた彼が囁いた、旋律のタイトル。

 

恋をした事はないけれど、恋がどういう物かは知らないけれど、恋人達の愛を深める聖なる夜、クリスマスイブ、それはきっと素敵な曲なのだろうと。

けれど、奏でられる音の粒が、舞い落ちる姿の見えない雪と変えて、耳へと降り積もり、儚い情動に乗せて人指し指が弾いた弦の切ないハーモニスクが、彼女の開かれていた眼の瞼をそっと狭めていく。

 

 

――寂しい。

 

 

電光の燈ときなびやかな冬の街を通り過ぎていく人々の波を、俯いて、待ち焦がれるように。

暖かい、熱と柔らかさ包み込む服とマフラーの温度も、白んだ吐息と共に、徐々に離れていくように。

きっと来ない誰かを待ち続ける寂しさを、空から舞う無数の白い恋人達が隠していくように。

 

 

音の温度はあるのに、切なさと寂寞が真夏の雪のように幻想的な痛みと共に、心をキュッとさせていく。

初めて聴くはずなのに、どこか懐かしさを募らせるノスタルジックなメロディーの中から、紋白も聞いたことのある旋律を見つけ出した。

 

 

「――」

 

 

――確か、Kanonだったか。

 

九遠寺 森羅という、紋白の姉の友人の招待で訪れたコンサートで、楽団が奏でていた曲目の内、一際紋白の心に残った、メロディーの一部。

そういえば、彼の前で機嫌良く口ずさんでいた事もあったなと。

 

 

フレーズが過ぎ去る刹那に、ポツリと彼女の蕾のような小さな唇から零れ落ちたKanonの一言に演奏の手を緩めないまま、チラリと一瞥した彼の、紅い紅い、幻想の中でしか咲かない華の紅を宿した瞳。

細められたまま見詰める、父性の柔らかさの中に、してやったと悪戯めいた感情の色が浮かび、雪のようにあっさりと溶けて消えた。

 

 

――此奴、覚えておったのか。格好付けめ。

 

 

もしかしたら、この曲を奏でてくれているのは、その為なのかも知れないし、それだけじゃないのかも知れない。

構え構えと駄々を捏ねて強請った幼い自分に、決して蔑ろにはしてないから、と。

 

高音にそっと添えられた低音のビブラートが、じっとりとした余韻を残して、まるで照れ隠しの言い訳を宥めるように、甘く。

格好付けと評したけれど、格好が付いているのだから、ただの僻みにしかならないのが、少し寂しい。

 

背伸びをする自分をそっと見守ってくれている、彼女の傍に遣える執事の瞳の暖かな父性を、この青年もまた時折見せてくる。

分かり易い言葉にはしないけれど、こうして、ふとした拍子に見付けさせてくれる。

胸につっかえる母への寂寞を、慰める様に、埋める様に、後ろ手でくれる不確かな優しさ。

自分よりも歳上の癖に、父や姉や兄がくれる真っ直ぐな優しさとは確かに違って分かり難いけれど、積もった雪の中を掻き分けて見付ける宝探しの様に、そんな彼の見付け辛い優しさに触れる瞬間が、紋白は好きだった。

 

 

「――」

 

 

ギターケースを背負って、兄と同じ学生服のまま訪れた彼に強く飛び付いて、構ってと我が儘に接するのも、誰にも教えない彼女だけの宝探しを楽しみたいから。

苦笑して、自分からも頼むと頭を下げてくれた姉は、もしかしたら、そんな秘かな楽しみに気付いているのかも知れないけれど。

今こうして、紋白と同じように静かな追憶と共に瞳を細めて旋律に耳を傾けている執事もまた、気付いているのだろうけど。

 

 

思考に微睡む空白を、終演へと導く物悲しいアルペジオの余韻が毛布みたく埋めて、終わってしまったと暮れる心を淡く暖める。

フッと、蝋燭の灯りを消すような浅い吐息をついた白い貌が一層凛々しく見えて、興奮に頬を染めながら、麗しい奏者へ賛辞の拍手を送った。

 

 

 

 

「……うむ、良き奏でであった。我は満足したぞ!」

 

 

「ええ、私も傍遣えで失礼な身でありますが、大変に良いモノを聴かせて戴いた事に感謝を。しかしながら、ギター演奏にも覚えがありましたとは、いやはや、多趣味にございますな」

 

 

「そいつはどォも。まァ、紋白はともかく執事さンはもっと良いモン何度も聴いてンだろォに。まだ駆け出しの演奏なンざしょっぺェもンだが、笑わないで聴いてくれてありがとォよ」

 

 

どうやら、恥ずかしがっているのか、そっぽを向いてスピーカーの電源を切りながら頭を掻いている一方通行は、紋白の執事であるクラウディオの賛辞に気難しそうにしていた。

老齢の彼が苦手という訳ではなく、長い星霜を通り過ぎて尚研廉であるクラウディオからの賛辞、というのが擽ったいだけである。

だからこそ、耳をそっと朱めた一方通行は隠れるように顔を背けている事に老執事は気付いていたが、口角を綻ばせるだけで決して口にはしない。

 

 

「紋白、ではなく紋でいいぞ、一方通行。卑屈になる必要も全くない、我が太鼓判を押す!それにしても、音楽を嗜むようになったとは知らなかったぞ、何時の間に覚えたのだ?」

 

 

「……一年前」

 

 

「ほう、一年で此処までとは、駆け出しと笑うには拙さがまるで足りませぬよ。優れた才覚を御持ちだと常々思っておりましたが、芸事にも通ずるとは。久遠寺の皆様にも是非紹介させて戴きたいものです」

 

 

「勘弁してくれ、プロ相手に聴かせられる訳ねェよ。というか、執事さンの方が上手く弾けンだろ……俺の記憶が確かなら、楽器全般出来る筈だよな?」

 

 

「……いやはや、恥ずかしいですな、そのようなつまらぬ事まで覚えてらしたとは、光栄の極みでございます。ところで、一年前から始められてたと仰られていましたが、独学ですか?」

 

 

「いや、どっかのヘタレ男に教わってる。小心者だが、ギターの腕は確かだ。たまに川神の駅前で弾き語りしてンぞ、ソイツ」

 

 

「ほほう、あの一方通行の師匠とは。しかし、ヘタレとはどういう事だ?お前程の男の師であるならば、余程の者ではないのか?」

 

 

一年にしては、技巧は中々に卓越していると、一方通行の言う通り音楽にも精通するミスターパーフェクトことクラウディオはそう評価するが、確かに彼は一方通行よりも上手くギターを奏でる事も可能である。

しかし、音だけで魅せれる訳ではないのが、音楽の難しくも奥深い所。

彼より上手に弾こうとも、彼の様に遠い景色や追想を描かせるのは、簡単ではない。

どこか幻想染みた、現実離れした彼の美しい外見と、音を運ぶ度に魅せる表情こそが、一方通行の奏でる曲の一番の魅力であり、それは一方通行の師匠から受け継いだ感性でもあった。

 

そして、九鬼紋白は、一個の人間として尊敬している一方通行の、師匠なる存在に興味を示している。

ヘタレと他でもない弟子に称されている程度の人物が、師匠であるというのは如何なものか、と。

 

 

「あァ……ヘタレってのは、女が居る癖にいつまで経ってもソイツにプロポーズ出来ねェから、そう呼ンでンだ。無け無しの金で結婚指環まで買ってるのに、中々踏ン切りつけねェし」

 

 

「ふむぅ、プロポーズか……やはり男なら、ビシッと決めねばな!少なくとも我はそちらの方が良いな」

 

 

「はン、男作ってからいえチビ助が」

 

 

「失礼であるぞ、一方通行!我は形こそこうではあるが、心は立派なレディだ。そうであろう、クラウディオ」

 

 

「勿論であります、紋白様」

 

 

指環を用意してもプレゼントまでは結び付けれてないとは、なんと度胸の足らぬ男かとも思うが、紋白の様な特別な立場ではない者達とは色々と難しい事もあろうと、発破の声を一我慢。

しかし、おどける一方通行の失礼な発言は見逃す訳もなく、しっかりと淑女の一端であるとの主張は忘れない。

 

 

姿形こそ童女のそれではあるが、彼女とて年齢は高校生である。

今は九鬼の一族を担う者としての自己研磨の為に高校は休業中ではあるが、6月の後半には彼や兄の通う川神学園の編入すら決まっているので、チビ助という呼び名は許容する事は出来ない。

 

また、彼女の他にも、九鬼に関わるとある人物達も編入が決まってはいるのだが、一方通行を前にその話題は避けている。

紋白には分からないことだが、その者達の話をする度、何故だか彼はその表情を苦々しく歪めるのだ。

まるで遠い過去の古傷に爪を立てられ、苦しむ様に顔を背ける白い横貌は、強く賢く優しい彼がとても脆い存在なのではと錯覚してしまうかの様に、儚く。

だからこそ、極力一方通行の前ではその話題を避けるし、彼の兄も控えているらしい。

 

 

「それに、男がおらぬのは仕方あるまい。我の眼鏡に適う者もそうおらん。おったとしても、恐らくヒュームが許さぬであろうな」

 

 

「無論、私めも僭越ながら品定めはさせていただきます」

 

 

「あァ、あの猛獣か。クラウディオさンは兎も角、アイツはオマエを猫可愛がりしてっからなァ、オマエの男は苦労しそォだ」

 

 

何事も完璧にこなせる非常に優秀な執事であるクラウディオには敬意を示すものの、紋白のもう一人の付き人であるヒュームには含むものがあるのか、猛獣と評した一方通行の不遜さに、クラウディオは苦笑を禁じ得ない。

九鬼に遣える者の中で頂点に君臨する程の強者を相手にそこまで宣える若者は、恐らく彼ぐらいであろう。

 

その気概や類稀なる頭脳を持つ一方通行の事を、ヒュームもまた認めてはいるのだが、如何せん獰猛な性格が災いして彼には煙たがれていた。

しかし、紋白を何だかんだで孫娘の様に思っているヒュームの事だ、一方通行の言う通り、生半可な人間では紋白の隣に立つことを認めないであろう。

 

 

そう、例えば――

 

 

「な、ならば、一方通行が我の夫になれば良い。それならばヒュームとて文句は言わぬであろう」

 

 

「…………」

 

 

どうやらクラウディオの考えは、彼だけのモノではないらしい。

ほんのりと、妖精のように可憐な顔を赤らめた九鬼紋白の大胆な発言に、クラウディオは年老いて尚、清麗に光る空色の瞳を愉快そうに、微笑ましそうに細める。

 

幼稚で稚拙な、まだ恋も知らない乙女からのプロポーズ。

ただ、条件としては申し分無いことと、彼女自身一方通行を気にいっているからという、余りに若くて浅い想いの丈。

そんな彼女の幼さを呆れた様に、面倒臭そうに紅い瞳が細くなると、溜め息と共に細い指先の腹が彼女の額を、トンと付いた。

 

 

「せめて俺を惚れさせてから言え、だからオマエはガキだってンだ」

 

 

「むぅ……我を子供扱いとは、おのれ一方通行。しかし、許す、我がより大きく立派になれば良いだけの話だ!首を長くして待っておれよ!」

 

 

「はン、百年早ェよクソガキ」

 

 

ヒラヒラと投げ遣りに手を振って、深いワインレッドのケースの中へとギターを仕舞うと、挑発的に微笑む。

 

本来なら九鬼家を去った後に彼の師匠にギターを学びに行くつもりであったが、生憎の雨で中止になった。

その為に不要となったギターを弾く機会を作れた事には感謝してやってもいいが、何もかも許してやれる程寛容でもない。

 

仮に今後、紋白が彼に本物の恋心を抱いたとしたら、どうなるのだろうか。

心に幾つも楔を打ったこの男は、簡単に落とせるほどに一筋縄には行かないのはまず間違いないだろうと、クラウディオは理解している。

彼の遣える主が目下の白貌の者に恋した時、きっとそれは並々ならない苦難の道になるであろう、と。

どちらに転ぶかも定まらない未来をそっと偲び、クラウディオは静かに瞑目した。

 

 

 

――

―――

 

 

 

「ヘイ、ラビット。ついに観念して執事になったのか?それなら服はちゃんと着替えな。学生執事なんてのは、公私を切り替えなきゃ勤まらねぇぞ」

 

 

「うるせェクソメイド、いつ俺が執事になるなンて話になった。ンな事より手伝え」

 

 

「生憎今はラビットの監視役だからな、シェフ役は休業中だ。私としちゃあ未来永劫休業してぇがな、分量とか面倒だし。てか、ならなんでラビットは厨房で料理してんの?監視しろとしか言われてねぇから話が良く見えないんだが」

 

 

「……オマエンとこの御主人様に無理矢理頼まれたンだよクソが。英雄のヤツ、昨日の件を物の見事に忘れてやがってッ」

 

 

「あぁ、揚羽様か。ま、諦めな、それに九鬼の執事メイド全員分って話でもねぇだろ、楽勝楽勝」

 

 

「ったりめェだ、それならマジで帰ってた所だ。寧ろ今からでも帰りてェ」

 

 

「それをさせない為の私なんだよ。まぁ、こっちじゃ台所に立つ男はモテるらしいし、男を上げるいい機会じゃねぇの?知らんけど」

 

 

グツグツと煮えたぎるビーフシチューの香ばしい湯気を獣の様に女っ気なく嗅ぎながら、サッパリとした口調で彼に労りのない空っぽな言葉を投げ付ける長身痩躯の華々しいウィスキーブロンドの乙女。

仕草はサバサバとしながらも、痩せたウエストに男の視線を掻っ拐う大きなバストとヒップは充分過ぎる程に女らしく、白人らしい健康的な白肌と快活に輝くエメラルドグリーンの瞳が彼女――ステイシー・コナーの勝ち気な性格にマッチしている。

 

男勝りな口振りながらも友人の様に、疲れた眼差しでビーフシチューを掻き回している一方通行の肩に腕を回す辺り、その身に纏うメイド服の、所謂らしさは皆無といっていい。

けれど、そのフランクさもまた彼女の魅力なのかも知れないとは、ステイシーの友人である李 静初の言葉であり、九鬼家に連なる者達の殆どが同意する事ではあるが。

 

 

「おいクソメイド、邪魔だ。する事ねェならこれ混ぜとけ。焦がしたらあのクソ姉に報告すっから、ちゃんと見とけよ」

 

 

「えっ、マジかよ……っとと、ヘイ、ラビット!焦がすなって言ったってどうすりゃいいんだ、私はシチュー作った事ねぇから分かんねぇけど」

 

 

「底の方から全体に、じっくりと混ぜりゃいいンだよ……ったく、シチューすら作った事ねェメイドなンていンのかよ」

 

 

「クソッタレなトリガーハッピーをスレイするのは得意だぜ、昔の話だけどな。んでラビットは何してんだ?」

 

 

「見て分からねェのか、サラダ作ってンだよ、サラダ」

 

 

ひょいと乱暴に手渡された銀光放つレードルを慌てて両手で掴むと、彼の言う通り底から全体へゆっくりと、わざわざ両手のままくるくると掻き回している為か、ステイシーの女らしい身体も大袈裟に動く。

先程の一方通行みたく片手で、且つもう少し力を抜いて混ぜれば良いものの、作った事のない料理だからか、これがステイシーの主人達に出す事になる一品だからか、竹を割ったような性格である彼女でも、乱雑にとは行けないらしい。

メイドといってもやる事は戦闘か掃除か御茶汲みがメインである彼女に料理の補助は荷が重いのだろう。

 

 

気怠そうに制服のネクタイを緩めながら、如何にも匠の業物といった包丁とブリーチもきっちりされて真っ白なまな板を取り出す青年の白い白髪が翻る度に、キラキラと電光に反射して煌めく。

戦場に居た頃に見た、残酷な死地とは違って皮肉なほどに澄んだ星空の光にも負けず劣らない輝きに、つくづく女やってるのが馬鹿らしくなる、と。

 

 

ほんの意趣返しのつもりで、然り気無く高校生相手に語るべきではない話を投げ掛けた所で、予想通り表情一つ変えず、厨房の冷蔵庫から野菜を各種取り出す一方通行は、何だかんだいって顔付きが真剣である。

引き受けた以上の責任というよりは、単に料理に対しての姿勢が他よりも精錬されているのか。

つくづく、旦那というよりは、嫁になりそうな男だな、と。

 

 

 

「へぇ、切るの早いな。うちのシェフは星揃いだが、ラビットも負けちゃいねぇじゃん。そっちの道でも目指してんのか?」

 

 

「そォいう訳でもねェよ。オラ、手が止まってンぞ、焦げても知らねェからな」

 

 

彼のバイト先である対馬亭での調練の成果か、日々の積み重ねによる賜物か、目まぐるしいスピードで均等にレッドオニオンをスライスしていく手際に、ステイシーは陽気な口笛を鳴らす。

美人という言葉が釣り合わない程に美麗で中性的な外見に几帳面な性格、料理もかなり出来て、意外にも倹約家であるらしい彼は、ステイシーのいう通り、嫁とするにしても悪くないと思える程で。

 

家庭的な面も含めてこれほどの男は中々世の中にそういる訳でもないだろうから、彼女の遣える御主人様達が気に入る訳だと、改めて納得。

視線をまな板に向けながらも指摘する一方通行の言葉に慌ててレードルを掻き回せば、カラカラと喉を鳴らすテノールが耳の奥底を愛撫した。

 

 

――そうそう、この声もなんだよな。

 

 

外見もそうだが、この声もまた、妙に色気を感じるのだ、この男。

別に本人としては意識していないのだろうが、時折エッジの混ざるテノールの声は、油断していれば容赦なく魅惑的に耳を這う。

無意識の相手にその気にさせられている羞恥から相手を意識してしまい、その美貌と頼り甲斐のある男らしいステータスのコンボにクラっと来てしまうという、厄介極まりない魔性。

 

事前にある程度予防線を張っていないと並の女では直ぐに熱に浮かされるこの男の危険さを理解出来るのは、九鬼でも少ない方だろう。

ステイシー自身も、何だかんだ友人としては悪くないなと思ってしまう辺り、気を抜けない相手である。

彼の通う川神学園では、果たしてどれくらいの女達にその毒を振り撒いているのやらと、シチューの水泡を見詰めながら、憐れな名も知らない少女達に哀悼の祈りをそっと捧げた。

 

 

「ラビットってあれか? プレイボーイ?」

 

 

「……はァ? 頭沸いてンのか」

 

 

「いや、お前の事だから女たぶらかすのはお手のもんだろ? いっつも大人みてぇにクールぶってっから、溜まったもんキチンと出してんのかと思ってよ」

 

 

「おいコラ、脈絡もなく下ネタかよ、クソビッチが。盛ってンのかオマエ」

 

 

「誰がビッチだ。何だ、お前もしかしてチェリーなのか?そうだとしたら傑作だぜ。お姉さまが筆下ろししてやろうか?2000ドルで良いぜ」

 

 

「ご期待に添えず申し分ありませンねェ、一人で勝手にマスかいて干上がってろ淫売」

 

 

先程も軽い気持ちで肩を組んだ時、胸とか普通に当ててしまっていたが、さして動揺すらしていなかった彼は、ひょっとして大人びている所ではないのではと勘繰って、ステイシーからすれば軽いジャブ程度の探りだったが、どうやらそういう事ではないらしい。

風呂場の汚れでも見下ろすような、冷たさを帯びる紅い瞳に、マジに噛み付くなよと肩を竦める。

 

女性的な外見が祟ってか、ひょっとして衆道にでも片足突っ込んでるのかとも思ったが、以前にその手の話になった時、割と本気で一方通行を怒らせてしまった経験から、その可能性は削除してもいいだろう、と。

エメラルドの瞳がちらりと隣立ってレタスを洗っている青年の横貌を盗み見て、怪訝そうに細まった。

 

兎は性欲が強い生き物ではあるが、思春期の男もまたそんな程度だとステイシーは思っているが、彼の場合はそれに当てはまらないという事なのだろうか。

それとも、既に特定の女がいるのだろうか。

 

 

「でもお前、女いねぇんだろ?んで、確か女教師と――ドイツの猟犬とも暮らしてる、と。枯れてんのか」

 

 

「いい加減その下品な口を閉じろよ、なンださっきから、オマエに関係ねェだろ」

 

 

「いや普通に考えたら可笑しいだろ、只でさえ武神やら何やらに纏わり付かれてるって話じゃねぇか。それで良く欲情しねぇなって……私以外にも絶対枯れてるとか言われてんだろ?」

 

 

「…………」

 

 

「言われてんのかよ。ヘイ、オラ、どうよ、思春期の男なら多少なりとも興奮すんだろ、ん?」

 

 

「――はァ、オマエは」

 

 

周りにそんなに女がいて、全く手を出さないのはそれはそれで拙いのではと思ったのか、ビーフシチューを回す手を片方だけ離して、レタスを洗う彼の肩にピトッと寄り添ってみると、呆れた様な溜め息が返ってくる。

将来九鬼に遣えさせようとステイシーの主達が根強い勧誘を続けているのだ、一方通行が九鬼の傘下に加わる事がないとは言い切れない。

 

そうなって、同僚が枯れているというのは中々に格好付かないのもあるし、純粋に心配であるという面もある、一方通行からしたら余計な御世話にも程があるだろうが。

 

けれど。

 

数瞬の間を置いて、振り向いた紅の瞳は、獰猛にギラついた輝きを放っていた。

 

 

「俺が我慢してるとは――――思わねェのか?」

 

 

「――っ」

 

 

巨大な白蛇がヌラリと鋭い牙を並べて、顎を外す勢いで丸呑みしようとするかの様な錯覚に息を飲む。

お望みとあれば喰ってやろうか、そんな言葉すら聞こえてきそうな、血塗られた紅い瞳はとてつもない畏怖と狂色と、舌を這われる様な淫靡を強烈に放っていて。

 

伸ばされる、水道水で濡れてしまっている白い掌に、喰われてしまうと、脅威に対してはあるまじき行動であると分かっていながらも、ステイシーはつい瞼を閉じて背中を丸めてしまった。

 

 

「からかってンじゃねェよ、バーカ」

 

 

ペシンとした軽い痛みが額に走って、エメラルドがゆっくりと開けば、馬鹿にしたような嘲笑と共に紅い月が嗤うように彼女を見下ろしていて。

呆けているステイシーの事など興味をなくしたように、洗い終えたレタスをまな板の上へと置いて、オーブンの方へと遠退いていく白い背中。

 

男としてどうなんだと、妙な心配に駆られてつついた藪には、とんでもない蛇が隠れていたらしい。

 

 

――あの男はヤバいよ、色んな意味で。

 

 

以前、ステイシーの同僚であり長い付き合いにもなる腐れ縁の忍足あずみが、同僚達と良く行くバーの酒の席で呟いていた、不穏な言葉。

あずみの主である九鬼英雄が執心している一方通行の話題となった際、同僚の中で唯一川神学園に通っている彼女から見た一方通行の情報は色々とヤバい、との事で。

 

曰く、頭が良過ぎて寧ろイカれてる。

曰く、女侍らす癖に女心を弄ぶ悪魔。

曰く、歪んだ人間の集心装置みたいなヤツ。

 

曰く、曰く、曰く、曰く。

 

ポンポンと湧水の如く溢れてくる罵詈雑言に、明らかに御主人様を取られた女のみっともない僻みが混ざっている事はステイシーと李 静初も察したが、どれもこれもあながち間違っていそうである、と。

 

 

そして。

 

 

――惚れてる女は居るんだろうさ。時々、そんな生意気な面すんだよ、あのガキ。

 

やけに耳に焦げ付いたフレーズが、ステイシーの中に反芻していて。

 

 

「……あっぶねぇ」

 

 

流石に今のは不味かった。

ヒヤリと伝う冷や汗を拭うこともせず、紅眼に浮かんでいた凶悪な魔性に、まるでウイスキーをストレートで飲んだようにカッと熱くさせられた頬をぐしぐしと両手で解す。

油断してもしていなくても、気付いた時には手遅れにさせるとは、相変わらず油断も隙もない兎野郎だ、と。

 

ビーフシチューの鼻腔を擽る香りに慌ててほったらかしにしていたレードルを掴むと、先程の様にゆっくりと中身を掻き回して。

 

 

「……」

 

 

惚れてる女、ねぇ。

操でも捧げてんのか、似合わねぇ。

 

 

くるくると、手を休めずに、レードルを握る掌に、少し力が入る。

エメラルドの瞳が、どこか胡乱気な感情をそっとビーフシチューに溶かすように、ポコポコ浮かぶ泡沫を眺めていた。

 

 

 

 

――

――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

弓の弦を限界まで引き絞ったような荘厳に張り詰めた重々しい雰囲気を宥めるべく、余韻を引き摺って木霊する、皺一つでさえもまだ新しい刷りたての紙が悠慢に捲られる音は、どこか安堵へと導く清淑な子守唄の響きを孕んでいた。

絢爛なシャンデリアでは、古来の勤勉家を助けてきた月明かりの有り難みには届かないが、白空に低く浮かぶ二つの紅い月が無機質な文字群を見下ろす光景には不思議と神秘性を漂わせる。

 

静寂には隠し切れない熱の感情は瞳に映す事は出来ないけれど、例えば、唇を遊ばせたコーヒーの水面から伝わる、その先に見える誰かの熱苦しい想いの欠片をそっと見付ける様に、圧倒的な速読を得意とする目下の勤勉家の献身的な想いは確かに其処に在って。

 

護りたい人が居るのだろう、傷付けたくない人が居るのだろう。

自分の隣に立って、未熟ながらもかつての誓い通りに我武者羅に足掻きながらも護ってくれようとしてくれる男に比べれば、遥かに静かで遥かに手際良く、けれど誰かを護ろうとする想いを晒け出そうとはしない純粋さは、似ているけれど。

隣で、白い青年より滲み出た音もない緊張に引っ張られていつも以上に張り詰めてしまった従者は、嘘を赦さない自分を裏切るまいと常に想いを隠す事が出来ないけれど、未だに、時折思い出した様に頬を染めて照れてしまう。

それを未熟者と、渇を入れる事もあるけれど、擽ったい純粋さを可愛いヤツだと思える様になったのは、そう遠くはない昔のコト。

普段の何倍も時を掛けて読み終えた資料を手に、浅く吐息を吐き出した一方通行を見ていれば自然と気付くことが出来た、従者への想いは、自分ですら時々持て余してしまうのだけれど、それを恥ずべきではないと教えてくれたのは他でもない白貌の青年だった。

 

 

「我ながら力不足を痛感せざるを得ないが、それが今集められた情報の全てだ。蔓延る諸悪の根源に触れる有力な情報は、揃える事が出来なかった。すまぬな」

 

 

「揚羽様っ……」

 

 

「冗談でも、オマエが頭を下げるのは可笑しい話じゃねェか。多忙の中で時間を裂いてくれてンだ。頭を下げるべきは俺の方なンだよ。すまねェな、揚羽さン、小十郎さン」

 

 

「……そうか。ならばその気持ちは受け取っておく」

 

 

「一方通行殿の御気持ち、しかと此の小十郎めも受け取りましたァ!」

 

 

彼の背負った闘いを援助するには至らない結果に力不足を感じながらも詫びれば、それは余計な感情だと戒めさせる紅の双子月が、張り詰めた弓の弦の如くキリリと吊り上がる。

出過ぎた真似だったと苦笑気味に嘆息すれば、頭を下げた己の姿に心を乱された未熟者も安堵と共に、いつも以上に熱を孕んだ喝声にて意を糺した。

 

 

静淑に漂う紅の視線が見下ろす、アクリルのインクが無感情に記した、九鬼の情報網によって調査された、近日川神市内に乱雑に撒かれている違法ドラッグの商人達の、地域毎の分布データと拡散頻度と、彼らが如何にしてドラッグを仕入れているかを、判別出来た部分までの経路。

インターネットの秘匿掲示板を主に、流浪人の男から聞いた、詐欺グループの人間から流れてきた、直接取引き

をした、等細かく調べられてはいるが、その経路は時折長く、時折短いパイプを伝ってばら蒔かれており、結局は大元まで辿り着けてはいない。

 

狡猾に川神を這いずり回る厄介な悪意を掴めない苛立ちが、揚羽の深く澄んだ琥珀色の瞳に陰を差させる。

しかし、対面の黒革のソファに腰を埋めた白麗の賢人には少なからず掴めるモノがあったらしい。

暗雲を切り裂く鋭い賢明が、白銀の麗人の心の陰りを鮮やかに晴らした。

 

 

「……随分計画的に動いてやがる、と思わせてェンだろうな、コイツらは。計画的に準備して動いてるにしちゃァ、一貫性がねェ。単純に薬をばら蒔く、その上で尻尾を掴ませねェ、そう思う方が余程『らしい』ンだよ」

 

 

「……つまり、薬をばら蒔きたいだけの、愉快犯という事か?」

 

 

「違ェ、それは飽くまで手段の一手。ばら蒔かれている薬に対して、川神や警察がどォ動くか観察すンのが目的なンだろォよ。警戒するか大胆に排除に動くか、自分と云う脅威に対する反応が見てェのさ。だから、下手に暴れた所で掴めンは蜥蜴の尻尾が精々だろォな」

 

 

「計画の一端でも阻止しようと動いた所で水の泡、寧ろ此奴等の思うツボ……フン、気に食わんな。自分達の被害は必要経費として揃えられた劣兵、抑えられた所で幾らでも替えが利く、という事か。忌々しい」

 

 

「忌々しいのはそこだけじゃねェよ、九鬼軍事部門総括殿。もっと愉快に素敵でクソッタレな話だ」

 

 

精々がドラッグのマーケティングの流れと、小賢しく立ち回る愚者の見えない脅威を感じるしか出来ない自分とは違い、激情に身を任せる訳でもなく、冷徹に分析を行う白貌の深海の奥深さを思わせる深謀の見に、改めて凄まじさを感じる。

薄汚い鼠が捕捉されぬようにと狡猾に逃げ回っているだけだとは思えなかったが、その先にある相手の観察という思惑にまでは至れなかった。

 

 

「中指オッ立ててンだよ、コイツらは。川神だろォが九鬼だろォが関係ねェ、殺れるモンなら殺ってみろ、ってなァ」

 

 

「……愉快犯というのは、あながち間違ってないという事か。これ程までに我を虚仮にするとは、是非ともその面を割って制裁を加えてやりたいよなぁ、小十郎?」

 

 

「全く持って同じ心でございます、揚羽様ァ!その悪党、我らが正拳にて葬ってやりとうございます!!」

 

 

「応とも、良く吼えた小十郎」

 

 

一方通行の告げる、醜悪なる者共の、悪意の奥に秘められた唾棄すべきメッセージに、正道を汚された憤りが太陽の万物溶かす業火の如く燃え上がる。

清麗な美貌にどこか似合う激情を抱く揚羽の従者である小十郎もまた、その憎々しい思惑に憤りを隠し切れないらしく、強靭な気炎を吐くその気概に、揚羽は満足そうに頷いた。

 

だが、目下の青年はまるで何処か懸念する様に眉を潜めて、組んでいたスラリと長い脚に乗せていた白い手で前髪を手持ち無沙汰に弄っている。

深い深い思考の海を巡っている事を窺わせるその仕草は、九鬼揚羽にとっては余り反りの合わない女である、霧夜エリカの手癖と良く似ていて。

まだ、何か思い当たる節があるのだろう、そう確信と期待を、この白貌の賢人に抱かざるを得ない。

 

 

「……どうした、一方通行。遠慮する事はない、まだ何かあるのだろう? 我に申してみよ」

 

 

「あァ……だが下手に勘繰り過ぎれば、足を取られる要因になる。俺だけじゃなく、オマエまで嵌まっちまえば、後手に出ざるを得なくなっちまうかも知れねェ」

 

 

「……一方通行殿、ご安心なされよ。揚羽様は、その程度の器たる御方ではございません!例え後手に出ようとも、揚羽様の率いる九鬼ならば、直ぐ様悪し者共より先へと追い抜くであろうと、この小十郎、進言させていただく!」

 

 

「――応!! 誠、その通りだ。良い、良いな、小十郎。今日のお前は我を良く理解出来ている」

 

 

「勿体無い御言葉です、出過ぎた真似でございました、揚羽様ァ!」

 

 

「……後手に回る事自体が、避けなきゃならねェ事態なンだが……まァ、其処まで言われたら仕方ねェか。ただ、飽くまで現段階では憶測の域を出ねェ、話半分で聞いてくれや」

 

 

「フハハハ、心得た。では聞かせて貰おうではないか『アクセラレータ』、その頭脳で導き出した推論を』

 

 

 

精鋭たる九鬼を舐めて貰っては困ると長い白銀の髪がより一層映える麗人の不敵な笑みに、苦笑を混ぜた嘆息と、確かな信頼を寄せた紅い瞳が細くなる。

余計な懸念だと一蹴されては、揚羽と、従者の小十郎に少なからず恩義を感じている一方通行としては、この疑念を秘とするのは些か薄情なのかも知れない、と。

それに、仮に一方通行と九鬼が推考に足を取られたとしても、神算鬼謀の霧夜エリカという、保険しては余りに過剰な存在が彼の背中を支えているのだから、足を竦ませる必要も無いだろう。

 

 

「――フン」

 

 

かつて、その身に宿った神ならぬ神と、人智を超えた頭脳で以て君臨した者、アクセラレータ。

その名を冠した青年は、継ぎ接ぎの心に去来する感情を誤魔化す様に、鼻で嗤った。

 

 

 

「……コイツらの狙いは、川神そのもの。正確には、日本最高峰の武力集団である川神院という名の看板。それを政治的依り代としてカードを切れると諸外国の政権に思わせれる者達の、精神的、政治的保険を崩す事。つまりこの最高に愉快なクソッタレなクソ共の狙いは――」

 

 

「――総理大臣、或いは日本政府そのもの、と云う事かも知れない、と……待てっ、もしそれが仮定だとすれば、此奴らの正体は……」

 

 

 

「……あァ、そォだ、杞憂であるに越した事ねェし、確証も薄いがな。何処から沸いたかすら分からねェ、このクソッタレ共の正体は――」

 

 

随分前に小十郎が淹れたコーヒーは、すっかり温くなって苦味をより一層濃く、口の中を広がっていく。

苦々しさは、きっとコーヒーの所為だけじゃなく、胸の奥に燻った暗い感情が齎した、焦げ付いて離れない忌むべき情動。

浅く吐き出す吐息をそのままに、胸に巣食う鬱屈な闇ごと祓うように、強くカップを置いた。

 

 

――テロリストだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

――

――――

 

 

 

「冷めてしまったな……小十郎、新しいのを頼む」

 

 

「小十郎さン、俺の分も頼ンでいいか。クソみてェな話をしちまった口直しをしてェ」

 

 

「お任せあれ!」

 

 

宙に浮くシャンデリアの煌びやかさを何処か空虚に感じるのは、揚羽の苦手とする老獪な大人達の汚穢に塗れた暗い世界を相手にした後が常なのだが、彼の話から窺える途徹もない人の悪意もまた、清錬たる彼女の心を鈍く侵すモノであるのに変わりはない。

憶測に憶測を重ねた、細い仮定の先に導かれた、最悪の可能性は、如何に九鬼揚羽としても、ズシリとした重みを以て圧し掛かる。

 

途方も無い話だと一笑する事は、眼前の青年に対する信頼や、その鬼謀は虹掛かる程に澄んでいると認めた彼女自身の心が赦さない。

警察組織にもある程度融通を計らって動いて貰っているが、規模が規模、確証もないままでは彼らを動かす事も出来ないだろうが、警告ぐらいは出来るだろうと、彼女もまた今後の動きに思考を巡らせた。

 

 

「……まァ、ソイツらが動き出すのは、早くて夏だろォな。学生達が夏休みになれば、ドラッグ拡散の手段も増える。手数も増えりゃァ、大胆な手を打ち易くなる。混乱と迷走を駆け巡らせてェなら、その辺りが狙い目だが」

 

 

「ならば、まずは先んじて学生達に呼び掛けておくのも悪くないかも知れんな。親不孝通り辺りを監視するのはどうだ?」

 

 

「……親不孝通りには、もォ手を打ってる。監視するにしても、規模がデケェと余計な飛び火を招きかね無ェし、最低限で良い。学生達に警戒を促すってのも悪くはねェ、悪くはねェが」

 

 

親不孝通りを牛耳る板垣一家には、既にある程度ではあるが、協力を要請している。

万が一抱き込まれてしまえば事だが、自分を慕ってくれているあの一家に対する信頼も、少なからず有るから、杞憂として考えて良いだろう。

 

しかし、学生達に警戒を呼び掛けて予防線を張るという揚羽の提案は、内容としては必要な過程だと考えてはいる一方通行だが、白貌の脳裏に過る懸念の糸が、人形の操り糸の如く、是と頷く事を良しとしない。

 

 

学生達、というよりはある一派に対する懸念。

馴れた手付きで新しく淹れたコーヒーを、小十郎に小さく礼をしながらも口にすれば、その苦味に揺らされた瞳が、頭痛の種をそっと憂うかの様に細まった。

 

 

「正義感に駆られて無茶苦茶してくれそォなバカ共が一部居やがンのが、問題なンだがなァ……」

 

 

「ほぉ、流石は川神学園の生徒達だ。若くして気骨がありそうな事ではないか。どういう者達なのだ?」

 

 

「オマエが心残りにしてる猛獣女が加入してる仲良しコンテンツの連中だ、クソッタレ」

 

 

「我が…………あぁ、成る程、百代か。確かに、彼奴ならば止めても首を突っ込んできそうだな、うむ。フハハハ」

 

 

「笑い事じゃねェンだがな。幾らあのバカが付いていよォが、まだ学生なンだよ、あのバカ共は」

 

 

「フハハ、心配症なヤツ……と、言いたいとこだがな、確かに貴様の懸念も尤もだ。それに、他でもない御気に入りの一方通行が関わっているとなれば、形振り構わず貴様の力になろうとするだろうな、彼奴は。クク、性根はあれだが、あれだけの美人に纏わり付かれるのは満更でもなかろう、一方通行?」

 

 

「その性根に問題あり過ぎンだろ、アホ。唯でさえ暴走気味なポンコツ駄乙女もいンだ、駄駄馬の手綱の面倒は間に合ってンだよ」

 

 

「まぁ、そう邪険にしてやるか。乙女も姉として貴様の役に立ちたいと張り切っておるのだ、察してやらぬか」

 

 

目下の白麗を取り巻く幾つもの人の和。

連なり繋がりいつしか大きく広がってしまった、一方通行を中心とした者達の円環の1人と胸を張って答えるであろう揚羽は、彼に惹かれた乙女達の心をそっと擁護するべく苦笑気味に声を挙げた。

 

 

時には美しく現実離れした外見と仕草の端々に漂う妖艶さに、時には大人らしい大器を以て振る舞う彼の雰囲気に、そして。

傷だらけに成りながらも脇目も振らずに奔走する仔猫を目にしたような、息も詰まる無垢で無自覚な危うさに、保護欲と母性と、慈愛をいつの間にか抱かせる、継ぎ接ぎの心に惹かれてしまうのだ、誰も彼も。

 

 

本当に甘え上手な奴というのは、こういう存在の事を言うのだろうな、と。

面倒臭そうに、けれど優し気に手元のコーヒーの水面を覗き込む仔猫のようで、大人な白猫。

自分の心の気付けない場所の輪郭を、無意識に触れてくる彼のお蔭で、隣立つ小十郎への想いを自分なりに形にして飲み込む事が出来た礼は、しなくてはならない。

 

 

「……さて、となると学園の生徒達は、ある程度事情に通ずる者達が守ってやらなくてはならない。そう思わぬか、一方通行よ」

 

 

「ン、そォだな――取り敢えず俺と宇佐美巨人、忠勝……そンなとこか」

 

 

「足りん、足りんな。たかが三人では手が回るまい。そこに私の愚弟も入れてやらぬか、彼奴とて、『命の恩人』である貴様を慕っておるのだ。黙っていたとなれば、きっと憤慨するであろうよ」

 

 

「……アイツには、九鬼家の人間として学ぶべき事が山程あンだろ、此方の都合に巻き込むには、まだ」

 

 

「私の弟を舐めるなよ、一方通行。彼奴は……英雄は、その程度の事で躓く男では無い。九鬼を背負うべく立つと、他ならぬ貴様に誓った男だろう。それ以上愚弄すれば、貴様のその美しい横っ面に渇をくれてやるぞ、フハハハ」

 

 

「――――美しいは余計だ、このブラコンが……チッ、ハイハイ、分かった分かりましたァ。オマエの弟様にも力を借りる、此れで文句ねェだろ」

 

 

揚羽の弟である、九鬼英雄もまた、彼を囲う円環の1人。

二年前、自分の命の恩人であるこの者を救いたいと、悔し涙を流しながらも姉を頼った英雄の、負傷した片腕を庇いながらも血に塗れた少年を背負い瓦礫の山から這い出た、かつての光景。

思えば、あの時が九鬼揚羽と、目下にて拗ねたようにそっぽを向くこの可愛い青年との始まりであったな、と。

 

未だ、この不器用な白猫は、我らが九鬼一党にとって掛替えの無い存在であるという当然の恩義に、恥ずかしそうに目を反らし続けている。

だから、九鬼揚羽は、九鬼英雄は、九鬼紋白は、竹田小十郎は、九鬼に連なる多くの者共は、例え独りでも事を為し遂げようとするこの馬鹿猫を、決して離してはやらない。

 

 

彼が背負う、目を背けたくなるような十字架の山すら、同じく背負い、征服してみせよう。

彼が助けを願うのならば、必ずしも力になってやろう。

 

 

――その程度が出来なくて、誰が九鬼を名乗れるものか。

 

 

 

「あぁ、だが、まだ足りん。足りんな。だから、我も手を尽くそう。来月の頭に、紋白が川神学園に編入となる事は既に知っておるよな、一方通行。それに加わり、『四名』程、九鬼の手の者を回そうと思う」

 

 

けれども、自分もあまり器用な女ではないから。

 

 

「……あァ?誰だその四人ってのは。紋白の護衛でクラウディオさン辺りだろォが……あの野獣やステイシーのクソメイドも来るなンて事にはならねェだろォな、オイ」

 

 

「フハハハ、安心しろ、ヒュームは今回、父上と共に外国で最近上場してきた企業団体の情報収集に赴く手筈となっている。無論、その際には今回のテロリストグループの情報が転がっていないか探って来て貰おうと、後で上告するつもりだがな。クラウディオと、ヒュームの代役としてステイシーが紋白の傍付きとして登校する事になるだろうが、その四名には数えておらん」

 

 

その無数の傷に触れる事なく、抱き上げれる事は出来ないかも知れないけれど。

きっと、痛みに震える彼を、無理矢理に抱き上げる事しか、出来ないだろうけど。

 

 

「――――オイ、オマエ……」

 

 

どうか、怖がらないで欲しいと、願う事しか出来ないけれど。

 

 

「――そう、だ……一方通行。出来れば、で良い。無理にとも言わん、が……貴様が許すなら、貴様の力にならせてやって欲しい」

 

 

どうか、どうか。

受け入れて欲しい、その傷ごと。

受け入れてくれる、そう信じて。

身勝手な女の慰めでも、少しは力になるだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――武士道プラン。

 

 

 

 

 

 

 

かつて、彼がこれ以上とない痛みを堪えるように、胸を抑えた、計画の果て。

彼にとって忌むべき過去を準らう、尖った爪。

 

 

怯える様に開いた紅い瞳に、拭い切れない、拭う事すらさせない、紅いアカイ傷痕が、咲いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『Velvet Kiss』__end.






▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。