星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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漆ノ調『Plastic Lullaby』

――滴った数本の前髪越しに伝わった女の唇は、不思議な程に暖かかった。

 

 

王座もなく、王も居らず、仕える兵も、守るべき民も居ない、倒壊したコンクリートに築かれた儚く無情な冷たく暗い瓦礫の城。

砂利と埃と塵芥に塗れた粗末なベッドに力無く腰掛けていたまま見詰めていた暗い水溜まりを遮るように。

錆び付いた鉄の匂いも、塗れたコンクリートの匂いも、全部全部、消していく。

 

雨に濡れた筈なのに、水を吸って白い肌に張り付いた衣服も、まだ、少しも乾いてない筈なのに。

小さく怯えたように丸めた背中を抱き締める腕が、濡れた服越しに伝わる柔らかな身体が、寄り添う頬も、未だに残る唇の甘い感触も、その全てがこんなにも、暖かい。

 

 

目を細めてしまいそうになる日溜まりの香りと温度に、愛を恐がる心を包むベールが一つ一つ、剥がれてしまう。

逃げないでと背中に触れる掌が、震える身体を癒してしまう。

恐がらないでと伝わる彼女の心音が、張り裂けそうな胸の傷を溶かしてしまう。

 

 

 

『私には、貴方のような頭脳も、能力も、傷も痛みも無い。貴方が抱える苦しみも、罪の贖罪の仕方なんて分からない』

 

 

 

鼓膜を擽る声が、余りに情愛に満ちていて。

合間合間に途切れた吐息の温もりさえ、彼を抱き締めようと肌に落ちてくる。

 

こんなにも、こんなにも。

雪の様に降り積もる想いが、駄目だと叫ぶ自分を無視して、形になっていく。

 

 

『そんな私が言えるのは、きっと貴方にとって、呆れてしまうぐらい馬鹿げた綺麗事。ふざけるなって、思えるぐらいの綺麗事なんでしょうね』

 

 

此処に居るよね、と。

此処に居なくては駄目だ、と。

確かめる様に強く、強く。

回された柔らかな彼女の腕が、手が、加減を変えて、場所を変えて、けれど離れてはくれない。

 

 

『貴方が、許せないこと。貴方が、恐がっていること、全部』

 

 

虚ろだった瞳に光が灯ってしまう。

力なく垂れ下がった腕が、彼女の背中を回ろうとしてしまう。

震える声が、無様にも音を連ねようと、唇が震えて。

 

 

『私も背負うから。私も一緒に苦しむ。私も一緒に泣く。私も一緒に償う。私も一緒に、裁かれる。全部、勝手に背負うから』

 

 

嗚呼、駄目だ、駄目なのだ。

そんなこと、許されない。

そんなこと、許せない。

必要のない罪すら背負おうとする、無力な筈の彼女の言葉を。

 

――嬉しいなどと、思ってはいけない。

 

傍に居て欲しい、隣で笑っていて欲しい。

 

そんな傲慢な甘えは、許してはいけない筈なのに。

 

 

『きっと、出来るから。傷付いても傷付いても、歩こうとするならずっと傍で支えるから。貴方が貴方を許せなくても、それでもいいから。貴方が例え、自分を信じる事が出来なくても――』

 

 

愛したい、愛されたい。

 

そんな、ずっと、ずっと昔に諦めて耳を塞いで目を逸らした愚かな願い。

 

信じてしまいそうになる、極めて稀少で、幽かな想いを。

 

浮き彫りする、真っ直ぐな言の葉。

 

 

 

『私が信じてあげるから……そんな私を信じなさいよ、一方通行。そしたらさ――』

 

 

 

 

――自分だけの現実だなんて、寂しい事、言えなくなるでしょ?

 

 

 

 

分からない。

 

どうして、何故、そこまでして。

 

こんな自分を信じられる。

 

こんな自分を信じてくれようとする。

 

前へと、進ませてくれようとする。

 

前へ、進む事を許してくれる。

 

 

『……どうしてって、そんなの決まってるじゃないの』

 

 

震えた唇が、漸く紡ぎ出せた、たった一つの問い。

 

それすらも、日溜まりの温もりに溢れた、見惚れてしまうような、バラバラの心を溶かしてしまいそうな、綺麗な笑顔。

 

惹かれていた、焦がれていた、自分が好きな彼女の笑顔。

 

咲かせてしまえば、もう。

 

 

『私が、貴方の傍に居たいからよ、どうしても。愛しちゃってるのよ、こんなにも。だから、良い加減、観念しなさい』

 

 

バラバラの心は、彼女の小さな掌に繋ぎ止められて。

 

込み上げた感情が、遠退けていた筈の想いが、形作って。

 

涙になって、落ちて、堕ちて――

 

 

 

 

――

――――――

 

 

 

二つある星を一つの名前で呼ぶという事をあの丘で教えたのだと彼女に告げたいつかの記憶が、慰める様に、寄り添う様に脳裏に蘇る。

マンションのベランダから見える景色は雨滴が降り注ぐ事は無いけれど、星も浮かばない曇天の空は光の一つさえ見つけさせぬまま、追想に捧ぐ不細工な、想いの造花を嗤う様に見下して。

 

夜の葵も宵闇に染め、花弁を黒へと塗り潰された深夜の街並みには、数えれる程の僅かな灯りしか見当たらない。

人々の営みに寄り添い続ける光の粒も、今は静かに眠っていた。

ベランダの手摺に寄せた細い体躯を、春に募る雪色の髪ごと冷たい風が通り抜けて、けれど寒さが苦手な筈の白猫は、凍える様に身を竦ませる事もなくただ静かに。

 

 

霞んだ紅の瞳が眺めるのは、退屈そうに傾いた宵の朧月でもなく、分厚い曇の先で届かぬ幽かな光を放つ星でもなく、細く長い、血の紅の一つも染まらぬ、白々しい白い掌。

誰かを護り、誰かを愛し、誰かを救い、そしてそれに釣り合わぬ程の、余りに多くで染めた罪の証である事は逃れようもない。

 

 

「――――」

 

 

銃を向けたのは、自分達もまた同じだから。

自分だけを責めるのも勝手だが、私達が私達を責めるのも勝手な筈だ、と。

憎たらしい口調のまま、かつて己が葬った幾つもの彼女達と、同じ顔の少女にどこか苦笑気味にそう言われて。

誰に似たんだ、その憎まれ口は――と呆れながら何とか彼女達の言葉を受け止める事が出来たのは、紛れもなく自分を支え続けると寄り添ってくれた、日溜まりの女のお蔭で。

 

こうして世界すら越えて、あの時と同じように、抱き締めようとしている女の名前を呼ぶ。

随分と女々しい、我ながら。

言葉にならない自虐の思想が、惚れた女の指紋だらけの心にそっと爪を立てた。

触れていてくれた彼女の感触に、気付けばいつまでも縋り付いていて。

彼女が住まう心の部屋の電気を消す事すら、出来ないまま。

 

 

 

「……風邪を引くつもりですか、ウサギ。オマエは寒さに弱い脆弱な男と記憶していましたが」

 

 

「犬っコロが吼えるには、月が出てねェだろ。満月まで後半月も先だ、先走って威勢出してンじゃねェよ」

 

 

「オマエこそ、兎の癖に月が見辛い夜に月見とは何事ですか。餅を付くには舞台が整って居ないでしょうに、そんな薄着で何を酔狂な真似をしている。さっさと眠りなさい」

 

 

いつの間にそこに居たのだろうかと考えるまでもなく、口を付いて出ただけの憎まれ口に、振り向いてみれば、人の事を言えない薄い黒のタンクトップを纏った紅い麗人が気難しそうな表情を浮かべながら、腕を組んで一方通行を見据えていた。

普段着けている眼帯も外して、女らしい凹凸のラインが浮き彫りになる格好を隠そうともせず、肌寒いのか少し身体を竦ませながら、組んでいる腕の隙間に、暖かそうな毛布を抱いて。

 

 

「……オマエこそ、さっさと寝ろ」

 

 

らしくもない施しなどいらない、滅多にない気紛れなど余計な世話、調子の狂う様な真似はしなくて良い。

鬱陶しいと云わんばかり背中を向けて、それが好意の受け取り方の下手くそな、不器用な青年の照れ隠しだと知らないマルギッテは、御構い無しにその細い背中を見据え続ける。

 

柄にも無い事をしようとしているのは承知しているが、先に柄にも無い事をしていたのはそっちだろうと、言葉にはしないけれど、視線には感情を乗せて。

優しさも手渡してしまわぬ様にと広げた毛布を、背を向け続ける彼へと投げ渡せば、数瞬の思巡の後に低い舌打ちと共に、さも仕方無いと云った風情で素直に毛布を纏った。

 

 

可愛い所もあるだろうと、無愛想な男の姉がいつか呟いた事もあったが、可愛い等とそんな言葉が似合う男ではないだろう、と。

けれど、自然と緩む頬にはどう云った感情が寄せられているのかは、彼女自身の不器用さが理解を遮ってしまう。

素直にならない白猫と、素直になれない紅い犬。

似た者同士の意地の張り合いは、何時だって猫も犬も食べやしない。

 

 

「生憎ですが、機を見計らってベランダに向かうオマエの足音に目が覚めて、文句を言いに来てみれば、何を黄昏ているのです。お蔭で私の眼も冴えました、反省しなさい」

 

 

「俺がベランダで風に当たる事に文句を言われる筋合いなンざねェよクソ犬。勝手に起きて、勝手に眠気飛ばしたオマエのミスだろォが、責任転嫁もドイツの軍狗の御家芸だったとは知らなかったぜ」

 

 

蔑むニュアンスに不平不満を混ぜて紡げば、そのままそっくり馬鹿した様なニュアンスの罵詈雑言が詠われる、幼子すら閉口しそうな犬と猫の戯れ。

貼り付けた薄っぺらい悪意は所詮明け透けで、矛盾しか孕んでない言葉が擽ったい。

 

足音に目が覚めて、文句を言うのにわざわざ折り畳んだ毛布を纏うでもなく持って来たのは何の為なのか。

そんな子供にすら呆れられる程に明瞭な謎かけを、思考を巡らせるまでもなく解けてしまった青年のテノールはどこか熱を以て風に溶ける。

想いが形になってしまえばきっとこんな時、背中を向けていて良かったと安堵でもするのだろうか、と。

 

 

「……身体が震えているのは、寒いからですか」

 

 

「冷めてるからだろォよ、犬に喰わせても一つもつまらねェ感傷だ。放っとけ」

 

 

前置きなんて、今更要らないだろう。

脈絡もなく本題に切り込めば、悲しくも無感情なテノールが、驚くべき程にあっさりと、誤魔化しも濁す事もしないまま心を語る。

 

騙らぬ語りが、彼の強さ。

向ける背中は、彼の弱さ。

 

彼に放り投げた余計な世話に対する答えを少しずらして返す辺り、やはり素直ではない男だと。

感傷の痕を準うと伸ばした指先は、無遠慮な白い掌に遮られてしまった。

 

普段より幾分も遅くなってしまった夕事の席で、見えない何かを見詰めるどこか虚ろな紅い瞳に、気付いてしまったから。

同じように、寧ろマルギッテよりも当の昔に気付いていたであろう一方通行の姉は、何かを堪える様に、静かな視線を彼に向けていたけれど。

 

 

「……喰うか喰わないか等、犬が決める事、試しに捧げてみれば良い。噛み付いた物が多少苦い程度では、きっと狼狽える事もないでしょう」

 

 

「はン、ゲテモノ喰いとは恐れ入ったぜ。日頃何を喰わされてンだ、そのバカ犬は。味覚狂ってンのか」

 

 

「……生憎心当たりはありませんが、最近、少々舌が肥えたらしい。どこかの兎が調子良く腕を振るった所為でしょう、忌々しい事です」

 

 

「忌々しいと来たか……なら試してみるのも悪かねェ、味覚が矯正されでもしてンなら、御笑い草にしてやるよ」

 

 

振り向かぬまま、漸く朧月を見上げた青年の、括られない白雪の銀河が風に流れて、瞬いて、煌めいて。

幻想的な美しさと、月を見上げる白兎。

 

漸く『らしく』なったなと、本人も気付かぬ内に浮かんだ、彼に劣らぬ美しい微笑み。

紅い麗人は静かな眼差しでその後ろ姿を眺めながら、ひやりと冷たいベランダの窓へと白く細い背中を預けた。

 

そして、彼は。

 

 

「……オマエは、人を殺した事があるか?」

 

 

重く、重く。

かつて、マルギッテが尊敬の念を寄せる一人の父親が、他でもない目の前の青年に問い掛けた言葉が、瞳に映らぬ重みを以て、夜の空気に罪科の在処を囁いた。

 

 

 

「――有ります」

 

 

隠せる事でもない、隠す事でもない、特に、対面で焦がれる様に月を見上げる、この背中には。

微かに残った血と硝煙の匂いに気付く者は、血と硝煙に塗れて生きてきた、命を嗤う者達だけだ。

 

鋭く放った肯定の言葉に、誇りを添えて。

後悔はしなかったけれど、奪った命の感覚はいつだって彼女の事を見詰めている。

 

 

「軍の命令か」

 

 

「確かに、そうでしょう。けれど、軍の命令だから、と逃避はしていません。自分で選んで、自分の手で奪った。それだけの事です」

 

 

仮に逆らえば、罰せられていたから等と、言い訳はしない。

軍人として産まれ、軍人として育ち、軍人として幾つもの戦場を駆け抜けて、軍人として命を屠って。

それを当然なんだと受け止める程に強くは慣れなかった彼女は、せめて、自分で選び切るという茨の道を突き進んだ。

 

積み重なった罪科の残硝が築いたのは、女としての幸せも知らず、闘いを糧にしか生きれなかった狂人だけ。

人の命が塵芥にさえ等しい兵士達の揺り籠を駆け抜けた先には、なけなしの矜持しか残らない。

 

 

「後悔、してねェのか」

 

 

「えぇ、そうです、その通りです、兎。後悔はしなかった。強き者が刈る戦場で、弱き者を憂う弱さは見せられない。少なくともあの頃は――そう、思っていました」

 

 

後悔は無かったけれど、懺悔はした。

命を奪うという事の重みに耐えられない自分の、精一杯の自慰行為。

命の華が種子も遺さず散っていった大地で横たわった空虚な星の海に、怨み言の様に詫びた夜。

 

きっと永劫に瞼へと焼き付いた揺り籠の呪いに解放されたいと、何処かで歪んでしまった願いが、今も彼女を修羅に生きさせようとする。

命すら燃やしてしまうような強者との闘いを渇望して、心の何処かで終わりを願う自分が居るのだ、今でも。

 

その事を見詰め直せたのは、目の前の憎たらしい男が見せた、傷付きながらも前を向こうと足掻き続ける、あの夕暮れ時の放課後も少なからずあるのだという事は、決して話す訳にはいかないけれど。

 

 

「今では違うってか。まァ、あの御嬢様は眩し過ぎンだよ、もォ少し曇ってくれた方が、俺の眼にも優しいンだがな」

 

 

「あの真っ直ぐさこそが、私の御嬢様なのです。オマエの勝手な都合で曇って貰っては困ります。それに、居るのでしょうもう一人。眩し過ぎる程に優しい方が、直ぐ傍に」

 

 

「あァ、全く。一々沈ンでたらわざわざ追い掛けて来やがる、厄介なもンだ、本当に」

 

 

「……その意見には、素直に同意してあげましょう」

 

 

幽かに喉を鳴らしたソプラノに同調する様に、テノールの苦笑がそっと寄り添う。

近付けば近付く程に、触れれば触れる度に、紅い影と白い影の輪郭が似ているなと思えてしまう。

 

 

どちらも自分の罪に押し潰されそうで。

どちらも過去を引き摺る生き方が難しくて。

どちらも不器用で、傷だらけで。

優しさに怯えて、優しくする事を何処かで恐れてる。

 

けれど、恐れていた所で星の光はいつも、自分達を照らそうと眩しく輝いてくれるのだ。

自分にとって、生き甲斐となってくれる、大切な星が。

 

 

 

「それが、オマエの生きる理由か」

 

 

「えぇ、その通りです。オマエにとってもそうなのでしょう?『一方通行』」

 

 

「……悪ィかよ、『マルギッテ』」

 

 

もし、天国と地獄が本当にあったとして。

堕ちる先は一緒なのだろう、彼も自分も。

つくづく、似ている。

 

あぁ、だからか。

だから自分の上官は、彼の近くに居る様に命じたのか。

 

 

あの夕暮れの放課後で、目の前の白猫が最後に唄った、儚い約束が脳裏に鮮やかに蘇る。

遠く遠くの、届かぬ遥か、空に唄う約束。

 

 

――惚れた女との、約束がある。

 

 

「前を向いて、生きる事を。約束したのでしょう、オマエは」

 

 

「ハッ、オマエに言われてりゃァ、世話無ェな」

 

 

僅かな嘆息と共に、漸く振り向いた紅い瞳が初めて見せる様な優しさを伴って、浮かばぬ月の様にキメ細やかな雪原に揺蕩う。

世話を焼かせようともしない意地っ張りがよく言うものだと、不敵な笑みで応えようとしたけれど。

どうやら、張り続ける頑固な意地に耐え兼ねて、身体が先に音をあげてしまったらしい。

クチュン――と、余りに間の悪いタイミングで白い青年の耳に届いた、やけに可愛らしい乙女っぽい、くしゃみ。

 

 

「……はァ」

 

 

僅かな、けれど確かなセピア色の心配りのせめてもの御礼に良い女を演じさせて見るには、如何せん爪が甘い。

役者にするには二流だろうか、途端に弛緩してしまった空気に、けれど何故だか悪くないと思える自分が其処に居て。

手痛い失態に、白くスマートな顔立ちの頬を鮮やかな朱色に染めた残念な歳上だとも思いながら、武士の情けで最後まで気取らせてやろうか、と。

 

肌を包み込んでいた毛布を剥がして、悔しげに、若干物言いたそうに睨み付ける紅い視線を流しながら、細くも女らしい撫肩にそっとストールの様に毛布を巻いてやる。

今にも苦言の一つでも吐き出しそうに小刻みに震える唇から、ほぅっと安堵の息が零れた。

既に一方通行の肌の温もりで暖められた毛布に包まれているのだと考えれば、妙に意識してしまいそうになるマルギッテの細やかな抵抗感など、一々意に介してやる男ではない。

 

 

寒さに弱い癖に長袖無地の黒いインナーとジーンズという格好である一方通行もそうだが、男の前で肩まで肌を晒して、寒空の下で長話など、つくづく計算高くは生きられない女であるらしいから。

間抜けを晒してくれて有り難うと皮肉気に笑う白猫が、もう一度月を仰ぎ見る。

 

 

「……とんふぁーきっく」

 

 

「てっ……いやトンファー関係ねェだろそれ」

 

 

 

その格好のついた役者ぶりが填まって見えるのさえ悔しくて、首にぶら下がったドックタグを手持ち無沙汰に握り締めながら、ぺちっと情けの無い音を鳴らす、蹴りとも言えない動きで、背を向けた白猫の硬くしなやかなふくらはぎの部分に足を当てる。

 

痛くも痒くもないのだが、つい反射的に口を付いて出ただけの音をそのままに、張り合いの無い蹴りの技名に異議を唱える低いテノールに、口元を隠すように毛布に埋もれたまま、もそもそと、うるさいとだけ言って。

何処までも紅い麗人と似通っている癖に、紅い犬と白い猫の夜会という名の舞台で、この白猫だけ綺麗に立ち回せるのは癪だと思ったから。

フェアではないまま終わるのも、対等でないまま流すのも許しはしないと、灰色に分厚い雲に千切れた朧月を見上げながら、紅い犬が鳴く。

 

 

「どういう女性だったのですか。オマエの、生きる理由は。聞かせなさい」

 

 

「あァ? ったく、まだ喰い足りねェってか。ゲテモノ喰いにも困ったもンだな」

 

 

もう、傷を隠すのも今更だろうと。

星の見えない夜は気分が良い、あの揺り籠の日々も無理に振り返しもしないまま、平静に過去の事を話せるのだから。

だから今夜は特別なのだ、きっと夜が明けて、太陽が昇ってしまえば、それだけの誰にも語られない御伽噺。

童話の本にして言い聞かせる物でもない、手垢のついた良くある話。

人が前を向いて生きる為にきっと必要な、過去を乗り越えた経験談。

乗り越えれた気でいたいだけの、紅い犬と白い猫の、一時の傷の舐め合いなのだから。

 

 

「どうやら、苦いと構えていた割には、そうでもなかったらしい。というか、オマエが自分の事を話さないのがいけない。結局、感傷に触れられたのは私の方ではないですか」

 

 

「犬の頭には説明し辛い経緯なンでな、人間様なりの配慮だ。まァ、オマエの察してる内容を五割増しぐれェで丁度良いクソ具合だ、とだけ言っといてやる」

 

 

彼が、一方通行がどれ程の罪科と後悔を重ねているのか等、マルギッテは今更言われるまでもない。

鮮血と硝煙に生きてきた彼女もまた、無数の命を貪った獣であると云う点だけは確かである。

だから、その白い傷痕には、触れなくても良い、話さなくても良い。

 

けれど、その傷痕を今も癒しているであろう約束だけは、恥ずかしい想いでもしながら晒して貰おうか、と。

紅い麗人が静かな微笑を浮かべて、ほぅっと吐息を空に溶かす。

白にすら染まらなかった無色の息吹を、そっと一陣の柔風が抱き締めて飛び去った。

 

 

「捻くれ者のオマエをそこまで想える程だ、きっと心の広い女性だったのでしょうね」

 

 

「どの口が言いやがる、同類が……チッ、まァ、確かに俺には到底勿体無ェ、良ィ女だったよクソッタレ」

 

 

明日はきっと寝不足になるのだろう。

彼も、自分も揃いも揃って。

どうせいつもの様に瑠璃色の夜明けに目を醒まして、顔に似合わない甲斐甲斐しさで朝食と弁当を用意して。

目元の隈を隠し切れない理由は、誰にも話さないのだろう、きっと梅子にさえも気取られないように立ち回って。

 

 

――馬鹿な事です。とっくに気付かれていますよ。

 

 

月を見上げる男の隣りまで、少し隙間を作って、同じように月を見上げる。

上手く隠れ切れてない鈍い金色に、喉元まで競り上がった欠伸を聞かれぬ様に噛み殺して。

 

夜がまだ、葵の華を咲かせていた頃に。

らしくもなく余裕を無くした白い背中を見詰めていたマルギッテに、彼の保護者がそっと近くまで歩み寄って。

耳元で、小さく囁いたのだ。

 

 

明日の朝食と弁当は私が作るから、今日は早く寝るとする。

味については、一応最善を尽くすけど、失敗しても許してほしいと。

 

小生意気な、妙に似合ってないけれど、何だかホッとするようなウィンクも添えて。

 

あぁ、そうだ、つまりは自分も白い横貌も、役者としては二流に過ぎない。

きっと舞台は、あの優しき姉の一人勝ちだろう。

 

この無愛想な、けれど確かに時々可愛い所がほんの少しあるかも知れない白猫を、支えようとする女は、誰も彼も、良い女ばかりで。

だから、時折、その優しさに苦しそうにするのも、あんな良い女に支えられる税金みたいなモノだと、肩の力でも抜いたら良い。

 

惚ける訳でもなく、きっと心底惚れているのだろうと思える様な、静かな情動。

愛を知って、哀に果ててしまった、琥珀色の想い出話。

犬も喰えない話だけれど、眠くなるまで、聞いておいてやる。

不遜でちぐはぐな気高き紅の狼の矜持を、眠たそうに浮かぶ千切れた月がそっと笑った。

 

 

 

 

――

―――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

木枯らしの向こう側、月が揺らめいた。

 

桜はずっと遠く彼方に花弁を散らして、行く先を追えば、通り過ぎた夏の名残と、秋の枯葉のざわめきが耳に届く。

春は桜、夏は若葉、秋は葉崩れ、冬は寂しがる枝の先に孤独を雪が咲いたこの丘で。

二つある星を一つの名前で呼ぶと教えた場所だと、星を指し示さない彼の言葉を、横顔を、いつも思い出す。

 

 

 

「やっぱり此処か……風邪、ひいちゃうわよ」

 

 

「……今日は、星が綺麗だから、つい。探させちゃった?」

 

 

「いんや、全く。だって、吹寄さんが居そうな場所って言ったら、此処かラストオーダーとアイツの所しかないじゃない」

 

 

放ってしまえば、どこかの誰かを追い掛けて消えてしまいそうな儚い背中から、目を逸らすように少し陽気に振る舞って、御坂美琴は声をかける。

どんな季節でも、気付けばこの場所で、遠い遠い眼差しで星屑を見上げている、美しい乙女。

 

飽きる事なく、星を想う彼女の横顔はいつだって綺麗だ。

自分の想い人が、あの朴念人が、ついそんな彼女の横顔に

見蕩れて頬を染めていたのも、無理はない。

 

誰かを想い、支え、隣りに立ちたいと願い続ける儚い横顔は、まるで散り行く桜を眺めているかのようで。

静かに、綺麗に、揺れる夜空を見詰める色を薄めた黒の瞳は真っ直ぐ過ぎて、その在り方は余りに美しい。

 

 

優しく、そして綺麗になった、とても。

恋をして、哀しながらも、愛し続ける黒髪の美女を、彼女ともそこそこの付き合いの長い朴念人は、どこか悔しそうにそう呟いていた。

美琴もまた、そう想う。

こんなにも純粋に人を愛せるのだと言うことを、いつも背中で謳う彼女に憧れて、少し髪を伸ばしているぐらいだ。

 

 

「……で、アイツはまた、どこほっつき歩いてんの?こんな美人を一人にしとくなんて、危機感ってのが足りないんじゃない?」

 

 

「心配かけて、ごめんね、美琴さん。多分、私に気を遣ってくれているのよ。何も言わないで送り出してくれるのよ、いつも」

 

 

「……危機感が足りてないのは、貴女もでしょ、吹寄さん。全く、どいつもこいつも」

 

 

「ふふ……そうね。本当に、どうしようもないわ」

 

 

例えば、桜を美しいと想うのと同じことだと。

精一杯、魅せるだけ魅せつけて、刻になれば散っていく。

その潔さが綺麗で、そして僅かな憧れを背負わせる。

 

手を伸ばして触れる事は出来るのに、桜の様な彼女が想い募るのは、いつだって白い大地の上。

この場所でいつも、いつも。

それを知っているから、彼女を遮る事は出来ない。

美琴も、朴念人も、ラストオーダーも、美琴の云う、アイツも。

 

 

本当に――どうしようもない。

 

 

馬鹿ばかりで、泣けてくる。

 

 

想う彼女も、止めないアイツも。

 

 

誰も止められなかった、『アイツ』も。

 

 

 

「――」

 

 

彼女の足元にある、形ばかりの石碑に、手に持っていた花束をそっと置く。

 

一度も彼女が花を添えない、冷たいだけのただの石の十字架。

 

 

石碑を見ることもせず、いつも星ばかりを探している、儚い乙女の代わりに、御坂美琴は花を捧げる。

 

シオンと、クロッカスの、花束を。

 

 

――ねぇ。

 

 

――アンタはちゃんと、幸せだった?

 

 

 

言葉にすれば、きっと軽い。

紡がれない言葉の代わりに、花束のクロッカスがそっと風に靡いて。

 

流れるのは、風立ちぬ――甘い屑。

 

 

 

 

 

『Plastic Lullaby』

 








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