星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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拾ノ調『Shadowglaph』

頬を寄せたカウンターテーブルのヒヤリとした温度とアクリルを敷いたスベスベとした感触が、微睡みを加速させる一方で、ほんのりと帯びた桃色の酒気を奪っていく。

薄暗な店内で世の中の世知辛さに項垂れるサラリーマンの様にだらしなく、モデル染みた体型と豊かな蜂蜜色のブロンドという男性からしたら涎垂する程に妖艶な美女がカウンターで酔い潰れていた。

耳元を擽る、和風な店構えには少しミスマッチなインストは、絶世の美女こと霧夜エリカが眠っている間に既に途絶えていたらしい。

 

霧雨を濃くした靄に外枠を埋められた視界の端に映る、細いアンダーから百合花みたく上へ上へと広がるお洒落なロックグラスの底に浸された琥珀色のウィスキー。

ジョニーウォーカーのブルーラベル。

エリカのオフィスの酒蔵ラックに保存してあるグレンフィディックの55年モノと比べれば、庶民的であり値段も安いウィスキーだが、芳醇で重々しい味わいが癖になるくらい、彼女もお気に入りの一品。

 

澄んだ琥珀の揺り籠に浮いたロックアイスの立体的な満月が、吊り下がったモダンチックな淡い照明の灯火に愛撫されて、大きな月の廻りをキラキラと星屑が煌めいている。

幻想的な扇情さが花の香りに誘われた蝶が蜜を吸うように、握っていたちっぽけな琥珀色の夜を手繰り寄せて、エリカの薄くグロスで彩めた蟲惑的に艶めく唇がグラスの縁をチロリと舐めた。

 

舌先で遊ぶだけでは物足りないと、角度を変えて光輝くグラスを傾ければピリッとした苦味と喉を焦がす強いアルコールの感覚が、男を誘う淫靡の様な熱い息を吐き出させるが、酔いを深めてはくれない。

老舗風の店主が、エリカの為に毎度毎度仕入れては、食後に注いでくれるウィスキーには、味だけじゃなくて、情念や懐旧でもって酔いを深めてくれるから、彼女はこの店の料理以外にも楽しみの一つとしている。

 

もっと高くて、もっと綺羅びやかで、もっと美味しい所は在るには在るけれど、エリカの求めているのはそんなものではない。

美味しいに越した事はないけれど、浸れる思い出と、浸れる酒は、彼女にとってこの店だけでしか味わえないから。

そして、彼女が暇を見付けたり仕事で鬱屈した気分になる度に目敏く通う理由は、もう一つ。

 

 

「良い加減にしねェか」

 

 

もう一口と、優雅さも気品もない体勢で再びグラスを傾けるしっとりとした女の掌を掴む、無骨と麗美が混在する真っ白な男の手。

調理の度に冷水で清めているからか、矯声が漏れそうな凍てつきと、冷たい雪が溶ければ春が来る様に、徐々に追い掛ける確かな温もりが親愛を浮かばせる。

ハスキーに掠れ掛かった、微睡みを誘うには丁度良いテノールの心地好さは、耳に擽ったい。

 

ピアノと管楽器の奏でるインストはもうすっかり聴こえないが、それならばこれを揺りかごにして眠りたいな、と。

ロシアンブルーの花が目蓋に覆われて、花弁を閉ざそうと視界は仄暗い白の闇へと移ろうとするのを、ペシリと額を打つ鋭い痛みが遮って。

 

 

 

「いったぁ……ちょっとぉ、眠る淑女を起こすなら優しく揺するなり甘いキスをするなり、相場ってのがあるでしょ?」

 

 

「毒林檎食わされンなら考えてやる、オラ、いつまでも寝てンじゃねェよ」

 

 

「なによー私が酔っちゃったのだって、一方通行の持ってくる案件が面倒で疲れちゃったのが理由なのにぃ」

 

 

「オマエ酔ってる時の事を覚えてねェのか。思いっ切り見合いがどォのとしか言わなかったンだが」

 

 

「酔い醒ましに何か欲しいわね。御通しとか余ってない?」

 

 

「話逸らすンじゃねェよ。つゥか店仕舞の時間なンだよ、さっさと帰れ。良美さンと――このポンコツ連れて」

 

 

「むふふぅ、おっきくなったなぁ弟よぉ、お姉ちゃんは嬉しいぞぉ」

 

 

身体のラインがハッキリとした生地の薄い黒のカッターシャツに前掛けと、家庭的な雰囲気は白髪と紅い瞳という端から見ればヴィジュアルバンドのメンバーの様な容姿にはちぐはぐながらも、意外と板に付いている格好の一方通行が、その細身の背を顎で促す。

線の細い華奢さと角々とした男らしさをブレンドした一方通行の背中に貼り付いて御満悦に表情を崩しては、その豊満で清麗なメリハリの有る肢体を惜し気もなく押し付けている、健康的な色香を放つ女性、鉄 乙女。

群青色のショートカットとダンディライアンの瞳は普段の凛々しさを欠片も帯びずに垂れ下がり、レディスーツを通した腕を一方通行の首に絡ませている彼女の頬は、エリカよりも余程分かり易い程に酔っ払っていた。

 

 

私生活面に自堕落さが見え隠れするエリカに、何かとだらしがないなと、女としての隙を見付けては身辺整理と説教を織り交ぜて叱る乙女の姿は見事に霧散している様相に、麗人の美貌は呆気に取られて少女らしさを帯びる。

けれど、きょとんと愛らしい間抜けさを晒したのは一瞬で、次第に格好の玩具を見付けたチェシャ猫の笑みを浮かべるエリカに、一方通行は嫌な予感を抱かざるを得ない。

 

 

「おやぁ……?もしかしてぇ、照れちゃってたりする?何よ何よ、可愛いとこあんじゃないの」

 

 

「うっぜェ……面白がってねェでコイツ何とかしろや。オマエらの所為で閉店作業進まねェンだよ。なごみさンは良美さンの介抱で手が離せねェし、対馬さン一人に任せてる状況なンだよオラ」

 

 

「大丈夫よ、対馬クンなら。それよりもさ、乙女さんのおっぱい気持ち良い?柔らかい?弾力有る?ねぇねぇねぇ」

 

 

「もォ死ねよオマエ、ただのセクハラ親父じゃねェかクソッタレ」

 

 

「赤くなっちゃってぇ……ま、そのくらいは許してやる甲斐性見せなさいよ。中々会えなかったから寂しがってたのよ、先輩」

 

 

「……ホントォにこの駄乙女は、いつまでも弟離れ出来ねェのな」

 

 

「むぅ?離れるぅ……?駄目だぞぉ、駄目だ、もう離してやらんかなー」

 

 

 

中々と云っても精々一ヶ月と少し程度なので一方通行からしたら、殆ど最近にも思えるのだが、対馬レオの弟離れが出来ない余りに一方通行を弟と見立てて構いたがる残念乙女からすれば、堪える程に長く感じていたらしい。

清潔で凛とした空気を纏う健康的な美女なイメージだが存外に寂しがり屋な気質である乙女は、馴れない酒にまんまと意識を泳がされ、気付いた時には白い青年の広い背中にべったりと、といった経緯なのだが。

 

自分の心に残るとある女と一々重なる面の多いこの乙女相手では流石に女性を意識せざるを得ないらしく、腹の立つチェシャ猫からプイッと顔を背けた雪肌に朱色が差せば直ぐに分かるのだ。

柔らかい胸の感触、動く度に鼻孔を擽る石鹸の爽やかな香り、首筋を這う熱い吐息は、鬱陶しいと思わせながらも理性を削られてしまうのも、仕方ないであろう。

 

いつぞやにステイシーに絡まれた時も白状した様に、一方通行は単に強靭な理性で抑えているだけで、実際は女を意識していない訳がない。

女性の身体の柔らかさと本能的な熱情と快楽の渦を、彼とて既に経験していたのだから。

 

 

「お姉ちゃんだぞ、ほらほらぁ」

 

 

「……はァ、埒があかねェ」

 

 

一方通行の心情や理性等まるで考慮せずに強く抱き締めようとする酔っ払いに嫌気が差したのか、スルリと腕の中で身体を捻らせて抜け出し、既に片付けて置かれる物も無いカウンターに泥酔した乙女を雑に放る。

身体を捻る際に胸元のピンポイントが擦れたらしく、甘い矯声を挙げた乙女に一瞬ちゃっかり意識を削がれたりしたものの、漸く自由になったと細く白い首をごりっと解して溜め息を一つ。

 

 

「うぅぅ……酷いじゃないかぁ」

 

 

「はいはい凹まないの、私の胸で泣く?貸すわよ?揉むけど」

 

 

「いやだ、姫は弟じゃない。揉まれるのもいやだ」

 

 

「チッ、やっぱりガード堅いな乙女先輩。酔ってる今ならチャンスだと思ったのになぁ」

 

 

「……どォでも良いが、帰り支度しろよ。閉店時間過ぎてンだよとっくに」

 

 

店内に流れるBGMは当の昔に切ったし、外の看板の照明も切ってあるし、既に暖簾も外してある。

壁に立て掛けたレトロ仕様の時計は既に午前へと差し掛かろうとしており、閉店時間も過ぎたので、エリカと乙女、客室でなごみに介抱されている良美以外の客は一人として居ない。

 

エリカの手によって無理矢理飲まされた乙女と、ストッパーたる良美も潰された時点でこの未来は見えていた店主こと対馬レオは、仕方なさそうに苦笑していた。

対称的に呆れながらも黙々と作業をしていた対馬なごみは、一足先にバイトである一方通行を上がらせようとしたのだが、彼は気にしなくて良いとこんな時間まで乙女の介抱をする事になる。

無論、既に彼の保護者である梅子には事情を説明してあるので問題は無いが、心配症な義姉を早く安心させる為にも閉店作業を進めたいという実情である。

 

 

「……そういえば、前に言ってた子達だけど。いつになれば目利きにさせてくれるのかにゃーん?あのツンデレ一方通行が相当優秀って言うから、ずっと楽しみにしてるんだけど」

 

 

「さァな、彼奴次第だ。つゥか誰がツンデレだクソッタレ」

 

 

「いやぁ、でも貴方見てるとつい、昔居たツンツン娘を思い出しちゃうのよねぇ。まぁ分かり難さで言えば貴方の方に軍配が上がるけど」

 

 

懐かしい高校生時代を思い浮かべながら、ニヤニヤと厭味らしい、某ツンツン娘ならばトサカに来るとでも憤慨しそうな笑みを貼り付け、指先でクルクルとロックアイスをグラスの中で弄ぶエリカ。

どうやらエリカの中でツンデレというカテゴリーに分類された一方通行にとっても、腹の立つ笑顔である事は同様であるらしい。

分かり易かろうが難しかろうがどうでも良いが、ツンデレと称されるのは許容はしたくない、只でさえ時折彼は周囲に素直じゃないとかデレが少ないとか言われているのだから。

 

 

「まぁ、その分かり難さに気付いた時が、一番危なかったりするのよねぇ、一方通行の場合」

 

 

「あァ?何が危ねェってンだよ」

 

 

「決まってんじゃない。そういうのに女は弱いの、知ってる癖に。被害者、十人は超えてるってのが私の見立てだけど」

 

 

「――チッ、ピロートークしてェなら余所で男を引っ掛けろ。此処は飲食店だ」

 

 

「逃げるんじゃないわよ、甲斐性なし。本当は分かってるんでしょ、何もしなくても、女心は傷付くもんなのよ」

 

 

「碌に男も居た事ねェやつが良く言う」

 

 

「男は作った事ないけど、恋の一つはした事あるのよ。私の場合は、遅過ぎたけどね」

 

 

「……フン」

 

 

淡い日々の感傷を流し込む琥珀のウィスキーをグラス越しに見詰めて、そんな当の昔にケリを付けているだろう話を、今更自分にされても困る、と。

恋破れた女に慰めを掛けてやるつもりも無ければ同情もしないが、隠し事を秘め続けて揺蕩うアイスブルーを素直に綺麗だと、そこだけは認めておく。

 

恋をしたと気付けば、その相手には恋人が居て。

割り切って蓋をした感情を笑い話に出来るくらいには、無意識に予防線を張っていたのだろう。

けれど、霧夜エリカの独白は彼女の指摘する通り、一方通行にとって他人事だと白霧に溶かす事は出来ない。

もしかして、ではなく、ほぼ確信に近いが、一方通行を男として求めている女の事が分からない程に、彼は人の心に疎くはなくなったのだから。

自分の心が向かう先に気付いて、焦がれながらも耐えて独り傷付いている女は、確かに居るのだから。

 

 

「ほんと、いつまでも割り切れない男ねぇ。その癖、賢いんだから救えない。どっかの誰かみたいに鈍感になれれば良かったのにね」

 

 

「……賢い訳ねェだろ。バカみたいに縋るから、こンな無様をいつまでも晒しンだよ、クソッタレ」

 

 

「……胸、貸しましょうか。少しくらい、スッキリしたら。縛られ続けるのは、辛いんでしょ」

 

 

「楽にはなれねェよ。簡単には」

 

 

きっと、かき集めた誰かへの記憶が、いずれ邪魔になるんでしょうから、と。

自分に向けられる女の心を受け取るには、縛られるモノが多いんだろう、と。

最近、どこかそんな一方通行の苦し気な徴候を密かに勘付く事が出来たのは、この場では霧夜エリカぐらいだろう。

 

母性を携えた美貌に微笑みを添えて、泣くくらいは良いじゃないかと腕を広げてみても、予想通り甘えては来なかった。

静かに見えない傷を浮かべて自嘲する紅い瞳はどこか痛ましく揺れ動く青年の、雁字搦めに絡まってしまっている行き場のなさに、虚しさすら思わせる。

 

例え一時の癒しを見付けた所で、その場所を素直に安らぎとして捉えて身を委ね切れない臆病者な白い猫。

離さないように抱き締めても、本当にこれで良いのだろうかと落ち着きなく尻尾を揺らして、思考はいつも蜘蛛の糸みたく張り巡らして。

 

だから、彼に傾注している女が我が儘にでも求めれば良いのだろうけど、不幸にも彼に惹かれる女は誰も彼も賢いらしい。

 

 

「厄介よね、恋って。自分のモノなのに自分の思い通りに動かないし、勝手に居座る、勝手に傷付く。金の回りの方がよっぽど分かり易い」

 

 

「高校生気分が抜けてねェらしいな。こっ恥ずかしい話してンじゃねェよ、顔洗ってこい」

 

 

「そうするわ、酔ってたって事にしといてくれる?」

 

 

「――どォせ明日には忘れてンだろォから、気にすンな」

 

 

明日には忘れるような言葉なら、その苦々しく思い詰めた様な表情は隠せばいいだろうに。

 

いや、隠し切れないんだろう。

元々ポーカーフェイスは得意だった筈なのに、今はそんな余裕もないぐらいに、縛られている。

彼を支えている、彼の心を抱き締め続ける、誰かに。

 

 

「……さて、よっぴーの胸でも揉んでやろうかな」

 

 

適当な事を紡いで振り向けば、宙に浮いた照明をぼんやりと眺めている白い横貌。

楽にはならないとは言うものの、寧ろ、楽になりたがらない、そう思ってしまう。

どんな出会いと、どんな別れをしたのだろうか、分からないけれど。

 

 

当に春は来ているのに、雪解けは、まだ遠い。

 

 

 

 

 

 

 

――――

――――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 

 

 

 

 

空虚な街路を渡り歩けば、無機質な靴音が伽藍堂に広がる工場地帯を独りでに木霊を繋げた。

薄雲掛かった月も、わざわざ見上げるにはどうにも不気味めいて、感情に巣食う悪寒が秀麗な銀光を褪せさせる。

一歩前に身体を進める度に心地良く弾むポニーテールとは裏腹に、翳りを差し色にした白貌は沈んだように表情が堅い。

 

手元を見れば、仄かに明るい携帯画面に広がる、一件のメール。

あまり遅くなるなと、淡々と短く不必要な絵文字も並んでない文面だが、内容の端々に差出人の心配症っぷりが目に見えてしまい、少しだけ一方通行の口角が綻んだ。

 

続けて次に受信されたメール画面には、梅子に心配かけるな、速く帰ってこい馬鹿兎と記された文面。

クソ犬と表示された差出人の名前を白い指先がツーっと辿りながら、何とも微妙な表情を浮かべる。

いざと云う時の緊急手段として必要になる可能性が微粒子レベルで存在するかも知れないからと、改まって聞くのも恥ずかしいのか頬を染めてマルギッテが連絡先を尋ねてきたのは、昨日のこと。

憎まれ口は相変わらずだが、多少なりとも互いの過去を晒けただけあって、精神的な距離は以前と違って少し近くなっていた。

しかし、そんな彼女から寄越された一番最初のメールの内容がこれとは、大したご挨拶だな、と。

 

売り言葉に買い言葉で、さっさと寝ろと短く可愛げもない返信を終えて、送信ボタンを――押し掛けたところで。

 

 

「なんだ、思ったより元気そうじゃねぇか。クソガキ」

 

 

「ニートに言われたかァねェな。寧ろまだ生きてたのか」

 

 

「誰がニートだ、ちゃんと働いてんよ。バイトだけどなっ」

 

 

「胸張って言える事かよ馬鹿野郎が」

 

 

拭っても拭っても、壁に染み付くタールみたいな低く這い寄る禍々しさ。

敢えて牙を立てて威嚇する様な嫌味たらしい嘲笑が似合うのは、ポケットに手を突っ込んだまま目の前に立ち塞がる男が光を好まない気質故だろうか。

釈迦堂 形部、元川神院師範代と物々しい看板を背負った目付きの悪い男の囀りが、端々に闇を纏わせている事に、一方通行は違和感を感じた。

 

かつては無職ながらも光当たらぬ道を歩き続け、何かと影を纏いながら暗躍をしていた面倒な存在だったが、今では改心でもしたのか、この生半可ではない狂気を滲ませる中年は、牛丼チェーン店でバイトに精を出している筈だ。

それが、いつか対峙した頃と同じ狂笑で、一方通行を鋭く見据えている。

どこか退くに退けない切羽詰まった、彼に似合わない焦燥感を携えて。

 

 

「お前こそどうしたんだよ、一方通行。携帯画面見ながらニヤニヤするなんざ、童貞拗らせた高校生みてぇじゃねぇかよ。こんなに近付いても気付かねぇとか、そんな間抜け晒す男だったか?弛んでるねぇ」

 

 

「ご挨拶じゃねェか、クソ野郎ォが。修行不足が祟って獣臭ェ殺気も抑えられねェか。牛丼ばっか食って情緒不安定かよ、釈迦堂ォォクゥゥン?」

 

 

「牛丼ディスんじゃねぇ、っと、殺気出てたか。悪ぃな、そこまで威圧するつもりは無かったんだがよ」

 

 

「……で、態々メールまで寄越してなンの用だ。いきなり呼び出すなンざ気色の悪ィ真似しやがって」

 

 

惚けながらポケットから手を取り出してはヒラヒラとさせて心にもない侘びを呉れた刑部に、自然と一方通行の腰が低くなる。

仕事終わりに届いていた、知らないアドレスからの呼び出しのメール。

そこに綴られた場所の指定と名前を無視するには、この男の存在は彼の中で小さくない。

どこか、かつて一方通行と対峙した刺青顔の研究者と、放つ禍々しい雰囲気が被るこの男には、如何に今、光の道を歩いていようと危機感を抱かざるを得ない。

 

 

最近は殆ど姿を見せなかった彼が、態々彼らしくもない手段を用いてまで一方通行を呼び出したかった理由。

裏の仕事にも関わっていた刑部が語りたい内容が、川神を脅かそうとしている狡猾な邪気に関わる事ではないのか、と。

けれど、その方がまだマシだったのかも知れない。

少なくとも、今の一方通行にとっては。

 

 

「お前よ、亜巳の事、抱いてやらねぇのか?」

 

 

「――は?」

 

 

さっきまでピロートーク染みた会話をしていたエリカが、刑部に変装でもして続きをしようとか、そんな意味不明な悪戯を持ち掛けて来たのだろうか。

一方通行にしては珍しく唖然と口を広げて、根拠もない矛盾も孕んだ世迷い事を本気で考えてしまうくらい、予想だにしない言葉だった。

そんな彼のレアな様相に溜飲が下がったのか、ケラケラとタロットに描かれる悪魔のカードにそっくりな悪意のある刑部の狂笑は、真意を霧のように掴ませない。

 

 

「くはははは、んだよその顔は。百代とか天使にも見せてやりてぇぜ。俺の言葉が分かんねぇのか?ん?」

 

 

「……嘗めてンのかオマエ。悪戯してェならハロウィンまで待ってろや、クソッタレが。こンな深夜に呼び出してまで、何とち狂った事ほざきやがンだコラ」

 

 

「おーおー、折角のイケメンが台無しだぜ、一方通行。まぁ、テメエにとっちゃ巫山戯た話にしか聞こえねぇだろうがよ、マジで聞いてんだよ俺は」

 

 

「……なンでアイツを抱く抱かねェって話がオマエに関係すンだよ。惚れてンのか?」

 

 

「そういうんじゃねぇよ、惚れてる女は別に居るしよ。ただ、アイツら一家は俺の弟子で、まぁ……ちょっとした家族みてぇなもんだ。だからよ、父親みてぇな事をしてやるのも、たまにはいいか、って思った訳だ」

 

 

板垣一家の武術を仕込んだのは、他でもない刑部である事は一方通行も知っていたし、特に秘匿にする必要もない。

確かに刑部もだらしないながら彼なりに亜巳達の面倒を見ていたし、そんな刑部を彼女達も差はあれ慕ってはいる。

極稀に賄いの牛丼を幾つか持って板垣家に訪れた刑部と、たまたま天使に付き合わされて訪れていた一方通行が鉢合わせた事もある。

だからこそ、刑部が亜巳達の父親面をしたところで一方通行としては納得出来る、似合わないとは思うが。

 

 

その彼が、父親らしく動いてみたいと、そう発言した意味を噛み砕いて解釈すれば――つまり、この男は。

世話を焼きに来たのだ、恋に苦しむ亜巳の世話を。

娘をたぶらかして宙ぶらりんにしたまま、何もしない男に真意を問いに来たのだ、彼は。

場合によっては、その拳を振るう覚悟を携えて。

 

 

「……抱かねェよ。アイツの気持ちに答える訳にはいかねェンだ」

 

 

「なーに言ってんだクソガキが。パッと抱いてやりゃ良いじゃねぇか、難しく考えてねぇでよ。親贔屓を抜きにしても亜巳は良い女だろ?」

 

 

「違ェよ、そォじゃねェ。アイツが俺なンかには勿体無ェくれェ良い女だって事は分かってンだ」

 

 

「あん?じゃあ問題ねぇだろぉが。いつまでもグダグタやってねぇで答えてやれ、クソガキも亜巳の事は悪くねぇって思ってんだろ?あんな良い女を――いつまで独りで惨めにさせてんだよ、あ?」

 

 

「――」

 

 

吐き出した吐息に剣呑と凄まじい狂気が混ざって、空気がズッシリと重みを伴って一方通行の細い肩に圧し掛かるが、それよりも胸にナイフを突き立てられた様に刺さった刑部の言葉に喉を詰まらせる。

 

いつまでも、独りで、惨めに。

 

生々しさを侍らした文句が、刑部の憤りをハッキリと伝える程に響いて。

その言葉の意味が分からないほど幼くも無ければ知識不足でもない。

刑部が何故そんなことを知っているのか、それとも只の憶測なのかは分からないが、問題はきっとそんな些細な事ではなくて。

 

 

「いつまで――どこにも居やしねぇ女の影を追い掛けてやがんだ。女々しいぜ、一方通行」

 

 

「……っせェ」

 

 

「過去に浸る俺カッコイィー惚れちゃいそうだぜぇ、ってか?洒落くせぇ、目を覚ませや。遠くばっか見てねぇで隣を見ろや」

 

 

「……るっせェよ」

 

 

ガツンと頭をハンマーでぶち抜かれた様な衝撃だった。

亜巳から向けられている視線にそういう色が無いなんて鈍感な振りも出来ず、こんな情けない自分を女として支えようと傷付きながらも足掻く亜巳の気持ちを、心理面の洞察に優れる今の彼が知らない筈なかった。

 

かつて、気付いてあげる事すら出来なくて、放ったらかしにして傷付けてしまった一人の少女を思い出す事すら恐がって蓋をした記憶が、振り返す。

好きだと言われて、初めて相手の感情に気付けて愚かな自分を恥じて、応える事すら出来なかった自分を恥じて。

だからこそ、人の心の奥深くまでを察せれる程にまで変わった自分は……想ってくれる相手を傷付ける結果だけが変えられない。

 

 

「うるせェンだよ……」

 

 

『やっぱり、気付いてなかったのですね、第一位様は。でも、良いんですの』

 

 

「知ってンだよ、クソッタレ。俺が、満足に女を幸せにすら出来ねェ程の情けねェ男って事くれェ、知ってンだ」

 

 

『知ってましたし、何処かで諦めてましたの。けれど、やっぱりこの想いだけは、知っておいて欲しかったんですの』

 

 

気付けなかった、想い。

惚れた女を幸せにしたいと願う自分から逃げもせずに、真正面から想いを伝えてくれた、とある少女。

 

あの時の胸の痛みに耐えられなくて、今もまだ、少女に対する追憶すら恐怖を覚えて、臆病な心の儘に蓋をしてしまった滑稽な自分。

また繰り返すのか、切り裂かれる様な痛みを、ずっと苦しませてしまった事を悔やんで、細く震える身体を抱き締める事も出来ない無力さを、また。

 

 

「自分に嘘の一つも付けねェ、クソッタレなチキンな男だって、呆れ返って嗤えるくれェに……」

 

 

『優しい第一位様ですから、きっと気に病んでしまうと分かっていました。恨んで下さって構わないんですの。でも、どうしても……』

 

 

 

 

 

「――とっくに気付いてンだよ、クソッタレがァァ!!」

 

 

 

 

 

『――黒子が第一位……様っ、お慕、してる事、伝えたかったんですの。ごめん、なさ、い……第一位、様っ』

 

 

余りに綺麗に、余りに痛ましく、戸惑いなく真っ直ぐ大地へと墜ちて行く、かけがえのない感情の雨。

俯かせて、謝罪を述べる彼女を抱き締めてあげたくて、それすら出来ないのだと、そんな資格は無いのだと知って。

何も出来ない、何もしてあげられない。

あんな想いをもうする訳にはいかないと、相手の感情を理解する事に神経を回すようになって。

結局、結果は変えられない。

あの日の様に、目の前で泣いている人に、何も出来ずに――

 

 

 

「それでも、亜巳は惚れてんだ。絶対に勝てないと分かっていながら、諦め切れねぇんだよ。俺はそんな娘の姿を見てられる程、物分かりが良くねぇんだ」

 

 

「……」

 

 

「だからよ、こっからは実力行使だ。無理矢理にでも、亜巳を抱くって言わせてやるよ。きっと亜巳には、ぶっ殺されても文句言えねぇだろうがな」

 

 

「……っ」

 

 

「行くぜ、構えろや――クソガキ」

 

 

狂気が、牙を剥く。

 

 

 

 

――――

――――――――――

 

 

 

 

 

「オラァ!!」

 

 

闇より深い黒の旋風を纏った鋭い腕の降り下ろしが、音を鳴らして視界の端より飛来する。

重心を水平に保たせながら半歩引いて狂気が通り過ぎれば、刃に似た鋭利さを伴った風圧が肌を覆う。

死神が降り下ろした鎌は一打ではなく、連撃。

 

理解はしても、予測は出来ても、だからと言って回避出来るのも当然、という公式は成り立たない。

いや、その公式すら押し潰されそうな心の傷に歪まされて、導いた数式が酷く曖昧で朧気に感じてしまう。

けれど、死神がそんな心情を考慮する事に期待する訳にもいかない彼は、何とか次の攻撃への回避体勢を整える。

 

 

「っ、地の剣!!」

 

 

「ッ――」

 

 

拳の降り下ろしから繋がる、振り絞られた弦から放たれた弓矢の如く胸元を穿たんとする、蹴り上げ。

旋風と烈風の息を吐かせぬ連撃は、川神流を受け継いだ彼ならば繰り出しなれた奥義の一つ。

かつて、刑部と闘った事が一度だけある一方通行だが、その両撃ともまるで精度が錆び付いてなど居ない。

 

寧ろ、より鋭く、より速く、より荒々しく。

修行を疎かにしては口酸っぱく叱られたと川神院にいた頃の話を、刑部自ら話していた光景を思い出すが、どうやら彼はバイトの傍ら、確りと鍛練を行っていたらしい。

とんだ嘘つき野郎が、と毒づく暇などなく、再び弾丸すら可愛いレベルの拳の連打を紙一重で回避する。

 

 

「ッらァ!」

 

 

「おっとぉ」

 

 

拳の弾丸を掻い潜れば真横一文字に放たれる蹴りを潜り込んで、そのまま低く地に下ろした重心をバネの容量で上体に移行して、回し蹴りを放つ。

しかし、小島梅子に武術を習っている立場とはいえ、刑部の様な達人すら可愛く見えるレベルの武術家に通じる訳もなく、余裕の笑みさえ浮かべながら揶揄うように腑抜けた声を上げながら、大きく後ろへと跳躍する刑部。

 

いつかのグラウンドでの行った、クリスとの決闘とは訳が違う。

冷静で居られない心境、脳裏に築かれた彼のデータを確実に凌駕する実力の変動、何もかもが違うのだ。

悔し気に舌を打ちながら、一方通行もまたその場から大きく跳躍して、工場現場のカラーコーンに巻き付いてあった長い鎖を手に取った。

 

そのまま勢い良く鎖を振るって刑部目掛けてコーンを飛ばすが、その程度、刑部にとっては児戯にも等しい。

呆気なく拳一つで、プラスチックの塊は木っ端微塵に吹き飛んだ。

 

 

「はん、何だそりゃ、武器のつもりか?」

 

 

「……」

 

 

「つかお前、前みてぇな滅茶苦茶な動きはどうしたよ。地面滑ったり風圧飛ばしたりよ。ネタの仕込みでも忘れたのか?」

 

 

「チッ、ごちゃごちゃうるせェ野郎ォだ。オマエは相変わらずお喋りだなクソッタレが」

 

 

無茶苦茶な動きとは、かつて、一方通行が百代やクリス、そして刑部を戦闘不能に陥らせた、彼らからしたら不可思議であろう、特異な能力。

しかし、今の一方通行は一つとして、その切り札たる異能を使用する事なく、純粋な武術と計算予測と、異常な動体視力を始めとした六感を駆使して刑部と対峙している。

 

事実、使えば直ぐに終わる。

それほどまでに反則染みて、人間離れし過ぎている力なのだが、一方通行はそれを使う事を拒絶していた。

否、迷っていた。

力の儘、釈迦堂刑部を叩き伏せて、それで、どうなるというのか。

 

何が解決する、何が救われる、何を救える。

 

今の自分に、何が出来るというのか。

 

 

「かーわーかーみ……」

 

 

「ッ!!」

 

 

迷っている男と、迷わない男。

躊躇する男と、躊躇しない男。

意志の強さは、いつだって戦況を左右する事は、理解出来てはいても。

 

 

「波ァァァァ!!!」

 

 

「ッ、の……出鱈目がっ」

 

 

鋭く向けられた掌底から放たれる膨大な気は、もはや物理法則など存在しないとさえ思える様に、失速する事もなく銃弾の如く真っ直ぐに空気を切り裂きながら一方通行に飛来する。

気という概念は兎も角、それが質量を伴って破壊を齎すなどという事象は余りにも現実離れしており、自分の能力を棚に挙げて毒づいた一方通行。

視線は刑部に固定したままに回避すれば、轟音と共に粉塵が舞い散り、唐突に夜に訪れた蜃気楼が、一方通行の背後に蔓延した。

 

 

「弓取りッ」

 

 

「ズァッ……ってぇな――おぅっ!?」

 

 

膨大な気を放出した所為で隙の生まれた刑部へと鎖を鞭の様に払えば、その一打は伸ばし切った彼の腕に届くには届いたが、鎖の性質故か遠心力のインパクトが弱く、深い一打とは行かない。

しかし、一方通行の狙いは腕を絡み取り、手に持った鎖を踏んで彼の体勢を崩させ、そのまま『能力』を使用して、疾風の如く速さで刑部の元まで手を伸ばして。

 

 

「――」

 

 

止まった。

 

 

「何してやがる、絶好の機会だろうが……」

 

 

「ッ――」

 

 

「温い真似してんじゃねぇぞ!一方通行!!」

 

 

川神流――無双正拳突き

 

 

 

「ガァッ――!!」

 

 

手を伸ばしたままの体勢で思巡してしまった一方通行に苛立った想いを隠せない刑部の喝に微かに怯んだ一方通行の胸に、岩石すら砕きそうな鋭い拳が叩き込まれた。

衝撃に穿たれた狂靭の重撃は骨を砕いてしまいそうな程に凶悪で、細身である一方通行の身体をいとも容易く吹き飛ばしてしまう。

 

工場の整備レールを突き破って大地を転がり、漸く身体が止まった頃には、喉から込み上がった鮮血が唇から吐き出された。

全身を襲う激痛と、何よりも、刑部を伏せる事すら諦めて、ただ受動的になってしまう心の痛みが苛み続ける。

 

 

「カハッ、ゴホッ……グゥ、ッ」

 

 

何よりも、脚が立たない。

立ち上がろうともしないのだ、心が。

仰向けに転がったまま咳き込みながらも、紅い瞳は空に浮かぶ月すら無感情に映すだけ。

 

意思もない鏡の様に、呆然と広がるだけの男の瞳。

それを見下ろして、刑部は忌々しそうに唾を大地に吐き捨てた。

 

 

「……なんで、避けねぇんだ。いや、その前になんであのまま俺を倒さなかった。前みてぇによ」

 

 

「――知る、か。クソッ、タレがァ……」

 

 

確かに、避けれた。

確かに、それ以前に躊躇わなければ刑部の意識を刈り取る事は出来ただろう。

 

 

けれど。

例えそこで刑部を下した所で――余計、苦しみが増すばかりだから。

彼の言葉の総てが、反論も出来ない事実である以上、今の自分にはどうすれば良いのか分からなくて。

 

安易な敗北が、迷っている間に訪れていただけで。

 

 

「……どんだけ頑固なんだよ、てめぇは。いつまで独りでいるつもりだ。ジジィになってもそんなザマでいるつもりなのかよ、えぇ?」

 

 

「……消えねェンだ」

 

 

「……あ?」

 

 

「消えてくれねェンだよ、いつまでも。消えて欲しくねェンだよ、いつまでも……だらしなく、みっともなく、忘れる事すら出来ねェンだよ」

 

 

今にも消えてしまいそうな独白は、余りにも弱々しい。

けれど、この瞬間にも継ぎ接ぎだらけの心を抱き締めようと脳裏に甦ってしまう、惚れた女の言葉、笑顔、泣き顔、温もり、感触、約束。

 

それは紛れもなく愛であって。

それは紛れもなく呪いの様に。

 

いつも、いつも、いつも、彼の心に纏う女の比類なき愛情。

 

一方通行は、かつて、それを受け止めるまで愛なんてモノを知らなかったし、知ろうとも思わなかった。

 

けれど、一人の幼い少女を救う為に始めてそれに触れた。

そして、惚れた女に与えられた、大きい、とても大き過ぎて溺れてしまう程の愛情を。

 

人の好意すら恐がって、怯えて、背を向けていた彼が受け取るには、余りにも大きな愛を。

その器に溢れてしまう愛情が、どこかで彼を縛りつけて、どこかで彼を苦しめてしまう程に。

 

そして、一方通行もまた、その女を――愛した。

彼女が居ない世界でも、変わらず、変えれず。

 

 

 

「……けどよ、それでお前は保つのかよ。分かってんだろ、しんどいって。だから亜巳は何とかしてでもお前を楽にしてぇんだよ。分かってんだろ」

 

 

「…………」

 

 

「そんなんで生きていけんのか。耐えられんのか。凹む度にどこにもいねぇ女にしがみついて、どうなるってんだよ、あ?」

 

 

「……ッ」

 

 

「護りてぇもん護る為に必死になんのも結構だが――そんならちゃんと気張れや。女泣かしてんじゃねぇよ」

 

 

優しくも厳しい、叱咤の言葉。

宙に浮いたまま、足掻く自分を戒める警告。

 

 

当初、刑部が口にしていた、亜巳を無理矢理にでも抱いて貰うというのは、多少なりとも彼の本心ではあったが、刑部が一番伝えたかった事は、きっとそれなのだろう。

 

人は、孤独には耐えられない。

ましてや、一方通行の様な、今は居ない女を依り所にして足掻いている男は、早めに手を打たないと、いつ壊れてしまうか分からない。

今はまだ、小島梅子の献身的な愛情がそれを安定させられてはいるが、綻びがいつ出るのかも予測は出来ない。

そんな惨めな結果を迎えさせるのをみすみす見逃したりはしないのだ、亜巳の為にも、刑部自身の為にも。

 

 

本音を言えば、さっさと亜巳なり辰子なり惚れられてる女でも抱いて心を癒すか、そのまま深い関係にでもなってくれた方が早い。

けれど、そうした所でまともな結果が得られるとは限らないし、寧ろ薄いだろうから。

女に溺れてもそれはそれで、後は時間が何とかしてくれるだろうが、今の一方通行には到底期待出来そうにない。

 

せめてまずは、無理矢理にでも一方通行には自分自身の心と向き合って貰わなければならなかった。

 

 

 

「……少し、考えろ。で、折り合いつけろや。女に溺れる事も出来ねぇままに潰れていくお前なんか、見てたってつまらねぇだろうが」

 

 

言いたい事は言った、伝えるべき事は伝えた。

だから、今は少し考えさせてやろう、と。

転がったままの彼に背を向けて、正直やり過ぎたこの状況から察するに、刑部の末路は娘からの制裁に辿り着くのは避けられそうにもない。

けれど、ほったらかしにでもしたら、このまま朝が来ても変わらず転がっていそうな一方通行を一瞥して、溜め息。

面倒臭そうに瞳を細めて、ゆっくりとポケットの中に突っ込ませていた携帯電話を取り出した。

 

 

 

――

――――

 

 

 

遠退いていく足音すら聞こえない。

心は鬱屈と真っ暗闇が広がって、どうしようもない感情を持て余した瞳が、伽藍堂な空虚さを伴って、夜空を見つめ続けている。

 

 

彼女以外を愛せないのか。

彼女以外を愛さないのか。

諦めてしまえばいいのか。

自分の中の彼女を消せば良いのか。

 

消したくない。

愛していたい。

傷付けたくない。

孤独は、恐い、寂しい、けれど。

それでも、心はいつまでたっても。

彼女の影絵を追い掛ける。

 

追い掛けて、抱き締めて。

抱き締められて、安堵して。

腕を回した華奢な背中も。

背中に伝わる細い腕の感覚も。

胸元から刻まれる命の鼓動も。

頬を寄せる度に触れた温もりも。

 

 

気付けばなくなって。

気付けばまた探して。

気付けばまた、見付けて。

 

繰り返して、抜け出して。

形にならない依存だけが虚しく――

 

 

 

「――」

 

 

 

音にもならない、彼女の名前。

風が拐って掻き消して。

答えを見付けられない哀れな男を。

月はただ、冷たく見下ろす――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――

――――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

『ん……どうしたの? というか、あの娘は?』

 

 

 

『あぁ、成る程。でも珍しいわね、貴方が此処に来るなんて』

 

 

 

『えっ……突然どうしたの?』

 

 

 

 

『知りたいって……一方通行との、こと?』

 

 

 

 

『私から見た……彼、ね』

 

 

 

 

『多分、あんまり、聞いてて面白い話じゃないわよ?』

 

 

 

 

『そう、ね。知りたいわよね、貴方なら』

 

 

 

 

『ちょっと、色々あったから……長くなるわよ?』

 

 

 

 

『じゃあ、まず……最初に彼と出逢ったのは――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『Shadowglaph』__end




これより過去編その1となります。



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