星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

3 / 40
アンケート小説 後編『STARDUSTER』

深い深い、深海の底に似た色彩の紺碧を敷いた絨毯に、蒼と銀の雨雫を集めたなら、形のない命が泳ぐ天の川。

何万光年先に瞬いたスパンコールのギリシア神話達が語り継いできた、果ての無い星屑の舞踏会で踊る真珠色の大きな月の美しさにはどんな宝石で飾っても及ぶ事なんて無いんだろう。

 

 

潔癖の大地を照らす荘厳な月光に、夜露に濡れて流れそうな涙さえ、星になって空に咲いてしまいそうなその夜空には、ヒトカタが届ける詩なんて、不釣り合いなのかも知れないけれど。

 

それでも、華々しい巨城に備えられた一画の、絢爛なバルコニーの細く頼りない手摺に腰掛けて、ギター1つ、奏でて青白い月を口説いている歌うたいの背中は、あまりに綺麗で、あまりに遠い。

 

 

『────』

 

 

場内に流れる悠大なオーケストラにも、多くの美食家を唸らせる程の豪勢な食事にも、吊り下げられた幾つものシャンデリアの下で、手を取り合って踊る人々にすら、見向きもしない。

 

 

サファイアを嵌め込んだ白銀のティアラと、ララバイブルーのドレスと、硝子の靴。

こっちを向いてと、私を幾ら着飾っても、変わり者の真っ白な王子様は此方へと振り返ってはくれなくて。

 

 

けれど、貴方の細長い腕に触れる事も、貴方の華奢な背中に身体を寄せる事も、貴方の薄い唇にキスをする事も出来なくて。

後ろ姿を眺めているだけで幸せだからと嘘も付けずに、王子様がロマンスに誘う、手の届かない月へと口を尖らしては宙を見上げるだけ。

 

せめて、あの物言わないお姫様一人に、彼の歌を独り占めになんかさせないという強がりだけが、精一杯。

 

 

でも、白銀のお姫様は、彼を見下ろしてはただ微笑むだけしかしてあげられないから。

御伽噺のように、彼を幸せにはしてあげられないから。

だから、見上げてばかりいる儚い背中を支えてあげたいと思うのは、きっと、我が儘なんかじゃないんだと。

 

 

 

 

 

やがて途切れる貴方の詩を聴き終えて。

『彼女』では寄り添えない王子様の隣へと、ゆっくりと歩み寄って。

不思議そうな顔をする彼へと、私はこの言葉を贈るんだ。

胸に灯る、確かな想いと共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──月が綺麗ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────

──

 

『STARDUSTER______星屑に歌う人』

 

──

────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──優しい匂いがする。

 

 

 

 

 

夜空を切り裂く流星の様に鳴った弦の余韻が、白霧に微睡む光の手を引いて、苦笑混じりに輪郭を浮き彫りにした彼方へと導いてくれる。

 

 

 

──何だろう、フワフワしてる、不思議な感じ。

 

 

流麗にざわめいた夜の吐息と、風花の揺れる甘い声と、命泳ぐ川のせせらぎが、ふやけた聴覚を促して。

 

 

──でも嫌じゃない。このままじっとしてたい。

 

 

酷く心を落ち着かせてくれる右側の熱に頬を寄せて、顔を逸らして鼻を擦り付けてみれば、鼻腔に広がる仄かな洗剤の香りと、日溜まりの残り香がとても心地良い。

揺り籠に揺られているかの様な安堵が、青銅色の錨を下ろして、意識の底に伝う微睡みへと導いている。

 

けれど、再び深層の眠りへと誘われていく錨を繋げた鎖は、躊躇いのない、気遣いもない、霞み掛かった白い掌に呆気なく遮られた。

 

 

「さっきから擽ってェンだよオマエは。飼い主がペットに似て来てどォすンだオラ」

 

 

「ぅ、ん……?」

 

 

過分に呆れを含んだテノールと、紡ぐ度に耳元へと掛かる微熱混じりの吐息が不確かな意識の中でもはっきりと感じられるくらいに艶かしくて。

背筋を這う蟲惑的な何かに促されて反射的に身動ぎしながらも、光を嫌った視界が、私の意思から離れて、どんどんと抉じ開けられる。

 

そして、視界一杯に届いた赤と黒の歪んだ二色のチェックに内心で小首を傾げつつ、するすると焦点を上へ上へと持ち上げれば、麗銀の雪景色と、紅い双子月が鬱陶しそうに私を見下ろしていた。

 

 

近い。

とても近い。

暖かい。

というか肌が綺麗過ぎ。

誰だろう……あ、さっきの王子様だ、この人。

 

ん?待って、ちょっと落ち着こう。

いや、王子様って何。

これどう見ても一方通行だよね。

私が鼻くっ付けてるこれ、この人の腕じゃん。

なんでこんなに近いの。

良い匂いする。

そうじゃない、そうではなくて。

 

 

「ぇ……………………っだぁっ!?」

 

 

「女にあるまじきリアクションとってンじゃねェ……ンで、耳元で叫ぶな、喧しい」

 

 

「なっ、あ、いや、その……えっ、えっ!?」

 

 

「……なンなンですかァ、人の腕を枕に爆睡決めこンどいてバカみてェに騒ぎやがって。何、今度バラエティにでも出ンのかオマエ」

 

 

「いやそんな予定は……って、ば、爆睡? あ、もしかして私、眠っちゃってたりした?」

 

 

「盛大にイビキかましてたら動画に撮って、346に匿名で流してやろォと思ったぜ、全く。お蔭で左腕が痺れちまった」

 

 

「そ、そんなのプロジェクトの皆に見られたらなんて言われるか……というか、その、ごめん、腕……そんなに長いこと寝てたの、私?」

 

 

「まァ……大体三十分くれェか」

 

 

「三十分……」

 

 

顔が熱い。

いや、熱いなんてものじゃない、目の奥にちっちゃな太陽でもあるんじゃないかって思うぐらい、息苦しい。

いつ眠りに落ちたのかも上手く思い出せないけれど、ずっと長いこと彼の左腕を枕代わりに居眠りをしてしまったらしく、半端じゃない羞恥心に胸の鼓動がガンガンとビートを刻んでいる。

 

だって、仮にも異性で、しかも少なからずそういう色のある感情を向けている相手に寄り掛かって無防備に寝顔を晒してしまったし、起き抜けでボーッとしていたとはいえ彼の腕に頬を寄せたり、鼻先を擦り付けたり、匂いも嗅いだりしちゃったのは非常に拙い。

無意識だったとはいえ、否、無意識だったからこそ余計に恥ずかしいし、あんな小学生でも見なさそうなメルヘンチックな夢まで見てしまうのは、レッドカードを三枚も突き付けられるレベルでアウトな行動だと思うのだ、女子高校生としても、アイドルとしても。

 

 

一ヶ月前、勘違いの末に半ば告白染みた宣言までしてしまったあの日から、別の意味で顔を合わせるのに色んな葛藤やら羞恥やらを清算し切れたばかりなのに。

今までは拳一つ分の、一方通行と私の定位置に馬鹿みたいにやきもきしていたのが、三週間前ではベンチの隅と隅に大きく離れて座り、先々週ではベンチの隅と真ん中、先週では学生鞄一つ分のスペースまでゆっくり埋めて。

そして今日、やっと今までと同じくらいの近くまで近付けた距離が、 また端っこと端っこ、棒磁石の両極くらいまで綺麗に離れてしまった、主に私が飛び退いてしまった所為だけど。

 

 

居たたまれない羞恥の熱で、ベンチの隅で膝を抱え込んだままの変な体勢で顔を埋めながらも、なるべく表情を気取られない様に膝と腕の間から、反対側に座する彼の様子を盗み見た。

けれど、まぁ、何だかんだで少し期待していたりするそれっぽい反応を一切取ることなく、痺れたと訴えていた腕をプラプラと振りながらも、器用に片手だけでクロスで磨いた弦の調子を確かめている静かな横貌に、少しムッとしてしまう。

 

自らが勝手に晒してしまったとはいえ、仮にもアイドルの寝顔を目にしたなら、もう少しそれらしいリアクションを取ってくれても良いだろうに。

色々と醜態を見せてしまった間柄だし、おいそれと私の期待する反応を示してくれる相手では無い事ぐらい嫌でも理解出来ているけれど、さして意に介してないとでも謂わんばかりの白々しい白貌が、胸を痛ませる。

 

 

「寝てる間、何かしてたりしないよね? どっか、足とかに触ってたり、とか……」

 

 

「はァ? まァだ寝惚けてンのか。ンな訳ねェだろ、謝ったり問い詰めたり意味分かンねェなオマエは」

 

 

「…………別に。まぁ、セクハラしてたらプロデューサーに言い付けてやろうと思っただけだよ」

 

 

「はン、色気もねェメスガキ風情が何言ってンだ阿呆。ンな事言われても、寧ろのあのオッサンが困るだけだろォに。アイツも苦労してンだろォな、こンな訳分かンねェガキみてェな奴等の面倒見にゃならンとかよォ」

 

 

「……ふん、確かに迷惑掛けてる自覚はあるけどさ。でも、プロデューサーは優しいから。どっかの誰かさんと違って意地悪な事も言わないし」

 

 

「クカカ、ソイツは重畳」

 

 

「……むかつく」

 

 

意味、分かりませんか。

訳が分かりませんか、そうですか。

そういう分かってない振りを止めて欲しいと言えれば、どれだけ楽になるんだろうか。

 

ある程度、覚悟していた事だけれど。

ケチがついてばかりなのに、取り戻せない矜持の破片に胸に手を当てては感情の糸を繋ぎ止めるだけしか出来ていないのは、碌に恋もして来なかった事への、私が蔑ろにしてきていた事への意趣返しにも思えてしまう卑屈さが余計だ。

 

 

「疲れてンのか、最近」

 

 

「え?」

 

 

「仕事、増えて来てンだろ、テレビに出るだとかプロジェクトのイベントに駆り出されるだとかで。努力すンのはオマエの勝手だがな、さっきみてェな無様を余所で晒す前に『息抜きの仕方』を考え直してみたらどォだ」

 

 

「……息抜き、ちゃんとしてるつもりだけど。此処に来るのもそうだし、仕事だってきちんとこなしてる。今回寝ちゃったのだって、リラックスしてたからついウトウトしちゃったからなだけだし」

 

 

「……はン、そォかよ」

 

 

「――ッ……何、もしかして心配してくれてるの?優しい所あるじゃん。それだったらさ、良い加減スクーターの後ろ乗せてよ。カーネーションだってちゃんとサービスしたんだし」

 

 

「調子に乗るンじゃねェよ、後ろ乗っけてさっきみてェに爆睡されると洒落にならねェ。諦めろ」

 

 

「だからさっきのは偶々だって言ってるじゃん。あぁ、そうですかそうですか、一方通行は約束一つちゃんと守らない男なんだね」

 

 

「やっすい挑発だな」

 

 

見抜かれているんだろうか、やっぱり。

 

アイドルと一口に言っても単に歌って踊れれば良いと云うものではないし、無論、ボイストレーニングやダンスのレッスンからメディア広告、イベントだったりと日に日に増して密度が濃くなっていく一日に、目に見えない疲労は幾らでも募ってくる。

少なくとも、さっきみたいに無防備な姿を一方通行の目の前で見せてしまうぐらいには。

 

プロジェクトのメンバーである以上、仕事に手を抜くなんて出来ないし、その成果に応じてどんどん与えられる仕事も増えて来ているのは、本来ならば喜ぶべき事なんだろう。

本音を言えば、少し無理をしていると思う、自分でも。

週に一度とはいえ、こうやって一方通行に会いに来るのも、段々難しくなって来ているのは紛れもない事実だ。

 

見抜かれているんだろうけど、でも、だからといってこの時間を手放すなんて、今の私には無理だ。

息抜き、なんてものじゃない。

私にとっては、もっと大事で、大切で、貴重なモノなんだ、この一時は。

 

だから、こうしていつも、我が儘を重ねるだけの夜を通り越してしまう。

必要以上に彼に寄り掛かってるという自覚からも。

自分を切り捨てさせようと諭す、彼の視線からも、目を逸らして。

 

 

 

――

―――

――――

 

 

 

 

この後少し、お時間宜しいですか、と。

 

いつもの日曜日、いつもの川辺で、いつもの憎まれ口とギターの音色を、今日も聴きに行こう、と。

レッスンですっかりクタクタになってしまった身体に鞭打って、帰り支度を終えた私をそう呼び止めたのは、相変わらず堅い表情に何処か戸惑いを貼り付けているプロデューサーの一声だった。

この前の一件で、案外この人は繊細な内面をしているんだと理解出来て、私や、他のプロジェクトのメンバーとも結構明け透けに話す様になった彼が、分かり易いほどに含みがちな態度を取ることは最近では珍しい。

 

何か仕事でトラブルを起こしてしまったのだろうかと一瞬目の前が暗くなりもしたが、特に思い当たる節もない。

それも、その場に居たニュージェネレーションのメンバーの中で、私だけというご指名。

心配そうに気遣ってくれる二人を宥めて、何となく胸騒ぎを覚えながらも、先導するプロデューサーの大きくて高い背中に導かれて辿り着いた漆塗りの清整な扉を前にして、不安はどんどん膨らんでいった。

 

 

『第二会議室』

 

 

シンプルな書体で刻まれたセラミックのドアプレートから伝わる厳粛な雰囲気が、何故こんなにも胸中を騒ぎ立てるのか。

たった五文字の素朴な文字に変に気圧されてしまって俯く私を余所に、どこか機械染みた動作で扉をノックするプロデューサーの声も、何だか緊張しているみたいで、余計に落ち着かなくなってしまう。

 

 

――けれど。

 

 

失礼します、と重々しく扉を開いて会議室へと足を進めるプロデューサーに続いて入室した私の目の前に飛び込んで来た人物の姿に、落ち着かないどころか、頭が真っ白になってしまったのは、それほどに予期していなかった人物だったからなのだろう。

 

 

「あら、早かったじゃないの、プロデューサーくん。貴女の方は、一応はじめまして、って事で良いのかしらねぇ、渋谷凛ちゃん?」

 

 

「――あ、あの時の……一方通行の隣に居た……」

 

 

日本人離れした美白に華やかな金のブロンド髪、同性異性問わず纏めて魅了してしまいそうな容姿は、多分どれだけの時間を経ても忘れる事なんて出来そうにもないくらい、私の網膜に焼き付いている。

座り心地の良さそうな黒革のハイバッグチェアに腰掛けているというよりも、乗りこなしていると表現しても過言じゃないくらいに斜に構えて、此方を眺める怜悧なアイスブルーの瞳に、纏まらない思考で吐き出した言葉は突発的で礼儀知らずなモノになってしまう。

 

 

「ちょっとぉ、その覚え方は素直に喜べないわね。それじゃ私がアイツのオマケみたいじゃない。これでも一応、貴女の上司になるんだけど?」

 

 

「……ぅ、あ……す、すいませんでした」

 

 

「……申し訳ありません、霧夜常務。渋谷も突然の事で動揺しているらしく……これは彼女にきちんと説明しなかった私の責任でありますので」

 

 

「冗談よ、お堅いわねぇ二人共。それと、プロデューサーくん……私は代理だからね、代理。そんな肩肘張らなくたって、適当で良いわよ適当で」

 

 

悠々自適というか、常務代理なんて肩書き背負っている割にはまるで近所の隣人みたいな気軽さでヒラヒラと投げ遣りに手を振る常務代理さんは、見るからに年若い。

多分、プロデューサーより私とかの方が近い年齢なんじゃないかと思わせる美貌は、この人こそアイドルになった方が良いんじゃないかと贔屓目なしに思わせる程で、彼女を初めて目にした時は遠目がちにも綺麗な人だと思ったけれど、こうして対面にすればより一層、その眉目秀麗さを実感出来る。

 

そう、私よりも、よっぽど一方通行の隣に並ぶのが相応しいんじゃないかと、改めて再確認出来るくらいに。

 

 

「……その、改めまして……私は渋谷凛です。さっきは失礼な真似をしました」

 

 

「んふふ、可愛いわねぇ、キミ。じゃ、こっちも改めてまして。私の名前は霧夜エリカ、あのツンデレ兎から聞いてるとは思うけど、346プロダクションの常務代理で、キリヤコーポレーションの令嬢、とでも名乗っておきましょうか。常務代理じゃ長いから、霧夜でもエリカでも好きに呼んじゃって良いわよ」

 

 

「はい……その、霧夜さん…………ツンデレ兎って……もしかして、一方通行の事ですか?」

 

 

「そうそう、だってアイツ見た目は白兎そのまんまだし、寂しがり屋な癖にツンツンしてるじゃない?だからツンデレ兎」

 

 

「……ツンツンしてるってのは分かります、けど……寂しがり屋、なんですか、あの人……」

 

 

「……あら、意外? まぁ、凛ちゃんみたいな年下相手には尚更澄ました態度を取ってそうだもんねぇ。あぁ見えて結構そういう所あるのよ、アイツ」

 

 

「そう、なんですか……」

 

 

腐れ縁、形容するならその言葉が妥当だと語っていた一方通行から、霧夜エリカさんの事はある程度は聞いていた。

 

あの世界有数の大企業キリヤコーポレーションの令嬢であるという時点でもとんでもないのに、そう私と離れてないくらいの年齢でありながら代理とはいえ346プロダクションの常務という高い地位に就いていると彼の口から聞いていたが、やっぱり百聞は一見にしかずという事なんだろう、こうして霧夜さんを目前にしても、未だに信じ難いと思ってしまうけれど。

でも、一方通行を寂しがり屋だと評する彼女の口振りからして、一方通行と霧夜さんの付き合いの長さを裏付ける目に見えないモノを感じ取れてしまって、失礼な話、そっちの方が私にとって衝撃が大きい。

 

ツンデレというか、素直じゃない性格には正直同意出来るけど、寂しがり屋なんて所は、私にはまるで感じれなかった。

人によって評価なんて様変わりするモノだと分かっていても、私が知らない一方通行を、霧夜さんは知っているんだというその事実が、こんなにも悔しい。

 

明確な距離の差を感じて尻すぼみにフェードを落として気落ちする私は、よっぽど分かり易いんだろう。

会議室のタイルの白線へと伏し目がちに焦点を落として俯いた私を覗き込む様なにんまりとしたチシャ猫の笑みが、揶揄い気味に喉元の鈴を鳴らしてみせた。

 

 

「思ったより分かり易い娘ねぇ。絵に描いた様なリアクションしちゃって……良いのかにゃーん?プロデューサーくんがさっきから凄く気拙そうにしちゃってるけど」

 

 

「……え?」

 

 

「――常務代理。その、私は席を外した方が宜しいのではないでしょうか」

 

 

「だーめ、ちゃんと此処に居なさいな。プロデューサーなら尚更、こういう事から目を逸らしちゃ駄目よ。貴方の手掛けるアイドルなんでしょ、凛ちゃんは」

 

 

「……そう、ですが、しかし」

 

 

「――向き合うんでしょ? なら、都合の良い部分も悪い部分も、しっかりと向き合いなさい。じゃないと周りは着いて来てくれないわよ?」

 

 

「……はい」

 

 

声を荒げている訳でもないのに、静脈を押さえられているかの様な静かな諫言に、俯かせては曲がってばかりの背筋を反射的に正してしまう。

プロデューサーに向けられた言葉の意味を噛み砕くよりも先に身体に反応させる辺り、年若いながらに重役に就く偉業を成している人なんだと知らしめる程のカリスマは伊達なんかじゃない。

 

でも、素直に感嘆している立場じゃない事くらい、私にも分かる。

不明瞭な気持ちに駆られながらも潜った会議室の扉、あの時に感じた不確かな胸騒ぎが、厚雲に隠されていた月の様に徐々に浮き彫りになっていく。

 

 

「……さて、本題に入りましょうか、『渋谷凛』さん――ぶっちゃけアイドルって恋愛しても良いと思う?」

 

 

「……ッ」

 

 

単刀直入、加減の一切もないストレートな問い。

別に良いんじゃないのか、恋愛なんて個人の自由、誰かに口を出されるモノでもないし、誰かが身勝手に押し入って掻き乱して良いモノでもない。

きっと以前の私なら……プロデューサーにスカウトされる以前の私ならば、特に何の感慨も無く、そう答えていたんだろう、答えれていたんだろうけど。

 

その気持ちは今も昔も、根底では変わってなんかいない。

例えアイドルでも人間だし、恋だってしてしまうモノだ。

しようと思って簡単に出来るモノじゃない。

気が付けば堕ちていて、自分じゃどうする事も出来ない儘、持て余してばかりな癖に、切り捨てる事も出来そうにない感情なんだから。

現に、そうなってしまっている私にとっては、それが紛れもない真実だから。

 

 

「……私個人として、は……しちゃダメな恋愛なんて無い、と思い、ます。というか、ダメだって思っても、諦めなくちゃって思っていても、どうする事も出来ないし」

 

 

「……ま、確かに、好きになっちゃったもんはどうしようもない、そこは同意してあげれる――けど、そんな簡単に割り切れる問題じゃないのは分かっているんでしょ?」

 

 

「…………は、い」

 

 

「そう、確かに、個人としてならそれでも良いでしょう。でも、アイドルという立場である以上、そこにはプロダクションがあってプロジェクトチームがあって、組織的な責任が発生するのは当たり前。ましてや、メディア露出も兼ねてる商売なんだから、自由気儘に、なんて開き直りは通用しない」

 

 

「……」

 

 

「貴女が人気になりファンが付いて需要が高まっていく程、責任が比例して重くなっていくのは当然よね。ましてや貴女はウチが掲げるプロジェクトの先鋭、貴女の問題はプロダクションだけじゃなく他のメンバーにも付いて回る。まだ実感は無いかも知れないけど、アイドルの『渋谷凛』を認知してくれている人だって、貴女の想像以上に増えて来てるのよ」

 

 

「……それは」

 

 

それは分かってる、充分に実感している。

通ってる学校でも良く話題にされている事だし、ファンになってくれた人達だってクラスに居るし、実家の花屋にも、私目当てで訪れてくれる人達だって増えて来ている。

日々、プロデューサーから与えられる仕事をこなしていく度に増えて行くその実感は私にとって貴重だし、素直に喜ばしいと思えるぐらいだけれど。

 

でも、その分、色んな苦労は増えた。

 

学校の校門で出待ちしている男の人が居たり、ふとした拍子に視線を感じたり、ハナコの散歩に出掛けた際には後を付けられたりする事も度々あった。

一方通行の居るあの川辺へと向かうのにも帽子を被ったり、ハナコを連れて行く事も出来なくなったりと、苦労が増えてしまっている。

 

 

つまり、それがアイドルとしての、責任というモノなんだろう。

華やかな道ばかりが広がっている訳じゃないのはこの前の一件でも身に染みている事だし、これから先、幾重もの不自由と理不尽を味合わなければならないのは、目に見えている事で。

だからこそ、それを安易に分かっていると口にする事は憚られる。

それは、つまり。

 

 

 

「……焦らすのは嫌いじゃないけど、私は此処に遊びに来てる訳じゃない。代理とはいえ仕事は仕事、常務という立場である以上、はっきり言わせて貰うと――アイツと、一方通行と会うのは止めときなさい」

 

 

「――そ、んな……」

 

 

「霧夜常務、それは……」

 

 

「残念だけど、アイドルの業界なんてプロダクション皆が和気藹々で仲良くなんて出来る世界じゃない。ましてウチは規模も他と比べてデカイし、顔も広い。足を引っ張ってやりたいと思う他のプロダクションなんて幾らでもいる。ましてアイドルフェスも間近に差し迫ったこの時期に分かり易いスキャンダルなんて喉から手が出る程欲しいくらいでしょうね」

 

 

「……だから、もう、あの人と会っちゃ駄目だって……そう、言うんですかッ」

 

 

「まぁ私個人としては好きにすれば良いと思うけどね、正直。でも、周りはそうはいかない。例え知名度が低くてもスキャンダルはスキャンダル、ましてや346プロダクションが力を入れてるプロジェクトのメンバーともなれば、影響は意外と大きいのよこれが。貴女一人の責任に出来るもんならそうするけど、その影響は貴女のプロジェクト全員にも充分に与えられる事になる。物分かりの良いファンばかりなんて都合の良い事も無いでしょうしね」

 

 

理路整然に並べられる、起こりうる損失は決して悪く見積り過ぎているという事は無い。

充分に考えられる暗い未来、最悪の可能性。

一方通行と会うだけでも発生してしまうリスク、そしてそこから連なるプロジェクトの皆への影響だって勿論あるだろう。

心の何処かでは分かっていたけれど、なるべく考えないようにしていた事をこうやって改めて突き付けられて、私の考えの甘さに押し潰されそうになる。

今までは大丈夫だったかも知れないけれど、これから先も大丈夫だなんて保証は何処にもないのだから。

 

 

 

恋をするだけで精一杯だった、たかだか15歳の想像の限界。

 

 

アイドルは、夢物語なんかじゃない。

魔法一つで得られるドレスもないし、硝子の靴もない、それらを手に入れるのだって相応の努力が必要だって事を、私でさえ、もう身に染みるほど経験している。

卯月のあの笑顔も、皆の必死な努力も、プロデューサーの頑張りも、全て無駄になってしまうかも知れないのだ。

 

 

私の身勝手一つで。

 

 

瞳孔さえ開いてしまいそうな程の息苦しさと、再確認させられた責任の重さに真冬の空の下に放り出された様に肩が震えてしまう。

両手の指先が白く血の気を失うくらいにキツくスカートを握り締めて、何も言い返せないで混迷にうちひしがれる私を苛む様な無音が全身の力を強張らせていく。

 

 

けれど、ふと肩の力を抜いた様な霧夜常務の溜め息に誘われて顔を上げれば。

苦笑混じりの、どこか気遣いがちに揺れるロシアンブルーが目を細める仕草が、あの人の仕草と重なって。

 

 

 

「……とまぁ、あくまで常務代理としての建前はこんなとこかしらねぇ。でも、私個人としては凛ちゃんの恋路、結構応援してたりするのよ、これでも」

 

 

「……え?ど、どうしてですか?」

 

 

「んーまぁ、いつまでも女泣かせ気取ってるあの馬鹿に良い加減お縄に付いて貰いたいってとこね。アイツが凛ちゃんに傾いてくれれば私としてもメリットあるし……ちょっと腹に据えてるとこもあんのよね、一方通行に対して」

 

 

人を食った様などことなく飄々としたチェシャ猫の笑みを転がして席を立ち、会議室の窓際へと歩み寄ったスーツ姿の麗人の背中に少しばかりの哀愁を感じたのは何故なんだろう。

窓の外、徐々に茜を薄めていくのっぺりとした夕闇に逆らって大地に咲いた人工の星屑を見下ろしながら、錯綜する何かを静かに噛み締めている横顔が、幽かで儚い。

 

設問して追い詰められたかと思えば本音と虚構を織り交ぜた様にも感じ取れる台詞に翻弄されてしまって、どう考えを纏めて良いのか分からなくなる。

これは所謂、女の勘と言うべきものなんだろうか、霧夜常務が一方通行に対して、確執に近い何かを抱えているんだと言う事は理解出来た。

 

私の恋路を応援している、という甘い言葉を、素直に鵜呑みにする事は出来なかったけれど。

 

 

「……ま、私個人から凛ちゃんに言える事は、後二つが精々ね。まず一つ、その想いを貫きたいなら、覚悟をしなさい。アイドルとしての道、その過程で出来た仲間、色んなモノを『失う』覚悟を、ね……」

 

 

「…………」

 

 

なんでなんだろう。

金糸を束ねた美しいブロンドの横髪の毛先を指先で弄りながら言う霧夜常務の微笑みがとごか苦々しく、古傷を自分の手で広げている様な痛々しいとも映ってしまったのは。

生半可な同調なんかじゃなくて、自分が辿ってきた道で遭った、彼女にとって手離したくなかった何かに触れている様な、まるで経験談みたいだと思えたのは。

 

 

霧夜常務は、失ったんだろうか。

それとも、『覚悟』が出来なかったんだろうか。

彼女にとっての、誰かへの確執が、首をもたげて輪郭を帯びて浮かんでいく。

 

霧夜常務は、私はどうして欲しいんだろう。

 

どこか他人事みたく呟いた問いは、こうして対峙しているのにも関わらず、ふわふわと地に足付かない思考の中でひっそりと埋もれてしまう。

 

 

「……そして、もう一つ。早いとこ当たって砕けてみた方が良いわよ。あのツンデレ兎、『逃げ足がとんでもなく早いから』」

 

 

「――ぇ」

 

 

逃げ足が早いって、どういう事。

逃げるって、誰から逃げるつもりなのか。

 

耳を塞ぎたくなる、目を閉じてしまいたくなる霧夜常務のもう一つの言葉の意味を、理解出来る癖に、理解しようとしたがらない。

 

思い返したくもないのに、そっと隙間を縫う様にリフレインする、先週の日曜日での、一方通行が零した何気ない言葉。

酷く胸に突き刺さった壗、痛みを振り払いながらも有耶無耶にして誤魔化した言葉。

 

 

 

 

――息抜きの仕方を、考え直したらどォだ。

 

 

 

 

だって、それは、まるで。

 

もう来るなと。

もう自分とは会うな、と暗喩しているみたいで。

そんなの、彼らしくない、分かり難い切り離し方で。

だから只の気の所為だって、悪い考え方をしているだけだって、そう言い聞かせていた筈なのに。

 

 

「っ、ごめんなさい、もう、話は終わりですかっ」

 

 

「うん、終わり――行ってらっしゃい」

 

 

 

彼に、一方通行に会わないと。

会って、確かめないといけない。

霧夜常務の言う覚悟なんて、全然決まってないけれど。

 

持参している通学用の鞄を手にとって、返事も聞かないで会議室の出口へと、一方通行の居るあの川辺へと、グチャグチャになってしまった思考の儘に向かって駆け出した私には、気付く事なんて出来なかった。

 

 

――貴女は、後悔しないようにね。

 

 

そう呟いて、懺悔する様に瞼を閉じた金色の麗人の姿に。

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

窓の外、欠け落ちた月のカーブが所詮は他人事だと構える様に見えて、非生産的な苛立ちを覚えるのは、余裕がない証拠なのだろう。

カチカチと控え目に鳴る電飾の音だけが木霊して、居心地の悪い静寂を一層際立たせる。

形だけの格好を保った足取りで腰を下ろして背を預けたハイバッグチェアが、こんな時ばかり冷めていると感じるのは差し詰め、未熟な部分を突き付けられているかの様で。

鈍痛を堪えて吐き出した溜め息は思いの外大きく、参ったなと頭を抱えたくなった。

 

 

「納得行かないって顔ね」

 

 

「……これで、本当にこれで良かったのですか。これでは余りに性急過ぎると思うのですが……」

 

 

「性急過ぎる、か。なら私は遅かれ早かれ、と返しましょう。いずれ直面する問題なら、解決は早い方が良いと思うわよ。各々何事も、すべからくそうではないけれど」

 

 

 

理解は出来ていても、納得は出来ない。

というよりは現実を突き付けるにしても、もう少し彼女に時間を与えてやれなかったのかと思っているのだろう。

これではあまりに性急、という彼の言い分が分からないでもないが、恋物語の終焉が演者の感情に歩幅を合わせてゆったりのんびりと顔を出してくれる筈もないのだ。

 

論より証拠。

やけに苦しく感じる胸元のスーツポケットから取り出した、現像仕立ての数枚の写真をアクリルの滑らかな会議室の横長テーブルに並べれば、ほら、如何にも終わりの足音を聞き届けた男の顔が歪んだ。

 

 

「……これ、は」

 

 

「最近の雑誌記者は結構いい腕してるわね、綺麗に撮れてるでしょ、これ。先週、これを撮られた当日に件の『色男さん』から受け取ったモノよ。346の内情はまだ完全に把握出来てないんだけど、中々に敵が多いみたいじゃない」

 

 

「先週……ですか。しかし、色男……という事は、彼がこれを貴女に……?」

 

 

「えぇ、『嗅ぎ回ってた鼠を取っ捕まえて取り上げた』らしいわ。お姫様が眠っていた間だったから、彼女はまだ知らない事らしいけどね」

 

 

「……」

 

 

感傷ではない、ほんの少し巡り合わせの女神様とやらにコイントスを仕掛けたくなっただけ。

きっと渋谷凛に対して何の感慨も無いのなら、彼は何も告げる事なく彼女の前から姿を消すという選択肢を選んだ筈だ。

そしてその後にエリカへこの写真を見せれば、万が一、凛が直接一方通行に逢おうとしても、霧夜エリカが常務代理としての立場を持ってその行いを封じるという簡易な未来図を描ける。

 

けれどそれを選ばなかったという事は……あの傷付きたがりの愚か者は、終わらせてあげる道を選んだ、という事に他ならなくて。

 

『ちゃんと恋に敗れさせてやる』

 

 

彼が心の何処かで『恐れて』いる筈の傷を、痛みを堪えながらもその道を選ぶという事は、一方通行にとって渋谷凛という存在は決して小さなモノではないという証明に他ならないから。

 

 

だから、霧夜エリカはお望み通り、舞台だけを用意する。

恋に敗れた少女が、シンデレラになる事に、魔法の馬車も硝子の靴も要らないから。

 

 

 

「……でも、その果てが決して悲しみばかりに溢れている程、単純なモノでもないのよ。だから、ふふ……『春が来た』だなんて呼ばれ方、するのかしらね?」

 

 

魔法の馬車も硝子の靴も要らないのなら。

12時を告げる鐘の音に、怯える必要もない。

 

そこから先は、彼女が選ぶ事。

 

 

 

────

──

 

 

 

 

 

大気圏の向こう側、黒にも蒼にも茜にも幾重に溶けるオブラートを挟んだ空の先の宙。

星霜を散りばめた大きな夜のカーテンは泣きたくなるくらいに明るくて、電気石交流の照明群が無くても、向こう岸の誰かの表情さえも良く見える筈なのに。

 

 

ベンチの背凭れに重心を預けて、寄り掛かり気味に座りながら夜空もすっかり見上げ馴れて、首が痛くないのかと尋ねたくなる白のシャープな輪郭ばかりが目に付いて、滲んで、その裏側が読み取れない。

三日月みたく顎を傾けて、その細長い指先は開かれていないギターケースの取っ手に甘く添えられている。

言葉にされなくとも、上げられないコンサートのカーテン、そして演目の終演を物語っているのが理解出来たのが、何より痛かったから。

 

 

何度も道行く人にぶつかりそうになりながらも、涙で視界が滲みそうになりながらも、ノンストップで走り抜けた所為で悲鳴を上げている心臓の鼓動。

耳の奥で脈打ち続ける其処が一際大きく跳ねたのは、もう終わりなんだと物語る彼の真意に気付いてしまった私の迂闊を呪いたくなった女としての本能なのだろうか。

 

 

 

「──よォ、早かったな」

 

 

「──ッ」

 

 

淑女の風上にも置けない荒く息を乱す私の姿に気遣う訳でもなく、いつもの皮肉をくれる訳でもなく、微かに痛みを堪える様な歪で繊細な微笑みは、最後のなけなしの余裕を奪った。

噛み締めた奥歯の感触だけがやけに鮮明で、どう脚を動かしたかも分からない。

ただ気付いた時には、温もりに飢えて凍える子供みたいに、肉付きの薄い癖に甘い感触ばかりを流す男の胸元にしがみついていた。

 

 

「なんで……なんで駄目なの。おかしいよ、なんで私の前から居なくなろうとするの。何があったの、答えてよ、一方通行!!」

 

 

「……少しはガキ臭さも抜けて来たかと思ってたンだが、これじゃあ駄目だなァ、全ッ然駄目だ。ガキみたいに喚き散らしやがって、幼児退行してンじゃねェよ」

 

 

「答えになってない! でも、そう、そうだよ……私は子供だよ、大人ぶりたいだけの只の子供なんだ!! だから、我が儘くらい聞いてよ! 子供扱いでも良いから、誤魔化さないで教えてよ!」

 

 

ドラマのようにしたいだけの、どうとでもなる気持ちは当の昔に落っことしてしまったから。

知らない誰かの気休めにされるだけの綺麗な別れ方なんて知らない。

恋の正しい引き際よりも繋ぎ止めたい右側に我無者羅が、私の居住を求めてばかりの真っ白な空城へとぶつけられる。

 

 

「……あのクソ女狐、省きやがったか。何考えてやがる」

 

 

「何それ、霧夜常務の事?……ま、まさかあの人が……?」

 

 

「本来ならそうなる『予定』だったンだが、憎まれ役はご免って事だろォよ。チッ、随分買われてるみてェじゃねェか、オマエ」

 

 

「……私、が……買われてる?」

 

 

「オマエの『物分かりの悪さ』を認めてンだろォよ……なァ、『渋谷凛』。オマエは何の為にアイドルになった?」

 

 

「──」

 

 

理解が及ばない、きっと霧夜常務と一方通行にしか分からない様な薄氷の上のやり取りや牽制は、私を間に挟む癖に、私だけを弾いている。

それが気に入らなくて、そんな些細な事にまで嫉妬して、握り締めていた一方通行の黒いジャケットの胸元の生地が、掌の中で不協音を泣き叫ぶ。

 

 

けれど、意地の悪いテノールボイスは何処か真摯な響きを孕んだまま耳の奥へと滑り込んで、不意につかれた私の原点を、白い指先が優しく弄んだ。

 

 

「……俺に見て貰う為か?」

 

 

「……」

 

 

違う、と心の奥底は叫んでいるのに、音には出来ない。

きっと季節外れの狂い風にすらあまりに簡単に掻き消えてしまうそれは、嘘の様に軽く、嘘だから軽く、全てが嘘じゃないから重心を持てない。

 

 

「……俺に認めて貰いたかったからか? 振り向かせてェだけか? 違うンだろ」

 

 

「……」

 

 

どうか、それ以上先を紡がないで欲しいと。

強く身体ごと押し付けても、涙混じりに睨んでも、止まらない薄い唇が欠けた月のように傾く。

一方通行が言わせたい事、きっとそれはお行儀の良い言葉、強く輝く為に、銀のティアラを手に出来る『魔法』で。

 

だから。

 

 

「オマエが『変わる』為なンじゃなかったのか」

 

 

「────」

 

 

紡がれて、塞ぎ込まれた息苦しさから逃げる様に。

私は直上の月を、唇で口説いた。

 

いつかの夜、白貌の歌うたいが遠い誰かにした筈の演奏とも、遠想とも違うこと。

直ぐ隣の小さな星が、未熟な想いで距離を詰めただけの、たった1つの小賢しい魔法に騙されてくれる程、単純じゃないと分かっていたとしても。

私の全てを奪って欲しい腕が、動いてくれない事だって分かっているけれど。

 

 

溢れ出した涙が、熱を持たない白い月の目元へと伝って、ただ墜ちていく。

頼りない肌色に覆われた視界の奥でぼんやりと咲いた紅色が、観客のいないドラマキャストの我無者羅を責めてもくれない。

流した覚えのない月の涙を拭う事をしないのは、分かり易い切り離し方を選んだ彼の、小さな意地にも見えた。

 

 

「……それが、全部じゃないんだよ、一方通行。私は綺麗になりたかった。色んなモノを押さえてでも、健気に笑える強さが欲しかった。それは、本当」

 

 

抱き締める所か、まるで物分かりの良い大人がするみたいに弁えた両腕に肩を掴まれ、離されてでも、諦めるだけの利口さなんて要らない。

 

脳裏で蘇る、鮮やかな桜色の笑顔。

きっと将来の不安や期待、溢れ出しそうな感情の渦を飲み込んで押さえながら、強く、優しく、綺麗に咲いた卯月のあの笑顔を思い浮かべる。

 

一方通行の言う通り、私は彼女みたいに成りたかった。

身勝手な怠惰や失望ばかりでモノクロめいた世界にばかり責任を求めて、自分から色のない荒野に踏み出して、荒れ地に咲く花の1つも見つけようともしない幼稚さを捨てたかった。

 

けれど、それだけじゃない。

泥だらけになってでも見付けた私だけの『何か』を、誰よりも貴方に見せたかっただけ。

 

 

「だから、私もあんな風に笑ってみたかった。笑って、そしたらさ、あの時の私みたいに──貴方だって、笑ってくれると思ったから」

 

 

ぶつけた、全ての本音。

私が見た1つの桜色の魔法。

私が求めた強がるだけの魔法。

その道すがらで、余りにも多くの大切なモノを見つけて来たけども。

その全てを天秤に乗せられる程に育ってしまった、たった数ヶ月の想い。

 

 

 

 

 

 

 

私に魔法をかけて欲しいと思った。

 

 

特別なお姫様になりたい訳じゃない、硝子の靴も履かなくて良い、綺麗なドレスなんて要らないから。

 

ただ1つ、好きな人の笑顔が見たいと望むだけの、ほんの少しの勇気を。

 

 

「────」

 

 

それは一瞬だったのかも知れない。

数秒かも、それとも数分か、もしかすると永遠にも似た刹那の瞑目。

何度も見惚れた紅い瞳を隠した瞼の先、長い睫毛がピアノの黒鍵の様に列を成す。

粒状の電気石を身に宿した河川を撫でる夜の風が銀の穂先を浚って、季節外れの雪原みたく、その白貌を隠して。

 

 

だから、きっと見逃してしまったんだろう。

幽かな月の光を踊らせる白銀の髪の裏で、仕方ないなと困った様に微笑む彼を。

擽ったそうにほんの少しだけ喉鈴を鳴らしたテノールだけが、僅かに鼓膜を愛撫した。

 

 

「……隣で笑って欲しいと想うヤツ、俺にも居たンだよ」

 

 

「……知ってる」

 

 

「もう、終わっちまった事だ。ずっと捨て切れなかった道を『手放した』途端、息苦しいだけの自由が残った」

 

 

きっと、胸の中にだけ閉まって置きたかった、語りたがらない、歌いたがらない、剥き出しの残響。

静かな微笑の裏で燻り続けるどうしようもない想いは、口振り一つだけでも乾き切った刃物の様に巣食う痛みだ。

 

どうしてそれを私に教えてくれる気になったのか、何てどうでも良い。

ただ、一言一句聞き逃す訳にはいかない、彼にとっての呪詛であって、私にとっての魔法の呪文。

 

 

──彼の温度の抜けた骨張った右手が、私の頬を添える

 

「だが、そンな中でも守って行かねェといけねェ馬鹿共が居る。返さねェといけねェ負債が随分積み上がっちまってンだ。『どォでも良い』ガキに、これ以上、構ってやる余裕はねェンだ。だから──」

 

 

棘も鋭さもないテノールが、飾り立てた偽りばかりを最後に並び立てるから、軽くなる。

優しさと静謐なまばたきを苦くも出来ない癖に、意地の悪さばかりを鼻に付かせる一方通行に、向けるべき言葉が見付からない。

いや、見付けなくても大丈夫と、根拠のない安堵が、良く分からない感情の塊となって、勝手に私を騙る涙と、共に滑り墜ちていく。

 

 

──小さく一度だけ震えた左手が、私の頬を撫でる

 

 

 

 

「要らねェよ、『今の』オマエなンか」

 

 

パチン、と。

耳の奥、頭の裏側の何処かしらで、何かのスイッチが切り替わるような音が鳴り響いて。

 

 

貴方の切り離し方は優し過ぎると、最後に一つ、意地悪ばかり紡ぎたがる白々しい貌に、言い返してやりたかったのに。

 

真っ白に霞んで行く世界の中で、12時の鐘が鳴り響く。

 

 

 

 

──凛

 

 

 

──ありがとォよ

 

 

 

 

それはきっと、幻聴なんかじゃない。

 

私の願望で動かせるほどにアイツは、簡単じゃない。

 

だから、珍しく詰めを誤った彼の、ほんの少しの隙。

 

私が欲しがった、魔法の『欠片』

 

それさえ残れば、私は──諦めないだけの勇気に変えれる筈だから。

 

 

 

 

───

──

 

 

 

ほんの少しの空白と、甘い屑が風になる白いベンチの上で目を覚ませば。

 

 

もう、其処には一方通行の姿形はどこにも残っていなかった。

 

 

私の手元に残ったのは、彼への未練と、彼の未練。

 

 

樹脂製の黒いギターケースを取り出して、納められたアコースティックギターの弦を爪先で弾けば、伽藍堂の中から音の粒が寂しくなる。

 

 

──諦めてたまるか

 

 

物分かりの良さを求める大人の都合を振り払うのは、身の程を知らない子供の我が儘だ。

 

なら、私は着飾らないまま、ドレスの似合う大人の女になってやる。

 

 

魔法で出来たドレスも要らない、硝子の靴も、彩飾過多なティアラも求めない。

彼の元へと向かう為の魔法の馬車なんて余計な御世話、踵が擦り切れてでも、私の足で辿り着いてみせるから。

 

 

「……っ、くぁ……ひっ、く……」

 

 

丹念に手入れをされたアコースティックの胴に額を押し当てて、今夜ばかりの弱さを溶かす。

今宵、涙を流した分だけ、あの月へと届く為の距離を埋める力になると信じて。

 

 

初恋は、まだ終わっていない。

例え敗れたとしても、破れてはいないから。

 

CDプレイヤーの一時停止を押すように、ほんの少し宿り木に留まって、彼の元へと飛び立つまで翼を得る為の、停滞。

 

 

 

初夏を謳う草花の斉唱に紛れる様に、ひっそりと泣く私を、退屈そうにビロードの幕で傾く、三日月だけが認めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──

───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いよいよだねぇ、しまむー緊張してる?」

 

 

「う、うん……そう言う未央ちゃんこそ」

 

 

「そりゃ私達の大一番だしさぁ、怖いとも思うし緊張もするよね……ま、しぶりんは例外としてさ」

 

 

「……え、私?」

 

 

運転の仕方にコツでもあるのか、プロデューサーがハンドルを握る黒塗りのリムジンに近い車の中は、車外の騒音を殆ど遮断していて、リラックスするには充分だった。

ネックとフレットの隙間を弦ごと押さえる指と共に、新しいコード進行の練習へと気付かない内に没頭していた所為で、三半規管の酔いもすっかり耐性の付いた頭が、ピタリと止まる。

 

片手間に開かれた、所々に折り目が出来た入門用の教本から顔を上げれば、どこかにやけた様な、含みのある未央の笑みと視線がかち当たる。

 

なんとなく、嫌な予感。

 

 

「最近のしぶりん、凄かったもんねぇ。ダンスもボイトレも、なんか鬼気迫る!ってぐらいの勢いだったし」

 

 

「確かに、凛ちゃん凄い頑張ってた! 私達も負けられないです、って他のチームの皆も言ってましたし」

 

 

「みくにゃんとか対抗意識バリバリでさぁ、いやーやっぱり『恋する乙女』のパワーは違うよ。ねー、しまむー?」

 

 

「ねー! はぁ……私も会ってみたかったです、凛ちゃんの恋してる人に……」

 

 

「……や、あのね、一応ウチって恋愛禁止だからそんな大っぴらに言わないで欲しいんだけど……」

 

 

嫌な予感ばかりが的中するこの世の中、理不尽だと嘆いてる暇があれば、徒党を組んでニヤニヤと私の羞恥心を駆り立てる小悪魔二人に玩具にされてしまう。

けれど、その、どうやら私の頬に赤みが差してしまうのは、一方通行に関してだけやたら素直な反応を見せる不便な心では、抵抗する事が出来ないらしい。

 

より一層弧を吊り上げた嫌らしい揶揄かいの笑みに逃げる様に運転席側へと目を逸らせば、非常に気まずそうに片手で特に痛めた訳でもない首元を撫でるプロデューサーがちらりと視界の隅に映って。

 

 

振られたけど、諦めない。

今はアイドル活動に専念するけども、彼の事を諦める気は毛頭ない。

 

そう宣誓した私を満面の笑みとサムズアップで返した霧夜常務代理の隣で、苦笑しながらも聞かなかったフリをしてくれたプロデューサーの大人な対応。

如何にも口の堅そうな彼がその事を吹聴して回る筈もないけれど、未央と卯月の二人は私が一方通行に恋をしている事を知っているらしい。

 

 

まぁ、多分、未央が私にもう一度チームをやり直そうと謝って来た時に、私の隣に居た一方通行の存在から、何かしらを勘繰ってしまったんだろうけど。

 

 

「んーでもぶっちゃけ公認っぽい気がするんだよなー私が見るには。プロデューサーも何も言わないし」

 

 

「……別に、何も言わないからって認めてる訳じゃないと思うけど。というか、せめて他のチームの皆には黙っててよ、ホントに」

 

 

「勿論分かってますよ、これは私達だけの秘密だもん」

 

 

「……なら、いいけども」

 

 

「でも、何人かはもしかして、と思ってるかもねー。最近のしぶりん、なんかスッゴい綺麗になってきたし」

 

 

「……え?」

 

 

「あー分かりますそれ! 休憩ブースのソファーでギター弾いてる時とか、ちょっと大人っぽくて綺麗だよねって、この前ラブライカの二人が盛り上がってました」

 

 

「……そ、そうかな。や、でも、多分気の所為だよ、うん、気の所為」

 

 

「「……」」

 

 

「無言でニヤニヤしない!」

 

 

あぁ、もう、駄目だ。

今にも小躍りしそうな心臓の過剰な運動に熱を上げて、しっかりと耳から首の下まで、どこかの誰かの瞳の色みたく真っ赤に染まってしまうのは、最早私自身どうしようもない。

 

そりゃ、綺麗になったと誉められるのは決して嬉しくない訳ないし、ましてや同じユニットを組んでいる分、普段から私を見る機会が多い二人にそう言われたら、尚更。

 

でも、何よりも、そう言われる度に思い浮かべては心が勝手に想像してしまうから。

 

あの人も、綺麗だと思ってくれるかな、なんて。

 

今更否定なんてしようがないくらい、首ったけなのは変わり様がないらしい、停滞している筈の恋。

 

 

「プロデューサー、窓開けていい?」

 

 

「……余り、顔を出さないでくれるのなら、構いません」

 

 

「お、熱冷ましですかな、しぶりん? お熱いですなぁ」

 

 

「未央、うっさい!」

 

 

こんな気持ちじゃギターもまともに弾けやしない。

今ではすっかり手離せなくなってしまったアイツの置き土産の所為で、学校では軽音部に誘われたりするのを断り続ける申し訳のない日々。

その色々な鬱憤ごと押し付ける様に、ちょっと手荒かなと我に帰りながらも仕舞ったギターケースのヘッドの部分が、車の窓ガラスへと半身を向ける私の身体へと寄り掛かる様に建て直し、視線を外へ。

 

散々に揶揄われてしまった分の礼はいつか返してやると小悪魔二人に向けた反逆の意思表示とばかりにムスンと花を鳴らして、ドアの取っ手口に備わったミラー操作のスイッチを押した。

 

 

「──ふぅ」

 

 

まだ昨日の夕立をほんの少し引き摺ったアスファルトが湿り気を帯びていて、幽玄みたくボヤけた街路樹のシルエットが私を取り残して行く様に過ぎ去っていく。

雑多なフィルムにカラーを添えただけの風景は纏まらず、窪んだ水溜まりに反射した陽光が跳ねる、そんなワンカットだけが目に残って、少し不思議。

 

 

綺麗になったと言われる切っ掛けが、アイツに振られた『お陰』なんだって思えば、野暮ったい夏風を顔に浴びなくても、顔に差した気の早い夕暮れはあっさりと熱を失っていく。

 

この想いを手放さない。

その決意を抱いていく強さは所詮、他人からすれば只の強がりにしか見えないかも知れない。

けれど、それをエネルギーに変えるだけの器用さは、皮肉にもこうして私に寄り添う、この無機質なギターケースが教えてくれたから。

 

 

「──ぁ」

 

 

だから、最初は幻覚なんじゃないかと思った。

赤信号に減速していく黒い車体、微かに小石や砂利を巻き込んだホイールの音がまるで絵空事みたくあやふやな形状で耳に届く。

ほんの少し、腕一杯に手を伸ばせば、もしかしたら届いてくれるんじゃないかと思えるくらいの距離、カードレール越しの遊歩道で。

 

 

──まるで私の願いを叶える様に

 

 

──真っ白な流星が、横に伸びる、その軌跡。

 

 

 

「ぁ、ぃ……」

 

 

誰かの隣で、呆れた様に肩を竦めたその背中、その髪、細長い腕、途切れた横顔。

 

見間違える訳もない。

ずっと、今でも私の心に居座り続けて、ずっと先のいつかで、私の隣に居て貰うんだと誓った白い面影。

 

 

一方通行。

 

 

私の、想い人がそこに居て。

 

 

 

「……凛ちゃん?」

 

 

「しぶりん、どした……えっ、あの人……」

 

 

茫然と、親を見失ってしまった迷い子みたく喉と肩を震わせた私の様子に気付いた卯月が、普段から笑顔の絶えない彼女にしては珍しい戸惑いを露にしながら、そっと肩を叩く。

私の目線を追った未央が、癖っ毛がどこか色っぽい褐色の男の人の隣を歩く、アイツの符号とも言える白銀の髪に気付いて、まさかと息を呑んだ。

 

 

でも、これは邂逅と名札をぶら下げるには余りに一方的で、余りに頼りなく、余りに短い刹那。

心の準備など到底追い付かない、脚本家が仕組んだ、ほんの少しの底意地の悪いイタズラの様なもので。

 

呆気なく切り替わった信号に気付きながらも、まるで彫刻みたいにエバーグリーンを見開いたまま静止する私に動揺して、アクセルを踏めないでいるプロデューサーは、耳をつんざくクラクションの音に、半ば能動的に右足を動かした。

 

 

 

「……ゃ、ぁく」

 

 

 

離れていく、緩やかに離れていく。

ミラーの折りきった窓から衝動的に顔を出して、雑踏の中へと紛れてしまいそうな、遠退かるあの人の背中を、衝動的に腕を伸ばしながら。

 

 

これは、きっとルール違反。

 

エンディングを迎えた筈の私が勝手に手繰り寄せた、身勝手なエピローグ。

 

だとしても、そうだとしても。

 

 

届いて欲しいと。

流れ星に請う、ほんの少しの願いの欠片。

 

 

 

 

──アクセラ、レータァァァ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

けれど、それは行き過ぎた願いだからと、唇を塞がれる様に。

 

確かに口にした筈のあの人の名前は、嘘の1つだって含めてない筈なのに。

 

 

まるで宙を泳ぐシャボン玉みたく、余りに軽く掻き消える。

 

 

──どこからか届いた、激しく鳴る水の音に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目敏い友人を持つ事は、要らぬ気苦労を背負い込む事と同義なのかも知れない。

『耳に届いていない筈』の、『言葉になってない筈』の、何処かの誰か、隣で振り返った男と同じく目敏い少女の──自分の名を呼ぶ声に反応するのだから。

 

 

何の為に、『水溜まりを踏み抜いた所為で』買ったばかりのジーパンの裾を濡らす羽目になったのか、これでは分からなくなってしまう。

 

 

 

──今、誰か貴方の名を呼びませんでしたか?

 

 

 

──さァ、気の所為だろ

 

 

 

喉の鈴を転がして、真っ白な尻尾髪が空を切る。

どこか訝し気に此方を覗き込む男に、ささやかな微笑を返して。

 

その背中は決して振り返る事はなかったけれど。

ほんの少しだけ、車道を向いた横顔。

口元に添えた、甘い笑み。

紅い瞳が、どこか諦めたように細く霞んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────

───────

 

 

 

 

 

「凛ちゃん、大丈夫ですか……? あの、さっき『何て言おうと』してたんですか?」

 

 

 

きっと、誰にだって分かってしまうぐらいに落胆してしまって、俯きがちに鼻を啜る私の震える両手を、そっと卯月が優しい気遣いごと体温に溶かした掌が包む。

擦り切れてしまう事も、周りの目を盛大に集めてしまうであろう事も覚悟して、震わせた喉は、単一音1つすら紡ぐ事が出来なくて。

 

 

──まるで、魔法にでも掛かったように。

 

 

 

「……ごめん、何でもない。何でもないから……」

 

 

「……しぶりん」

 

 

精一杯の強がりの奥底、ほんの一瞬描いた理想は絵空事。

叶う筈もなかった願いの当然の結末に、けれど隠し切れない失意を汲み取った未央の、そっと寄り添ってくれる様な声。

 

 

けれど、大丈夫。

大丈夫だから、本当に。

確かに、アイツは、振り向いてはくれなかったけど。

 

 

遠くへと霞んで行く、白い面影。

勝手に澱んで潤む視界の端っこで、確かに見た。

まるで、手を焼いて仕方のない子供を宥める様に浮かべた、ほんの少しだけの願いの形。

 

仕方のないヤツだ、って。

仄かな笑みを携えた、アイツの口元。

 

 

大丈夫、『今の』私じゃ、まだ、振り向かれる事ないだけだから。

どれだけ時間を掛けてでも、必ずその背中へと追い縋って──

 

 

いつか、今度こそ、言う為に。

 

月が綺麗ですね、って、言えるくらいに。

 

月の綺麗さに負けないくらいの女に、なってみせるから。

 

 

 

「──卯月、未央。お願い、って言うのとちょっと違うけど、聞いてくれる?」

 

 

「……なに、凛ちゃん?」

 

 

 

傷心への気遣いと、目に光を再び灯した私へと、卯月が優しい笑みを浮かべる。

無言のまま、少し固い表情ながらも未央が見詰める。

 

 

一方通行は、今、目の前には居ない。

 

けれど、それは決して、消えてしまった訳じゃない。

 

 

ゆっくりでも、歩くような速さでも良いから。

 

 

彼の背を追い掛ける事を止めなければ、いつかは──

 

 

 

 

「ホントは、開始前に皆で円陣組んで言うべきなんだろうねらこれ。だから、ちょっとした、フライング」

 

 

 

その背にこの手を届かせる為に。

 

 

この距離は、星と星ほど離れている様な途方なモノではないはずだから。

 

 

 

 

「今回のアイドルフェス、絶対成功させよう! そして、私は──絶対アイツに追い付くんだ!」

 

 

「──うん、頑張ろう、凛ちゃん!みんなで!」

 

 

「とーぜんっ! むしろあの人がしぶりんに夢中になっちゃうくらい、素敵なステージにしよっ!」

 

 

 

振り向いてくれなくたって、別に良い。

 

追い付いて、寄り添って、抱き締めて、無理矢理にでもその視界に入って。

あの意地悪で性悪で仏頂面で大人ぶってばっかりの、どう転んだって愛しい男に、骨の随まで分からせてやるんだ。

 

 

私は物分かりの良い女じゃない。

 

 

アイツの心に残る誰かを慮ってやる事なんて出来ない。

 

 

魔法を欲しがってばかりのシンデレラは、もう卒業したのだから。

 

 

ただ、誰よりもその人の隣に居たいと願う、当たり前の形をした恋をするだけの、普通の女。

 

 

それを成就したいと願うのは──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──1人の女の子として、当然だよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──そして、12の刻を通り過ぎた時計は

 

また再び時を刻み出す

 

魔法の終わりなど、知った事ではないと云わんばかりに

 

ならばこの童話は小さく、けれど狂った様にキャストを変える

 

諦めの悪いお姫様が追い掛ける

 

意地の悪い王子様の背中を追い掛ける

 

そこには硝子の靴も、魔法の馬車も、必要ないのだろう

 

 

逆さまの物語は、観客も居ないけれど

 

 

それでも、サファイアブルーの物語は続いていく──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

______






これにて番外編は完結とさせていただきます


残るのは、ただの蛇足

この物語の本質から逸脱した、ちょっとしたご都合主義にまみれた話です

この物語に確かな余韻を感じて下さる方々には、お見せするにはお恥ずかしい程度のおまけ

それでも宜しければ、もう少ししたら完成しますので、それまでお待ち下さい



▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。