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――雨に濡れたアスファルトの独特の匂いが、 鼻につく。
力なく背を預けたコンクリートの壁はとても冷たくて、纏わりつく雨の感触に、責めるように届く雨音に、耐えられなくて、耳を塞いだ。
アスファルトの凹みに出来たどぶ色の水溜まりに映る白い貌は、笑ってしまいたくなる程に震えていて、自分は結局、変われないのだろうと。
――目を、閉じた。
カタカタと震える変色した唇に流れ伝う雫は、この身を責める空の水罰なのか、堪えらなかった感情の残滓なのか。
どちらにせよ、構わない。
どちらにせよ、戻れない
願い過ぎたのだ、必要以上に多くを。
自分には背負ったモノも、抱えたモノもあったというのに。
それでも、自分の傍は楽しいのだと言って離れようとしない『彼女』を。
息も詰まるような泥の闇とは正反対に生きていた『彼女』を。
――願わくば、隣で笑っていて欲しいと思うだなんて。
『やっと、見つけた』
アスファルトの匂いが、消える。
耳を塞いでいた手に、割れ物を扱う様に優しさで重なる掌の感触が、誰のモノかを問う前に、離れて。
どれくらいの間、雨に打たれていたのか分からなくなるほど冷えきった一方通行の背中に、怯えてしまいそうな程に暖かい腕が、回された。
『お勉強が足りないぞ、貴様は。私は諦めが悪い事くらい、いい加減察して欲しいわね』
アスファルトの匂いが、溶けるように消えていく。
どこまでも自分とは違う日溜まりの香りに、あっさりと全てを委ねてしまいたくなるのが怖くて。
ずぶ濡れになった自身の体温の低下から来る寒気からではなくて、逃げ出せない、反射出来ない、操れやしない透明なベクトルを恐れてしまっているのだろう、震えた喉元から。
あまりに弱い、拒絶の意志が流れ落ちる。
――――放せ。
けれど、一方通行は分かっていたのかも知れない。
意地っ張りで、生真面目で、負けず嫌いで、少し臆病で。
そして、何かと世話焼きで、無駄に面倒見が良くて、なかなか放っておいてくれない――
そんなバカなヤツだから、 きっと。
拒絶してみた所で此方の内情などお構い無しに、構ってくるのだろう。
『嫌に決まってるでしょ、バカ』
瞼を、開けば。
一度さりげなく誉めた試しがある艶やかな黒髪を滴る雨に任せて頬や額に張り付けたまま、綺麗に笑う女の顔が、予想通りにそこには在って。
光さえ閉ざした臆病者を漸く対峙の場に引き摺り込めた事を誇るような奥深い黒の瞳が、得意気に細まる。
『もう、私は一歩踏み込んだ』
『つまり、そう。
――――――そこから先は一方通行。一度進んだからには、後戻りなんて出来ないんでしょ?』
『Prologue2』
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朝の風をおどけながらも受け止めるように柔らかなドレープを作るカーテンを見て、春なのだなと改めて実感を覚える自分がとても気障に思えて、思わず小島梅子は苦笑を一つ落とす。
ホームセンターにあったインテリアの黒いテーブルは、購入そのままにリビングに置いて、クロス一つ敷かれない飾り気のなさ。
けれど、女性らしさを感じさせない、シンプルかつ単調な彩りのマンションの一室は不思議と彼女に似合ってはいた。
陽は昇れど、まだ朝早くといえる時間帯。
点けられたテレビのニュース番組、その端に表示されている時刻だけに一瞥をくれるだけで、冷ややかにも映える美貌の持ち主は視線をカップの中で揺れるコーヒーに留めてしまう。
ニュースにしては箸休め程度な、新人アナウンサーの少したどたどしいグルメリポートをラジオ感覚で耳に流しながら、ぼんやりと。
――影響というのは、やはり大きい。
別に荒々しい気性だったとか、必要以上に尖っていた訳ではないが、ふとこうしてゆったりとした時間を過ごす時、変わったのだなと梅子は思う。
丸くなったというか、自身に回す気を殆ど特定の誰かに傾注させればそうなるのも当然だとも思うのだけれど。
こうやって、どちらかといえば紅茶を好んでいた自分が、コーヒー片手にぼうっとする時間が増えたのは過保護気味だと自覚はあるほどに傾注している、一人の少年による影響なのは間違いない。
思えば、ニュースなのにグルメやファッションにも力を入れるとは何事かと以前の小島梅子ならば多少の不快感を覚えていただろうに、今では全くといっていいほど気にならなくなっている。
我ながら弛んでいると苦笑気味にコーヒーを啜りながら、そういえば少年はファッションに関してはなかなかの拘りを見せていたな、と。
グルメリポートからコーナーがいつの間にか移ったのだろう、人気モデルの青年と女性がファッション対決なる催しを行うという内容が耳に伝って、視線が惹かれる。
テレビに映るあれやこれやのファッションに関する単語に首を傾げながらも、なるべく頭の中に残せるようにと、異様に集中する梅子。
彼女の勤める学園の者がこの姿を見れば、意外性に訝しんだりする所だろうが、その実、なんらおかしい事ではない。
単なる、義弟とのスキンシップの為の、話題作りの一環。
いつぞや前に彼の面倒を見る事になって少し経った後から、小島梅子が何とか少年と打ち解ける為に行ってきた習慣が、今も変わらず残っているだけである。
「うん……? スキニー・デニムか………そういえば、洗濯物のなかに一方通行のがあったな。 お気に入りのピィ、コート……に、合わせるからとか言って買ってきたんだった、か……?」
しかし、影響されたといっても根本的に真面目である所までは変わっていないらしい。
ピィ、ではなくPコートだと彼女の独り言に対する訂正が出来る少年は、未だ自室のベッドの上であるので、ズレた認識は変わらず仕舞い。
そして頭の中に入れるべきは本来なら女性の方だろうに、男モノの洋服の知識を優先的にしているところはありがたいが、自身の男周りをもう少し気にして欲しいと少年が最近になって心配している事なのである
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「 ……忘れるつもりなンざ、毛頭無ェンだかな」
それでも、あの時の夢を見るのは随分と久しぶりだった。
夢の内容が影響してか、自他共に認めれる低血圧な一方通行の瞼は寝起きにしては珍しくはっきりと開かれていて。
スッキリとした目覚めの朝だというのに、普段のソレより調子の悪く見えてしまいそうな白い貌を想像して、余計に調子が悪くなる。
本当に、いつ以来だっただろうか。
『彼女』の夢を見るのは。
昨夜に見上げた星屑に押し上げられた感傷の糸が、いつの間にか奥底へと置いておこうとした女の影を、引っ張ってしまったとでも言うのだろうか。
「……」
溜め息一つ、小さく消える。
確かに、忘れようなどとは思ってなかったけれど。
忘れたくないというよりは、忘れさせてくれない辺りが、時折一方通行の都合を差し置いてでも無理矢理な行動に出るアイツらしいな、と。
どうにも懐かしくなって、思わず口元が綻んだ。
くたりとした上半身を捻って、身体を解す。
黒い遮光カーテンを細く長い指先が開けば、薄い雲がかった日射しにさえ鮮やかな紅色の瞳は鬱陶しそうに細められた。
あの時とは違う、やや雲が千切れて漂いながらも晴れ渡る青い空に、どうしてか救われたような気がして。
「…………」
夢の内容が内容だった為か、乱暴気味に乱れたシーツに一瞥をくれて、一方通行は心持ち敷居の高いベッドから降り立つと、ガラスの板にアルミの足が付いたタイプのテーブルに置かれた黒いヘアゴムを手に取り、肩よりも下にまで至るほど伸びた髪を慣れた手付きで括る。
その最中で、テーブルの端に置かれたデジタル時計の表示時刻を確認し、朝食の献立へと思考を巡らせた。
彼の保護者である小島梅子は、料理が得意ではない。
その為、小島家の家事分担制の内容は制定された当初から何度か改正が行われ、結果的に平日の朝食は一方通行が担当する事に落ち着いている。
梅子の作る料理がすべからく不味いという訳ではないが、料理に関しては不器用であるという良く分からない弱点から、スピードというモノに欠いてしまうのも当然で。
教師の職に就く彼女の出勤時間を考えれば、朝食に手を焼いている余裕もない。
となれば、スピードも味も申し分なく 、正午の弁当まで軽々用意してしまう手並みを見せる一方通行に平日の朝の台所を任せるのは実に正しい判断であると言えた。
「和、で……いいかァ」
昨夜の冷蔵庫の残りを省みるに今朝の献立に目処が付いた所で、一方通行はふと、視線を移す。
ベッドの直ぐ近くに鎮座する木製造りのドレッサーの鏡の前に置かれた硝子細工の、枯れ木を見立てたアクセサリー掛け。
一つのオブジェのように違和なく思えるように掛けられたソレを見て、鏡に映る白い貌が静けさに満たされた。
「……」
一方通行しか居ない、八畳半の部屋の中、零れた吐息に寂漠が混ざる。
いけないな、と少し咎めるように白い指先が、『何も付けられてない』首元を擦った。
――忘れるつもりもない、忘れたくない、忘れる筈がない。
けれど、いつまでも引き摺るばかりの自分で居る時間は、もう過ぎている。
あまりに特異な環境の中で思春期を終えたあの頃も、無知な子供のままでは居られなかった。
しかし、今は。
子供のままでいられない、ではなく、子供のままでは居たくない。
そう思えるほど、彼の背中を押してくれた人達が在ったし、在る。
「……確かに、後戻りは出来ねェよ。ンで、後悔もしない、と」
夢の中、強く瞼の裏に焼き付いた彼女の笑顔は、相変わらず眩しく思えた。
―――そォだったよなァ……
全てじゃなくて、多くでもなくて。
ただ一人、守れるだけの力を、今でも願う。
あの日から、今でも。
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春といえば桜、という認識は日本の美徳であるという意見を支持する者も多い。
一方通行もまた桜という花は確かに綺麗なモノだと思うし、桜というモノの在り方に風情を感じるところは外見からではそうと見られる事自体珍しいが、やはり日本の血が流れているのを自覚させるようで。
そして桜といえば花見、と直結して考えてしまう俗っぽさも、人並みには一方通行も持ち合わせていた。
騒がしい事に関してはあまり良い印象を持っていないにしても、花より団子という言葉がある以上、羽目を外して浮かれる輩が居ても、これはある程度仕方がないだろう。
そうして考えてみれば、春になれば馬鹿が増えるということに関しても多少は寛容で在れるというもの。
事実、つい先日行われた板垣ファミリーとの花見の席では、騒がしくもそれなりに愉しいと思える時間だった。
時折、鬱陶しく絡んでくる天使や肉体的に絡もうとする辰子と竜兵を吹っ飛ばしたりする作業や、泣き上戸と絡み上戸の複合型である梅子の厄介極まりなさに辟易する場面もあったが、悪いモノではないと、口元が緩んでいたのも記憶に新しい。
しかし、しかしである。
春じゃなくても、年がら年中、馬鹿なヤツは馬鹿なのだと。
視線を横にスクロールさせれば暑苦しいことこの上ない男の迫力がそこに満ちていて、一方通行は大袈裟に溜め息を落とした。
「む、どうした事だ我が友、一方通行よ!景気の悪そうに溜め息なんぞ付いてからに。そんな事では入学当初以来のSクラス連続トップの席からの転落も危ぶまれるぞ? ハッハッハッハッ!」
桜の花も既に枯れ落ちた少し寂しさの残る痩せ木では、隣の猛者から思考を現実逃避させるにはどうやら役不足だったらしい。
背景にやたらと暑苦しい効果音が鳴り響いていそうなこのジョジョ宜しくな男は、九鬼英雄。
かの天下に名声広しと言われる九鬼財閥の、御曹司である。これが。
春休みも残り僅かな昼下がり、やたらと通る声で笑いながら肩を叩いている英雄と一方通行は、それなりに腐れ縁であることは、この光景を見れば察せれるものである。
唯、あからさまに迷惑そうに顔をしかめている一方通行からしてみれば、その腐れ縁とやらをいっそ断ち切ってしまいたいと思っている。
まぁ、切っても中々切れないから腐れ縁といわれるのだか。
「オマエ、少しは近所迷惑考えやがれ! 無駄に声張りやがッて、このダボが!」
「その言い分は素直に受け取れんなぁ。下々の民草を導く良き指導者としては、演説するには堂々とせねばならん! しかれば、声に張りが出るのは当然、寧ろ最低限の礼節というモノだ。そうだろう、あずみよ!」
「ハイ!!流石です、英雄さま!」
つくづく勘弁して欲しいと、春の陽差しに照らされてより一層白色を放つ頭を苛立たしそうに抱える。
人の指図を受けない様は確かに英雄に似合っているし、一方通行自身も他人の言葉に耳を貸すことすら馬鹿馬鹿しいと思っていた時期も合った為、強く指摘出来ない。
だが、鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。
季節感を全く感じさせない金色の服装は、麗らかな春の空気を遠慮なく殺しに掛かっているし、その隣で恍惚な表情のまま主を持ち上げる従者に至ってはメイド服、無論、季節感などある訳がない。
加えて、遠慮という語句を辞書の一切から削除した様なこの二人と一緒に居れば、溜め息の数が一年経てば星屑の数に匹敵するほど増えていきそうな程で。
願わくば一時よりも早く、この場を去りたい。
脳裏一杯に走る願望のままに立ち去ろうとベンチから腰を上げた白い背中を、王の言葉が捉える。
「まぁ待て、一方通行」
少し慌てたのか、早口で待ったを掛ける英雄。
しかし白い背中を捉えたのは、彼の言葉ではない。
やはり一切の配慮もなく一方通行が着用しているグレーのPコートの襟をぐわしと掴んだ少女の掌と、主君の手前、笑顔を絶やしてはいないが目だけは笑っていない彼女の、無言のプレッシャーだった。
「どうだ、そろそろ我が九鬼財閥の陣営に加わる決心が固まったのではないか? 貴様のその優れた頭脳、腐らせておくには余りに惜しい。我の頭脳として貴様が働いてくれれば、我が覇道もより強固なモノとなるのだ!」
王たる者とは堂々たる者、とは彼の掲げる理念ではあったが、勧誘しながらも一切頭を下げる素振りのないこの男の笑顔に、思わず頷いてやりたくなるのが不思議だった。
人を惹き付けるカリスマという力は、間違いなく九鬼英雄の武器だろう。
人の襟首を強引に掴んだまま、英雄の言葉に宛てられて舞い上がっているこの従者、忍足あずみもまた、彼の才能に魅せられた者の一人だろう。
この勧誘も、思い返せば何度目になるのか。
顔を合わさせれば、参謀に、頭脳にとしつこく陣営に引き込もうとするこの男が、どうしてか一方通行は嫌いになれなかった。
時と場所も関係だにしない彼の勧誘の所為もあって、あまり目立つ事が好きではない彼もまた、その風貌と成績も相俟って学園の有名人となっているのだが。
「それに、姉上がまた会いたいと言ってらっしゃった。あの姉上に気にいられたのだ、最早、九鬼においての貴様の必要性の有無は決まったも同然だといえよう」
「………」
九鬼英雄には、九鬼揚羽という名の姉がいる。
日の本だけでなく世界にも浸透を始めている九鬼財閥の軍部部門の総括である彼女は、その豪胆な快活ぶりと武道においては世界レベルの実力、そして非常に容姿端麗という事も手伝って、老人から子供まで知っているであろうビッグネームだ。
そんな彼女と顔見知りとなった経緯には、やはり目の前の男が絡んでくる。
とはいえ、複雑なことは何一つなく、勧誘を断り続ける一方通行を『それなら一度、九鬼に来てみれば良い』と自社に招き、その時に居合わせたのが九鬼揚羽だった。
大財閥である九鬼の軍部総括殿には、自由な時間など在って無いようなモノ。
しかし、英雄のしつこい招待に仕方なく折れた一方通行が九鬼に訪れた時、揚羽もまた過密なスケジュールをこなし、少しばかりの休息を得ていた。
以前から、弟である英雄が非常に目を掛けている少年の存在を、彼自身や九鬼家の者づてに聞いていた揚羽も興味津々といった様子で、なし崩し的に食事会という流れになってしまった事を、ぼんやりと一方通行は思い出す。
食事会、というには名前ほど品ある訳でもなく。
寧ろ小島家では自分が包丁を握ることも多いと、会話の際に溢してしまった一言が原因で招待された側である一方通行が、九鬼の調理場に立つ羽目になったのは記憶に新しい。
常識の枠に囚われず我が道を進む、それが九鬼たる者に流れる血の所縁だという事を存分に思い知る事になったあの日の一方通行が落とした溜め息の数は、果たして百に届いていたか、否か。
「……ンで、また飯作る羽目になンのか? しっかりとオチまで見えて来やがるぞ、オイ」
「フハハハ! 生憎、シェフは間に合っている。やはり貴様には、その明晰な頭脳を存分に発揮して貰わねばな!」
結局そこに落ち着くのかよ、と。
姉そっくりに快活な、そして生意気にも、雰囲気まで仕上がってきている底の知れないこの男に、また一つ溜め息が転げ落ちた。
本当に、自分とは違うベクトルで面倒なヤツだと思う。
―――学園都市、第一位。
その名を背負うこととなった彼の頭脳を喉から手が伸びるほど欲していた人間など、あの場所では腐るほどに溢れていた。
その頭脳から導かれる現象を躍起になって調べる者、解明しようとする者、利用しようとする者、そして。
――より高みへと、押し出そうとする者。
そういう者達と、九鬼英雄と。
言っていること、願うことも同じコトである筈なのに。
どうしてこうも違うのか、それが未だに分からないでいた。
「おや、これは奇遇ですね、お三方」
「相変わらず苦労人だな、お疲れさん」
「やほー! 今日も良いボクっぷりだねぇ、白りん! うぇーい!」
そして、唐突に姿を見せた、一方通行にとってはお馴染みといった所の三人組の存在もまた。
――何かが、違う。
――何もかも、違う。
その感覚を拒めない理由を、一方通行は未だに探している。
星の浮かばぬ昼の空、眩しすぎて顔を背けていたモノの正体を掴むには、彼には時間が長く掛かるのだろう。
――――友達なんて、きっと初めて出来たのだから。
『Prologue2』――end.
感想の返信の仕方が、やっと分かった……