星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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一方通行(?)とマルギッテ+αのちょっと不思議な短編IFです。
本編とは全く関係ないのでご了承ください


Ex,if memorys
God's mischivous whimsical play


戦場に置いて硬直する事は死へと直結する。

 

命の糸を刈り取る気紛れには御機嫌取りも通用せず、鎌を背負った不埒者に笑い掛けられないのように身を潜める術を磨く事は出来ても、逃れ様の無い死への抱擁に墜ちてしまう未来は幾つも枝分かれしている。

 

土塊の勲章を胸に、多くの死を見詰め、逃れ、歩いてきた反動だろうか。

逆に、光溢れる日常において予期せぬ事態に遭遇した時は、頭を白色一面の空模様に染めて硬直する時間から復帰するのが、やけに遅くなってしまっていた。

 

軍人の職業病、謂わば副作用なのかも知れない。

曇天の空昇る硝煙と共に散って行った者達への敬意の血濡れの手形は決して忘れないと誓っているが、それは静かで優しい時間に身を染める為の必要な儀式だと思えば、仕方ないと苦笑するだけ、私は変われたのだろう。

 

群青に似た光そのものとも云える、お嬢様の隣へと居続ける為ならば、この程度の感傷ぐらい抱えたまま生きていける。

気に食わないあの白兎とて、爛れた傷と常に向き合いながら生きているのだ、私に出来ぬ筈がない。

 

 

 

だが、現在私の目に広がる光景に硬直してしまった時間が最高記録を追い越した理由については、向き合う事を辞退させて欲しい。

 

 

「……にゃン」

 

 

「────は?」

 

 

毛屑一つ解れていない黒いスウェットの上下がまるで黒雪で出来た釜倉の様に盛り上がって、そこから這い出て着たのは、一匹の白猫だった。

 

粉雪の綺白と儚さを宿して、且つ短くシャープなシルエットにも関わらずフワフワとした肌触りであるのが一目見ただけで分かる、毛並みの良さ。

左右微かに吊り上がた猫目は磨き抜かれた一級品のガーネットよりも尚美しく透き通っていて、どこか凛とした瞳が、誰だオマエと言わんばかりに、寝室の扉に手を掛けたまま茫然と口を開いて固まる私を見上げている。

 

 

可憐だ。

 

いや違う、確かに毛並みといい粒らな瞳といい、非常に上等であるのは認めるが、そんな似合わない感性に頬を緩めている場合ではない。

 

この状況に置いて、何故一方通行の寝室にこの白猫が居るのか、という疑問。

何処かから入り込んだとしても、此処はマンションの7階だ。

もしやあの白兎が拾って来たのかと推測するが過剰なまでに相互を思いやる彼が、梅子に黙って、というのは考え難い、それくらいには不服ながらも腐れ縁が続く内に理解を含めている。

 

だから取り敢えずこの猫については一端置いておくとして……もっと大きな問題に目を向けよう。

 

 

「……何処に行ったというのですか、ウサギ」

 

 

シーツの少し捲れたベッド、木造ドレッサーの鏡の前に添えられた硝子細工のツリー枝に、巻き付いたチョーカーのコード。

漆黒の遮光カーテンの隙間から差し込む朝陽に晒されたアルミ足のガラステーブルに乗った鳴らない目覚まし時計はデジタル式なのに、乾いた秒針が何処からか耳に溶ける。

 

部屋の主だけが忘れ去られたかの様な、僅かな生活感を残した彼の部屋が、酷く伽藍堂に見えた。

 

 

 

──

 

god's mischivous whimsical play

 

神様の悪戯

 

──

 

 

「居なくなった、じゃと? 彼奴が? 前触れもなく? 書き置きもなく? 此方に、何も告げずに?」

 

「いや不死川、気持ちは分かるがサラッとあいつに特別扱いされてる風に言うのは止めとけ。後で恥をかくのはお前だぞ」

 

「にょ、何を言うかこのハゲ! べ、別に此方はアイツに特別扱いなどされとう無いわ! 彼奴がいつもいつも此方に構うから、まぁ偶には、気にしてやってもいいかと思うただけじゃ!」

 

「こ、心ちゃん落ち着いて、暴れちゃ駄目だよ……そ、それであの、警察に捜索願いとかは出したんですか……?」

 

「今日中に帰って来ないようなら届け出る、と梅子が判断しました。一応、川神院門下の者達にも協力を取り付けています。ですから少し落ち着きなさい、十河」

 

「……」

 

「ユキ、そう暗い顔をしないで下さい。例え何かに巻き込まれたとしても、早々容易く彼が追い込まれる事もないと思いますよ。それはユキが一番良く分かってる筈でしょう?」

 

「うむ、一応、九鬼の者にも探させているし、我もあれほどの男が何かしらの窮地に陥っているなど杞憂はせん」

 

「……うん、アクセラだもん、平気だよね。えへへ、うん、マシュマロ食べよ……」

 

「……しかし、一方通行への心配もありますが、分からないのは、『その子』ですね。本当に彼の寝室に居たのですか?」

 

「そうだと説明しました。上官に何度も真偽を確かめる事は自らの愚を晒す事と同義と心得なさい、葵冬馬」

 

「これは失礼を……あ、ユキ、猫にマシュマロはいけませんよ」

 

「むー……確かに、食べようとしないね、このにゃんこ」

 

拭い切れない影りを残した榊原小雪の赤い瞳が、私の腕と胸の狭間でじっとぶら下がっている白猫の紅い瞳と見詰め合う。

差し出されたマシュマロよりも綺白な毛を逆立てることもなく、桜の切れ端をはめ込んだような形の鼻で匂いを嗅ぐ事もせず、覗き込んだ鏡映しの色彩にすらただ黙って見詰め返すだけ。

猫という生き物についての知識などない私でも驚いてしまうくらい、この腕の小さな命は大人しい。

野性的な意志が希薄というよりも、物事に動じない静謐さを感じさせるのは、どこか童話的な陰影を連想させる綺麗な出で立ちに依るモノなのか。

 

「けど、連れて来ても大丈夫なのか? ウチの学校は色々とフリーダムだが、流石にペットの持ち込みは許されないんじゃ……」

 

「にょほほほ、隣には大量の山猿がおるのじゃ、猫一匹くらい今更な事」

 

「もう、そうゆう言い方は駄目だよ心ちゃん。でも、アレルギーの人とか居たら大変なんじゃ……」

 

「一応、学園長からの許可は貰っています、安心しなさい。ただ、あまり彼方此方に連れ回さないよう厳命はされましたが」

 

「あ、今確認しましたけど、猫アレルギー持ちはこのクラスには居ないみたいですよー」

 

「うむ、あずみよ、大儀である。主の意志を汲み取り動くその姿勢、良い従者を持って我の鼻も高いぞ」

 

「勿体無い御言葉です英雄さまぁ!」

 

「……弁慶、与一は何て言ってた?」

 

「今日は学校サボって探すってさ。それだけ言って電話切られた。ま、ほっといて大丈夫だと思うよ」

 

「ううん、やっぱり義経も探しに……でも学業は優先だし……むうぅぅ……」

 

「皆の言う通り、一方通行ならきっとピンピンしてるよ。寧ろ心配して学業を疎かにされる方が、アイツは嫌って感じると思うけどね」

 

「うっ……一方通行に嫌がられるのは、義経も嫌だ。うん。取り敢えず、探すのは今日の放課後にしよう。弁慶も一緒に探してくれるか?」

 

「勿論だ、主。私も、いつも見てる顔を見ないと落ち着かないし、ね。面倒臭いけど」

 

それぞれの思考が錯綜する教室の曖昧模様だけは感じているのか、時折くるりくるりと動く尻尾が紺碧のスカートと太腿の境目を撫でて、擽ったい。

当初は狼狽しながらも居なくなったあの親不孝者を待つと決めた途端に落ち着いた梅子もそうだが、このクラスの者達にも随分と信頼はされているらしい、あの兎め。

 

けれどそれは心配しない、という訳ではない。

 

十河などに落ち着かない様子で襟足を弄っているし、不死川の令嬢は鬱憤を晴らすように井上準に八つ当たり、源義経は頻りに溜め息をついて、武蔵坊弁慶は顔色こそ平然としているが、川神水を飲んでいる手が微かに震えている。

 

細やか男性陣も態度こそ平静な様に見えて、所作や仕草に違和感を抱くくらいには、動揺を隠し切れていない。

特に当初から沈んでいた榊原小雪は、普段が惚けた笑みを貼り付けているから、白猫と向き合っていながら浮かべる儚い表情との落差が顕著で。

 

本当に、人の心に楔を打ってばかりで、腹立だしい。

 

その癖、自分は遠くを見ながら前『ばかり』を歩くのだ、例え傷を膿ませたままでも。

 

私や梅子の後を、一定の距離を開けながらも付いて来るこの白猫とは正反対だ。

纏う色彩はよく似ている癖に。

目を逸らすあの気に入らない青年と、静かに見上げる白猫。

その対比に無性に何かを掻き立てられて、結局置いて行く事は出来なかったのは何故だろうか。

 

 

「ねぇ、ボクも抱っこしていい?」

 

「……それは、構いませんが……あまり強くはしないように」

 

「はーい……ん、ふわふわしてる。全然暴れないね、オマエ。うりうり」

 

「可愛いなぁ、毛並み凄く綺麗。でもこうして見ると、榊原さんとこの子、凄く似てるよね」

 

「え、ホント? そっか……ボクと似てるんだって、嬉しい? やっぱり嫌? ふふふ、そっか」

 

「小雪、猫と喋れるのか。義経は驚いたぞ」

 

「喋れないよーでも嬉しいって思ってくれてる事にしたんだー」

 

「そ、そういうものなのか。義経には良く分からない」

 

「主、こういうのはノリだよ。んーでも、私はどっちかっていうと、一方通行っぽく見えるんだよね、その猫。なんか澄ましてる感じとか」

 

 

手放した温もりを惜しむとは、私らしからぬ感情だ。

榊原小雪の腕の中でも相変わらず尻尾以外は静かな白猫は、顎を指で撫でられるのが心地良いのか、紅い瞳をやんわりと細めた。

その仕草が、武蔵坊弁慶の発言に浮かばされたあの男の静かな横顔と重なって、思い浮かべたのはいつかの過去。

 

夜のベランダ、肌寒い月夜の風。

細くなる紅い瞳、仄かに微笑む白貌。

 

何故か、ほんの僅かに、頬が熱くなる。

風邪だろうかと押さえた顔は、直ぐに熱を失う。

私自身が私を隠す様に、紅が去って行く。

 

「あ、それ分かるな。というか、榊原さんと一方通行君自体が兄妹に見えるくらいそっくりだから、この白猫さんも両方に似てる。あ、私もちょっと触ってみていいかな?」

 

「いーよ」

 

「ありがとう、榊原さん……ぁ、この白猫さん、凄い綺麗な毛並みしてると思ってたけど……触ってみると、凄いね」

 

「ほ、本当か、十河。よ、義経も触って良いだろうか……」

 

「大丈夫じゃない? なんか全然動じてないし。でも、あんまりベタベタ触り過ぎたら駄目だよ、主」

 

「う、うむ。おぉ、おぉぉぉ、凄く滑らかな御手前だ…………ん? あれ、この触り心地……一方通行の髪に似てる」

 

「え、どれ……あぁ、確かにこのシルクっぽい感じ……なんだ、こんな所まで似てるのか。案外、一方通行だったりするのかな、コイツ」

 

「一方通行君が猫に? うーん、なんだかお伽噺みたい」

 

「はは、冗談だよ、十河」

 

「うん、分かって……ん? あれ? ね、ねぇねぇ、二人ってもしかして一方通行君の髪、さ、ささ触ったことあるの!?」

 

「うむ、実は一度、じっくりと触らせて貰った事がある」

 

「あれは良いものだった」

 

「ど、どうやったらそんなシチュエーションになるの……」

 

優しく撫で付ける掌に時折、肉球を押し付ける様に、どこか恐る恐るその掌にペチペチと触れる白猫を挟んで、女三人が騒ぎ立てている。

榊原小雪は猫の顎の感触が気に入ったのか、頬を緩めて延々と曲げた人差し指で擦っているのを尻目に、そういえば確かに、あの白猫の毛並みは、あの男の髪の質感に似ているなと。

 

重ねて思い出を繰り越して連なるのは、傷の舐め合いみたいな下らない感傷の夜の所為で、すっかり寝不足に陥ってしまった朝の情景。

あの白兎が寄る眠気に陥落した所為で、仕方なく私が梳いてやることとなったのだが、あの肌触りは格別だった。

それからも、ごく偶に梳いてやる事があるのだが、あの肌に吸い付く様な柔らかな髪質は男の癖に随分と上等な

のがやはり癪に触る。

 

「何を騒いでおるのじゃ」

 

「あ、心ちゃん。あのね……いや、うん。この白猫さん、凄く触り心地いいねって、うん。それだけだよ、うん。ちょっと羨ましいなってね、うん」

 

「??……な、なんか変な気もするが、まぁ良い……ふむ、では此方も。ふふん、喜ぶのじゃな。猫の分際で高貴たる此方に触れられる光栄を誇るが良いのじゃっ──って、へっ?」

 

「あ、猫パンチされた、ぷふっ」

 

「べ、弁慶。笑うのは失礼だ」

 

「いやだって主、不死川だけ……ぶっは、本当にこの猫、一方通行なんじゃないの? ックク」

 

「ふ、ふざけるでない! こ、これはあれじゃ、さっきまで井上と話していた所為で此方の高貴さが損なわれてしまったからじゃ!」

 

「おいおい、酷い言い草だな……まぁ偶々だろ、ほら、俺でも普通に触らせてくれるぞ」

 

「おや、良い血統なのでしょうね、確かに毛並みが素晴らしいですね」

 

「んに、にゅぐぐ、ふ、ふん! さっきのは何かの間違いじゃ、もう一回………………ふぇ、な、何故、何故またしてもぉっ……!」

 

「……やべぇ、俺もこの猫が一方通行に見えて来た。このあしらう感じ、毎朝見てるあれと一緒とすげぇデジャブすんだが」

 

「くうぅぅぅ猫の分際でぇぇぇ!! 覚えておるのじゃー!!!」

 

「あっ、心ちゃん! 廊下走っちゃ駄目!」

 

「……おや、二人とも行ってしまいましたか。フフフ、女泣かせなところも、彼に良く似ているみたいですね」

 

「若には言われたくないだろうよ、猫もアイツも」

 

「……あまり、撫で回すものではないでしょう。榊原小雪、返しなさい」

 

「えー……ま、いっか」

 

一頻り撫で回されながらも、逆にどこか小さな子供達をあやし付けた大人みたいに静かに鼻を鳴らす白猫を受け取れば、今度は不思議と尻尾までもが大人しくなる。

偉そうは偉そうだが、やけにその所作が馴染むのは、大人びた白々しさを貼り付けた横顔がまたも重なるからか。

 

「……あのよ、俺、自習とは一言も言ってないんだけど……はぁ、ま、いいか」

 

教卓で何やら苦労人のしゃがれた声が虚しく響いた気がするが、その毛並みと同じくらいに瞳に吸い寄せられる私には、気を寄越す事すら出来なかった。

 

 

 

────

 

 

 

 

(やはり、まだ帰って来てはいないか)

 

 

果ての境目に滲む斜陽はやがて、目尻に宵闇は滲ませて遠くで今も光を届ける彼方の面影を夜空一面に飾る。

それがまるで黒い涙を流している様に見えたのは、消え切らない戦場の跡が、今もどこかに残っている事を忘れない感傷に依るものだろうか。

 

朱赤とした夕焼けが、片側だけ開かれた黒い遮光カーテンの間から照らして、ガラステーブルの鏡面の上で鋭い銀光のステップを刻んでいる。

角度を変える度に踊る黄昏の一欠片、主不在の部屋で行われる極々小規模なオレンジの舞踏会が、当たり前の白を失っただけで、どうしてか、こんなにも虚しい。

 

「……」

 

与えられた教材道具も、男の癖にやたら舌を唸らせる弁当箱も入ってない学生鞄を置いて、乱れたシーツを僅かながら手直しすれば、結局その上に座るのだから形ばかりの徒労だった。

腕に収まったままの小さな命がピクリと小さな耳を畳んで、よもや怖がらせたのかと勘繰る右手が、私の意志を置き去りにしたままその耳ごと頭を撫でる。

 

柔らかく、滑らかで、癒されて。

なのに、まるで風船から青空を奪う、見えないほどの小さな穴が、勝手にどこからか空いてしまう。

何故だ、私は何を『寂しがっている』んだ。

 

「……」

 

「なァ」

 

腕と胸の間で垂れさがっていた私の暗い紅の髪を黙って見詰めていた白猫が見上げるガーネットに、映る顔が、眉を潜めて唇を引き絞っている顔が誰のものなのか、一瞬分からなくなる。

小さく鳴いただけの、アルトの中に掠れるテノール。

鳴き声を挙げただけなのに、なんであの男に素っ気なく呼ばれた時の、何気ない風景ばかりが脳裏に溢れてくるのか。

 

答える様に榊原小雪を倣って、白綿に覆われた喉を指先で擽れば、丸い紅月が日時計を進めていく様に、細くなる。

やがて新月を迎えて、再び姿を表した紅に映る私の片目が、白猫を真似る様に甘く視界を狭めて。

猫を抱く腕の力が、強くなる。

 

「……本当に、何処へ行ったのか。行き先も告げずに姿を消せば、梅子が心配する事なんて誰よりも存じている筈でしょうに」

 

ふわふわとした毛並みに顎を埋めて、制服に皺が出来る事もどうでも良いと思える奇妙な倦怠感に促される様に、ベッドの上に転がる。

唐突に角度を変えた世界に驚くこともなく、視界の端で、抱き締めたままの白猫が微かに身動ぎしたさと思えば、真紅の猫目が私の顔を覗き込んでいた。

一丁前に心配しているのだろうか、それとも突然ベッドに横倒れした私が不思議に思えたのか。

透き通る瞳の奥底で揺れる、ランプの灯火みたいな虹彩は、何も掴ませてはくれない。

まるで夕暮れか、あの夜の月みたいだ。

感傷ばかりを指先でなぞって、輪郭をただ浮き彫りにするだけの、あの男の『悪い癖』。

 

「折角です、オマエも拝聴しなさい。あの兎と似ている罰です」

 

「……」

 

「えぇ、宜しい。素直ですね、そこはあの兎とは異なるのですか。ふむ、良いことです」

 

「なァうォ」

 

そうだ、このどこからともなく現れた闖入者は、あの背中や横顔ばかりが目につく男とは違う。

その背を追わせず、私の背を追い掛ける。

下らない感傷も、余計な感情も、棘を含めた言葉も差し向ける必要のない相手なのだから。

だから、愚痴を吐くには丁度良い相手だ。

間延びした鳴き声を挙げる、静かな聴取者へと、語りかけるべく息を吸って。

ベッドから、気に食わない白兎の匂いがした。

 

「……良い気なモノです、誰も彼もの心を掻き乱しておきながら。オマエも学校で見たでしょう、あんな男の姿を見ないだけで当たり前の様に笑顔が曇る。たかが1日で、大袈裟な事です」

 

少し顔を傾ければ、頬に伝わる滑らかな感触とぼんやりとした熱が伝わる。

生き物にしては不自然な程の無臭さはささくれ立つ苛立ちに似た何かを摘み取るけれど、残る渇いた心音が微かに不協和音を響かせて、空虚ばかりが鼓膜に残った。

 

「十河も榊原小雪も、不死川心もクローンの二人も、不憫なものです。梅子も、きっと今も心配しているのでしょう。殺しても殺せない様な難儀な男に、そこまで心を折る必要などないでしょうに」

 

ああ、本当に分からない事だ。

武神と名を世界に轟かせる川神百代すら下せる男が、そう易々と危地に追いやられる筈もないだろう。

要らない事にまで頭を回す知性は気に食わないが、そこを凌駕出来るものなど、心当たりすら浮かばないような煮ても焼いても食えない男、心を配るだけ徒労に終わるだけだろうに。

何故、誰も彼も笑顔を曇らせるのか。

 

 

「どうして、不安になるのでしょう」

 

たった1日、それどころかまだ夜にすらなってないのに、どうして心が落ち着かないのか。

 

「口を開けば皮肉の応酬。憎たらしい口で気品のない言葉ばかり吐き出す男です」

 

別に常日頃から一緒にいる訳でもない。

特別親しみを持って接する間柄ではない。

尊くもない、お嬢様や中将閣下に向ける様な敬意などまるで無縁。

命さえ下ればいつでも狩ってやれる、他愛のない白兎。

 

「監視の役目が終われば、揚々とこの場を引き払える。あの男の住み家などではなく、お嬢様の側こそ私が居るべき場所なのだから」

 

いつから、私はあの男と過ごすのが当たり前になったのか。

いつから、私はあの男も共に囲む食卓に違和感を抱かなくなった。

 

「今日の私は可笑しい、ふざけている。出来の悪い贋作に成り果てている」

 

そう、何故なのか、分からない。

朝からあの男、一方通行の顔を見ていないだけで、戦場で食んできた保存食よりも数倍は上等な筈の昼食が、味気なく感じられた。

お嬢様に、元気がないと畏れ多くも心配させてしまった。

見詰め返す白猫の瞳に映る私が、まるで寂しそうに眉を潜めているのに、直ぐに気が付いて。

そんな訳がないと、馬鹿馬鹿しい、しっかりしなさいマルギッテと表情を引き締まらせたのは果たしていつまで保てていただろうか。

 

「何故、一方通行の行方が知れない程度で、こうも心が落ち着かないのですか」

 

可笑しい。

 

「ふとした拍子にあの男を探した」

 

奇妙だ、こんなもの。

 

「那須与一の捜索経過一つに、気を逸らせた」

 

歪なのだ、らしくもない。

 

「オマエが居ないだけで、何故この私が」

 

あり得ないのだ、こんな私は。

 

「──寂しい、などと」

 

 

低く掠れがちな声が聞きたいと思った。

 

鋭い罵声を投げ掛けたいと思った。

 

あの男が作った弁当が食べたいと思った。

 

皮肉がちに笑う横顔を、見たいと思った。

 

 

 

──ただ、いつものように。

 

 

 

 

 

──────

 

 

 

 

「ただ、そう。これは、見飽きた顔を見ないと調子が出ない、それだけの事です。生意気にも道理の知らない兎の分際で、上官である私の気を削ぐなど、万死に当たります。許される事ではないと知りなさい」

 

「……」

 

「報告もなく姿を消すなど、銃殺の末路を辿るだけの愚行だと、あのウサギに思い知らせてやらなければいけない。まぁ、中将から許可も無く、梅子が悲しむので、精々二、三発程度に留めておいてやる、感謝しなさい、一方通行」

 

「……」

 

「……オマエには、詰まらない愚痴を聞かせてしまいましたね。詫びに、キャットフードでも買って来ましょう。ついでに、今も何処かをほっつき歩いているバカウサギもさっさと見つけて」

 

最後に一つ頭を撫でて、何かしら吹っ切れたのか、軽い足取りと共に去って行った紅い麗人を見送った瞳が、窓ガラスの外へと向けられる。

隅から伸ばした宵闇の腕は朧気な夕日の周りを忍ぶように広がっていて、その境目で気の早い星の光がチラチラと瞬いていた。

 

「──」

 

やがて、マルギッテが居なくなって、躊躇う様な数分の静寂。

鳴き声一つ挙げない白猫から伸びた影が、蝋燭の炎に作られた幽かな闇みたく揺れて、揺れて、少しずつ膨らんでいく。

 

太陽は、下へと沈んでいくのに。

影は徐々に広がって、ゆっくりと膨張している現象は、非科学的な幻想絵空。

けれど風船みたく膨らんだ、ワンルームぽっちの幻想がやがて造り出したのは、情報深海の粒子へと光を纏って昇華する現象。

 

猫から、人へと。

 

 

「…………なンだってンだ」

 

 

不機嫌そうに喉を鳴らすのは、白糸の淡さから白銀の流麗さへと映え方を変えた、珍しく戸惑いと混乱を隠し切れていない、男のもの。

 

アクセラレータ、一方通行。

 

奇妙な符号ばかりを名札にぶら下げた大きな体躯を捻りながら、真紅の瞳は動揺を潜めてパチパチと瞬きを繰り返す。

 

とても長い夢を見ていた、とするにはあまりに現実感に溢れた映像の数々を、早くも褪せさせるほど彼の記憶野は都合が良くない。

 

何故か、目が覚めたら、一匹の白い猫になっていた。

ふわふわとした、地に足着かない浮遊感と微睡みの中で半分の意識だけを残したまま、猫になってしまっていた。

 

 

「……訳分かンねェ」

 

 

不可解な現象に振り回されてる自覚のないまま、猫になった自分は梅子やマルギッテの背を追い掛けていた。

何故かマルギッテの腕の中で安らいでいた。

小雪の腕の中でも、特に抵抗もなく。

差し伸ばされる掌を、甘受していた、様な気がする。

当然、そこに一方通行としての意志は介在していない。

 

 

「……チッ」

 

 

色んな顔を、色んな言葉を、色んな人から与えられて。

その全てが残っている。

不安に駆られる顔、影を差す横顔、誤魔化し切れてない焦燥。

自分が居なくなった、ただそれだけのことなのに。

 

 

全部、覚えている。

全部、焼き付いてる。

 

脳に、瞳に、鼓膜に、心に。

 

 

「あンのクソ犬……」

 

 

顔を突き合わせては喧嘩ばかり。

親愛など持ち合わせない、ほんの少し互いの境遇をちらつかせただけの女。

まともに名を呼び合うことさえ稀な相手。

口喧しい、いつからか牙を剥いて喉を震わせる事すらなくなってしまった、ドイツの猟犬。

 

 

『オマエが居ないだけで、何故私が──寂しい、などと』

 

 

「好き勝手言いやがって、クソッタレ」

 

 

どこの誰かの悪巧みにしか思えなかった。

 

ただ少し視界の低くなっただけの世界では、どいつもこいつもバカみたいに沈んでしまって。

隠すならちゃんと隠せば良いものを、読み取れるだけの甘さを残すバカの多いこと。

隠そうともしないバカの多いこと。

 

なんてザマを見せるのかと嘲笑えるなら、どれだけ楽か。

 

 

「……取り敢えず、クソ犬は晩飯抜きだ」

 

 

買って来たキャットフードでも貪ってろ、畜生。

 

紡がれない独白を、握り締めた拳が鳴る骨の音が代弁する。

 

夕暮れから夕闇へと変わるのは、僅かな変化、意識せず間に呉れる程度のものなのに。

 

 

こればかりは、意識するな、というのは無理難題だろうから。

 

 

 

 

 

 

とんだファンタジーをくれたどこぞの悪趣味な神様を殴り付けるように。

 

 

下ろされた拳が、ポスンと虚しく、シーツへと沈んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

______fin.


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