時雨の香りに包まれてみたい
「ただいま。私のお部屋」
「…つっかれた。…お腹痛いよぉ」
「………。…やること、やらなきゃ。…報告書と、海風から読んでって言われた小説と、江風の漫画と、絵の描き方と、お化粧の仕方と、フリスビーの投げ方と、美味しい蕎麦の作り方と、………。机、とおいなぁ……だめ、やらなきゃ!…やらなきゃ、」
「…え、…あ、涙が……字、にじんじゃった…提督に新しい紙もらってきて書き直さなきゃ…………なんで…なんで止まらないのよぉっ!」
「……いやだ…もういやだやよぉっ」
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なんとか涙が治るまで待って廊下に出た。
今は何をやっても手につかないと理解しているはずなのに、空回りするような感覚が私を急かし続ける。
早く楽になりたい。
提督の部屋までは少し遠い。走って行けばすぐだけど、そうすればこの気持ちを抑えられない。
どうか、誰にも会いませんように。
とくに、私の妹には。
しかし、その願いは叶わない。
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「あ!白露の姉貴!」
「江風、夜なんだから静かに」
「貴女、少しうるさいわ」
なんで、こんなときに。
「姉貴、あのマンガもう読んでくれた?」
「ごめんね。まだなんだ。」
やめて。貴女の笑顔は魅力的すぎるの。
「そっか。姉貴とマンガの話するの面白いから」
私だって、提督を困らせるほど遊びたい。いたずらだってしてみたい。貴女の姉だからそれができないの。
「あの、私の本は時間がある時で大丈夫ですよ?白露も色々忙しいでしょうし」
「だいじょうぶ、時間空いた時に読んでるけどけっこう面白いんだ」
嘘だ。江風のはそれでも大丈夫だけど海風と話すのはノートに伏線から考察まで書き込んでいかなきゃいけない。時間が空いた時に少しずつなんて無理だ。
「…ならよかったです。私も白露と本の話するの好きですから」
私を姉と呼んでくれないのは貴女だけ。貴女が改白露型だから?それとも私が頼りないから?
「…あの、白露姉、」
「わかってる。絵の描き方でしょ?」
「うん。…戌年だから、描いてみようかなって」
構わないで、なんて言ってたくせに。貴女があかるくなるまで私がどれだけ泣いたかなんて知らないくせに。
「また今度ね。もう夜遅いし、私これから用事あるから」
「そうなのか?引き止めちまってわるかったな、姉貴」
「ううん。じゃ、おやすみ」
自分が嫌だった。妹にこんなことを考えてしまうなんて。
このまま話していたらボロを出してしまいそうだったから早めに切り上げた。
だというのに
「あの、白露、本当に大丈夫ですか?なんだか辛そうで」
やめて
「大丈夫だって」
「でも」
やめてって言ってるでしょ。
「…あのね、今日あれなの。女の子の日」
「あ…ごめんなさい、」
嘘だ。それも原因の1つだけど辛いのは貴女にきつく当たってしまうから。
こんなことを考えている私が嫌だから。
「いいよ。…じゃあね。」
もう海風の表情は見れない。
私の顔が見られてしまうから。
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結局、提督の部屋までたどり着けずに廊下の端にしゃがみ込んだ。
涙が止まらない。
何がしたいのかわからない。
嫌だ。
何もかもが嫌だ。
もうこれ以上は。
「…あれ、姉さん?」
この声は、
「時雨?」
「ねえさ、…白露、泣いて、」
そっか、ここ時雨の部屋の前か。
「ここじゃ、廊下じゃダメだからさ、 僕の部屋来ない?何があったのか聞くから」
「時雨、…………なんで、こんなに頑張らなきゃいけないのかな」
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「なんで、こんなにがんばらなきゃいけないのかな」
しゃがみ込んでいる白露の声は、本当に本心が漏れ出てしまったような。
ダメだ。それはいけない。
「白露、こっち」
もうこれ以上考えさせちゃいけない。
それが白露に負担をかけるから。
「僕の部屋においで」
今は妹じゃダメだ。お願いすればまた白露はすり減ってしまう。
だから、白露型の中で唯一対等でいられる時雨じゃないと。
「時雨、の、」
「そう。ほら、はやく」
ふらふらと立ち上がった白露の手を引いて僕の部屋のベッドまで歩いて行った。
途中でクッションを1つ拾う。
先に白露をベッドの奥に寝かせてからその隣で横になる。
白露が使っている僕の枕の代わりのクッションを置いてから2人の体に布団をかける。
少し悩んでから、両腕で抱きしめてみる。
「………あぁ、時雨の匂いがする…。」
「すっごく幸せ」
…朧げだった声が少しだけ芯の強さを取り戻した気がした。
「声、戻ったのかな。…白露、元気?」
「……げんきじゃない」
「もう大丈夫かな、姉さ…白露」
「もう姉さんで大丈夫。ありがと」
正気には戻ったのだろうか。僕の匂いで戻るとは思わなかった。
「元気になったら僕の胸に手を伸ばしてる変態さんは自分の部屋に帰ってね」
「わーごめんごめん!あやまるから!」
姉さんは小さく息を吐いて、それから枕に顔を埋める。
その前にちらっと見えた表情は、辛いというより疲れたというような。
「………あー」
「…大丈夫?」
「すっごくいいにおい」
反射的に姉さんの後頭部を全力で叩く。寸前で思いとどまった。
「…ごめん。今顔見せられないからちょっとこのまま」
「…うん。ちょっと枕が濡れるくらいなら許してあげるよ。……でも、息苦しくない?」
「時雨の匂いに包まれて幸せ」
今度こそ全力で叩いた。
「いった!今の全力でしょ!」
「姉さんこそ変なこと言わないでよ!」
少しぶつぶつ言っていたけど、枕のせいでくぐもった声でよく聞こえなかった。
何か言い終わった後に大きく息を吐いて、姉さんがゆっくりこっちを向く。
「…………。……やること多すぎてさ、…疲れちゃったんだよね。」
なんであの状態で廊下の端っこにいたのかと思っていたけどそういうことだったのか。
「大丈夫?何か手伝おうか?」
「ありがと。でもいいよ。私に頼まれた仕事だから。」
「なら自分の管理もしっかりしてね。姉さんが倒れたら虜にされた全員が悲しむんだからね」
「でもさ、あの江風の笑顔とか、少し心細そうに訪ねてくる海風とか、山風のキラキラした目とか、それ見ても断れる?」
「…無理だね。」
「信頼されている村雨、妙に懐いた夕立、崇拝してくる春雨、ちょっとドジな五月雨、実は心配性な涼風、」
それに、
「あと、あんまり頼ってくれない時雨」
「………僕も?」
「うん。…私のやること増やさないように考えてくれてるのはわかるんだけど時雨のお姉ちゃんは私だけだからって心配になっちゃって」
「大丈夫だよ姉さん。僕も時々姉さんが来てくれるの嬉しかったりするから。」
「でも…迷惑じゃない?こういう風に来た時も白露って呼ばせちゃってるし」
「僕だけでしょ?白露って呼んでも許してくれるの。…海風が白露って呼ぶたびに左目の下ちょっと引きつってるよ?」
「う……だって、改白露型の1番艦なんて言っちゃってさ!悔しいじゃない!」
「海風なりに仲良くなろうとした結果なんだよ?」
「……でも、もしかして頼りにされてないのかなって」
「そんなことないじゃないか。こうやって姉さんがすり減っちゃうぐらいには頼られてるんでしょ?」
「う〜でも!」
「…はいはいもう今日はこのまま寝ちゃおっか」
「え?私まだやることが」
「海風のことを悪く言っちゃうなんて絶対姉さん疲れてるんだよ」
「それはわかってるけど…でも…」
「いいじゃないか。今日はゆっくり休もう?明日調べ物とか手伝ってあげるから」
「…でも、服が」
「うるさい。今日はもう寝るの!…ちょっとくらいならカラダ触ってもいいから」
「ほんと⁉︎」
伸びて来た二本の腕が僕の胸をわしっと掴む。
「………。」
「……姉さんどうしたの?」
「……ちょっとテンションが限界になっちゃった」
「無理しなくていいのに…」
姉さんの腕を優しく払いのける。
「じゃ、今日はゆっくり寝よっか」
もう一度、両腕で抱きしめてみる。
「…そだね」
今度は姉さんも返してくれた。
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「完全復活‼︎」
姉さんがベッドから立ち上がって大きく伸びをする。
「んふ〜!やっぱりしっかり寝ると違うね!早く海風と江風と山風に謝って来なきゃ!」
扉の前まで走って行ってばたばたと靴を履く姉さん。
とんとん、と爪先を地面に打ち付けて、それから一度小さくジャンプした。
内側からかかっている鍵を開けて、ドアノブを回す。
「…時雨、ありがとね!」
ニッコリと、最上級の笑顔。
本当にずるいや。みんなの心を掴んで離さないんだから。
僕以外の心もつかみに行っちゃうんだから。
お化粧は村雨、フリスビーは夕立、蕎麦の作り方はさみすず用。
時雨ちゃん頑張って病まないでください