「いってらっしゃーい!」
あぁクッソ、遅刻する!
俺は後ろから投げかけられる出送りの言葉を無視して靴に足を突っ込んだ。
こんなことなら”こいつ”を受け入れなければよかった。
と、そんな後悔してる暇もない。入学早々遅刻なんてたまったもんじゃない。
かなり時間が迫っているので俺はかかとを踏んだまま玄関扉を開ける。
「あれ、いきなり放置プレイ?いいね、興奮するよ」
朝っぱらからドM発言をかます少女に俺は自転車にまたがってから強めに言いつけた。
「大人しくしてろよ八重!」
ようやく慣れた高校への通学路を自転車で突っ走る。風圧を受ける中、俺は悔いていた。
昨日苛立って道端の烏に空き缶を投げつけたのがすべての原因だ。
そのせいで俺の一人暮らしは幕を閉じてしまった。
赤信号に腹を立てながら俺は昨日の放課後を思い返した。
入学して二週間ほどが経ち、全員がクラスになじみ始めた頃だった。
「学級委員長は盥 榊、頼んだぞ~」
「はぁ!?」
俺は担任の気の抜けたような指名に即座に不満の音を上げた。
特に多数決を採る訳でも、先生に対して優等生的な態度を見せたこともない。
なのにいきなり学級委員長に任命なんて、納得できるわけないだろう。
「まぁほら、教卓の目の前だから、さ」
担任はへらへらしながらそれだけ言って終業のHRを終わらせた。なんと面倒臭い……。
俺は面倒臭いことが嫌いなのに、無理やり決定されてしまった。明日から委員長としての仕事が待ってるのか……心なしか肩が重くなった気がする。
放課後に学校から少し離れた場所の自販機で缶ジュースを買い、一気にグビッと飲んだ。炭酸が口の中ではじけ、ガスが胃の中に充満する感覚を味わっていると、
「ガァ」
どこかで烏の鳴き声がした。
数メートル先のゴミ捨て場を見ると、一羽の烏がゴミネット越しにゴミを突いていた。
あぁあぁ、辺りにゴミが散らばっていく。俺これからそこ通って帰るんだけど……。
無理矢理委員長に任命され、さらに通学路が汚くなったことで俺の怒りメーターは限界を迎えた。
手の中の空缶を握り潰し、夢中でゴミを突いている烏に向かって力任せに投げつける。
勢いよく綺麗に真っ直ぐ飛んで烏の羽にヒットする空き缶。
烏は驚いて飛び去って行った。なんだかすっきりしたな。ん?今烏に脚が三本あったような……気のせいか。
俺は学校へ戻り、自転車に乗って帰路についた。
上空から先程の烏にストーキングされていることに気づかずに――――。
「おはよう」
朝一で言葉をかけられたときは心臓が止まるかと思った。
言っておくが、一応コミュ障ではないぞ。
学校でおはようと言われればおはようと返すさ。当たり前だ。
問題は独り暮らしをしているこの家の寝室で、見知らぬ美少女に挨拶されたことだ。
寝起きのせいで目の前の状況が理解できない。
まだ完全に活動を開始しない脳を必死に回した結果、口から出たのは
「誰だお前」
という素っ気のない一言。驚こうにも驚けないこの状況。
それは俺が寝起きなのと、この子の容姿をはっきりと認識したからだ。
超絶美少女。
少し癖のついている黒髪を後頭部上方できゅっとポニーテールにしている。
うなじが全部隠れない長さで、髪とは対照的な雪のように透き通った肌が俺を魅了した。
くりっとした黒い瞳で俺に無邪気な笑みを向ける彼女。身長はだいたい百五十センチと見て取れる。
思わず見とれてしまった俺をみてクスリと笑った彼女。
淡い桃色の唇を動かしたと思ったら、今度は俺の口が塞がらなくなってしまった。
「私、昨日の烏だよ」
あー痛い痛い痛い。誰だこんな幼気な少女を中二病にしやがったのは!
まっすぐいい子に育っていれば絶対勝ち組だろうに……。
一人で勝手に憤慨してる俺を他所に、彼女は不服そうに頬を膨らませる。
「私の言うこと、信じてくれないんだ」
「当たり前だろ」
出会い頭に「烏です」なんていう奴はどうかしてるに決まってる。
そんな昔話的なノリで言われても。
仮にそれが本当だとしたら何ですか。復讐ですか。
鶴の恩返し逆バージョンですか。
彼女は身体とポニーテールを揺らして唸る。
「これで信じてくれる?」
そう言うや否や彼女は長袖パーカーの右袖を肩まで一気にまくり上げた。
唐突に外気にさらされる真っ白な滑らかそうな肌。
いや、美しいとかよりも俺の目を引くものがその腕にある。
痛々しいぱっくりと割れた傷。
肉が縦に割れ、赤黒く染まっている。
なにも処置を施していないのが不思議でならない。
「これ、貴方が昨日投げた空き缶でこうなったんだよ?」
そう言われて思い出してみる。
確かに、俺の投げた空き缶は右翼に当たっていた。
「でも、俺が空き缶を投げつけたのはあくまで烏だ。君みたいな女の子じゃない」
俺の反論に彼女は深く溜息を吐くと、中指と親指を合わせる。
それを頭上に掲げ中指の腹を親指の付け根に叩きつけた。
しかし、俺の耳に届いたのはパチンという綺麗な指パッチンではなく、スぺッというすかした音だった。
「………」
「そ、そんな生暖かい目で見ないで!鳴るの!ちゃんと鳴るの!」
慌てふためき、再び頭上で同じことを繰り返す彼女。
パチン!
今度はちゃんと綺麗な音が響いた。と認識すると同時に、俺は目の前の光景を疑った。
見る見る縮まっていく彼女の身体。白い肌から生えてくる黒い羽毛。
黒く染まっていく顔は鼻と唇がぬぅっと伸び、あっという間に嘴へと変貌した。
二秒後には俺の目の前に少女の姿はなく、一羽の烏だけがそこにいた。しかも、足が三本生えているではないか。
――私、昨日の烏だよ。
彼女の言葉が脳内でリピートされた。
何だったけ、前に本で読んだことがある。
日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏。三本足が特徴な……。
そう、確かアレの名は――
「八咫烏……」
いつの間にか少女の姿に戻っていた彼女は嬉しそうに声音を変えて言った。
「正解☆」
ニコニコ笑顔の少女とは反対に、俺の顔は引きつっていた。
目の前にいるのが人間だというのならば、不法侵入で済んだ。
しかし、こいつは人外である。
少女が人間ではないことを認識すると、言い表しようのない恐怖が一気にこみあげてくる。
とにかくこいつは化け物だ。それに対して俺は、物を投げつけて怪我させてしまった。
「……俺に、復讐に来たのか?」
微かに震える左腕にぐっと力を入れる。いざとなったら、戦うしかない。勝てるか分からないけど……。
そんな俺を前に少女は口元をにぃっと釣り上げて、口を開いた。
「逆だよ」
「へ?」
俺が確認しようとした瞬間、彼女は心の中で何かが堰切れたように目を厭らしく輝かせた。
頬を火照らせ、快感を全身で味わっているかのようにビクンを大きく震える。
「初めてだよ、あんな強烈な痛みは! 缶のふちが当たったときの衝撃、そのあとの一気に
来る痛み。
肉がパクッと裂けるときのあの音痛み快感といったらもう……あはっ。ぞくぞくしちゃう……♡」
先程までの無邪気さとは打って変わって妖艶な雰囲気を醸し出している彼女。
はぁぁぁと彼女が何度も漏らす吐息が部屋に充満していくような気がして、俺まで彼女の雰囲気につられそうになる。
頭を左右に振りしっかりと意識を保って、
「お前…まさかMなのか?」
と問うと彼女は厭らしく笑顔を浮かべて頷いた。
へ、へへへへ変態だ!
というか、復讐したいわけではないのか……。
じゃあ、一体少女の目的は何だ?
「私の目的、それはね……」
俺の心を読んだかのように丁度いいタイミングで彼女が口を開く。
もう厭らしい雰囲気は感じられず初めの無邪気な少女だった。
俺の近くに歩み寄り、にっこりとほほ笑んでからこう言った。
「私を貴方の家族にしてほしいの」
……は?
家族、って言ったか今。
「もっともっと貴方に虐めてもらいたいの。私にこんなに最高の快感を与えてくれた、貴
方に。
別に断ってもいいけど、もしかしたら貴方の学校の先生の耳に貴方が少女に暴行を加えたっていう情報が入っちゃうかもね♪」
がっつり脅しじゃねぇか。
つまりあれか、一緒に暮らして虐め続けるか、断って暴行をチクられるか、だろ?
そんなもの、一択じゃないか。
「仕方ない、一緒に暮らしてやる」
幸い単身赴任している両親からの仕送りは余るほどある。
数人で共同生活できるレベルの金はあるから問題ない。
独り暮らしの息子が心配なのはわかるが、いくらなんでも送りすぎ。
嬉しそうに抱き着いてくる彼女を受けとめつつ、俺は溜息を吐いた。
一体どうなることやら……。面倒臭いが、そのうち楽しくなるかもな。なんとなくそう思った。
この先、普通とは少し違う日常が待っていそうな予感がする。
そんなことを考えていたら、俺はとても大事なことを思い出した。
「今何時だ!?」
慌てて時計を見ると、七時を大きく過ぎている。まだ朝食も作ってないし支度も何もやってない。
独り暮らしじゃなければ朝食は用意されているんだろうけど、生憎我が家に朝食を作ってくれるような人物はいない。
「取りあえず飯にしよう。えーっと……」
俺は少女に声をかけて大事なことに漸く気が付いた。馬鹿か俺は。
「お前、名前は?」
俺の問いかけに少女はゆっくりと首を傾げる。まるで質問の意味を理解していないかのように。
まさか烏には名前という概念がないのだろうか。
少女が、私に名前はないのでつけてほしい。と告げてきたので俺は脳をフル回転させて名前を考案する。
八咫烏…八咫…八…八…。
ふと、窓の外に目をやると見慣れた街並みの中に桜が咲き誇っている。
『――榊、あの桜は関山っていって「八重桜」って呼ばれてるのよ』
その桜を見た途端、随分前の母さんとの会話が頭に浮かび上がってきた。
八重咲き、か……。
「八重(やえ)、でどうだ?」
少女の容姿が八重桜のように可愛らしいのと、八咫烏との「八」がうまい具合にかかっていていいと思うのだが……。
「八重……」
俺の提案した名を反復する少女。
それでいいかどうかはあとで聞こう。今はとにかく飯を作らないと。
……八咫烏って人間と同じ食事でいいのかな。
ま、雑食だし、大丈夫か。妖怪みたいなものだろう。
俺は階段を駆け下りて居間にあるキッチンへと向かう。適当にトーストを焼いていると、しばらくして居間に少女がやってきた。
俺のサラダを作る作業を物珍しそうに眺めていたので試しに訊ねてみた。
「お前、名前は?」
「私、八重って言うの。よろしくね!」
どうやら気に入ってもらえたようだ。少し安堵してほっと一息ついた。
そうこうしている間にトーストとサラダ、コーンスープという平凡な朝食が出来上がる。
八重にも手伝ってもらってテーブルへと運び、向かい合って座る。
いただきます、と合掌すると八重もそれに倣って合掌して食べ始めた。
恐る恐るといった感じでトーストの端を齧った八重は、目を輝かせると一気に食べ進めていく。
自分が作った料理をおいしそうに食べてもらえる喜びを感じながら自分もサラダを口へと運ぶ。うん、上出来。
「ねぇ、貴方の名前は盥 榊で合ってるよね?」
食後に洗い物をしていたら八重にそんなことを問われた。
今の西向きの大きな窓から外の風景を眺めていたのか窓の前に腰を下ろし、そこからキッチンの方を振り向いている。
合ってるけど、どこで調べたのだろうか。
聞くのも怖いから黙って頷いておくと八重は二パッと口角を上げた。
脅されて家族に迎え入れたわけだが、やはり可愛い子は可愛いと思ってしまう訳で。
見た感じだと中一くらいの感じだな。背も胸もあんまないけど。
「今失礼なこと考えなかった?」
「いーえ、別に」
先程の可愛らしい笑みは消え頬を膨らましてしかめ面を浮かべている。その後ふいと顔を窓に向けてまた外の風景に見入ってしまった。拗ねたのか。
洗い物が終わると俺は手を拭きながら二階へ上がる。学校の支度をするためだ。
東の窓からの日差しが眩しかったのでカーテンを閉めてから時間割を確認して教材を鞄に詰めていく。
少し着慣れてきた制服にそでを通し、ネクタイを締める。
よし、準備完了。
荷物をもって階下へ向かうと、居間の方から嫌な音が聞こえてきた。
誰しも耳にしたことがあるであろう。ドジっ娘と暮らしてる人ならなおさら。
パリーン!
絶対何か割っただろ、八重。俺は慌てて居間へと走る。
八重は割れたグラスを前にしゃがみ込んでいた。指から紅い血が滴っている。
「おい、大丈夫か!?」
救急箱から絆創膏を取り出して急いで八重の指に巻き付ける。その間八重は言葉を発さなかったが、口元がにやけているのが分かった。やはりMだ、こいつ。
時間を気にしつつグラスの破片を回収していると、無造作に八重もそれをつかみ取ろうとした
するとどうなるか、勿論皮膚が切れるに決まっている。
痛いっ。と小さく悲鳴を上げる八重を連れて俺はソファへと移動し、そこに座らせた。
本日二度目の出動で救急箱もさぞ驚いていることだろう。普段使わないしな。
消毒液やらガーゼやらで手当てをしている間に八重にグラスとかの破片は気を付けて片付けないといけないことを説明した。
痛みを感じるために繰り返すとかは本当にやめてほしい。
そこまで快感に貪欲でないことを祈ることしかできないが、もうやらないように言いつけるとすんなりと頷いてくれた。
「よし、こんなもんでいいだろ。気を付けろよ」
「えへへ、ありがと。榊」
笑顔の破壊力に耐えながら俺は再び破片の回収に取り組む。
八重には大人しく座っててもらおう。
破片をすべて回収して紙袋に纏めて口をふさぐ。念のためスリッパをはいて掃除機で仕上げに辺りを掃除し終えた頃に漸く、いつもの出発時間を過ぎていることに気が付いた。
「やっべ、もう出ないと!」
俺は慌てて鞄を肩にかけて玄関へと向かった。
そして八重のドM発言を華麗にスルーし大人しくするよう言いつけてから家を出たのである。
なんとも災難な日だ。とにかく遅刻だけはしたくない。目標は無遅刻無欠席だ。
自転車のペダルを踏む足に力を籠め、高校へと急いだ。
向かい風に髪の毛を逆立てられながらも、できるだけ安全に考慮しつつ突っ走る。
頼むから、間に合ってくれ……。
が、そんな俺の願いも虚しく、俺が席に着いたのはチャイムが鳴った後だった。
畜生。