銀河は英雄のもの   作:mojito

1 / 4
アールガウ伯家の兄弟

 私に弟ができたのは、私が十歳の時だった。屋敷の門の前で初めて対面した瞬間のことは今でも鮮明に憶えている。私が手を差し伸べると──当然握り返して貰えると思っていたのだが──彼は一瞬だけ躊躇い、しばらく我が父の表情を窺った後、おもむろに臣民がするように跪いたのだった。私は無言のまま、敬して遠ざけられた自分の手を引っ込めて、眼下で風に揉まれる彼の髪をただ眺めていた……。

 ところで、赤ん坊が跪いたりするなど有り得ないとお思いの方もあるだろうか。その通り、弟は赤ん坊ではなかった。生まれ年は私と同じで、とっくに乳離れもしていたし立派に口も利けた。それがお互い十歳の年に初対面と相成ったのは、一言で言えばそれまで父が彼を認知していなかったからだ。彼は父が、母ではない──正確に言えば私の母ではない女性との間に儲けた子だった。父は、仮にも帝国貴族が、平民ならまだしも賎しい階層の女との間に生まれた子を屋敷に入れるわけにはいかないと考えていたらしい。父曰わく。

「帝国貴族、それもルドルフ大帝以来の累代の臣たる、我がアールガウ伯爵家の沽券に関わるではないか」

 だったら最初から不貞行為をするなと言いたくなるが、父の意向に従い、弟はそれまで市井で暮らしていたのだった。それがなぜ突然認知され屋敷に入る運びになったのか、父の口からも弟の口からも語られることはなかった。けれど、後々耳に入った風の噂では、弟の母──つまり父の愛人が流行りの病に罹り、貧困から満足の行く治療も受けられずに亡くなって、さすがの父も憐憫の情を抱いたらしい。

 もしかすると、同い歳といっても彼の方が誕生日は先で、本当は私の「異母弟」ではなく「異母兄」であったかもしれない。長幼の順を意図したものとするために出生記録を改竄したとしても、何のお咎めもないのが帝国貴族という階級だ。もちろんその帝国の国法では、嫡子を差し置いて庶子が跡取りになるなどそうそう許されることではないのだが、父は万事そういうちょっとした体裁というものを馬鹿馬鹿しいほどに気にする性質だった。でなければ、遅きに失した憐憫の情などではなく、人間らしい温かみのある愛情によって、もっと早くに母子を屋敷に迎え入れていたに違いない。

 ともあれ、私エルンスト・フォン・アールガウと、弟エドムント・フォン・アールガウはその日出会った。と言っても、まだこの時点では一言も言葉を交わしてはいない。同じ血を半分づつ受け継ぎ、同じ姓を名乗りながら、二人の間には歴然とした格差があって、それが普通なら血を分けた者同士で行われるであろう会話を妨げていた。なにしろエドムントは、父の許しなしには勝手に口を利くことすらできないのだから! これが、未だ幼かった私が人生で初めて遭遇した、この帝国という社会をいくつにも分かつ亀裂のほんの一端だった。エドムントにしてみれば生まれ落ちたその瞬間から存在した、そしてゴールデンバウム王朝開闢以来、いや、最も古い時代から連綿と人類社会の中に走っていた亀裂だったのだが。ただ、私はそれまで当たり前と思って視界に収めていなかった広いクレバスの底を、こうしてようやく覗き込まされたのだ。

 

 

 

 父は結局また外に女性を求め、私達兄弟が二十五歳になった年、妾宅で頓死した。母や親族はとっくに父の女癖の悪さを諦めていたらしく、葬儀では少しも悲しむそぶりを見せなかった。彼らの意識はすでに、アールガウ伯家には似つかわしくない醜聞を如何にして隠すかに移っていた。もっともこんな話は門閥貴族には珍しくないのだから、どこまで本気で隠す気があったのか。悠久の歴史と強大な専制とを誇るゴールデンバウム王朝を以てしても不敬罪という条文を廃止することはできていない。逆説的にそれは皇帝の醜聞ですら(もちろん直接的な表現は使えないにしろ)揶揄の対象になり得るということを表している。つまり官憲のお目こぼしを得た大小のゴシップ紙の下卑た目線はなべて中央の事件に向いているわけで、田舎貴族の醜聞ごとき、帝都では持ち込んでも一山幾らというところだろう。大体、醜聞といってもそれはすでに亡き父のものだ。それによってアールガウ家の家名や生きている人々の評判が傷付くというものでもあるまいに。私は葬儀の進行にお構いなしに繰り広げられる親族らの相談事に耳を傾けながらも、内心苦笑した。

 私は父の残したただ一人の嫡子だった。故に、父が死んだ時点で私はアールガウ家の家督を継いだものと見なされる(正式な相続には皇帝の許しを待つ必要があるのだ)。親族の誰よりも上席に座らされて、愛してもいなかった父の葬儀の主催者ということになったのはそのためだった。全く、父の頓死は大迷惑もいいところで、私は帝都での軍務を放り出して所領のアールガウ星系に戻らねばならなかった。

 私はふと、同じく軍務から舞い戻ったばかりの弟に目をやった。私達兄弟はほぼ同時に帝国軍に籍を置いたが、帝都やイゼルローンといったいわば華々しい勤務地を選ぶことができた私と違い、エドムントは辺境惑星を転々としていた。その割に、伯家の世嗣という下駄を履いた(訳注:本書の帝国語原文ではもちろん下駄は登場しない)私と昇進の速度は遜色なく、ともに帝国軍少佐の階級で、私などよりもよほど優秀なのだろうというのは軍務についてからのここ数年痛く感じさせられていた。そんなエドムントも、ここアールガウの家中にあっては単なる庶子に過ぎない。今もほんの末席にあることを許されているだけなのだ。

 弟は、親族連中の後ろに一人いて、何やら顔を俯けていた。私はなんとなく、彼もまた私同様に苦笑を噛み殺そうとしているのかと思った。あるいは隠そうとしているのは満面の笑みか。それも許されるほど、弟には父を恨む正当な理由がある。

 私は葬儀が終わったら弟に声をかけてやることにした。この年になるまで兄弟として親しく話した記憶がなかった。が、それを妨げていた父は最早この世にいない。父が愚かにも気にしていた恥も外聞も、父が一緒に墓の下に持っていくだろう。私がアールガウ伯になれば、誰にどういう口を利こうとこの家中に文句を言える者はいなくなるのだ。相手が皇帝でもない限り。そして二人の兄弟は、手を取り合って……。

 

 

 

 エドムントは、誰にも盗み見られぬうちに、自らの目尻に浮かんだ涙を拭った。父の急を任地で知ったときすでに一生分を流し尽くしたのだと思っていたのだが、その死に顔と対面した今、彼は再び涙の溢れるを禁じ得なかった。

 それは、決して父への愛によって生成された涙ではない。人の一生涯に流す涙の全体量が決まっているとすれば、母の死んだ時に既にその九割は失われていた。父のために流したのは残りの一割に過ぎない。父など死んでよかったという思いはエドムントにもある。母を真の意味で愛さなかった父を愛することなど、誰にできよう。

 しかしそれでも、そんな父のために一割の涙が流れ出たのは認めざるを得ない事実だった。父は、父こそは、エドムントにとって最後に残された肉親に他ならなかった。今この場には、父の本当の妻だった女、父の本当の息子だった男、そして父の親族がいるけれど、その中にエドムントにとって肉親の情を抱くことのできる人間は一人としていないのだ。抗いようもない孤独感こそが、まさしく彼の頬を伝う涙の成因だった。

 ようやく気持ちを落ち着かせ、おもむろに顔を上げたエドムントの視界へと唐突に飛び込んできたのが、この場の支配者の地位を得たばかりのエルンストの微笑だったことは、この二人にとって決定的な出来事になったのかもしれなかった。エドムントが父に抱いてきた感情は愛ではなく敵意だったが、父が永遠に存在しなくなった今、無意識にその矛先を探していたのだろう。エドムントの父への敵意はまだしも肉親に対するものだったのに比べ、肉親として数えられていなかったことがエルンストにとっての不幸だった。

 エドムントは己の体温が急激に下がるのを感じ、エルンストの微笑を自らを嘲り蔑むものと解釈した。エドムントは元来頭の切れる冷静沈着な青年だったが、その冷静さは時として冷酷さに転じる。自分の方から抱いてしまった敵意に気付かず、相手の敵意を確信してしまった人間にとっては、冷酷なまでの冷静さはむしろ毒だった。激情に駆られがちな者ほど、激情の去った後は内省できる。普段滅多に激情に駆られないエドムントには、激情の中で抱いた敵意を省みる機会が与えられなかった。エドムントの優れた頭脳は、過去を振り返ることなく、敵を如何にして容赦なく打倒するかに全思考能力を傾けた。

 

 

 

「エドムント!」

 私より身長は高いがどこか線の細く感じられる弟の背中に、目一杯の親しみを込めて声をかけた。その背中は一瞬ピクリと震え、すぐに振り返ってくれる。

「……」

 が、いつも通りだ。言葉は返ってこない。それもそうか、十五年そうして過ごしてきたのだ。

「いいよ、私がお前と話したいのだから。ああ、いや、これからはお前から話しかけてくれてもいい」

「……それは、ありがとうございます」

 間を置いて、エドムントは意外にも爽やかな笑顔で答えた。私は少なからずそれに動揺させられた。これまでの十五年間、弟のそんな顔は見た記憶がない。やはり彼は、腹の底から笑ったことがなかったのか。父がエドムントにしてきた扱いを思い出し、私は今更ながら彼の不遇に心を痛めた。しかし、それもこの日終わるのだ。

「私はもうしばらくここに残るつもりなんだ。陛下にお目通りを願うまでに、領内の現状を把握しておきたいからな。お前はすぐに軍に帰るかい?」

「いえ、私も久しぶりの休暇です。兄上にお許しいただければ、少し羽を伸ばそうかと。あ、こんなことを言えば父上に対する非礼にあたりますか」

 弟は饒舌に答える。これまでを思えば、彼らしくないと言えなくもない。しかし、その明るさが本来持っていた彼の性格なのではないかと嬉しくなった。

「いや、いいさ。葬儀はしっかりと済んだのだから。丁度いいから、一緒に領内を回らないか」

「……? よろしいのですか、私は──」

「庶子で、世間体が悪い、と言うんだろう。構うものか、そんなのは豚に喰わせてしまえ。オーディンの社交界ならいざ知らず、ここはアールガウ伯領だ。アールガウ伯家の当主たるべき私が決めたことに誰にも文句は言わせない。もちろんお前もだぞ、エドムント」

 考えていたことを残さず打ち明ければ、弟は目を見開いた。

「そこまでおっしゃるのであれば、お供させていただきますが……」

「なに、気にすることはないじゃないか。お前の母も伯領に生まれた一人だ。領民どもはかえって親しみを感じるに違いないよ」

 そう言って肩を叩いてやると、恐縮したのかエドムントは急におし黙ってしまった。私は慌てて付け加える。

「いや、そんなことは後回しにして、今日はひとまず旨い酒でも酌み交わそう。お前とそうする日がくればとずっと願っていたんだよ」

 こんな台詞、まるで私が父親になったようだと思わないでもなかったが、エドムントにはこれまであんな父しかいなかったのだから、同い年の私が父親役を務めたっていいはずだ。

「……」

 私の全霊を込めた誘いに、彼はぎこちなく、けれど優しく微笑を返した。私はその瞬間、遅蒔きながらも本当の肉親になれたように感じた。初めてあったあの日のように、エドムントの髪は風に揉まれていた。あの日とは違って、幾らか私の頭より高い位置にあったけれど。

 

 

 

 エルンストが正式にアールガウ伯家を継いでから、兄弟二人はともに過ごす時間が増えた。それは、エルンストが努めて弟を傍に置こうとしたからでもあったし、エドムントの方も兄の補佐役を精力的にこなした。

 アールガウ伯の継承に伴って、エルンストは大佐に昇っている。二人の父もそうであったように、貴族の持つ軍の階級はほとんど名ばかりのものであって、よほど血の気の多い人物でもなければその階級に見合うような軍事的活動をするわけではない。ただ、それぞれの所領には小規模でも治安維持のための私兵艦隊を備えているのが普通であり、名目上その艦隊司令官として高級将校の位を与えられているのであった。

 もちろん、中には現役軍人として前線に出ることを誉れと考える者もおり、エルンストもどちらかと言えばその珍しい貴族の一人であった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。