卒業。
宿毛湾泊地に着任した日、別送した段ボール数箱と手荷物のカーキ色のダッフルバック一つが日南少佐の荷物の全てだった。時は流れて一年数か月が経った今、日南少佐は自分に与えられた任地へと赴く準備を進めなければならない。とは言っても少佐は執務机についたまま黙って机の上を見つめている。
「着任と離任でこんなに違うものなんだな…」
日南少佐が口にしたのは荷物の話ではない。着任以来モノはほんとど増えていない。軍事拠点の、しかも司令部候補生といえども責任者である、多くない休日でも気軽に外出できる訳もなく。しかもティッシュから反応弾まで、大概のものは工廠責任者の明石のアイテム屋さん『
少佐の言う『違い』--背負う思いと想い。
艦娘の思いに応えられる人の悟性を信じ続ける桜井中将、人と艦娘の絆の証として司令部候補生を支える翔鶴をはじめとする宿毛湾泊地の首脳陣達。そして少佐と戦いの海で
一つは艦艇の仕様書。艦娘が外洋展開する際の負担軽減策として、あるいは万が一の拠点失陥時の脱出用として、拠点規模に応じて一隻から最大三隻の範囲で配備される通常艦艇。日南少佐の拠点には一隻の通常艦艇が配備されることになり、仕様諸元が通知された。多くの基地では、通常艦艇を長距離移動時の足かつ洋上の整備補給拠点とする性格上、輸送艦や多用途支援艦、訓練支援艦等を母艦に採用する。積極攻勢を指向する一部拠点にはヘリ搭載護衛艦が配備されるが、少佐には搭載兵器実験艦
それよりも所属変更申請書の方が重要だ。日南少佐が宿毛湾泊地
この『告ってOKをもらう』ルールは教導艦隊だけでなく、宿毛湾泊地本隊の艦娘にも適用される。ただし制度上本隊からの異動は、少佐と艦娘の間に合意があっても桜井中将の許可が必要となる。いわば『本人たちがOKの上でお父さんの許可を得る』のが最終関門。他の制約としては、本隊からの転属は教導課程修了時点での艦隊所属員総数の五%未満が上限となる。
椅子を回転させた少佐は、背後にある窓からの光に目を細め両手を頭の後ろで組むと、以前速吸と話した時のことを思い出していた。
-ケッコンカッコカリは
ぎいっと音を立て、少佐は背凭れに深く体を預け長い脚を組む。これから先、戦域は拡大し練度の高い艦娘は何人いても足りないくらいだ。だが、そのためなら誰でもいい訳じゃなく、無理に本隊から転属させなくてもよい。それでも、頭に浮かぶ顔がある。
軽く反動をつけるように席を立った少佐は、そのまま執務室を後にした。
◇
「えぇー!? 速吸を!? 素直に嬉しいです、嬉しい!!」
少し緊張した面持ちの少佐の眼前で、頬を桜色に染めぱぁぁぁっと顔中を笑顔にした速吸
その後速吸は1-6出撃の一環で教導艦隊に一時貸与され、その間に第一次改装を受けた。貸与された艦娘に改装を打診し艦娘側が受諾するのは、少佐が速吸の将来に責任を持つ意思表示であり、速吸はそれを受け入れたことでもある。なので、今回の意思確認はある意味で形式的な作業ともいえた。だが当然それだけではない。むしろ--。
「改になって
両手でガッツポーズを作り興奮を隠せない速吸を見ていると、少佐はつい彼女の頭をポンポンしてしまった。
「わわっ!?
ぷしゅーっと頭から湯気を出しそうなほど真っ赤な顔になった速吸に、書類を整えて提出しておくからと声を掛け、少佐は次の目的地へと向かった。
◇
日南少佐は次の転属候補の艦娘を探しに、泊地内の教練施設の一つである弓道場へと足を運んだ。少佐の頭にあった数名には、いずれも確認したいことがあり、回答を踏まえた上で正式に転属の判断を下そうと考えていた。
道場に入ると、脇正面に飛龍が正座し、射場には自然体で目を閉じる蒼龍が立っていた。弓を持った蒼龍の左手が高く上がり、同じように矢を番える右手も持ち上がる。蒼龍の流れるような動きの中に息合いが満ちてくるのが見てる少佐にも伝わり、動くのが躊躇われるほどに空気が張り詰めてゆく。少佐の気配に気づいた飛龍が、目くばせしつつ立てた人差し指を唇に当てた瞬間、蒼龍の指先は矢を解き放つ。
ゆったりとした動きから放たれたと思えない速さで、矢は龍の息吹に似た音を立て空気を切り裂くと的に突き刺さる。残心から構えを解いて一礼、脇正面に下がるのが礼に則った射法となるが、蒼龍はそのまま速射を続けた。一歩も動かず、流れるような所作で次々と、弓は引き絞られ放たれた矢は過たず的の中央へと集束する。矢が的に当たる音が一〇を超えた所で、蒼龍はふうっと大きく息を吐き集中を解く。ツインテールを揺らしてくるりと振り返った視線が少佐を捉える。口角が上がって表情が和らぎ小さく肩を竦める。
「………判断の速さ、かな」
蒼龍が口を開き、少佐が問う前に示された答え。どうして自分の事を気にかけ、教導艦隊への転属を事あるごとに匂わせていたのか-そう言うと何だか自惚れているようで、でも上手い言葉も見つからず迷いながら弓道場を訪れたが、少佐は蒼龍の目を見て自分の考えを素早く修正した。笑顔だが目は笑っていない。両手で弓を持ち、大きな胸部装甲を強調するようにん~と背筋を伸ばした蒼龍が言葉を継ぐ。
「私ね…
戦史を少しでも知る者には説明不要な
同じ轍を踏まないと寄せられた信頼-過去を振り返るなという人は多いが、清算しなければ前に進めない過去もある。置かれていた状況は違っても、背負う物は少佐にも蒼龍にもある。
少佐は射場に歩みを進め蒼龍の目の前に立つと、何も言わずに右手を差し出す。お互いの決意と覚悟は瞳に宿し、視線を逸らさず少佐と蒼龍は固く握手を交わす。満足したのか、蒼龍はにっこりと微笑むと少佐にとって予定外の事を告げ始めた。
「嬉しいなぁ。龍を乗りこなすのは簡単じゃないけど、少佐なら大丈夫かな。飛龍ともどもよろしくねっ!」
「「え…?」」
その言葉に離れた脇正面に座っていた飛龍が思わず腰を浮かせる。何それ、聞いてないんだけど? と、戸惑いをありありと表情に浮かべながら、慌てて飛龍が射場にやってきた。飛龍の困惑をよそに、蒼龍は飛龍の手を取ると導くように少佐と握手したままの手に重ねる。
「だって、飛龍はいつも言ってるじゃない! 少佐の部隊には本格的な機動部隊が必要だって! 私達がいれば百人力だよ!」
「確かにそうだけど! だからって何で私まで」
「飛龍は今の自分に…宿毛湾に満足しちゃってるの? 私は…全然、全っっ然足りないっ!」
ぴくり、と飛龍の動きが止まり、蒼龍に厳しい視線を送る。艦娘として現界した今、洗練された桜井中将の指揮の元で数多の戦いに参加し勝ちぬいた。けれど--空母運用の黎明期、試行錯誤を重ねながら猛訓練で世界最強の航空隊を育て上げた
やれやれと頭を振った飛龍は、降参だと言うように両手を上げる。そして少佐と蒼龍を交互に見て、にやりと笑う。
「…いいわ、蒼龍一人だと危なっかしいし、付き合ってあげる! そうと決まったら少佐、航空隊は徹底的に鍛えましょう! 多聞丸仕込みだから任せといて!! 蒼龍、私が満足してるかどうか、よーく見ててよ!」
◇
泊地の癒し所・甘味処間宮の一角のテーブルでは、日南少佐と加賀が向かい合っていた。少佐が加賀の意志を確認するため会っている…と言いたい所だが実はその逆、加賀が少佐を呼び出していた。
速吸や
「そう…蒼龍と飛龍が…」
一言だけ呟いた加賀は、考え込むような表情でほうじ茶の入った湯飲みを口に運び、それきりまた黙り込む。
「………少佐」
これでは話が進まない、と少佐が口を開こうとした機先を制するように加賀が呼びかける。
「…間宮さんの新作、頼みたいのだけれど」
どうやらここからが話の本番だろうと察した少佐は、手を挙げて店員を勤める妖精さんを呼び止める。