設定紹介、今と思い出の間を揺れる時雨。
提督執務室と廊下を隔てるドアの前、日南少尉と時雨は緊張した面持ちで立っている。軽く息を吸い込み、ふっと吐く。気持ちを落ち着けるようにして、日南少尉はドアをノックする。室内から翔鶴の綺麗な声が入室を促す。
日南少尉の目に映ったのは、大きな窓を背に机に就いている男性、この泊地を治める提督の
かつて荒廃していた那覇泊地を立て直し、その後に起きた那覇防衛戦で重傷を負った中将は一線を退き、その後は海軍兵学校の教官を長く務め、最終的に兵学校の校長として多くの学生を育ててきた。だが、大本営のたっての要請で、桜井中将は宿毛湾泊地の提督として現場復帰を果たし、以来一五年以上が経つ。日南少尉は中将が兵学校を退任した後の学生であり、二人の間に直接の面識はないが、兵学校で学んだ者にとって、その存在は絶大なものである。
「日南少尉、遠路ご苦労さまでした。艦隊本部の手違いから始まり、深海棲艦との遭遇戦、大変でしたね」
美しい笑顔で翔鶴がねぎらい、一瞬の間が空く。日南少尉は、絶やす事なく浮かべられる翔鶴の笑顔に思わず見とれていた自分に気が付いた。間髪入れずに脇腹を突かれる。横を見ればぷうっと頬を膨らませながら、時雨が自分の脇腹を肘で突いていた。
「ご、ご配慮ありがとうございますっ! 改めて報告致します、司令部候補生、日南要少尉、ただ今着任いたしました。着任をお認め頂きますよう、よろしくお願い申し上げますっ!!」
ほとんど直角に上体を倒してお辞儀をし、そのままの姿勢でいる日南と、その彼と同じ姿勢を取る時雨。
その挨拶に直接答えずに、桜井中将は静かな声で話し始める。
「二人とも、顔を上げなさい。…もう一五年以上前になるか、私は海軍兵学校の校長を務めていた。日南君、君が入学する随分前の話だけれどね」
その声に導かれ、日南少尉と時雨は直立不動の姿勢になおる。軍人にしては細身で長髪、穏やかな笑みを浮かべる桜井提督の姿。その髪はほぼ銀髪と言え、隣に立つ翔鶴とお揃いのようである。同じ軍務でも、結果的に教育に携わった期間の方が長い桜井提督は、無意識に相手の事を階級ではなく君付けで呼ぶ時があり、その癖は今も出ている。
「さて日南君、君は海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、ここ宿毛湾泊地に司令部候補生として配属を命じられた。君が艦娘を率い、提督を目指し戦いの海に臨む理由を聞かせてもらえるかな?」
国の命運を背負い国民の負託に応え、艦娘の命を預かり深海棲艦と戦う。それ以外に心に秘めた理由があるのか―――? そう問われているように日南少尉は感じ、自分の心の奥底を見透かされた様な気持ちになったが、桜井提督から目を逸らさずにいた。目を逸らしてはいけない、その気持ちだけで、訥々と言葉を返す。
「じ、自分は、この教導を修了し司令官として認められること、全てはその先にしかないと思っています。それは自分自身に「提督、もし僕たちがここに来るのが遅れたことを遠まわしに咎めているなら、違うんだ。日南少尉は島風を工廠まで送り届けた「時雨秘書艦、それは関係ありま「関係あるよ、言うべきことは言わ―――」
二人がほぼ同時に喋り出し、収拾がつかなくなりかけた。
「二人とも、ここをどこだと思っているのですか? 提督の前ですよ」
その空気を一発で翔鶴が引き締める。凛とした声が、二人を直立不動の姿勢に戻す。
「翔鶴、それで十分だよ。概ねの事は報告を受けているんだ。明石からも連絡があったし、何より入渠明けの島風が文字通り駆け込んできたしね。日南少尉は艦娘を第一に思い行動する、そういう人物であると分かった、今はそれでよいだろう」
そこまで言うと桜井提督は立ち上がろうとして杖を掴み、翔鶴がさりげなくその動きをサポートする。提督はかつての那覇防衛戦で、半年もの入院を余儀なくされるほどの重傷を負い、その傷は提督の体に今も後遺症として残っている。そして眩しそうに目を細めながら微笑み、告げる。
「日南要少尉、本日付で司令部候補生として宿毛湾泊地への着任を認めるものとする。将来の提督候補として歓迎するよ。夜は君の歓迎会だ、明日から早速教導課程に入る分、今日は存分に楽しんでくれるかな」
◇
元々宿毛湾泊地は、太平洋方面から帰投した艦隊や海上公試等各種試験に参加した部隊の整備休息拠点である。そういった特性上外来者が多く、規模に比べ充実した福利厚生と工廠施設が整えられている。飲食関係の充実ぶりは有名で、羊羹やあんみつ、季節の各種和洋菓子が評判の甘味処の間宮、全海軍でも指折りと名高い和洋折衷の料理が饗される『居酒屋 鳳翔』を備える。
泊地の食堂も兼ねるこの店は、二〇〇名規模の大宴会まで対応可能な広さで、大きな料亭と言う方が正解だろう。
和洋に甘味と隙の無い食の布陣が宿毛湾泊地の自慢の一つでもあるが、その噂に名高い厨房組が全員揃う事はほぼ無い。だが今日の居酒屋鳳翔には、気まぐれシェフの大和を含め全員が集結しているという、かつてない状況となった。日南少尉が工廠を後にして中将の元に向かった頃、磨き上げられた白木のカウンターを挟み鳳翔と大和の間の空気は張りつめていた―――。
胸部装甲を強調するように胸の下で腕組みをし、キッとした表情を崩さない大和。
身長差を感じさせない、凛とした佇まいで一歩も引かない鳳翔。
その二人の間には、今朝獲れたばかりの七〇cm級の
どちらも南国土佐を代表する食材で、魚と肉、誰がどちらを仕上げるかで大和と鳳翔が対立している。遠巻きに身を寄せ合いながら、大鯨秋津洲の二人はその光景をこわごわ見守っている。
厨房組が全員集結した理由、それは今晩に控えた日南少尉の歓迎会のために他ならない。だがせっかく揃ったものの、この有様では用意するメニューの方向性が定まらない。司令部候補生を心から迎えたい、その一心ゆえにお互い引きさがろうとせず、その間にも和気あいあいと間宮と伊良湖は和洋のデザートづくりを着々と進めている。
カウンターを挟み不可視の火花を散らし合う鳳翔と大和の勢いに、他の三人は口を挟めずにプルプル震えるしかなかった。その空気を破るように外出していた速吸が戻ってきた。事情を聞きふんふんと頷いていた速吸が、一つの提案を行う。
「鳳翔さんはお魚が、大和さんはお肉が、それぞれ得意ですよね。ならそれを交換してチャレンジしてみては? 腕に覚えのあるお二人ですから、新しい味の世界が広がりますよ。きっと候補生の人も大喜びだろうなあ〜」
チラチラと大和と鳳翔に視線を送る速吸。仲裁とも挑発とも受け取れる言葉だが、鳳翔と大和はその意図を素早く理解し、双方自信に満ちた表情でグータッチを交わす。どうやら速吸の提案は受け入れられたようだ。土佐褐毛牛は鳳翔が、鱸は大和が、それぞれメインディッシュとして仕上げることになった。メインからの逆算で和洋両方のメニューがあっという間に決まり、一気に厨房は戦場へと様変わりし、夜の歓迎会に向けた準備が始まる。
◇
「本日付で宿毛湾泊地教導課程に司令部候補生として着任した日南要少尉であります。自分はこれから一年間の間で、自分の艦隊を育成し沖ノ鳥海域の攻略を目指し拠点運営に取り組みます。その間、みなさんのご指導を仰ぎながら確実に事を成し遂げてゆきたいと思います。改めましてよろしくお願い致します」
ざわめきの中を入れ替わる様に桜井中将が壇上にゆっくり上がると、自然と会場が静かになる。
「皆には既知の事だが、日南少尉への説明も兼ね、この泊地の二つの性格を改めて振り返ろう。一つは太平洋で作戦や演習を終えた艦隊や各種公試を終えた艦娘の整備休息に利用される後方拠点。もう一つは、艦娘運用基地の総責任者たる司令官の教導拠点であり、司令部候補生と呼ばれる、特に将来を嘱望される若手士官を育成する。つまり君の事だ」
そこまで言い言葉を切ると、桜井中将は日南少尉に視線を送る。
「二年ぶりとなる司令部候補生、ぜひ教導を修了し無事旅立ってほしいと思っている。そのためには、君達艦娘の諸君の協力が必要不可欠だ。今日のこの機会を、お互いを理解するきっかけとしてほしい。それと、今日の料理だが、珍しく厨房組が全員揃い、腕によりをかけたそうだ、期待してほしい。みなグラスは持ったかな…日南少尉の着任を祝し、今後の活躍を祈念して、乾杯っ!」
提督の音頭に続き、大広間に乾杯の声が響くと、一気に雰囲気は砕けたものへと変わる。
和洋両用に使えるよう設計された大広間は、今日は立食形式となる。部屋の中央に、間を広く開けて置かれた二列のフードテーブルとドリンクステーションには、あっという間に艦娘が集まり、思い思いにオードブルや飲み物を手にしている。
「料理には相当自信があるような話だったし、まずは…」
やや出遅れた感のある日南少尉が、白い取り皿を手に列に並ぼうとした所で呼び止められる。見れば二人の艦娘が立っている。阿賀野型軽巡洋艦である事を示す、肩出しのセーラーに紅色のスカート、白い長手袋の出で立ち、一人は黒髪のロング、もう一人は長い黒髪をポニーテールにまとめた赤い瞳。
「こんにちはーっ! 矢矧がどうしても少尉とお話ししたいっていうからぁ~」
「なっ!? 阿賀野姉が一人じゃ恥ずかしいからってっ!」
口を尖らせ抗議する矢矧を気にせずに、阿賀野はオードブルが綺麗に盛られた取り皿を手に近づいてくる。
「少尉とはぜーったいお話したかったんですよね~、ふふっ。よかったら一緒に食べませんか? はい、あ~ん」
一人じゃ恥ずかしいどころか、ぐいぐい来る阿賀野。右手の長手袋は既に外され、綺麗な細い指でカナッペを摘むとそのまま日南少尉の口元へと差し出す。この場で供されるのは薄くスライスしたカマンベールチーズと生ハムを載せ、大和特製のジェノベーゼソースをかけたものである。
にこにこしながら有無を言わさない圧力に断りきれなくなった日南少尉は、なるべく阿賀野の指に唇が触れないように差し出されたカナッペを口にしようとする。
-びゅんっ
影がものすごい速さで阿賀野と日南少尉の間を通り抜け、二人ともきょとんとするしかできずにいた。
「あらっ!? 変ねえ…オードブルが無いわ?」
すでに遠くの方へ走り去った島風は口をもぐもぐしている。不思議そうに阿賀野の手元を見つめる日南少尉と、その視線に気付きにへらっと笑いながら視線を返す阿賀野。
「キラリーン☆ さては阿賀野に『あ~ん』ってしてほしかったんでしょう?」
いや、そういう訳では、と慌てて否定する日南少尉を見ていた阿賀野は、くすくすと口元を手で隠すように笑うと、矢矧と一緒に立ち去った。去り際に振り向いて軽くウインクするのも忘れずに。
「お話はまた今度ゆっくりね。独り占めしたら怒られちゃいそうだからね~。これから阿賀野型をどうぞよろしくおねがいいたしまーすっ!」
背中に気配を感じた日南少尉が振り向くと、別の艦娘のグループがにこにこしながら待っていて、さらにその奥に、仏頂面としか表現できない表情の時雨が、手に取り皿を持って立っていた。
「そういえばあなたの時はなし崩し的に歓迎会になりましたね」
昔を懐かしむように翔鶴が静かに微笑むと、中将も同じように微笑み返す。始まって間もない歓迎会、これからどうなってゆくのか、二人も興味津々で会場を見守る。