答よりも、それを求める努力が貴いのです。
088. 静かなエール
欧州連合艦隊はすでに横須賀へ向け抜錨した。国際儀礼上欠かせないとはいえ、手の込んだセレモニーとイベントを全て終え、革張りの椅子にぐったりと体を預けるのは桜井中将。執務室に備え付けのアイランドキッチンで片づけをしている翔鶴がちらりと様子を窺うが、中将に気付いた様子はない。
洗い物の水音に紛れて溜息を付いた翔鶴だが、気になる事はある。若き日に二度に渡り生死の境を彷徨った中将は、健康を保っているが頑丈というほどではなく、翔鶴は彼の健康状態の些細な変化にも気を配っている。けれど中将が以前に比べ疲れやすく回復が遅くなったのも否定できない。
-…お体を考えると、少し夜は控えた方がいいのかしら…。それともお食事でスタミナ増強を…。
こんこん、とドアがノックされ、何かをモワモワと思い出していた翔鶴が我に返り、真っ赤な顔でちらりと中将に視線を送る。何で顔真っ赤なの、と怪訝な表情をしつつも中将が目線だけで許可を与え、翔鶴は大きく咳ばらいをしてから、良く通る奇麗な声で入室を許可する。
「どーもー、青葉です。報告書がまとまったのでお持ちしましたー」
軽ーい感じで青葉がタブレットを小脇に挟んで入室し、冷めない頬をぱたぱたと手であおぐ翔鶴を不思議そうに見ながら、桜井中将の前で敬礼の姿勢を取る。中将がゆっくりと応接へと向かう間、青葉はてきぱきとプロジェクタの準備をし、翔鶴は入室禁止のプレートを執務室のドアに掲げる。
「では青葉、始めてくれ」
心理学と統計学を組み合わせたソシオメトリーに基づき、日南大尉を中心とした宿毛湾泊地内の構成員の関係性を図式化したソシオグラムがスクリーンに投影される。様々な書類作成や何気ない会話の中に巧みに忍ばせたソシオメトリックテストへの回答を定量的に集計、さらに進路調査として中将から口頭で艦娘達に確認した定性評価結果と合わせた分析結果が示されている。
今回の調査は、対象が教導艦隊だけではなく宿毛湾の本隊にも及んでいる点が特徴となる。教導課程の制度では、宿毛湾本隊の艦娘も、日南大尉との間で合意形成できれば転属対象となる。思わぬ横やりが入ったが、教導課程も
◇
日南大尉と教導艦隊と宿毛湾本隊の各艦娘を示すアイコンが、それぞれの関係性に応じた色のコネクタで結ばれている。
コネクタの色は、黒から青、緑、黄色、オレンジ、赤、最後は赤紫まで変化し、それぞれの色は敵対、悪意、無関心、打算、中庸、信頼、好意、愛情、ヤンデレにまで対応する親切設計。
「では最初に、日南大尉と本隊の艦娘の関係性からご説明したいと思います」
艦娘の貸与という関係で戦力の一部を共有する教導艦隊と泊地本隊だが、司令部候補生によって関わりの濃淡が異なる。過去の候補生に見られたのは、海域攻略を急ぐあまり本隊から戦艦や正規空母など大型艦の貸与を受け、運用する資材が回らずに財政難に陥るケース。
日南大尉の場合、自らが建造あるいは邂逅した艦娘を中心とする水雷戦隊と軽空母が主戦力で、いざという時は重巡や高速戦艦で支援する作戦を取ることが多く、本隊の艦娘との作戦上の関わりは歴代の候補生の中でも低水準に留まる(反面、作戦外の関わりは歴代でも高水準だったりする)。
「ありがとう青葉、非常に明快な内容だった。本隊から日南君の元へ、彼が要因で転属する可能性が高いのは、速吸と蒼龍だな。蒼龍が飛龍に、赤城が加賀に、それぞれ
「予想の範囲内なので、今名前の出た全員が転属した場合でも問題はないと思います。空母機動部隊の再編を念頭に、今後の建造計画を立てればいいかしら。あの…あなた、そういえば鹿島さんの転属は考慮に入れてないのですか?」
桜井中将から名前の出なかった一人、鹿島のことを翔鶴が取り上げる。正面戦力としてはともかく、新規に着任した艦娘や日南大尉を含む司令部候補生の育成に、彼女の指導教育は極めて重要な位置を占めている。そして本人は、最近は不思議と大人しいが以前までは『日南大尉について行く』と公言していた。
「彼女が断るのか日南君が望まないのか、そこまでは言い切れないが、転属オコトワリがあり得るなら鹿島だよ、忘れたのかい? 彼女は誤解されやすいが、根は受け身な子だからね。日南君への積極的なアプローチは、自分が
確かに鹿島は、チャラさと優秀さに定評のあった、一代前の司令部候補生・日南大尉の先輩にあたる不破少佐からの転属要請をオコトワリして、当時話題になった。不破少佐があまりにもチャラかったので、『まぁそうなるな』的に皆納得していた部分もあり、忘れたのかい、と問われれば翔鶴と青葉は、すっかり忘れていた。
「では青葉、教導艦隊内のソシオグラムに移ろうか。プリンツ・オイゲンのこともあるが、彼女は特殊なケースだ、現時点では外部要因扱いでもいいんじゃないかな? 説明を始めてくれ―――」
プリンツの身体機能は戦闘に支障なく、問題は記憶の断片化だけ。日南大尉が責任を持ってケアするのが最善の方法、とビスマルクは妹分を教導艦隊へ残すことを強行に主張、本国政府との交渉を経て出向という形で決着を見たのだった。
◇
「改めて…こほん、Guten Morgen! 私は、重巡プリンツ・オイゲン。よろしくね! ヒナーミの事、ずっと前から知ってるはずなのに、すっごく新鮮!」
敬礼から一転、にぱぁっと輝くような笑顔で、まっすぐに差し出した両手だけをふりふりしての挨拶。微妙に角度をつけて体をひねるから、体の色んなカーブやふくらみがさり気なく強調され、劇的に短いミニスカも絶妙に中が見えない範囲でひらひらする。秘書艦席の時雨も、にこっと微笑んで小さく手を振り返す。
各国の重巡級艦娘の中でもトップクラスの火力を誇るプリンツの着任は、教導艦隊の戦力強化につながり、秘書艦として大歓迎。まして着任に至るまでの事情ー記憶の断片化を起こした状態の安定化のため、かつて同じ部隊だった日南大尉のいる宿毛湾に着任ーを聞けば、もし自分が大尉の事を思い出せなくなったら…と考えると同情的になる。
すすっと三歩ほど下がったプリンツがぺたんと床に座る。悪戦苦闘しながら長い脚を折り畳み正座らしい姿勢になると、手を膝の前で揃えてぺこりと頭を下げる。
「フトドキ・モノー? じゃなかった、フツツカ・モノーですが、スエナガク可愛がってね、ヒナーミ」
三つ指ついてのご挨拶に、流石に時雨も頬を膨らませて日南大尉をジト目で睨みつける。当の大尉は、時雨の肩にぽんと手を置き、柔らかく微笑みながら誤解を解こうとする。
「昔からプリンツは日本文化に興味津々で、日本語もかなり上達したけど…不慣れな所もあるだろうし、彼女なりに一生懸命丁寧に挨拶しようとしたと思うんだ。分かってくれるかな、時雨?」
「そっか…うん、分かったよ。ごめんね…僕もちょっと早とちりしちゃ「ヤーパンの男性はシジュー・ハッテ? でメロメロだ、ってビスマルク姉さまが言ってたし、私、頑張るねっ!」」
「不慣れどころか詳しすぎるっ! てか四八のメロメロアーツ知ってるの!? 僕だって全部は知らないよ!!」
意味は分かっていないのだろうが、えへへーと無邪気に笑いながらカットイン攻撃をぶち込んできたプリンツに、ついに時雨がめんどくさいモードに突入してぷんすかし始める。そんな光景をワイドショーの生中継的に生温かく眺めている一団―――。
「銀髪一番、金髪二番、三時のおやつは黒髪で♪、ってか?」
「その歌聞くとカステラ食べたくなるねぇ。ないの、初雪?」
「あるけど…炬燵からじゃ、手が…届かない…」
季節は秋、南国に位置する宿毛湾も朝晩の冷え込みは結構厳しい。執務室に置かれた冷暖炬燵にも薄手の炬燵布団が掛けられ、正しく暖房器具として使われ始めた。炬燵の四辺には、緑茶と羊羹で渋く時を過ごす天龍、北上、
「そういやビスマルクの一声でプリンツの事は決まったんだってな? どんだけ偉いんだ、ドイツの戦艦様は?」
天龍の指摘に、微妙な表情を浮かべながら頷き合う炬燵仲間たち。所属を艦娘が決められるのかと疑問に思う。そんな問いに啓示を与えるかのように、唐突に頭上から声が降ってきた。
「偉いかどうかはさて置き、欧州各国の
涼やかな声に、執務室にいる全員が見上げた先には、トップライトから差し込む秋の柔らかな光に包まれ、金髪を煌めかせた女王陛下。まさに天からのお言葉である。
建造ラインの一部規格化に成功したドイツを除けば、ほとんどの欧州の艦娘とはかなり低確率での邂逅しか望めない。なので欧州では艦娘の、とりわけ戦艦級の所有それ自体が国のステータスとなり、待遇もそれに見合うものとなるらしい。
とはいえ、現実には提督を実務のトップとする管理体制に強固に組み込まれている以上、総旗艦の権限が額面通りに行使される機会はまずない。そこに風穴を空けたのがウォースパイト。まさか総旗艦が編成権を自分に行使して日本行きを言い出すなど想像していなかった英国政府は慌てふためいた。最終的には日英防衛相互協定締結の予備調査要員という名目をこじ付け、何とか面目を保とうとした。
その先例をチラつかせプリンツの件でドイツ政府に圧力を掛けたビスマルクだが、ドイツ勢との邂逅や建造成功の事例は以前に比べて徐々にだが増加している現状で、双方の落とし所が『出向』という形になったようだ。
ぷんすか中の時雨を宥めていた日南大尉だが、ウォースパイトの話を聞いて、ビスマルクがなぜ編成権を行使したのか理解できた気がした。
「プリンツの状態に配慮しながらも、2-5攻略に向けた自分たちへの援軍、か…。ありがとう、ビスマルク…」