「なんだ、泣き疲れて、暴れ疲れて寝てしまったのか?」
ベッドに突っ伏している刹那を見ながらエヴァンジェリンがそう言った。
ことの一部始終を部屋の外から聞いていたエヴァンジェリンだが、刹那が酒を吹きだした辺りからアカギのいる部屋を離れ、少し時間を潰し、またここへ戻ってきたのだ。
「いや、気絶させた」
「……」
それこそ本当に疲れて寝てしまうまで暴れていそうだったため、アカギが早めに手を打ったようだ。
「安心しなよ、別に傷をつけたわけじゃない」
「まぁ、それはどうでもいいが、貴様に1つ聞きたいことがある」
意地悪く笑い、それでいて真剣さが垣間見える表情で、エヴァンジェリンはアカギに問う。
「あのコインの賭けは本当にあの像と契約したのか?」
アカギが刹那を説得する上で、重要な役割を果たしたあの賭け。
「まさか、あんな勝負にもならないものをするものか……」
アカギはそれをきっぱりと否定した。
「そもそも、コインが表になるように手のひらに乗せるなど、造作もないさ。そんな勝ちが見え見えの勝負じゃあ俺は納得できない」
そう、アカギほどの実力者ともなれば容易なのだ。アカギやエヴァンジェリンがその気になれば音速の壁を越えた動きをするなど訳は無い。そういったレベルの速度の中で戦う者にとって、たかがコインの回転を見極めるなど造作もない。近右衛門やタカミチ、アカギが打ち負かした詠春もその域に達しているだろう。
「それで、貴様は何を契約したのだ?」
ここで1つ問題が浮上する。アカギは刹那に既に契約は完了しているような口ぶりで話した。しかし悪魔像に向かいながら、アカギは契約内容に足り得る言葉を口にした。もしもあの時契約していなかったのならば、そのコインの賭けが契約として悪魔の耳に入ってしまう。口は災いの元、という言葉を体現するように、ただ口にするだけで悪魔はそれを嘲りながら契約を完了する。そのため、ほとんどの場合は誘導尋問の類で相手に契約をさせる、詐欺のような用途で使われる魔法具なのだ。
「あのコインの賭けに関する契約内容。あれを口にする前に貴様は既に何かしらの契約をしていないと説明がつかん」
刹那との会話中、アカギの言葉が契約になっていないなら、それは既に未完了の契約がアカギと悪魔像の間に成されていた以外に答えはない。
「ククク……、確かにその通りだ。あんたからあの像を借りてこの剣士が来るまでの間に、俺は既に契約を済ませていた」
その内容とは
「この剣士が自害するか否かを当てる契約をな。もちろん賭けたのはこの剣士が自害しない方だ……」
アカギは刹那の第一印象から、ある匂いを感じていた。そして、予めエヴァンジェリンから聞いていた刹那の身の上話を元に、その勘を確信へと近付けたのだ。
「この剣士は『命』よりも『自分』を大切にしている。自分が自分でなくなるのならば、死を選ぶ者。そういった観点から見れば、俺と近しい存在」
自分を放棄するくらいなら、命を絶つ。自分でない命に価値を見出せない異端者。アカギは刹那もその端くれだと考えた。
「だからこの契約内容にした。案の定、俺の推察は正解。この剣士は近衛木乃香に自分を否定されるならば死ぬと言ってくれた」
刹那の『自分』とは木乃香に認められたい、木乃香を何に代えても護りたいといったもの。それが叶わぬならば生きてはいけないと刹那は断言した。
「なるほどな。だからこそのあの実質無期限という発言か」
俺が生きている内に済ませてくれればいいとアカギは言った。その発言に少しばかりの違和感を覚えたエヴァンジェリンだが、これで合点がいった。アカギの契約、つまり勝負はまだ続いているのだ。
「だがいいのか? 刹那がそれ以外の理由で自殺する可能性もあるんだぞ?」
「別に構わないさ。その時が来たならば、ただ死ねばいい」
これがアカギの考え。勝負の末に死ぬのは構わない。だが、死ぬまでに勝負はつけておきたい。だからこその生きている内に、という発言。
「まぁ、俺はこの剣士を信じているから勝てると思っている。中々美しい契約だと思わねぇか?」
死の運命を共にする少女を見ながら、笑みを浮かべてアカギは言う。だが
「何を言っている。結局貴様は刹那を信じた自分の判断に命を委ねているに過ぎない。貴様が信じているのはただ己のみ」
エヴァンジェリンがそれを一蹴する。
(私と同じでな……)
エヴァンジェリンは自嘲気味な笑みを浮かべる。対して、アカギの表情が揺れることはなかった。
ちょうど正午を回る頃、土曜日だが相も変わらず、近右衛門は学園長室で業務に勤しんでいた。
「ん?」
そろそろ昼食の時間かと思っていた矢先、近右衛門の携帯電話が震える。最近この携帯電話には悪い知らせしか届かないため、憂鬱である。
だがその憂鬱さも、すぐどこかへ飛んで行ってしまうことになる。
「こ、これは……!」
掛けてきた者の名を見るや否や、近右衛門の血相が変わる。
「も、もしもし。婿殿か……?」
『ええ、私です。お義父さん』
その者とは、近衛詠春だった。
「目が覚めたのか。よかった、本当に……」
『本当はもう少し寝ているはずだったようですが、こんな私にも意地というものがありましてね』
さすがにかつて戦場を生き抜き、英雄と呼ばれていることはあった。普通の者ならば、あと2か月は昏倒していたことだろう。
『携帯で失礼ですが、こういうデジタルなものの方が裏の世界の住人には勘付かれにくいもので』
「それは構わぬ。して、そう言うからには何か重要なことを伝えたいということかの?」
『ええ。私を負かした者について』
近右衛門の予想通りの展開だった。これでその人物に関して確信が持てると、心の中でその答えを渇望していた。
『私にはアカギと名乗っていました。白髪の少年です』
その答えに、やはりかといった表情をする近右衛門。だがここで問題が発生する。
(名前まで知っておるのか……。確たる証拠が出てきたのはいいが、これはちと面倒じゃの……)
名前まで割れているとなると、アカギがこの麻帆良学園に在籍していると知られるのも時間の問題だ。
(これはこちらから正直に話すのが良いか……)
ここまで来てしまえば、それが最善と近右衛門は判断した。
「実はの、婿殿が倒されたその翌月の4月、そのアカギという少年がこの麻帆良に生徒としてやってきたのじゃ……」
『何ですって!?』
傷に障りそうな声で詠春が驚く。
「落ち着いてくれ、婿殿。こちらとしても確信が持てなかったんじゃ。だが今となってはそれが事実となった。すぐに身柄を確保しよう」
『待ってください! 私は彼に関してはその行為について、不問としたいと思っています』
「何じゃと!?」
詠春の言葉に、今度は近右衛門が驚く。無理もない、自分に重傷を与えた相手を許すと言っているも同然だからだ。
『そもそも、彼と私が行ったのは決闘です。少なくとも、正々堂々と開始した勝負でした。彼を裁くのは私の剣士としての誇りが許しません』
詠春の剣士としての誇り。近右衛門には十分理解できた。そして、内心ではほっとしていた。
『そして、それ以外にも理由があります』
「他にじゃと?」
確かに剣士としてはそれで良いかもしれないが、一組織の長としては不十分だ。
『彼と敵対すれば、その敵対した組織が破滅を迎えるからです』
「な……」
その言葉に唖然としてしまう近右衛門。詠春はたかだか中学一年の少年にそこまでの力があると言っている。にわかには信じがたいことである。
(いや……)
だが、近右衛門もそういう先入観に囚われて本質を見誤る男ではない。アカギは詠春を倒しているのだ。そしてその詠春がそう言っているのだ。
『彼の強さは、多少格下でも大勢で囲めば勝てるとか、そういう次元にはありません。一騎当千、あるいはそれ以上。エヴァンジェリンやジャック・ラカンと同次元にある強さです』
「そこまでじゃったのか……」
その2人を知る近右衛門としてはただただ恐怖するばかりである。
『運よく倒せたとしても、その組織が被る損害は計り知れない。そしてその組織は別の組織の侵攻を防げないでしょう』
倒せなくとも破滅、倒せても破滅。文字通りアカギの存在は組織の破滅と等号で結ばれてしまう。
「なるほどの……」
そう話す詠春は電話越しでも分かるほど、雰囲気がかつてのものと違っていた。アカギと闘い、何か思うところがあったのか、戦場を駆けていた頃と同じ、鋭い雰囲気を近右衛門に感じさせていた。
そして、今の詠春ならばやりかねないと感じていた。アカギと敵対し、弱体化した東への侵攻。日本を裏の意味で統一することを。
『私としては穏便にことを済ませたい。そして彼を両組織にとって利益になるように動かすことを提案します』
「ほぉ……」
これは交渉だ、アカギという絶大な力を持った駒を巡る。
『彼は似ているんですよ。ナギ・スプリングフィールドに』
「何じゃと?」
よりにもよって、今では正義の代名詞となっているナギを詠春は引き合いに出した。
『ナギは戦場に立った最初のころは正義の味方、英雄とはあまり言えない男でした。正義感こそ持ってはいたが、戦場で魔法という鈍器を振り回すだけの暴れん坊という印象が強かった』
ナギの父と知り合いであり、彼の幼少期を知る近右衛門もその考えには同意できる。
『ナギは少しずつですが、様々な者達と出会い、別れ、戦い、成長していきました。そして、彼に正義の英雄としての道を決定付けたのは、戦争の陰に潜む巨悪の存在でした』
本来、戦争はそれぞれの陣営に正義があり、悪がある、もしくはどちらもない。しかしナギが終わらせた戦争には、それを陰で操る組織があった。
『そういう巨悪があったからこそ、ナギは今正義の英雄と呼ばれているのだと私は思います。あの組織が居ない、ただの戦争ならば、ナギは暴君としての名を残していかもしれません』
「なるほどの……」
そこまで言われれば、近右衛門には詠春の意図を察することは容易だった。人は悪と戦うことで初めて正義として認知される。
「彼を、アカギを悪と戦わせ、正義として認知させようということじゃな?」
『ええ。もし彼が正義と対立し、悪に流れれば大変なことになる。正義の屍で山を築き、その血で河を敷く、それくらい彼ならやってのけるでしょう』
つまりは
(彼には巨悪と戦う、その戦場で死んでもらおうということじゃな……)
そこまで考え、あることが近右衛門の頭を過る。
「ああっ……!」
『どうしました?』
「す、すまん、婿殿。話はあとじゃ!」
言うや否や、近右衛門は電話を切り、ある場所へ向かおうと学園長室の扉を勢いよく開ける。
(し、しまった。エヴァンジェリンに彼のことを任せておったんじゃ……! まずいことになってなければいいのじゃが……。もし彼が麻帆良と対立してしまったら……)
実際は特に問題はないのだが、この2人の対峙が近右衛門には絶望的なものに見えていた。
そして近右衛門はその老体を酷使し、エヴァンジェリンの自宅へと急いで走り始めた。