社会から逃げ出したくて何となく一人でぼんやりと丘の上で青空を仰いでみたけれど、社会と言う楔は中々に頑丈に出来ているらしく、それはただの姑息的な現実逃避に過ぎないのだと、飛行機が空を飛んでいるのを見つけてはそう実感した。地上にも空にも逃げ場がないのなら、私はどうすれば良いのだろうか、そう呟いてみても答えなどは帰ってくる筈もない。分かってはいるけれど、どうしても口に出さずにはいられない。
現実はいつだって、そうだ。楽しい事や嬉しい事、そんなものは夢現の、うたかたの出来事に過ぎない。楽しみを固着させたいと思い、好きな事を連綿と続けてみても、それさえもいつしかただの作業へとなりかわり、やがて感情はすり潰されて、その形が読み取れない程に姿形をなくし、気付いた時には心がすっかりと硬くなってしまう
そんな不平不満を並べてみたが、私の主張はそこにはない。ただの戯言、世迷い言。
私が本当に欲しいものは、きっと、そう。手には入らない様に出来ている。手にした瞬間から、私はまた別の何かを渇求するから。そうして、ずっと繰り返す。そんな益体もないこのサイクルから抜け出して、自由になりたい、と無理にでも文字に起こすのならそう言う表現が近いものになると思う。
神様は尤もらしい事を言いました。その裡に潜んだ感情や思惑はここでは関係なく、尤もらしいと言うのが大事なのだ。尤もらしい事を、尤もらしく言うというその行為が重要なのである。また、その言動はきっちりとした理屈、原理に従わずに、様々な思考を挟むだけの寛容さを持ち合わせていたら、なお良いのではないだろうかと私は考える。これは私が人間としてではなく、風祝として、神様として振舞う際に心掛けている事だ。世の中に科学がありふれ、自然がどんどんと窮屈に、圧縮されてきている今に、信仰を集めるにはどうしたら良いのか、ない頭をなんとか絞り、辿り着いた一つの答である。もちろん、他に方法なんて幾らでも存在はするだろう。人智を超えた奇跡を目の当たりにしたら、多少は信仰を得られるかも知れない。でも、今はもうめっきりと、目に見えないもの、科学では立証できないようなものは、オカルトとして、或いは宗教として扱われる傾向にある。事実、私もそう言った経験を過去にした。だからこそ、こうも慎重になっているのかも知れない。社会からはみ出す事は、とても勇気が必要な事なのだ。そして、私はそんな勇気はまず持ち合わせておらず、神様か、それとも人間か、その境界線でただただ立ち尽くしている。
いっそ死んでしまおうか。そうしたらこんな苦しみとは左様なら出来るに違いない。そう思いカッターナイフを手首にあてがい、自傷行為に耽った日々もある。でも私は先ほども述べたように勇気のない者である為、何度も何度も試みても致命傷になるほどの深い傷を作る事が出来なかった。
到底見てられないな。
諏訪子様が言う。
私も、そう思います。
私は諏訪子様の意見に同調した。
今日も今日とて空は憎らしいほどに青く、澄み渡っている。私の鬱屈した気持ちを意に介した様子もなく、どこまでも青く、蒼く。
世界が明日にでも終わらないかな。
私はぽつりと、そう呟いた。
これは私が幻想郷に移住する前の話だ。