ホントだよ
足が重い。不意にそう感じた。何かあったかと、見てみるが、何も無い。何時もと変わらない、ズボンと靴だった。
「せんせい、どうしたの?」
この濃い夜でも、はっきりと判る瞳が、こちらを見上げている。ああ、いけない。この子は一人、私も一人だ。結局、人は一人でしかない。いくら、隣に居ても、この子の成し遂げる事は、この子が成さなければいけない。
そしてそれは、私も同じだ。
今のこの夜に、私は何を成せるのだろうか。
「行こう」
「うん」
時間すら曖昧になり始めて、今が夜の何時なのか、それすら朧気になってきて、今自分が何の為に、夜に立っているのかすら、この闇に紛れて霞んでしまいそうだ。
だがそれでも、私は先へ進まなければならない。
少しでも先へ進んで、この子達を昼間の世界に、無事に連れて帰らなければならない。
この夜の先に何があろうとも、それが、私の成すべき事だ。
懐中電灯の真新しい灯りが、濃さを増し始めた夜を裂いて、ランタンの古ぼけた灯りが、ボンヤリと夜を照らし出す。
最早、この世界に昼間のルールが通用するのか。するのであれば、今居る場所は商店街の近くの筈だ。
人が住んでいる筈なのに、人というより生きた気配のしない町。その中でも、商店街は特にそれが強く感じる。
ここだけは、昼間であっても今と変わらない。昼間であっても、この商店街は人が居ない。
そして、人が居ないのに、何故か立ち退き勧告が出されている。無人の町に対する立ち退き勧告、これは一体、誰が誰に対して出しているのだろうか。
いや、もしかしたら、誰が誰に対して出しているとか、もうそんな次元ではないのかもしれない。
「これ、まえもみたよ」
「うん、私もだ」
記憶が確かなら、昨日か一昨日にこの貼り紙は、新しく貼り直されていた筈。それが今では、見るも無惨に色褪せ、半ば剥がれ落ち朽ちかけている。
ただ、立ち退けと、早く居なくなれと、その意思だけがはっきりと感じ取れる。一体何時からこうだったのか。
この夜からか、それとも、私達が見た後からか。いや、きっと貼り直されてなんかいなかったんだ。
最初から、私達が目を背けていた。それだけだったのだろう。この町は、この世界は、とっくに狂っていたんだ。
「せんせい!」
「……隠れて」
あれは、あの〝手〟は見覚えがある。前までの夜に、何度か見た事がある。だが、あれは何だ。何をしている。
何かを探しているのか。やけに、辺りを見回している。
前に見た時は、こちらを見るだけで消えていた。なのに、今は違う行動を取っている。
あれは何を探している。
「せんせい」
「どうしたの?」
「おばけいないよね?」
言われて、はたと気付く。町外れから、この商店街に向かう途中、あれ程湧き出ていた〝ナニカ〟が、一体も出てきていなかった。
何故、そう考えを巡らせていると、〝ナニカ〟が突然動き出した。まさか、見付かったか。
咄嗟に今の場所から、離れようと立ち上がるが、〝手〟はまったく違う方向へと走り去っていく。
「なん、だ……?」
何が起きている。今、何が起きている。あの〝手〟が、商店街の中へ走り去ってから、五分も経たない内に、周囲の空気が変わっていく。
ジワリと、何処からか何かが滲み出し、何かが染み込んでいく。
夜が変わっていく。
いや、違う。戻っていく。
前までの、〝ナニカ〟が支配していた夜に、世界が戻っていく。
「せんせい!」
「逃げるよ!」
この子を抱き抱え、隠れていた路地から、転げる様に駆け出す。振り返れば、灰の毛に虫の様な脚を、幾つも生やした〝ナニカ〟が道を塞いでいた。
他の路地も同じだ。元来た道を戻ろうにも、何か良くない気配が濃くなり、遠目にも〝ナニカ〟の影が見える。
先に、進むしかない。今ならまだ、〝ナニカ〟もそれほど湧いていない筈だ。
そう思い、寂れ果てて、もう形のみを保っているだけの、商店街へと駆け込み、そして過ちに気付いた。
「盛り塩?」
あちこちに点在する、崩れた盛り塩。小皿からアスファルトに打ち捨てられ、見る影も無くなったそれは、端から徐々に黒く染まり、邪を打ち祓う筈だった純白は消え失せていく。
そして、それを見越していたかの様に、静寂だった商店街に、黒く淀んだ気配が満ち始める。
澱み濁り、最早原型すら留めなくなった、〝ナニカ〟に成り果てたモノ達。
ああ、そうか。あの〝手〟は、この夜で唯一〝ナニカ〟達が、現れる事の出来ない場所を探していたんだ。
影から、隙間から、夜から、漏れ出す様にして、〝ナニカ〟の気配が商店街に充満していく。逃げようにも、商店街という限定された空間では、逃げ道が限られる。
少ない逃げ道、安全の有無の不明、何よりあの謎の〝手〟。あれが一番危険だ。
根拠は無い。だが、本能が叫んでいる。あれに関わるな。あれはよくないモノだ。
「……掴まって、走るよ」
「うん」
この子を抱え直し、再び走り出す。正直、足は限界に近くなってきている。だが、諦めて止まれば、それは死に直結する。
軋みだした足を必死に動かし、商店街を駆ける。
「せんせい!」
「こっちもか……!」
あの虫脚毛玉が、至る所で道を塞いでいる。まるで、商店街とその周囲から、私達を逃がさない様にしている様だ。何か、何かある筈だ。
周囲を見回し、情報を集める。寂れた家々、シャッターの閉じた店先、その間に口を開ける様にして、商店街のアーケードがあった。あそこだけ、虫毛玉に塞がれていない。明らかに罠だが、もうあそこしか逃げ道が無い。
「行こう」
『右足がやけに軋んだ』
疲労か、足が上手く動かない。けど、そんな事を言っている場合ではない。
背後に迫る〝ナニカ〟を振り切り、アーケード内に飛び込む。
そこは、〝ナニカ〟の気配も薄く、そして通常と変わらない、シャッターの閉じきった店先が並んでいた。
だが、安心は出来ない。盛り塩は既に崩され、黒く変色し、崩されていない盛り塩まで、真っ黒になっている。
何かがおかしい。
何かがおかしいんだ。
でも、その何かが分からない。
『右足の重い』
異様なまでの違和感が、足下で蠢いてまとわりついて離れない。
何だ。
何を見落としている。
何を〝忘れている〟?
そんな、思考に沈んでいた時だった。
――ジリリリリ!
夜に電話のベルが鳴り響いた。
――ジリリリリ!
嫌に響く音だった。発しているのは、町角にポツンと、忘れ去られた様に置かれていた、一つの公衆電話だった。
ああ、止めろ
止めてくれ
頭の中で、何かが警告している。
その受話器を取ってはいけない。
取れば、必ず後悔する。
ランタンの古ぼけた灯りが、何故か強く感じる。
――ジリリリリ!
――ジリリリリ!
――ジリリリリ!
伸ばした手が受話器に触れる瞬間、ベルが止んだ。
伸ばした手を下ろし、公衆電話に背を向ける。早く、早く、
そう『右足』を踏み出した時、疲れからか、足が縺れて、真っ黒になっている盛り塩を蹴ってしまった。
「あ」
少女の声と、何かが外れ落ち、跳ねてぶつかる音は同時だった。
真っ黒な粉が、道に振り撒かれ、背後で受話器がコードに揺られていた。
み
ぃ
つ
ぅ
け
た
「さて、彼はどうなるかな?」
暗い部屋で一人、そんな事を呟く者が居た。
月明かりに照らされる、その容貌は、男が見れば美女と言い、女が見れば美男と言うだろう、非常に整った容姿だった。
「彼の地に山の神在り、しかし商いの神入り、時に子守りの道祖神歪みけり」
低くも高くもなく、抑揚すらあまり感じない。台本でも読んでいるような声だった。
「……しかし、童神迷い混み、山の神その手を削がれる」
パサリと、数枚の紙を机に投げ捨て、窓の外、やけに暗く夜に沈んだ町を、月明かりを頼りに見下ろす。
「頼むよ。生きて帰ってきてくれ」
そんなか細い声が落ちた。