夜が絡み付く。捻れた夜が進む足に絡み付いてくる。
まるで泥濘か、沼の底かの様に前に進む足に絡み付いて離れない。
いや、これは錯覚だ。夜は夜でしかなく、物理的に何かに干渉してくる事は無い。
だから、これは錯覚なんだ。
なのに、私の足ははっきりと夜の沼に沈んでいる。
重く、冷たく、その癖異様に軽い。
引き留めようとしているのではない。
邪魔しようしているのではない。
その証拠に山道を進む私の足は、はっきりとある場所へ向かっている。
そうだ。これは誘われている。そこにしか行けない様に、あの場所しか見えない様に、ただ一つの答え以外を選ばせない様に、古ぼけたランタンに浮かぶ夜は、私に絡み付いてくる。
「は……」
息を吐き出せば、体の倦怠感とは逆に冷たい温度が、口内を冷やし、鼻先を掠めていく。
まるで、冬の朝の様な冷たさに自分を疑うが、今はそれを考える時間ではない。
考えるべきは、これからあの場所に着いたとして、私が何をして、何をするべきなのかだ。
この山道の先にある社、それが私の始まりで、そして私の過ち。あの日、祖父はこの山に入り消えた。
全ては私が過った結果だとするなら、その過ちを清算しなくてはならない。
だが、私は一体どうすればいいのだろうか。
私はもう、子供ではない。もう、大人だ。
私の記憶を元に、この夜が形作られていると仮定すれば、この夜の主となるのはスネソギ様だ。
スネソギ様は子供を拐う神。
所長の調べでは山神に捧げられた子供が、その寂しさと憎しみから山神の信仰を乗っ取り、寂しさを埋める為に子供を拐う様になった。
何故、私はこれを忘れていた?
何故、私は今これを思い出した?
私は一体、何を忘れている?
「その全ては……」
この先にある。
行かなければならない。忘れた夜に絡み付かれて軋み、狂い転び変わる前に走り、隠されたものを探ろう。
私はヒーローでも探偵でもないが、それでも今だけは探偵なのだから。
『右足が疼く』
夜を漕いでいく。一層濃くなった夜闇は、もう空間というより水面に近かった。記憶にある社に近付く程に、濃くなった夜闇は更に濃さを増していく。
まるで本当に液体の底に浸かっているかの様に、夜が私に纏わりつき絡み付いてくる。
温度も無く、僅かな月明かりや星明かりすら届かない。なのに、この古ぼけたランタンのぼやけた灯りだけは、真っ直ぐに行き先を照らしている。
このランタンは祖父が遺したもの、そして祖父はこの山に消えた。
『右足が軋む』
本当に最初から居なかった様に、違和感も忌避感も、そして喪失感すら無かった。
まるで、祖父だけが世界から削ぎ落とされた様に、私は今の今までその事を忘れていた。
そして今も、何かを忘れている。
この夜は、私に何を思い出させたいのか。
私は何を思い出せばいいのか。
それらは全て、ここにある。
古い社、鳥居は朽ちてボロボロで、灯籠は所々苔むし、社本体も経年劣化であちこちが崩れ始めている。
私の記憶にある姿と、何も変わらない姿は朽ちて尚、異質なおぞましさの中に、どこか荘厳さも感じさせる。
廃墟同然の有り様なのに、異様な気配を垂れ流す社の境内に、一歩足を踏み入れると何処からか幼い声が聞こえてきた。
――やまのかみさまいってきた
――あのこがほしい
――あのこはいらない
――やまのかみさまおりてきた
――まりをついたらてんてんと
――みんなついてくやまのなか
――やまのかみさまつれてった
――てをそいだらあそべない
――あしをそいだらはしれない
――やまのかみさまあそびたい
――だからすねをそいだんだ
ああ、この声だ。この声が聞こえて、私はあの日この社に来た。そして、その日に祖父は居なくなった。
そうだ。私はあの日この社に来て、〝彼女〟と出会った。出会ってしまった。
「……スネソギ様」
『あそぼうよ』
古い日本人形の様な髪に、簡素な着物。背は■■■くらいだろうか。社の前にポツンと立つ姿は、■■■と変わらない。
しかし顔、表情は見えない。いや、よく見ると顔が無い。顔の部分は真っ暗な洞穴で、声は何処からか聞こえてくる。
幼い舌足らずな、まともな大人であれば庇護の精神が働く声だが、今の私はそれよりも危機感が勝る。
『あそぼうよ』
あの神が手に持つ鑢だ。暗い深いこの夜でもはっきりと照らすランタンの灯りに浮かぶ、生々しい赤い色の浮いた鑢。
あの赤は錆の色ではない。血と肉の赤だ。
スネソギ様は子供と遊ぶ為に拐い、拐った子供の脛を削ぐ。
そう、それは嘗て人だった頃の自分がされた様に、拐った子供の足を、あの鑢で削ぎ落とすのだろう。
そうすれば、遊び相手の子供は自分の元から居なくならないから。
『右足が痛む』
『あそぼうよ』
『右足が軋む』
『あそぼうよ』
『右足が疼く』
『あそぼうよ』
声が止まない。思い出せ、私の忘れている事を。
私は、あの日、何を見た。
記憶を探れ、記憶は無くならない。ただ、思い出せなくなるだけだ。
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
声は止まない。スネソギ様は一人の筈なのに、辺り一帯から子供の声が聞こえてくる。
思い出せ。
私はあの日何を見て、何を知った。
答えは私の中にある。
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
声がどんどんと増えていく。
最早、合唱と言っていい程に重なる声に顔を上げると、私は子供に囲まれていた。
いや、違う。これは違う。
これは子供だが、子供ではない。
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
「ま、さか……」
私はいつの間にか勘違いをしていたのか。
スネソギ様はスネソギ様だけで、そういった神であると。
そんな筈は無い。いくら、スネソギ様の恨みが信仰を乗っ取る程に強いとしても、ただ一人の子供の怨嗟が神と入れ替われる筈も無い。
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
スネソギ様とは、子供の集合霊。その最たる例だった。
最も近付いてはならないと、今までの経験と所長からの助言で知っていた存在が、スネソギ様だった。
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそばないの?』
「わ、たしは……」
返事を、してはいけない。
もう、手遅れだろうが、返事をすればスネソギ様を認識したという意思表示になる。
どうにかして、この場をやり過ごして、■■■の元へ戻らなければ。
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
私は、戻らなければならない。だから、遊べない。
『あそぼうよ』
『あそぼうよ』
『やくそく』
『あそぼうよ』
「やく、そく……」
しまった。
『あはは、やっとみつけた。かくれんぼはおしまい』
『あそぼうよ』
私が次の瞬間見たのは、スネソギ様となった子供達が、顔の無い洞穴となった顔を向けて、それでもこちらに笑いかける光景だった。
そして
『かくれんぼはおしまい。つぎはおにごっこ。やくそく』
私の意識が暗転するのは、そんな遊びの約束と同時だった。
夜追