この夜は何時まで続くのだろうか。
まだ夜の始めなのだろうが、私はそうとしか思えなかった。
普段見ていた夜とは明らかに違う異質な夜。心無しか、夜を彷徨く〝ナニカ〟も、この夜では活発に動き回っている様に見える。
「やっぱりか」
あの蟲に似た脚を生やし、歪な顔のある巨大な毛玉は、道を塞ぐ様にしていて、その道から別の道に移動する事は無い様だ。
「せんせい、どうだった?」
「うん、大丈夫。行こうか」
兎に角、今は情報だ。
最初に出会した黒く長細い影は、小石を投げればそれに気を取られて隙が出来る。
頭に杭を刺して包帯を巻いた〝ナニカ〟は、近くで走らなければこちらに気付かない。
〝ナニカ〟は基本的に、ある一定の距離に近付きさえしなければ、襲ってこない。
そして、〝よまわりさん〟の時にもしやと思い試した事だが、奴等は茂みや大きな看板等の影に隠れれば、こちらをろくに探さず何処かへ去っていく。
「学校はこっちだったっけ?」
「うん」
子供の足で逃げ切るのは難しくても、大人である私の足なら逃げ切れる。だがそれも、今だけかもしれない。
都市伝説にある〝テケテケ〟や〝口裂け女〟の様に、人間の走力を遥かに上回る速度の〝ナニカ〟が現れないとも限らない。
そんな事が起きなければいいが、もしもの時の為にも、走り逃げる以外の対策も用意しておかなければならない。
「よし・・・」
私のランタンと少女の懐中電灯が、行き先を塞ぐ夜を別々の灯りで照らしていく。
真っ直ぐに前を、周囲を朧気に、夜に抗う様にして照らしていく。
照らし出される夜闇は周囲を這い回る様にして、自らを照す灯りを飲み込もうとしている様にも見える。
この子が通う学校迄は、まだ距離がある。道は広く見通しも悪くは無いが、〝ナニカ〟は照らさないと見えないものが居る。
逃げている最中に、それらに出会すのは何としても避けたい。
〝ナニカ〟に触れればどうなるか。それは解らないが、近付くだけで心臓が張り裂けそうな程に鼓動し、肺が破けそうになる程に呼吸が荒くなる。
近付くだけでこれだ。もし、触れればどうなるか。それは想像に難くない。
ーー死ぬ、だろうなーー
根拠は無い。だが、確信がある。あの〝ナニカ〟に触れれば死ぬ。
生命、生物、否、生者としての本能が、死者に闇に触れるなと叫んでいる。
暗闇は恐ろしい。
暗闇に潜む者に近付くな。
生者が暗闇を恐れるのは、明るい陽の下よりも更に明確な形を持って、〝死〟が存在しているからだろう。
生きている限り、何をどうしようとも抗う事の出来ない〝死〟という概念が、夜の闇の中、水を得た魚の様に私達を見ている。
「あ・・・!」
「ポロ?」
私達が照す先の道路に、見覚えのある白い犬の背中が見えた。
濃い闇には頼りない灯りで照らされた道路で、周囲を覆い隠す闇に紛れる様にして佇む白犬。
・・・あれが、ポロなら、どれだけ良かったのだろうか?
「せんせい?」
あれは、ポロじゃない。
ポロの頭は、あんなに〝大きくない〟
薄暗がりの向こうに朧気に見えた白犬の頭は、膨れ上がった風船の様に丸かった。
「せんせい、ポロが!」
「落ち着いて」
この子が闇の中に走り出さない様に、確りと抱き寄せながら辺りを照す。
「あれはポロじゃない」
「でも!」
「・・・よく見るんだ」
〝ナニカ〟が飛び出して来ても逃げられる様、準備しておく。今のところ、脚に余裕はあるし、私より早い〝ナニカ〟には遭遇していない。
「ポロの頭は、あんなに丸くない」
「あ・・・」
腕の中で、小さな体から力が抜けていく。
朧気に見える異形の白犬が、夜の向こう側に消えていく。
丸い、人間の頭を持った人面犬が獲物を探す様に。
「ポロ・・・」
袖を掴む手に、力が籠っていくのが解る。
これは私の失敗だ。この暗闇の中、ポロを喪ったこの小さな子が、似たような白犬をポロと思わない訳が無い。
まだ、ポロが生きているかもしれない。〝死〟を理解しきれていないこの子には、一縷の希望だったのかもしれない。
「大丈夫、きっとポロに会えるよ」
「・・・うん」
頷くこの子に力が無い。無理も無い。もしかしたらと、希望が芽生えた瞬間、それが偽物だと気づいてしまったら、誰だって力を無くす。
だが、このまま立っていてもいけない。〝よまわりさん〟や、他の〝ナニカ〟が私達を探しているかもしれない。
今は立ち止まる訳にはいかない。
「・・・学校に行こう」
「うん」
今は少しでも先へ進むしかない。
ほんの少しでも、心当たりのある場所を巡って、少しでもこの子の姉の行き先を突き止め、見つけ出さないといけない。
「ん?」
「せんせい、どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
・・・気のせいだと思う。多分、この夜に引き摺られて、無意識にホラーでよくあるものを、連想したのかもしれない。
こんな時間に、踏切と電車の音が聞こえる筈が無いのに。
そして、一瞬視界に入った白い人影。何かの見間違いだと、そう信じたい。
「せんせい、すこしやすむ?」
「大丈夫だよ」
この町に、今の時間は電車は来ないし踏切も鳴らない。
今のこの夜に、白い服を着て彷徨く人は居ない。今、この夜の町を彷徨いているのは、私達だけの筈だ。
行方不明女性の行方を探すチラシが目についた。
・・・無意識に煙草を口にくわえていた。
学校に近付く度に、何かの嫌な予感が強くなっていく。
「行こう」
何も、何も起こらなければいい。そう思いながら、私は煙草に火を点けた。
周囲から這い寄る夜闇を紫煙で誤魔化すように。
白い紫煙に紛れて、白い人影が視界に入るのを誤魔化しながら、私は夜を走る。