夜が滲む。視界に夜の闇が滲む。今見ている風景を、嘘の様に隠してしまおうと、夜が闇を引き連れて滲んでくる。
明らかに、先程から気配というか、雰囲気が変わってきている。夜がじわじわと視界を狭め、ランタンと懐中電灯の灯りも、心なしか弱々しく見えてくる。
街灯も月明かりも、この夜に浮かぶ灯りは全て、夜の闇が私達に見せている幻なのではないか。そんなありもしない錯覚が、神経を心を削り取る。
「せんせい…」
「……こっちにもか」
動けない。私達が学校から離れてから、〝ナニカ〟の動きに変化が出始めていた。
〝ナニカ〟に仲間意識があるのかは解らないが、私達は〝ナニカ〟に誘導されているかの様に思える。
だとすれば、今私達は何処へ誘導されている?
考える事を止めるな。〝ナニカ〟が意思を持ち、私達を誘導しているとすれば、そこには必ず目的がある。
そして、〝ナニカ〟の動きは統率が取れている。これが何を意味するのか。
「せんせい!」
「なっ……!」
何故、踏切が降りている?!
この時間に通る列車は無い筈だ。このままでは、〝ナニカ〟に追い付かれる。
だが、下手に踏切を越えれば、〝ナニカ〟の仲間入りをしてしまう。しかし、後戻りするには、あの〝ナニカ〟の群れを避けなければならない。
「なんだ……?」
「いまのなに……?」
鳴り止まない踏切、一向に来る気配の無い列車、そして、線路の向こう側で一瞬だけ見えた白い影。長く黒い髪を垂らし、頭を抱えた女。
見間違いかもしれない。だが、この夜であの白い影は、異質に過ぎた。
黒に一瞬だけ浮かんだ白、私達二人がそれに目を奪われていると、〝ナニカ〟の動きが止まっていた。
いや、止まったというよりは、私達に後戻りをさせないようにしている?
分からない。〝ナニカ〟の行動を、人が理解出来る事は無いのだろうが、これは不可解が過ぎる。
〝ナニカ〟は私達を、何処かへ向かわせたいのか。
いつの間にか鳴り止んだ踏切が、私達の背後で口を開けている。
続く先には、今までよりも更に濃い夜が、私達をじっと見詰めていた。
「行こう……」
「……うん」
震える小さな手を繋ぎ、古ぼけたランタンの灯りを夜に翳す。
時間が経てば経つ程、夜は濃く滲み出してくる。それは昼間の住人の私達を、暗く染めてしまおうとしているかのようだ。
ああ……、進む足が重い。まるで、真っ暗な泥の中を歩いている様だ。
耳障りなあの音が、また聞こえてきた。
ガリリ、ガリリと、重く堅く鋭い何かを引き摺り削る音が、滲む夜に隠れて這い寄ってくる。
「せんせい、だいじょうぶ?」
「……大丈夫さ」
『右足が疼く』
音と夜が私を削っていく。だがそれでも、この子を不安にさせる訳にはいかない。
気を紛らわす為に、煙草に火を点ける。渋く苦い紫煙を肺に入れ、深く長く吐き出す。
「せんせい、くさーい」
「ごめんねー」
二回目は、ほんの少しだけ変な顔をして煙を吐き出せば、この子も少しだけ笑って気軽な声を出す。
夜は濃さを増している。
此方を誘う様に、手招きをしながら、私達が足を踏み入れる夜は濃さを増している。
耳障りな音も少しずつ、少しずつ近付いている。
だが、まだ大丈夫だ。
私は歩ける。この子も歩ける。私達はこの夜を進むしかない。
「せんせい、たんぼだよ」
虫の声も聞こえない畦道、水を張った青田。きっと、この夜でなければ、長閑な田園だった。
だが今は、〝ナニカ〟が隠れ潜む夜闇でしかない。
「ここに、何かあるのか?」
思わず呟く。〝ナニカ〟から逃れるようにして来たが、この田んぼに何かがあるとは思えない。
あの子が〝よまわりさん〟から逃れて、ここに逃げてきたとも考え難い。しかし、戻ろうにも背後には、〝ナニカ〟の気配が満ちている。
そして、あの音も迫っている。
「せんせい、なにかおちてる」
そう言って、街灯の側からこの子が持ってきた物は、装飾品か何かの部品だった。時間か力か、千切れたそれをこの子が私に見せてきた時、生温く湿った風が頬を撫で、鼻につく酸の臭いを運んできた。
本能が泣き叫ぶ。ああ、これはダメだ。これはきっと〝よまわりさん〟よりも質が悪い。
逃げろ、認識するなと、生者の本能が泣き叫ぶのが解る。
ああ……、畜生。こいつだったのか。
学校の近くでちらついていた白い影も、踏切で一瞬だけ現れた白い女も、全部こいつだったのか。
そして、あの〝ナニカ〟達は全て、私達をこいつの元に押し込む為に、あんな動きを見せていたのか。
「あ、あ……」
ゴボリと、粘り気のある水音を立てて、白い女が黒い髪を振り乱し、顔を上向けると同時に、私はこの子を抱えて走り出した。
背後から悲鳴とも嗚咽とも判別し難い声が聞こえ、吐瀉物が地面に叩き付けられる音と、触れていないのに肌が爛れたと、勘違いしてしまいそうになる異常な酸の臭いが届く。
「せ、せんせい!」
「なんだあれは……?!」
走る走る走る。僅かに泥濘の残る畦道をひたすらに、この子を抱えて走る。
あれはダメだ。今までの〝ナニカ〟とは、はっきりと違う。ただ、近くに居るだけで、心臓どころか脳が焼き切れそうになる。
あれは生者が関わっていい存在じゃない。
「まだ、まだくるよ!」
「くっ……!」
走っても走っても、距離が開かない。
息が苦しい。まだ歯に噛んだままだった煙草を、路肩に吐き捨てる。
まだ火も残っているが、緊急事態だ。
再び、足を踏み締め、泥濘を飛び越える様に走り抜ける。
「せんせい、せんせい!」
「どうしたの?!」
「あのひと、いなくなった」
足を弛めず、視線を背後に、この子の言う通りに、あの白い女は居なくなっていた。
一体何故かと、周囲を警戒していると、この子が何かを指差した。
「せんせい、たばこ。たばこみたら、あのひといなくなったよ」
「煙草……」
この子が指差した先には、私が吐き捨てた煙草が、僅かに煙を吐き出し燻っていた。
ポケットから箱を取り出し、中身を確認する。中身は残り十本弱、あまり使いたくはないが、あれを煙草で遠ざけられるなら、惜しむ訳にはいかない。
「あ、せんせいこれ」
「部品、かな?」
私達の足元にあった小さな部品、弱々しい街灯の灯りをなんとか反射していたそれ。泥や色んな汚れが付いているが、この子が先程拾った装飾品の部品に違いなかった。
「まだ、おちてるのかな?」
「どうだろう?」
まだ安心は出来ない。新しい煙草に火を点け、私はランタンを翳す。照らす先には畦道は無く、荒れた山道が続いていた。
「進むしかないか……」
私はこの子の手を引き進む。滲み出してきた夜に飲み込まれない様に、牙を剥いてきた夜に、この子だけでも無事に居られる様に、私達は生者の証である灯りを翳しながら、口を開けた夜を進む。
せんせい