今回で田んぼ終了&オリジナル介入!
本文で『』で囲っている部分は、本人は認識出来ていません。これ大事。
夜が狂い出す。変わり始めた夜が、じっくりと狂い出す。
いや、既に狂っていたのかもしれない。正常、正気、おおよその〝正しさ〟を示すとされるものを、〝正しさ〟を確かに保証するものなど、この夜は勿論、昼にも存在しない。
私達は、ユラリユラリと揺れながら、薄い膜の様な、正気と狂気の境界を、踏み割らない様に歩くしかない。
そして私達二人は、その狂気に足を踏み入れていたのだ。
それが何を意味するのか。
「これは……!」
嘗ての今までは、全てまやかしだったと、目の前に広がる闇が、私達にそれを知らしめる。
ただの林道、その筈なのに、木陰や植え込み、雑草や看板、ありとあらゆる物の影から滲み出る闇が、〝正常〟な夜は存在しないと、粘りつく様に告げてくる。
足が重い。まるで、深い泥濘の中に佇んでいる様だ。沈みまとわりつく様に、夜が揺れ溜まっていく。
世界が塗り潰され、自分が信じていた世界が否定されていく。
嗚呼、こんな世界に消えてしまったあの娘が、無事で居られる訳が無い。今ならまだ間に合う。この子を連れて、昼間の世界に帰ろう。
全て、全て諦めてしまえば、まだ間に合う筈。
「せんせい……」
そう思っていた時、小さな手が上着の裾を引いた。
嗚呼、そうだ。そうだった。私は私〝達〟だった。帰れる訳が無い。
私は〝たんていせんせい〟だ。この夜だけの探偵、なら諦める訳にはいかない。
『疼き軋む右足を引き摺り』、足を沈める夜の中を二人で進む。懐中電灯とランタンが、重く暗い夜を照す。
照らし出されたのは、夜に沈んでいたただの林道だ。
「せんせい、これまたおちてた」
「また……?」
嫌な予感がした。何年も前、事務所が人手不足になる程に忙しかった時、あの変人所長が何処からか、どういった伝を使ったのか、警察組織と協同する依頼を持ってきた事があった。
あの時と同じだ。見付かったのは、事件に関わる物だけで、肝心の人は見付かる事は無かった。
『君に見付けられないなら、彼女が見付かる事は無いよ。諦め給えよ』
あの所長は変人だが、言った言葉が外れた試しは、一度たりとも無かった。件の女性は今も見付かっていないらしい。
そして、この子が見付けた恐らくは首飾りの部品。これからは、あの時と同じ様な嫌な、粘りつく様な拭いきれない予感が漂う。違うのは、今すぐにでもこれを無かった事にしたい。そんな衝動に駆られる事だけ。
「……いいかい? 私から離れないで」
饐えた臭いが鼻についた。鼻の粘膜が焼け、皮膚が溶けてしまいそうな悪臭が、微かに届いた。
僅かに震える手で、煙草を取り出し火を点ける。大丈夫、先程と同じなら煙草の煙がある限りは、それ以上は近付いて来ない筈だ。
そう言い聞かせながら、素足が地面を踏む音を聞きながら、饐えた臭いを煙草で誤魔化す。
「せんせい……」
「大丈夫、大丈夫だから……」
言い聞かせる言葉に、力が無い。解っている。このままでは林道の果てにある、見晴らしのいい崖に行き着くだけだ。そうなれば逃げ道も無く、硬い地面という終わりに、ただ落ちるだけ。ならば最悪、この子だけでも逃がす。
ーー……シテ
気のせいだろうか。何か声の様なものが、微かに聞こえた気がした。
深く煙草の煙を吐き出して、目線を落とすと、この子も聞こえた様だ。少し驚いた様子で、私を見ている。
「今、聞こえた?」
「せんせいも?」
頷き、背後から消えない気配に、ほんの少しだけ振り向き、耳を傾ければ、傷みに痛んだ長い髪の奥で、隙間だらけの黄ばんだ歯が、動く唇の奥に見え隠れしていた。
よく見れば、あの〝ナニカ〟は体中傷だらけだ。蝋の様に病的に白い肌は、擦過傷や切り傷塗れで、痛々しく赤が滲んでいる。白いワンピースには、その赤色がこびりつき、生地が解れ破けてもいる。明らかに、ただ事ではない気配がある。
短くなり、ほぼフィルターしか残っていなかった煙草の火を、新しい煙草に点け直して、真新しい紫煙を吐く。
やはり、この〝ナニカ〟は煙草の煙が苦手な様だ。これを利用すれば、逃げ切れるかもしれない。
そう思い、考えを纏めていた時、ふと〝何故か〟看板が目に留まった。
「これは……?」
――ガリリ……
『何か音がした気がした』
この子も気づいていないから、気のせいだろう。足を止めない様に、看板を読む。
〝行方不明〟〝見覚えがあれば連絡を〟
かなり傷んでいて、文字は掠れていたが、一番大事な文字は読めた。そして、微かに残っていた文字から、この文字が指し示すのは、あの〝ナニカ〟だと、私の勘が叫んでいる。
だが、仮にそうだったとして、私に何が出来るのか。
――ジャリ…… ガリリ……
林道は何も無く、朽ち始めた看板と蔦が絡み付き、錆が浮いたフェンスがあるだけ。仮にあの〝ナニカ〟がそうだったとしても、私に出来る事は何も無い。
誰にも、生者に死者を救う事は出来ない。生者が救えるのは生者だけで、死者を救えるのは、死者かそれに相対し目を逸らさない者だけ。
私には、無理だ。
ーー……エシテ
また聞こえた。声が段々と近付いてきている。
最悪、後ろにある狭く暗い下り坂に駆け込んで、隠れて遣り過ごすか、煙草の煙を盾に無理矢理突破する。
それしかないと、煙草を深く吸い込もうとした時、もう一つ、先程は無かった筈の〝不自然な看板¦が目についた。
そこには、〝火気厳禁〟〝煙草は悪い子がする事だよ〟
だ
か
ら
け
そ
う
ね
――ジャリン……!
何が起きた。煙草がいきなり、根本から削り取られる様に、消えて無くなった。
――いけない子、いけない子、煙草は悪い子いけない子
『小さな子供の声が聞こえる』
一体、何が起きたんだ。混乱する思考を蹴り飛ばし、残ったフィルターを吐き捨て、この子を抱えて飛び退く。
饐えた臭いの塊が、ネバつく音を撒き散らして、私達が居た場所に落ちた。
悪臭を白煙と共に広げ、グズグズと土が腐っていく。
ーー……シテ、……エシテ、…………カエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテ
ソ
レ
ハ
ワ
タ
シ
ノ
ダ
!
咄嗟に、下り坂に転がり落ちる様にして、二人で駆け込む。目の前まで迫っていた〝ナニカ〟の、長く黒い髪が針の様に尖り、周囲一帯へと伸び突き刺さる。
土が、岩が、木が、フェンスが、何の抵抗を見せずに容易く貫かれ、無様な穴を見せる。
「う、あ……」
強かに打ち付けた背中の痛みを無視して、半狂乱となった〝ナニカ〟から、少しでも距離を取ろうと足を動かす。
「せんせい! せんせい!」
「だい、丈夫……」
兎に角、離れないと。
二人で進む山道は階段で、湿った泥と苔が足を滑らせようとしてくる。だが、そんなものに関わっている暇はない。
今は一刻も早く、あれから逃げないといけない。
「……嘘だろ」
だが、そんな足掻きを笑う様に、山道の終点は行き止まりだった。
そしてそこには、白いワンピースと、赤色と白色の混じったそれが横たわっていた。
「せんせい……」
「見ちゃ、ダメだ!」
これがそうなら、あの〝ナニカ〟は仲間を求めていた?
だとするなら、私達は……
「せんせい、これ」
「え?」
この子がポシェットから、バラバラになった首飾りを取り出し、私に見せてきた。
部品は傷だらけで、細い鎖も解れてボロボロだが、まだ形を取り繕う事は出来そうだった。
「なおして、かえしてあげよう?」
背後から迫る気配が、止まった気がする。もしかしたらと、首飾りを受け取り、部品を無くさない様に、十徳ナイフを鞄から取り出す。小さいけれど、とても頑丈なそれを開いて、ペンチにして、歪んで千切れていた鎖を、捻る様にして繋げ、テープで外れないように固定する。
地面に置いたランタンの灯りに、白い裾が揺れた。
「えと、あとおはな……」
崖の側に生えていた花を摘むと、この子は首飾りと一緒に、彼女のすぐ側にそっと置いて、手を合わせた。
「ごめんなさい、まただれかにきてもらうから」
背後から気配が消えた気がして振り向くと、そこには何も無かった。
彼女は自分を見付けてほしかったのか、それとも無くした首飾りを見付けてほしかったのか。
それはもう、分からない。
だが、
「……せんせい」
「分かってるよ。お姉ちゃんを見付けたら、警察に来てもらうよ」
「……うん」
私にしがみつく様にして、この子は顔を見せないが、多分哀しんでいる。
私に出来るのは、この子の哀しみを無かった事にしない事と、この子の姉を一刻も早く見付ける事だけだ。
その為に私は、『軋む右足を引き摺って』狂い始めた夜を進む。
悪い子悪い子、いけない子
言うこときかない悪い子は
スネソギ様にやっちゃうぞ