10月某日、夕方。
本日の任務を大方終え、艦隊は夜間任務の者たち以外が休息を取る中、とある艦娘がトボトボと足取り重く執務室へ向かっていた。
それは駆逐艦の時雨。いつも大人びていて笑顔が絶えないはずの時雨だが、今回は様子がおかしい。
何故なら両手をギュッと胸の前ら辺で握りしめ、顔も強張っている。
すると、廊下の突き当りで時雨はトイレから戻るところの提督と鉢合わせた。
「おぉ時雨、どうかしたのか?」
いつもの調子で提督は時雨に声をかけたが、時雨は今にも泣きそうな表情を浮かべて口をパクパクさせているだけだった。
そんな時雨を見た提督はすぐに事態を察し、時雨の前で両膝を突いて両手を広げる。
すると時雨の提督を見据える瞳からはいっぱいの涙が湧き、ポロポロとこぼれ出した。
「…………っ」
床にこぼれ落ちた自身の涙を見て、驚いた様子の時雨。それを止めようと両手を顔へ近づけるが、その涙は頬を伝い続ける。
「ご、ごめん……てぇ、とく……」
泣いてしまったことを提督に謝る時雨だが、提督は「いいから来い」とだけ返して時雨を自身の胸に優しく収めた。
提督の胸に抱かれ、顔を埋め、声を押し殺して泣く時雨を提督は落ち着かせるようにその震える小さな背中を優しく叩く。
どうして時雨がこのようなことになってしまったのかというと、この時期が大きく関わっている。
10月の後半となったこの週、時雨は勿論だが、多くの艦娘たちにとっては艦時代の記憶が脳裏に浮かぶことが多い。
10月というのはあの『レイテ沖海戦』が勃発した月なのだ。
本海戦を細分化すればーー
『シブヤン海海戦』
『スリガオ海峡海戦』
『エンガノ岬海戦』
『サマール沖海戦』
ーーとなる
加えてこの海戦で日本では初めて『神風特別攻撃隊』が採用された大きな海戦である。
この海戦で日本の連合艦隊は事実上壊滅に追いやられる程の被害を被り、多くの艦がこの海戦で沈んだ。
時雨はその中のスリガオ海峡海戦で生き残った艦であるが、その記憶に残るは想像を絶するもの。
スリガオ海峡海戦に挑んだ時雨を含む西村艦隊。真夜中に行われたため、航空隊が関与しなかった最後の砲撃戦であるが、この時の西村艦隊の戦力は旗艦山城、扶桑の戦艦二隻、重巡洋艦最上一隻、時雨・満潮・朝雲・山雲の駆逐艦四隻であったが、アメリカ軍約四十隻にはあまりにも過酷な海戦だった。
砲弾だけでなく多くの魚雷も放たれ、扶桑が早期に落伍。続いて満潮−朝雲−山雲も相次いで被雷していく中、時雨は山城、最上と共に突撃。しかし山城が大炎上すると、更には最上も集中砲火を浴びてしまい、時雨を除く六隻はこうして海へ沈んでしまった。
こうした艦時代の記憶が残るのは艦娘が軍艦の魂を宿しているが故のことであるが、時雨のように長い間戦場にいたために仲間の最期の記憶もハッキリと残っている……そしてそれは時雨にとって、自分が沈む記憶よりも辛く苦しい記憶だ。
よって今回ばかりは時雨も自分を強く保てず、やっとの思いで提督のところへやってきたのだ。
「お前やお前の仲間を沈ませたりはしねぇ……だからもう泣くな」
「…………うんっ」
提督の声に時雨は頷くも、やはりすぐには泣き止むことは出来なかった。
それを提督は無理に泣き止ませようとはせず、時雨が泣き止むまでずっと、その小さな背中に背負う多大な重荷を少しでも軽く出来るよう、優しく優しく叩いてやるのだった。
ーーーーーー
「また今年もこんなになっちゃった……」
「気にすることなんて何もねぇさ。いつそうなってもそん時は休めばいい……それでまた歩き出しゃぁいいんだよ」
ようやく落ち着いた時雨は顔を上げ、少し恥ずかしそうにつぶやくと、提督はそう返したあとで敢えてケラケラ笑って見せる。
「ふふ、去年も同じこと言ってたね」
「あったりめぇよ。こんな時に俺まで一緒になって落ち込んでちゃ切りねぇしな」
「ふふふ、提督らしいや♪」
提督らしさを実感し、ようやく涙を拭う時雨はいつものような笑顔だった。それを見て提督はホッとし、時雨から離れようとしたが、
「まだ離れたくないよ」
時雨はまだこのままがいい……と提督から離れようとはしなかった。
駆逐艦の中でも聞き分けの良いグループに入る時雨であるが、やはりこういう時はどんな艦娘だろうと心を許している相手に寄り添っていてほしいもの。
提督は普段ワガママを言わない時雨だからと、この機会にうんと甘やかすことにした。
「よ〜しよし。時雨ちゃんはいい子でちゅね〜♪」
「急に赤ちゃん言葉を使わないでよ。せっかくの素敵な提督が台無しになるじゃないか」
「はい、すんません」
「提督は阿賀野さんの前でだけ赤ちゃん言葉になればいいんじゃないかな?」
「阿賀野の前であんな言葉使いしたことねぇからな!?」
「え、赤ちゃんプレイとかしないの?」
「俺の趣味じゃねぇよ!」
「やっぱり提督は布団沖海戦でもオラオラ系なんだね……素敵だなぁ♡」
ポッと頬を染める時雨だが、提督は基本的に俺が美味しく頂かれる側なんだが……と思いつつも、変な言い訳はしないことにして、誤魔化すように時雨の頭をワシャワシャと撫でる。すると時雨は嬉しそうな声をもらし、提督の首に両手を回してギュ〜ッと抱きつき、提督の頬と自身の頬を擦り合わせた。
「提督、髭がちょっとチクチクする……」
「そりゃ朝に剃っても伸びてくるもんだからな。そこは勘弁してくれ」
「ほっぺはむちむちしてるのに、チクチクするとかとんだ詐欺だよ」
「文句言いつつスリスリしてんのは誰だよ……」
「は〜い、僕で〜す♡」
開き直る時雨に提督は「こいつ〜!」と声を上げ、時雨の頬に顎髭でジョリジョリの刑を執行する。すると時雨は「いたたた!」っと言いながらも、提督との戯れを自分からやめようとはしないかった。
「廊下で何やってるんですか、二人して」
そんな中、不意に背後から声をかけられた提督。
「あ、みんな♪ 僕は今提督とイチャイチャしてるんだ〜♡」
位置的に誰か分かった時雨がそう返し、提督が振り向くとそこにはあの海戦を時雨と共に駆けた仲間たちが勢揃いしているではないか。
扶桑や山雲はあらあら〜と微笑まし気だが、山城や満潮、朝雲は呆れるようなため息を吐き、最上は親子みたいと笑っている。
「お〜、みんなしてどうした〜?」
提督がみんなにそう訊ねると山雲がトコトコと提督の側へ歩いてきた。
「満潮姉が〜、『時雨の様子がおかしいわ』って言って〜、みんなを招集したのよ〜♪」
嘘偽りなく山雲が暴露すると満潮はバツが悪そうにそっぽを向く。その横顔は赤かった。
満潮は少し前に時雨がトボトボと寮から出ていくのを目撃したので、心配してあの時のみんなを連れてきたのだ。
「満潮はやっぱりいい子だな〜」
「ありがとう、満潮。僕はもう大丈夫だよ」
「そんなの見れば分かるわよ!」
フンッと鼻を鳴らす満潮をみんなで『素直じゃないなぁ』と温かい眼差しを送ると、満潮が「そ・れ・よ・り!」と強く前置きして口を開いた。
「司令官は
提督は満潮の言葉に首を傾げながら向きを戻すと、そこにはニッコニコの笑顔をした矢矧がお馴染みのハリセンで手をパシパシと鳴らしながら佇んでいるではないか。
提督はサァーッと血の気が引いたが、
「遅いから迎えに来たんだ〜♪」
すぐ隣には愛する嫁、阿賀野が絶対零度のオーラを放って微笑んでいた。
「あ、阿賀野さんたちもいたんだ♪ ごめんね、阿賀野さん。提督を少し借りてたんだ♡」
そんな阿賀野に臆することなく、時雨は更に提督へしがみつき、フフンとドヤ顔で鼻を鳴らす。
それに阿賀野はカチーンと来たのは当然で、阿賀野も負けじと提督にギュッとしがみつく。
「ど、どうした二人して?」
「提督さんは黙ってて!」
「提督は黙ってて!」
二人のハモリに提督はグッと押し黙ると、他の面々は苦笑いを浮かべる。
「司令さんは相変わらずモテモテね〜♪」
そんな中、山雲だけはのほほんと言うが、
「モテモテだけど、穏やかではないわよね……」
「いつ血祭りになってもおかしくないわよね」
山雲の言葉に朝雲と満潮は硬い笑みで返していた。
「ふふふ、何はともあれ時雨がいつも通りなら良かったわ」
「そうですね、姉様」
「でも時期が時期だし、今日はみんなで大部屋に泊まろうか?」
最上が扶桑たちにそう提案すると、扶桑も山城も『たまにはいいわね』と笑顔で頷く。
大部屋とは特務艦寮の隣にある建物で、そこは戦艦全員が一気に寝転がっても余裕があるほどの広さがある。そこは艦娘たちが大勢でパジャマパーティをしたり、今回のように仲間たちと共に過ごせるように提督が考えたフリースペース。普段は予約制であるが、こういう場合はその日に言えば仮にその日に他の予約があっても融通してくれるのだ。
ただし中は畳が敷いてあって布団を収納するスペースがあるだけのシンプルな建物なので、本当に大勢で寝るためだけのスペースである。だから艦娘たちは大部屋と呼んでいる。
最上たちの言葉に時雨が反応して「そこまでしなくても大丈夫だよ」と気を遣うが、寧ろこういう時は甘えなさいというように最上たちは笑顔で首を横に振った。
「時雨はいつも一人で我慢するから、たまにはいいんじゃない?」
「そうよ〜。それに〜、みんなでギュ〜ッてしながら寝ると気持ちいいわよ〜♪ 扶桑さんも山城さんもふわふわ〜ってしてるもの〜♪」
朝雲と山雲にそう説得されると、時雨は「うぅ〜」と悩ましい声をもらす。みんなの気遣いは嬉しいが、やはり遠慮がちな性格が災いしているのだろう。
するとそんなハッキリしない時雨を見て、満潮がズイッと時雨の前まで歩み寄った。
「わ、私が安心して眠りたいから……だ、だから、時雨も一緒に寝なさいよ……」
顔を真っ赤にして尻込みしながらそう伝える満潮。満潮は敢えて自分のワガママに付き合うよう頼んだのだが、後半は恥ずかしくなってしまった様子。満潮としてはそうすれば、時雨は頼られるのが好きだから心置きなく頷けると思ったが故の策である。
「満潮……」
「ど、どうなのよ! なんとか言いなさいよ!」
「…………うん、なら一緒に寝よう♪」
「っ……ふ、フンッ、最初からそう言えばいいのよ♪」
時雨の答えに、今日一番の笑顔で顔をフニャっとさせる満潮。
「ありがとう、満潮」
「は、はぁ? 私がワガママ言ったのに、なんで時雨がお礼言うわけ?」
「どうしてかな……でも言いたいんだ」
「〜〜……も、もう意味分かんない!」
耳まで赤くなった満潮はそう言い放ち、時雨から顔を背けるが、背けた先には扶桑たちの温かい微笑みが待っていた。満潮からすれば生温かいと感じただろう。
そうなると当然、満潮はまた別の方へクルリと体ごと逸らすが、
「お前はとことんいい子だな〜!」
「満潮ちゃんいい子いい子〜♪」
待ち構えていたのは先程まで修羅場だったバカ夫婦で、二人して満潮を両サイドから抱きしめて頭やらほっぺやら顎の下やらとナデナデし、うんと可愛がるのだった。
「〜! どうして私、こんな部隊に配属されたのかしらぁぁぁ!」
今日一番の咆哮のような文句が飛び出したが、体は拒もうとはしておらず、寧ろもっともっとと言うように自分から撫でられたい所を二人の手の位置にずらしていた。
結局、満潮は蕩けた顔になるまで夫婦から撫でられ続け、みんなと大部屋へ向かう足取りはフラフラとおぼつかない様子であった。
(提督、みんな、ありがとう♪)
その中で、時雨は心の中でみんなにお礼を言い、本館へやってきた時とは正反対のキラキラした笑顔でその輪の中を歩くのだったーー。
レイテ沖海戦が近くなってきたので、今回はこのような回にしました!
読んで頂き本当にありがとうございました!