「ベル君、キスをしようか」   作:キューブケーキ

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「ベル君、キスをしようか」

1.レフィーヤの苦悩

 

 頭が割れるかと思った。

 骨の芯まで響くフォモールの棍棒の一撃。防御は間に合わず、私は地面に叩きつけられていた。

 視界が揺れる。仲間の声が遠く霞の向こうにある。けれど私はまだ死んでいない。息はあるし、精神力(マインド)も残ってる。……ほんの少しだけ。

 

「てめぇ、何してやがるんだ!」

 

 怒鳴り声と同時に衝撃。ドワーフの少年が私のすぐ傍に飛び込んできて、巨躯のフォモールを蹴り飛ばした。弾けるような脚力。亜人族ならではの力任せの救出。

 

「レフィーヤ先輩、動けますか?」

「う……うん」

 

 答えながら思う。手を貸してくれたらいいのに、と。でも、きっと彼なりの礼儀なのだ。私は歯を食いしばって自力で立ち上がる。

 

「すみません! 俺が側に居ながら、先輩に怪我させてしまいました!」

 

 そう言って頭を下げる彼は、魔導師の護衛。けれどあの状況では彼も動きを封じられていた。私がもっと周囲を見ていれば……。いや、言い訳になる。精神力(マインド)の管理すら満足にできなかったのは、紛れもない私の失敗だ。

 

「私こそ、すみませんでした」

 

 互いに頭を下げ合う。その仕草が、今だけでも恐怖を忘れさせてくれる。

 

「分かりました。では、お互い様ということで」

 

 そう言って微笑んだ彼は、再び戦場へと身を投じた。私は、その背中を見送って──脳裏が、真っ白になる。

 少年の頭が、砕けていた。

 ついさっきまで話していた、命の温もり。私の目の前でありえない形に変わっていた。

 それがダンジョンなのだ。分かっていた。覚悟もしていた。けれど理解と納得は別物だった。

 叫び声と嘔吐感を飲み込んだ。ここは戦場なんだから。

 私は息を詰め、魔法詠唱の構えを取る。狂気に呑まれては死ぬ。冷静でなければ生き延びることなどできない。

 

 

 

「フィン、今回はここまでだ。戦死八名、負傷者多数。……少なくない損害だ」

 

 リヴェリア様の声が戦場の喧騒を裂いて響く。その響きに、私はようやく現実に引き戻される。

 小人族(パルゥム)の団長——フィン・ディムナは、無言で頷いた。青い瞳に浮かぶのは苦渋。けれど、即座に判断を下す声は揺るがない。

 

「そうだねリヴェリア。ダンジョンは何が起きるかわからない。そしてぼくたちは……今回、負けた」

 

 その言葉に喉の奥が熱くなる。負けた。認めなければいけない。仲間を失い、敵に圧され、撤退する。……だけど、それでも、生き残った命は守らなきゃいけない。

 重傷者の一部はポーションでも回復できず、その場に残す判断が下された。

 遺体も一部は持ち帰れない。わかってる、深層ではよくあること。でも、それでも……。

 私は睫毛を震わせながら、地面に転がった仲間の指輪を拾う。それがせめてもの弔い。

 

「せめて【ディアンケヒト・ファミリア】からの冒険者依頼(クエスト)だけでもこなしておかないと、今回の遠征は完全な赤字だ」

 

 リヴェリア様が冷静に、しかし感情を抑えるように言った。

 

「『カドモスの泉』……面倒な依頼、よこしやがって……」

 

 横でぼやいたのは獣人族の青年。誰も笑わなかった。

 けれど誰も彼を責めもしなかった。

 きっと皆、心のどこかで似たようなことを思っていたから。

 十七階層まで戻った頃には、空気が変わっていた。

 憂鬱な沈黙は薄れ、代わりにいつもの遠征の雰囲気が戻りつつある。

 敵が現れれば反射的に剣が振るわれる。仲間が傷つけば、誰かがすぐに駆け寄る。……そういう「いつも通り」に、私は少しだけ救われた。

 けれど、その「いつも通り」の代償を、私たちは払ってしまった。

 モンスターの一団が私たちの掃討を逃れ、上層階に駆け上がって行った。

 そしてその結果、被害は思いがけない場所へと及ぶことになった。

 地上へ向かう階段の途中、私はそれを見た。

 担架に乗せられた少年。血に染まった白い髪、煤けた外套。

 何かに抗うように眉根を寄せて、けれど意識は朦朧としている。赤い瞳が半ば閉じられたまま虚空を彷徨っている。

 兎のような華奢な体つき。だが、その身には確かに戦いの痕があった。

 ──ベル・クラネル。オラリオの話題を独占している新進の冒険者。英雄のような存在に憧れて迷宮に潜る少年。

 だけど今の彼はただの傷ついた子供だった。

 

「この子……」

 

 私は思わず呟いていた。

 誰かが手を伸ばしたくなるような儚さ。だけど、私の脚は一歩も動かなかった。ただ、見送るしかない。

 彼は、私たちの失敗の余波で傷ついたのだ。

 

「……ごめんなさい」

 

 誰に向けた言葉か分からない。ただ、呟かずにはいられなかった。

 彼の担架が遠ざかるまで、私は目を逸らさなかった。あの赤い瞳がもう二度と閉じることがありませんようにと、心の中で祈りながら。

 そして背後から聞こえるフィン団長の声が、その祈りをかき消す。

 

「いいね。……僕たちは、何も知らない」

 

 誰も返事をしなかった。リヴェリア様も、ガレスさんも、アイズさんも、黙ったままだ。

 その言葉が何を意味するか私たちは痛いほど分かっている。

 情報の隠蔽。遺族への報告の改竄。生き残った者だけが知る真実。

 犠牲を無駄にしないために。

 けれど、それでも──私は、あの赤い瞳が、あんな風に伏せられていくのを二度と見たくなかった。

 

 

 夜のオラリオは静かだった。

 地上に戻ってきたはずなのに、どこかダンジョンの暗闇がまだ纏わりついているようで、吐いた息さえ重く感じた。

 ファミリアに戻っても、誰も言葉を交わさない。皆、疲弊し喪失に沈んでいた。

 私は部屋の扉の前で立ち止まる。震える指先が、扉の取っ手に触れるのをためらっていた。

 自分の部屋に帰るだけなのに。誰かに咎められるわけでもないのに。──けれど扉の向こうにひとりになるのが怖かった。

 仲間を失った痛みが、私の中に棘のように残っていた。

 少年の顔が瞼の裏に焼き付いている。頭を下げて謝ったあの瞬間。後悔と痛みと名も知らぬ怒り。

 あんな風に何もかも奪われるなんて。ダンジョンは、やはり──

 そのとき背後から声がした。

 

「レフィーヤ」

 

 振り返ると、そこにアイズ・ヴァレンシュタインが立っていた。月明かりに照らされたその姿は、まるで夢の中の剣姫のようで。

 

「大丈夫?」

 

 彼女の問いに私は小さく首を振る。

 

「大丈夫……じゃないです」

 

 ようやく声に出せた。胸の奥に積もっていたものがひとつ崩れた。

 

「それで、いいと思う」

 

 アイズさんの言葉は優しい。でも、優しすぎて私はかえって涙を堪えた。

 

「……ねぇ、アイズさん。どうして私たち、あんなにも無力なんでしょう」

 

 彼女はしばらく黙っていた。けれど、それからぽつりと呟いた。

 

「無力じゃない。ただ間に合わなかっただけ」

 

 その言葉が私を救った。ほんの少しでも救われた気がした。

 ──だからまた前を向く。泣きたい夜もある。

 でも私たちは剣を持つ。魔法を紡ぐ。そして誰かを守る。たとえ間に合わなくても。

 私は扉を開けて部屋に入った。息を吸って、ひとつ吐いた。

 明日はまた来る。そう信じられる場所に私は立っている。

 

 

 

2.神様の口づけ

 

 少年の気配が少しだけ鈍っていた。

 私の可愛いベル君。今日も帰ってくるなり、元気そうに笑っていたけれど、あの子の笑顔はすぐ分かる。

 本物か、つくりものか──だって私は、神様だから。

 けれど今日は神様であることが、少しだけ疎ましく思える。

 

「おかえり、ベル君」

 

 微笑んで出迎える。すり寄るように抱きついて、その体温を確かめる。ほんのわずか熱がある。けれどそれ以上に胸の奥に冷たい何かを感じる。

 何かあったのだろう。

 聞かなくても分かる。けれど、聞いても答えてくれないこともある。それがあの子の優しさだから。

 何も言わず私の胸に顔を埋めるだけ。性的な意味ではなく。

 ま……そうやって、子供は大人になっていく。

 

「ねぇ、ベル君」

 

 唇を寄せる。ほんの軽いキス。けれどそれだけであの子の瞳が少しだけ潤んだ。

 痛みではない、熱でもない。涙の奥に宿る何か。

 私はそれを甘やかしで包み隠す。女神としてではなく一人の小さな女性として。

 身長も小さい、格も低い、人気もない──でも、それでも。

 

「ベル君が必要としてくれるなら、それでいいんだよ」

 

 あの子の背中に手を回す。小さな教会の、ひんやりした床に二人の影が重なる。どこかで風が鳴る。季節が変わりつつある、そんな音。

 私たちのファミリアは、まだ二人しかいない。貧乏で食べるのもやっと。でも、それでも私は幸せだ。少なくとも、今日までは。

 

 ──そう、今日までは。

 

 扉の向こうに立っていた少女が、わずかに表情を曇らせたのは、その直後だった。

 

「ただいま戻りました、神様」

 

 リリルカ・アーデ。サポーターの少女。小人族で、過去に色々あったことは知っている。でも今はうちの子。そう思ってた。

 けれど彼女の視線は、私とベル君の距離に戸惑いを含んでいた。──私とあの子との距離に。

 これはきっと、私が知らなかった何かの始まり。そんな予感が微かに胸を締めつけた。

 

「ベル君って、ほんとに優しいよねぇ」

 

 ソファに座ったまま、私は足をぶらぶら揺らしながらわざとらしく言ってみせる。

 リリがベル君に手渡したポーションが、まだ彼の手の中にある。

 あの子たちの間に漂う、言葉にならない空気。

 気づいていないふりをすることはできる。でもそれは私らしくない。

 

「ねぇ、リリルカ君」

「……はい、神様」

「どうしてそんなに難しい顔してるの?」

 

 わざととぼけた声で尋ねると、リリの眉がぴくりと動く。

 ベル君がちらりと彼女を見た。何かを言いかけて、でも結局、口をつぐむ。

 その一瞬の空白に私はすかさず割り込んだ。

 

「もしかして二人って……けんかでもしたの?」

 

 言ってしまってから、私はにこにこと笑う。

 小さな子供のように何も知らない顔で。けれど、それは偽りだ。私は地上では限定されてるとは言え、限りなく全能に近い神なのだから。

 人の心の輪郭は、言葉よりも前に気配でわかる。温度、視線、沈黙の持つ意味。

 リリの目がわずかに揺れていた。ベル君の背筋が一瞬、こわばっていた。

 ──たぶんこの子たちは、まだ何かに気づいていない。

 だからこそ私は無邪気を演じる。

 

「ふふっ、どーせ仲直りのキスでもしておきなよ~」

「かっ……か、神様ッ!?」

 

 真っ赤になったベル君の顔。リリの獣耳がぴくぴく震える。その様子がたまらなく愛おしい。

 だからこそ私は笑顔のまま目を細める。誰にも見せない、老練なまなざしで。

 

 ──きみたちが傷つかないで済むように。

 自分たちの足で立って進めるように。神様は、今日も子供のふりをしてやるよ。

 

 

「ふふん、しょうがないなあ。見本を見せてあげるよ」

 

 リリのことをちらちら気にして、目を逸らしてばかりのベル君に、私はにっこり笑いかける。

 膝の上で揺れる彼の肩に、そっと手を添えながら言った。

 

「ねぇベル君、キスをしようか」

 

 その瞬間、空気がぴたりと凍った。

 

「か、かかかか……神様っ!?」

 

「何をそんなに慌ててるの。キスだよ、キ・ス。ロキやヘファイストスとね、昔はよく練習したんだから」

 

 くすくすと笑いながら、私はさらりと爆弾を投げ込む。

 犬猿の仲に見せてるロキや神友のヘファイストスとの、ほんの戯れの口づけ遊び──でも、私にとってはそれも、神の生き様の一部。

 彼女らと交わした技巧の数々を、あの子に惜しげもなく見せてあげよう。

 

「こうやって唇を寄せて……息を合わせて……」

 

 ベル君の耳がまっ赤になる。目は泳ぎ、手足がぎこちなく震えている。

 でも逃げようとはしない。無意識に受け入れてしまっているあたりが、また可愛い。

 私は笑みを深めた。ほんのわずかだけ、首を傾け、距離を詰める。

 そう、それはまるで狩りの間合いのように。タイミングを測りながら、柔らかく、優雅に。

 

「ん……ちゅ……ちゅるっ……ふふ、まだまだ、こんなもんじゃないよ?」

「う、うわああああああ!」

 

 叫んだ。ベル君は情けない声をあげて、顔を真っ赤にしてのけぞる。刺激が強過ぎたか、気絶していた。

 私は勝ち誇ったように笑う。無邪気に子供っぽく、けれどその実、全部わかっていて。

 

「これが、神様の本気だよ?」

 

 私は、床で幸せそうに意識を失っているあの子の胸をトンと指でつついた。やわらかな動悸の音が確かにそこにある。

 そう、それでいい。誰かにとって心を乱される存在になれるなら、私は無邪気の仮面を何度でも被る。

 そしてリリルカ君が掴みかかってきた。

 椅子から立ち上がり、額に青筋を立てて、腕まくりをしながら私の目の前に仁王立ちになる。

 

「な──ななな、なにやってるんですか神様ぁぁぁッ!」

 

 顔は真っ赤というより、もはや沸騰寸前。鼻息も荒く、肩が怒りで震えている。

 剣幕に起き上がったベル君が、慌てて止めようとするけれど、リリルカ君の目は完全に獣のそれだ。

 

 ──可愛いな。

 

 私は椅子に座ったまま、手を頬に当てて彼女を見上げた。

 笑っていた。穏やかに、優しく、けれど決して逃げない眼差しで。

 

「何を慌ててるんだい?」

 

 その一言で空気が変わる。リリルカ君の動きがぴたりと止まる。

 

「君もしたんだろう、ベル君と。唇を重ねて。ね?」

「そ、それは……ち、ちが……っ!」

「違わないよ。君の耳、さっきからぴくぴくしてる。ねえ、団員同士の交友を温めるのは悪いことじゃない。ぼくは、一度も駄目なんて言ってないよ?」

 

 ゆっくりと立ち上がる。ヘスティア・ファミリアの主として、女神として、そして何より、この子たちを守る者として。

 

「でも……だって……」

 

 リリルカ君の声がしぼむ。怒りは混乱に、混乱は羞恥に。羞恥は未熟な恋慕に。

 私はそのすべてを見抜いている。だからこそ、追い打ちも、慰めもしない。ただ見ている。

 外界の子たちは、ほんとうに面白い。

 予測もできないし、すぐに泣くし、拗ねるし、でも、愛さずにはいられないほどに──可愛い。

 

「ふふ、君たちは今日も騒がしいなあ」

 

 私はその空気を抱き締めるように、ソファに腰を下ろした。

 ベル君はどちらにも言葉をかけられず、所在なげに立ち尽くす。リリルカ君は目に涙を浮かべたまま拳を握って震えている。

 

 ちょっと意地悪だったかな──でも、それでいい。

 

 神様の役目は、導くことでも裁くことでもない。

 ただそこにいて、見守ること。

 この世界の子供たちは、ちゃんと自分の手で答えを見つけられる。私はそれを信じている。

 

「じゃ、リリルカ君──」

 

 私は小さく笑って言う。

 

「ぼくと、するかい?」

 

 返事は要らなかった。リリルカ君の目が大きく見開かれた瞬間、私はそっと唇を重ねていた。

 さっきのベル君とは違う。

 今度は優しく、穏やかで、温かくなるようなキス。

 拒絶ではなく、驚きがある。驚きの奥に、わずかな戸惑いと、触れられることへの渇き。

 私はそれを、唇越しに受け取った。彼女の小さな身体がかすかに震える。

 

「んっ……か、神様……リリは、リリは……っ」

 

 唇が離れると、リリルカ君はまるで夢の中にいるみたいに、ぽかんと私を見上げていた。

 

「どうしたんだい?」

 

 顎の下に指を滑らせて、つーっと撫でる。白磁のような肌が、指先に震えるほどに柔らかい。まるで小動物のように、目が潤み、耳が下がり──そして、物欲しそうな顔になる。

 ふふ。ほんとうに、可愛いな。

 こういう時、神であることを忘れそうになる。だけど忘れちゃいけない。

 私は神様で、あの子たちは外界の子ども。彼らは愛すべき存在で、私にとっては宝物だ。

 だから、今のこれはご褒美。ちょっとした戯れ。

 けれどその一滴に込める親愛は──誰にも負けない。

 

「ベル君には、ちょっと刺激が強すぎたけど。リリルカ君なら、大丈夫そうだね」

 

 私はわざとらしくそう言って、リリルカ君の頭をぽんと撫でた。

 彼女は何も言えず、ただ耳をぴくぴくさせながら顔を真っ赤に染めている。

 人間は神の愛し方を知らない。

 だからこそ私は彼らに伝えていく。優しさを、親しさを、ほんの少しの戸惑いを。

 それが、私たちの家族なのだから。

 

 

3.神様の休日

 

 ロキの奢りで、外食に来るなんて何年ぶりだろう。

 オラリオ西区、川沿いに並ぶ人気のカフェ。

 昼時は冒険者も貴族も入り混じる、珍しく静かな場所。

 今日はその店の奥、緑に囲まれたテラス席で私はロキと向かい合っていた。

 

「何や、二人で飯食べるのも久しぶりやな」

「そうだね。ここのところ、自分のファミリアに籠もってたし」

「ぐーたらしてただけやろ」

「失礼な。これでもバイトでちゃんと稼ぎは入れてるよ」

「ほう、それはお偉いことやなあ」

 

 にやにや笑いながら、ロキはストローをくわえる。

 彼女の向こうのテーブルでは、護衛について来た【ロキ・ファミリア】の子どもたちが談笑している。

 

 ──あれがアイズ・ヴァレンシュタインと、リヴェリア・リヨス・アールヴ。

 

 黙って紅茶を口に運びながら、私は彼女たちの姿をちらりと見る。

 光の中で微笑む二人の姿は、どこか神話の挿絵みたいで、ちょっとだけ羨ましい。

 

 そしてここでは罵倒はなし、静かに場を乱さず、スイーツを美味しくいただくのがここの礼儀。

 

「はいはい。……最近、君の方はどうなのさ」

 

 私は肩をすくめて答える。

 

「飲んで、食って、寝て、博打をする。その繰り返し」

「まったく、良いご身分だね」

「せやろ?」

 

 ロキはくくくっと高笑いを漏らす。まるで少年のような悪戯っぽい顔。

 けれど、その眼差しはちゃんと外の子どもたちを見ている。

 アイズの立ち居振る舞いを、リヴェリアの指先の仕草を。彼女は見逃さない。

 私もまた、自分の子どもたちを思い出す。ベル君。リリルカ君。あの子たちの笑顔、傷跡、言葉にしない想い。

 

 ──こんな日も、あってもいいものだ。

 

 陽光がスカートの裾を揺らし、銀のフォークがケーキに沈む音が響く。平和な午後。戦火のない昼。神々がただの大人として語らう午後。

 それが、きっと明日を保つためのひととき。

 

「そういえば──この前、うちの子たちにね、キスしてあげたんだ」

 

 フォークを口元に運びながら、何でもない話のように私は言った。

 次の瞬間。

 

 「ぶふっ!」

 

 ロキと、その後の席の二人が、揃って紅茶を盛大に吹き出した。

 銀のティーセットに、つややかな琥珀色の飛沫が散る。

 

「……汚いなあ」

 

 私は眉ひとつ動かさず、ナプキンを差し出す。

 

「ど、どういうことやねん!? 説明せぇ!」

「説明も何も。単にキスしてあげただけだよ」

 

 カップを口元に戻しさらりと答える。

 ベル君も、リリルカくんも、あの時はちゃんと受け止めてくれた。そう、それだけの話。

 

「……昔、ロキやヘファイストスと練習したみたいにね」

 

 言った瞬間、護衛二人ががくりと机の上に崩れた。

 片方はフォークを落とし、もう片方は湯気の立つカップに頬を突っ込みかけている。

 ロキは唇を手で覆って目を逸らした。真っ赤な耳が風の中で揺れていた。

 

「……何や。あんな大昔のことを、まだ覚えてたんか」

 

 その声がいつもより少しだけ高い。無理に落ち着こうとしてるのがまるわかりだ。

 私はうん、と頷く。曖昧でもなく、誤魔化しでもなく。ただ肯定。

 

 ──だって私は神様だもの。覚えていて当たり前じゃないか。

 

 ロキが恥じらいながら、わざとらしく窓の外を見つめる。その横顔がほんの少しだけ若く見えた。

 ふだんは粗雑で言いたい放題で、でもこういうとき、ロキはちゃんと女の顔をする。

 膝の上でもじもじする手先とか可愛らしいな、って思った。

 照れる彼女と笑う私。その間にどこか柔らかな風が流れた。あのムーミン谷の様に。

 喧騒の昼下がりに沈む静けさ。

 護衛の彼女たちも、いつのまにか黙っている。

 

 ──ぼくの好きな、穏やかな空気だ。

 

 自然と顔がほころぶ。

 この街の空の下でこんな風に笑える日が、ずっと続きますように。心のどこかでそう祈りながら。

 

 

 

 熱い。顔が滅茶苦茶熱い。やばい。

 耳の先から首筋まで、火がついたみたいや。

 ヘスティアのやつ、なんちゅうことを、こんな昼下がりのカフェで平然と口にするんや。

 

「昔、ロキやヘファイストスと練習したみたいに──」

 

 あの一言で、二人は崩れ落ちて、私は紅茶を吹いて、心拍数は上昇中や。今にも頭から湯気が出そう。

 穴があったら入りたい。

 ……いや、バベル塔の最下層くらいに逃げ込みたい。

 けど向かいに座るドチビ──いや、ヘスティアを見た瞬間、そんな気持ちはふっとどこかへ飛んでいった。

 あいつは笑ってた。ふわっと、穏やかに。

 誰にも媚びず、飾らず、ただそこにいるだけで、誰かの心を和らげるような笑み。

 

 ……何や、ええ顔するようになったな。

 

 あいつが昔、天界でくすぶってた頃のことを思い出す。喧嘩っ早くて、泣き虫で、ちょっとのことで拗ねて。

 でも今は──ちゃんと誰かを守る顔をしてる。

 きっと、幸せなんやろうな。

 ファミリアの子どもたちに囲まれて、自分の場所を持って。

 そういうもん手に入れて。……悔しいっちゃ悔しいけど、それ以上に、嬉しい。

 

「……ほんま、変わったわ。ええ方に、な」

 

 誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟く。

 そしたら向かいのちびすけがくすっと笑った気がして、思わず目を逸らした。

 恥ずかしいなんて、今さら言えへん。

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