1.告白
僕は、酒場『
ダゴン教団の会館近くに建つ、古い石造りの三階建て。いつも花が飾られ、店先ではスープの香りが風に乗る。
可愛い店員さんの多い冒険者に人気の食事処だ。料理の持ち帰りもできるから、ソロでもパーティでも利用されている。
でも、僕は知っている。
この店には表に出ない裏がある。働く彼女たちは皆どこかしら訳ありで、言葉の裏に鋼がある。
荒事にも慣れている、いわば戦える女たちだ。
「クトゥルー」「ルルイエ」──何のことか分からない、まるで呪文のような言葉も、いつからかこの店の常連語になっていた。
怪談の一種らしい。気にしないようにしている。
昼は一般市民向け。夜はダンジョン帰りの冒険者相手。
営業時間によってメニューと値段が変わるのが、この店のやり方だ。ようするに夜は冒険者から徹底的に金を搾り取るシステム。
「ベルさん、こんにちは」
「おうおう、少年、今日もシル目当てで来たんだニャ? はぁ~、お熱いニャ」
カウンターの奥から顔を出したアーニャさんが、猫耳をぴょこぴょこ揺らしながら茶化してくる。僕はうっすら笑って肩をすくめた。
──この店ではそういう、いろはすの様なあざとさも接客のうち。
何度通っても、店の女の子たちと個人的に親しくなることは難しい。
営業スマイルの壁は分厚い。それでも男たちは夢を見る。酒を飲み、気分が大きくなり、財布の紐を緩める。
中には金を払えばどうにかなると勘違いする者もいる。
そしてその幻想に呑まれ、笑われて帰っていく。
……だけど、それでも。
この店の温かい灯りと、いい匂いが、僕はちょっとだけ好きだ。
ぼくのお気に入り、お目当ては──実は、猫みたいで可愛らしいお姉さん、アーニャさんだった。
恋とか、愛とか、そういうのじゃない。
彼女が視界にいるだけで、なんとなく安心する。声を聞くだけでほっとする。
まるで日向で丸くなっている猫を眺めているような、そんな癒し。
だから、つい言ってしまった。
「アーニャさん、です……」
言った瞬間、音が消えた。ほんとうに一瞬で。
さっきまで賑やかだった店内が、まるで水の底に沈んだみたいに静まり返る。笑い声も、食器の音も、ぱたっと止まった。
え……? 今、なんか不味いこと言った……?
笑って聞き流されると思ってた。いつもの軽口のひとつとして、からかわれてそれで終わる。そんな気持ちで言っただけなのに。
でも、反応が──違う。
アーニャさんは、笑っていなかった。
目が、わずかに見開かれている。いつもの、軽快で陽気な猫の目じゃない。
ほんの少し驚いたような、怯えたような。そんな目。
「……あ、あれ……?」
口の中が妙に乾いている。ぼくの言葉が場の空気をどこかへ追いやってしまったみたいだ。
何がどうなってるのかまだ分からない。
でも、何かが確実にずれたのを感じる。
アーニャさんは、頬を染めていた。
猫耳が小さくふるふる震えて、視線を泳がせながら、指先をもじもじと絡める。
……あれ? なんだろう、この反応。
怒られなかった。からかわれもしなかった。
でも、だからこそ、こわい。
ぼくの胸に、不安とも違う、むず痒いものがゆっくり積もっていく。
そのとき、シルさんがすっと席を立った。笑顔のまま、けれど目元だけが笑っていなかった。
カウンターの奥へ歩いていき、そのまま裏口へ消える。
直後に聞こえたのは、壁の外から──
ドンッ、ガンッ、ドゴォッ
何か重いものを殴っている音。激しく何度も。
あまりにも容赦のない音に店内の誰もが動きを止めた。
ぼくは声も出せず、視線だけを店の奥に向ける。
──リューさん。カウンターの端、グラスを磨いていたその手が止まっている。
静かに、けれど確実にこちらを見ていた。薄く開いた瞳の奥に冷たい光が宿っている。無言の観察が胸に突き刺さる。
それからカウンターの奥にいるミアさんが、渋い顔でため息をついた。
「……あんた、やっちまったねぇ」
誰にというでもなく、ぽつりと漏らしたその声に妙な重みがあった。
空気はまだ、張り詰めたまま。
アーニャさんだけが、顔を赤くしながらぼくの顔を見られずにいる。
何が起きたのかまだ分からない。でも、もう元の雰囲気には戻れない。
──そういう種類の境界線を、ぼくは今、越えてしまった。
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。
でもあの瞬間、張りつめた空気に押し潰されそうになって、何かを変えたくて、思わず口を開いていた。
「……実は、リューさんのことも……好きなんです」
静まり返った店内に僕の声が落ちる。
誰も、動かない。
アーニャさんが、きゅっと唇を噛んでいた。
リューさんは、手にした布巾を握ったまま、硬直している。
「耳が……好きなんです」
ああ、しまったと思った。でももう遅い。
「アーニャさんのも、リューさんのも……耳がふわふわしてて、すごく、癒されて……」
最後まで言い終えたとき、リューさんの顔色がぱっと変わった。
いつも冷静で、感情の起伏を見せないあのエルフが──かっと頬を染めて、視線を鋭く逸らした。
その頬の端が、ほんのわずかに震えていた。
可愛らしいと思った。
そして沈黙。重い静かな沈黙。
シルさんが扉の向こうから戻ってきて、状況を一目見てぴたりと止まった。
ミアさんは頭を抱えた。
「こりゃあ……戦争だねぇ……」
そう呟いた声がやけに現実味を帯びて聞こえる。
アーニャさんはと言えば、耳をだらんと下げたまま、何とも言えない顔でテーブルの下に沈み込もうとしている。
ぼくは、どうしていいか分からず、ただ、微かに首をかしげた。
──え? 今、また何か……間違えた……?
「ぼく、お二人が──大好きなんです」
言い切った声が、店内の空気に深く染み込む。
誰もが静止しているように見えた。
けれど、そのなかで、アーニャさんとリューさんは、ゆっくりと──けれど確実に、顔を赤らめていた。
アーニャさんは猫耳を伏せたまま、しきりに袖をいじっている。
リューさんはというと、視線をどこにも置けないまま、おろおろと、まばたきの回数ばかり増えていく。
──伝わったのだろうか。
ぼくの言いたかった「癒し」と「尊敬」と「好意」が、全部混ざった好きが。
緊張が、別の種類の熱に変わりかけた、そのとき。
「……はいはい、仕事にならん」
カウンターの向こうで腕を組んでいたミアさんが、ふぅとため息を吐いた。
ぶっきらぼうに顎をしゃくって、ぼくのほうを指さす。
「帰れ。今すぐ。見てるだけで面倒だ」
あまりにあっさりとした一言に、ぼくは椅子から立ち上がった。
「……す、すみません」
ぺこりと頭を下げる。
アーニャさんも、リューさんも、引き止めることはなかった。顔を赤くしたまま、ただうつむいていた。
──たぶん、今はそれでいい。
ぼくは静かに扉を押して、外の光の中へ出た。
胸の奥にまだ、アーニャさんと、リューさんに対する微熱が残っていた。
陽はもう、落ちかけていた。
街の喧騒がどこか遠くに感じられる。自分の呼吸の音だけが、やけに大きい。
歩く。ただ歩く。
足元だけを見ながら、ゆっくりと石畳を踏みしめていく。
──何を、間違えたんだろう。
誰かを傷つけるつもりなんてなかった。
ただ、「好きだ」って言っただけ。冗談じゃない。からかったつもりも、気を引こうとしたわけでもない。
耳が好きだなんて、言うべきじゃなかったのかもしれない。
でも、それがぼくの本当の気持ちだった。
優しかった。可愛かった。癒された。それだけなんだ。
足が止まる。
ふと、後ろを振り返る。『豊饒の女主人』の看板はもう見えない。
灯りも、空も、全部ぼくの背中側にある。なのに胸の奥が熱い。何かが疼く。
言葉にできない感情が、心のなかでくすぶっている。
──伝わったのか、それとも拒まれたのか。
その答えだけが、分からなかった。
2.我が家の神様
僕が帰ると、神様は愛読書のムーミンを読みながらベッドの上でゴロゴロしていた。
明かりの光が神様の髪に淡く反射している。寝巻きの裾がはだけていて、膝が見えていた。
けれど、それよりもなによりも──彼女がとても、機嫌よさそうに見えた。
「おかえり、ベル君」
「……ただいま、神様」
声に元気はなかったと思う。
でも神様はそれを指摘しなかった。ただ、片方の頬を枕に埋めながら、目だけをこちらに向けて笑う。
「食べて来たの? 晩ごはん」
「うん……行った。でも、ちょっと、変なこと言っちゃって……」
僕はそこまで言って、言葉を切る。
何を言ったかを説明するには、僕の言葉じゃ足りなかった。
いや、もしかしたら、自分でもまだ理解できてないのかもしれない。
すると、神様はくるりと寝返りを打ち、ふにゃっとした笑顔のまま、毛布をかぶって身を丸めた。
「……好きにしなよ、ベル君」
それだけだった。
その声に、怒りも呆れもなかった。
ただ優しくて、あたたかくて、どこか──遠い。
「神様……」
「うん?」
「……なんで、そんなに、あっさりしてるんですか」
神様は笑っていた。目を閉じたまま、背中だけがふわりと揺れる。
「だってベル君はもう、自分で選べる子だから。……やりたいことは、自分で決めるのが一番だよ」
僕は黙った。
神様の言葉はまるで背中を押してくれるみたいで、でも同時に何かを置いていかれるような寂しさもあった。
神様は小さく丸くなっている。その背中を見ながら、僕は心の中でひとつ何かが変わってしまったのを感じていた。
3.やらかしてしまう
──ひゃんっ!?
背後から伸びてきた手が、わたしの耳をふいに触った。
反射的に悲鳴を上げて振り向く。魔法の詠唱よりも早く心臓が跳ねた。
誰かと思えば、そこにいたのは──
「えっ、あなたは……?」
白い髪。赤い瞳。
迷宮の奥で、血に濡れて倒れていたはずの、あの少年。兎のような、けれど鋼を秘めた目をした冒険者。
「えっと……すみません、つい……。なんだか、癒されそうで……」
少年は頬を掻きながら気まずそうに笑う。
けれどその目はわたしの耳を見ている。視線がまっすぐで、くすぐったい。
「耳が、好きなんですか?」
口にしてから自分で顔が熱くなっていくのが分かる。
何を聞いているのだわたしは。自分でも分からない。
「ええと……アーニャさんのも、リューさんのも……でも、レフィーヤさんのは、特に……柔らかそうで」
やめてほしい。これ以上言われたら、わたし──
「っ……あの、耳は……勝手に触らないでくださいっ!」
わたしは一歩引いて両手で耳を押さえた。
それでも少年は困ったように笑っていて。どこまでも無邪気でどこまでも真剣だった。
──可愛い、なんて、思ってしまったのは、たぶん敗北だった。
少年はまっすぐな目でわたしを見ていた。
耳の話をしていた。耳が好きだという。それも真剣に。
「レフィーヤさんの耳って、少し細くて、尖っていて……触った感じが、たぶん一番柔らかいと思います」
どう反応していいか分からない。頬が熱い。視線をどこに置けばいいかも分からない。
けれど彼は真顔だった。冗談でもからかいでもなく本気で言っている。
「アーニャさんのは猫耳で、ふわふわしてて。リューさんのは、すごく繊細そうで。でも、レフィーヤさんの耳は……静かに撫でてると、心が落ち着く気がするんです」
何を言ってるのこの人は、と思う。思うけれど否定する気にはなれなかった。
変な話だ。でもその声が、まるで祈るように穏やかで。馬鹿みたいに優しくて。
「……あの、耳って、そんなに……癒しになるものですか?」
わたしは問い返す。声が震えた。けれど彼は頷いた。
「はい。耳って命の音を近くで聴ける部位だと思うんです。鼓膜が近くて脈も近くて……だから触れていると誰かが生きてるって、実感できるというか」
心臓が跳ねた。
わたしは耳を通して生きていると、感じられていたのだろうか。
そんなことを考えてしまった自分が、ばかみたいだった。
「……変な人ですね」
そう言うのが精一杯だった。
けれどそのあと、どうしてかわたしの耳の先はじんわり熱を持っていた。心臓の鼓動が、指先まで伝わってくるような錯覚。
少年はそんなわたしを前に、どこまでも無垢な顔で笑っていた。
「レフィーヤさん、お願いがあるんです」
少年の声は真剣だった。澄んだ赤い瞳が、まっすぐこちらを見据えていた。
まさかと思う。こんな流れで次に来る言葉なんて、まさか、そんな──
「耳を、噛ませてもらえませんか」
……は?
一瞬、何を言われたのか分からなかった。脳が処理を拒否した。
でも彼は、間違いなく、耳を──噛みたいと言った。わたしの耳を。
──この人、すごいこと言ってきたよ!?
背筋が凍った。心臓が跳ねる。羞恥、困惑、警戒、全部が一気に押し寄せてきて、思わず、反射的に──
ゴミでも見るような目で睨んでしまった。
自分でもわかる。あの、半歩下がって鼻をひくつかせるようなあからさまな目。
でも無理だった。そんな目になるなという方が無理だ。
耳を噛ませてとか、生きてて初めて言われた。たぶんもう一生ない。
「……はあ?」
かろうじて出た声は、ひとつきり。冷たく乾いて、突き放すような声。
それでも彼は、怯まなかった。いや、そもそも悪意がまったくない顔をしていた。
無垢。というより無防備。
この少年は、真剣に「癒されたい」だけなのだ。
でもそれは──わたしの中によけいな火種を置いていった。
頬が熱い。鼓膜の裏がじんじんする。
耳を抱えたくなる衝動を、ぎりぎりで堪える。
「……噛んだら、死刑ですからね」
精一杯の抵抗だった。
わたしの声が震えていないことを、ただ願った。
振りではない。
わたしがその場から逃げるように背を向けたその一瞬だった。
静けさの中で足音もなく、気配が滑り込んでくる。
──え?
耳を噛まれた。
ほんの一瞬。歯の先が、耳たぶの縁をなぞるように沈んできて──
甘く、柔らかく、けれど逃げ場のないほど確かに──
カリッ、と。
その音が、脳に焼きついた瞬間、なにかが壊れた。
「──あ゛あああああっ!」
怒鳴り返す。けれど、その声は怒りよりも震えていて自分でも驚いた。
耳が熱い。じんじんする。焼けるように熱くて、だけど同時に頭まで沸騰している。
ベル・クラネルは、転がりながらも、どこかすっとぼけた顔でこちらを見ていた。
目は真剣だった。悪意はなかった。むしろ感動していた。
「……やっぱり……レフィーヤさんの耳、最高でした……」
──殺す。
ほんとうに殺意の波動が目の奥から湧き上がった。
けれどその一方で、身体の芯がまだぴくぴくと震えている。
感触が耳の奥に残っていた。痛みを感じている。羞恥が怒りと混ざって爆発する。
だけどそれを突き抜けて、奥の奥に、快感の残滓が確かにある。
まるで噛まれた部分だけが自分のものじゃないみたいに、びくびくと鼓動を刻んでいた。
馬鹿みたい。最低。信じられない。
それなのに──
「っ……ぁ……な、なにしてるんですか、ほんとうに……っ」
情けない声が漏れてしまう。
背徳感が喉を焼く。耳を触れられるなんて、ただの冒険者同士じゃあり得ない。
しかもそれを、噛まれるなんて──
誰かに見られていたら? 噂になったら?
リヴェリア様に報告されたら?……アイズさんに知られたら?
そんなことを考える自分自身が、何よりも恥ずかしかった。
──なのに、身体は。
まだ、熱を引こうとしなかった。
4.神様聞いてください
ベル君が帰ってきたのは、日もすっかり落ちた頃だった。
壁に灯したランプの火がゆらゆらと揺れている。
私は寝台の上に寝転んで、黒髪の房をくるくる指に巻いていた。
「ただいま、神様」
ベル君は少し顔を伏せていた。けれどどこか妙に満足そうでもあった。
「……ねぇ、ベル君。今日は、耳、噛んできたんだって?」
ピクリ、と肩が跳ねた。図星だったらしい。
「どこで聞いたんですか……?」
「ふふ、神様は何でも知ってるんだよ?」
私は背中をベッドに押しつけて仰向けになりながら、足をぱたぱたさせる。無邪気を演じている。でも本心は別にある。
「それで、どうだった?」
「……最高でした」
即答だった。私は笑いを堪えながら頭の後ろで手を組んだ。
「そうかそうか。エルフは可愛いものねぇ」
「でも、その……殺されそうでした」
「そりゃそうだろうね」
ベル君はわかっていない。わかろうともしていない。
耳という部位にどれだけの意味があるか、どれだけ深い関係性の象徴なのか。特に、あの子たちにとっては。
「ねぇ、ベル君。知ってる? エルフの耳って、恋人にしか許さないんだって。触らせることも、噛ませることも」
「……えっ」
ようやく自分のやったことの重さに気づいたらしい。けれどもう遅い。
私はくるりと寝返りを打ち、頬に手を当てながら微笑む。
「……で、アイズちゃんの耳はどんな感じ?」
「は?」
「いやだなぁ、神様の目は誤魔化せないよ? 最近、目で追ってるの知ってるもん」
ベル君が口を開けかけて閉じた。
可愛い。自分でも気づかないうちに、誰かを意識し始める。その最初の予感。
恋ってそういう無意識の積み重ねから始まるんだよ。
わたしは笑う。無邪気に、老練に。
誰かの想いを転がすのは神様のささやかな娯楽だ。
だって私たちはもう、恋も愛も失くしてしまった存在だから。
代わりに子供たちに託す。願いと、火種を。
「……好きにしなよ、ベル君」
そう言って私は目を閉じた。
けれどその胸の奥で確信していた。
きっと楽しい事をやらかしてくれると。