暗い。どこまでも続く永遠の闇。光届かない深いところにまで落ちてきてしまったのだろうか。
「ライト!」
そう叫んでみるも、この世界にそんな呪文は存在しないのだから勿論杖から光が出ることはなく、情けない自分の声が反響するだけであった。
『おい』
声が、した。低くしゃがれた男の声だ。声の発生源はどこだろうか。周囲を見渡してみるも声の主は見当たらない。当然だ、ここは暗闇なのだから。
『小娘』
しかし、なぜだろう。この声を聞くたびに額から脂汗が垂れてくる。極度の緊張状態からくるものなのだろうか。
「大人しく出てきたらどうです」
『そうしたいのは山々だが、今の我にそれだけの力はない』
しかし、力は失えど声の主からは威厳がまるで消えていない。しかし、それよりもだ。この声の主と話すたびに脳が警鐘を鳴らすのだ。
───この声の主と話すのは危険だ、と。
『しかし、それは貴様とて同じだろう。なあ、小娘』
「黙りさなさい」
アイリスの意思と反して、口が勝手に動いていた。
「例え力がなくても、私があなたを倒す」
憎悪が。憤怒が。そして、濃密な殺意が。アイリスの体を刺激する。
肩で息をし、なんとか呼吸を整えようとするもうまくいかない。途方もない恐怖心がアイリスの心を支配し、目尻に涙が浮かぶ。しかし、ここで負けるわけにはいかない。
「私は、本気よ」
アイリスの言葉に声の主は何か考えるような素振りを見せてから、その姿を一瞬だけ露わにした。
左右非対称の異形の怪物。体の中央部で稼働するコアを肋骨のような鎧で覆い、宙に浮いた巨大な左手は肉を剥ぎ取るために特化した凶爪が備えられていた。そして、一際存在感を放つのは顔がある部分に備えられた巨大な《眼》だ。闇を照らす黄金の瞳。しかし、その瞳にはあらゆる感情が読み取れない。
『大きく出たな、小娘』
そう言い放ち、怪物はその姿を消した。
アイリスの心の底に、確かな恐怖心を残して。
意識が浮上すると同時に、アイリスは自分が気を失っていたことに気がついた。
「ん、ん……っ」
微かな呻き声を漏らし、覚醒しきらない頭で違和感を探る。足元に、何かがねっとりと絡みついている感触があった。恐る恐る視線を落とすと、そこにはピンク色の、瑞々しくも禍々しい質感を備えた蔦のようなものが巻き付いている。
いや、それは蔦などではなかった。粘着質で、動くたびに嫌な音を立てるそれは——紛れもなく、生物の舌だった。
「あうっ……!?」
悲鳴を上げる間もなく、体は一気に吊り上げられてしまった。
逆さまになった視界の中でスカートが翻るのを、必死に手で押さえる。幸いにして丈は短くなかったが、無様に宙吊りにされた屈辱に顔が歪む。
「……き、気持ち悪い……」
正体を現したミミックからは、次々と触手のような舌が伸び、アイリスの脚、腹、そして胸元へと這い上がってきた。ごつごつとした突起が肌を擦る感触に、嫌悪感が限界に達する。
なぜ、自分ばかりがこうも人外の魔物に狙われるのか。以前はコボルトにまで執着されたことを思い出し、アイリスは心の中で叫んだ。これは何かの呪いなのだろうか。
「でも……毎度毎度、同じ展開になんて……させないんだから!」
アイリスは自由な方の手を伸ばし、絡みつく触手に向けて魔術を放った。炎が舌を焼き、拘束が解ける。その余波で衣服の端が焼け、胸元や脚が露出してしまったが、背に腹は代えられない。
「私だって、一人で戦えるんだから!」
彼女は杖を構え、その先端に魔力で光り輝く刃を形成した。身長の半分ほどもあるその刃は、杖のリーチを活かせば十分に武器となる。
ミミックはアイリスを忌々しげに睨みつけると、巨体を生かして突進してきた。
「ふっ!」
アイリスは鋭く踏み込んで突進を回避し、すれ違いざまに刃を叩き込む。ジリジリと間合いを詰め、着実にダメージを与えていく。ミミックの動きが目に見えて鈍くなったその瞬間、彼女は勝利を確信した。
「はぁっ!」
『ピギィ!』
渾身の一撃を放った───はずだった。
死に体のミミックは、ぎこちない動作でその一撃を回避すると、反撃と言わんばかりに口から怪しげな液体を吐き出した。それがアイリスの服に触れた瞬間、ジュッ!と何かが溶ける音がする。
「えっ、ちょっと待って……!?」
液体のかかった胸元の布地が、瞬く間に溶け落ちていく。驚愕するアイリスをあざ笑うかのように、ミミックは『衣服だけを溶かす』という、あまりにも悪趣味な粘液を執拗に撒き散らした。
肌には何の害もない。しかし、布地だけを狙い撃ちにするその性質は、年頃の乙女にとって死活問題だった。すでに下着が見え隠れし、胸元に至っては手で押さえていなければ溢れて露出してしまいそうだ。
「……もう、知らないっ!!」
羞恥心と怒りが頂点に達し、アイリスは最大火力のバーンナップを叩き込んだ。爆炎がミミックを包み込み、ボロボロだった怪物は一瞬で消滅した。
静寂が戻る。しかし、被害は甚大だった。
服はもはや原型を留めておらず、脚を覆い隠していたスカートは一部分が溶けて脚は露出し、胸元は手で隠すのが精一杯という惨状である。アイリスは仕方なく、破れたスカートの一部を裂いて胸に巻き付け、応急処置を施した。
「……一応、これで隠せてはいるけれど……」
溜息をつき、辺りを見渡す。そこにあるのは見知らぬ通路と、果てしなく続く闇だけだった。
「ここ、どこなの……?」
完全な迷子となったアイリスは、心細さに震えながら、再び「あう」と情けない声を漏らすのだった。