結局、怜が倒れるなどの展開もあったものの、円依が尽力したこともあってから問題にはならずにつつがなく校内合宿は終了した。
次の合宿は七月、全国に出場すれば、レギュラーメンバー揃って飛行機に乗り合宿先の他県まで向かうことになっている。
合宿から数日が過ぎ、既に五月も半ばという頃、円依は定期健診のため、千里山病院を訪れていた。
前回は怜と出会えたのだが、どうやら今日はそういうこともないらしい。
そんなわけで手際よくいつもどおりの診断を終えた円依は、既にその足を帰路へ向けていた。
円依の右手には普段は付けないような手には薄い青の布製ブレスレットが収まっている。
もう既に春の新風は過ぎたものの、今日は少し風があった。
夕立で降ろうかという曇天混じりの空の隙間から、円依を弾き飛ばすかのように風が襲いかかってくるのだ。
千里山病院から自宅まで、さほど距離のある場所ではないわけだし、円依が持ち歩いているポーチの中には、折り畳み傘も収まっていた。
もし雨が降ろうと、面倒ではあるが帰れないわけではない。
円依はそんななんとも言えない空の下、速いとも、遅いとも言えない速度で歩を進めていた。
空を見上げては地を見下ろして、人を見ては人に見られて、円依の顔は宙ぶらりんのコインのように、所在無さげに当たりを揺られていた。
心もそうだ。今日はどうにも気分が晴れない。
一日とは、休日とはこうも単調で、つまらないものだったろうか。
「なんだか、ダルいわけでもないんだよなぁ……物足りない、なぁんか足りない気がする」
別に今までこんな調子が悪かったわけではない。
ただ何か足りない気がする。そう、何か大事なことをすっかり忘れてしまっているかのような。
こうして帰路につく間、ぼうっとしすぎていたせいだろう。
「……ってあら?」
変化が訪れたのは、千里山駅を通りすぎようかというところでのことだ。今日は休日、故に、思っても見なかった人間と、すれ違った。
正確には、円依が一方的に発見した。
泉だった。隣にはなぜか竜華もいた。
「…………なに、してるんだろう」
手に何か紙袋を抱えて、楽しそうに泉は竜華と談笑していた。
少しだけ、そんな様子に違和感を覚えた。それは疎外感とも、取ってしまえた。
別に、そこに加わってはならないわけではない。自分も自分もと、向かってしまってもいい。
けれども、出来なかった。
「……なにしてるんだろう」
そんな風に呟いて、駅の中へ消えていく、二人を黙って見送って、円依は、ただただ立ち尽くしていることしか出来ない。
今まで、こうして誰かに会うこともなかったから。
今まで、こんな勇気を必要とする機会がなかったから。
「――なに、……してるんだろう」
そんな風に、こぼれてしまった言葉には、雨を待つ、雲の中へと消えて行くしかなかったのだ。
♪
結局円依は、そのあと雨が降り始めるまでずっと、その場に延々と佇んでいた。何をするでもなく、空を見つめて、地を見つめて。
空っぽになってしまった自分は、歩くことすら忘れてしまったのだと、そんな事すら感じていた。
それから、なんとか雨が体を叩きだす前に、傘を拡げて帰路についた。家に着いた頃にはすっかり夕立のような激しい雨が降りだして、円依はそれが辺りを覆い始めるほんの瞬間前に、家へたどり着いたのだ。
粒をまとった傘を払う。薄い薄い幕のような、意味を持たない水滴が、未練がましく傘を跳ねる。
何度も何度も宙へは消えて、けれども完全に拭うことはできなかった。
「ただいまー」
返事はない。誰も居ないことは解っている。父親はもとより仕事の関係で長野にいるし、母親も、今は父親に会いに長野の方へ行っていた。
仲の良い家族ではある。けれども、口数の多い家庭ではなかった。
言葉に出さない信頼は、時として円依に寂しさを与えていた。
今は、それよりもっと厳しいのだが。
「……あぁ」
夕飯を作らないと。
シャワーを浴びないと。
「しんどいなぁ」
このまま眠ってしまえるだろうか、このまま何かに没頭できないだろうか、そんなことを考えて、しかし体は未だに玄関先を動かない。
靴を脱いだ。けれどもそこで足が止まる。
ゆっくり歩き出そうとした。だというのに体は全然動かない。
もともと、今日はあまり調子が良くなかった。嫌なことは嫌な日に重なる。今日は雨だ、夕方からの。その前から空は陰りを見せていて、円依は、窓から見える空に何度目かもわからない嘆息をついた。
雨はやまない、気持ちは変わらない。
どうしても、いつもの様にはいかなかった。
「何が悪いんだろうなぁ、何も悪くないんだろうなぁ……」
壁伝いに体を預けながら、片足飛びに近い形で、ふらふらと円依は前へ進んだ。松葉杖は放り捨てて、取りに行くのも億劫だ。
何気なしに壁へ目をやる。
白く透き通った、光を跳ね返すかのようなそれは、円依の姿を移すかのように、影に晒され、円依にそれを押し付けていた。
「はぁ、……しんどい」
それから円依はなんとか部屋にたどり着き、倒れるように床へ突いた。
目を閉じて、眠ってしまえたのがせめてもの幸運だった。
♪
目を覚ますと、なんとも言えない寝起きのだるさと、キリキリと痛みすら覚えるほどの空腹に苛まれた。眠っていたい。しかし何か食べないわけにも行かない。
体の中で渦巻く倦怠感もどうにも消えない。
今日は別に何か変なものでも食べたわけでもないし、そういうわけでもないのに。
「ひもじい」
別に、喉を潤すだけではない。
心が――円依の言葉を使えば――ひもじかった。
「うぅ」
ごそごそと体を動かして、なんとかベットから抜けて出る。
体を回しながら地に足をつけ、不安定ながらも立ち上がる。それからはっとするものの、面倒だからとそのまま何とか台所へ向かった。
体を起用に立たせながらも、なんとか夕食を用意して、その用意したおにぎりを、特に何があるでもなく食べ尽くした。
「はふぅ」
漸くそれでひとごこち、問題の一つは解決した。
シャワーを浴びるには手間がかかるが、まぁ致し方無いだろう。覚悟を決めて松葉杖を回収すると、それから色々と細々としたことを終わらせた。
ほんの一時間程度の間、円依はなんとか泉のことから意識を逸らし、自分の不甲斐なさにも、コミュニケーションレベルの低さにも蓋をして過ごした。
けれども用事を終えて、さて眠ろうかという段階になると、円依はどうにも寝付けない。これまで時計を見ていなかったが、どうやら既に時間は11時を回っている。
帰ってきたのは午後の5時なわけだから、作業の間の一時間を別としても、五時間も眠っていたことになる。それは確かに目も覚める。
眠気が襲ってくるまで、円依はとにかく暇だった。寝付けるわけでもなく何かをする気力も生まれず、それでいて泉や自分への感情がぶり返してくる始末。
それからずっと、円依は悶々と意識を巡らせていた。
泉の事、自分の事。
「泉、部長と一緒に何してたんだろうなぁ」
とか、
「変なことしてないかなぁ、騙されてたりとか、してないよねぇ……」
とか、
「ちゃんと家、かえれたかなぁ」
とか、わかりきったような、意味のないことすらも意識に浮かんで、円依はずっと、泉のことばかりを考えていた。
♪
目が覚めたのは、既に一時限目をぶっちぎり、10時を回ろうかという時刻、未だふてくされていた円依は、もうそんなことはどうでもいいと、サボりに勤しんでいた。
五時間の睡眠を併せて三度寝、いい加減に目も覚めてこようものだが、三度目の就寝は思いの外すんなりと眠れてしまった。
少し昨日の精神状態から持ち直していたのもあっただろうが、人間開き直ってしまえば速いもので、気が付けば月曜日すらも、時間は過ぎ去ろうとしていた。
円依が目を覚ました時、玄関からうるさいほどのチャイムがなっていることに気づいた。
面倒だとは思いながらも松葉杖を取り出して立ち上がる。立ち退くつもりがないのなら応戦するしか無いだろうと、そんなことを寝ぼけた頭で考えていた。
そうして開いた扉の先には、二条泉が、立っていた。
「……へ?」
寝ぼけ眼の半目が、驚愕の色にありありと染まる。一瞬にして吹き飛んだ眠気、円依の頭が正気に戻る。
「な、な、なんで、ここに?」
漏れた言葉は、そんな事だった。
泉の顔が、むっとしたものに変わる。
「あんたが休んだから、なんとか担任から住所聞きだして歩いてきたんや! 学校部活休んで、どこで油打ってるんや思ったら、こんなところで何してんねん!」
「え? いやあの、これにはその、色々と事情があるといいますか、深い深い、海より深いわけがあるといいますか」
「長い、一言でまとめや!」
怒っている。
泉が珍しく、まっすぐこちらへ怒りを向けている。
「……ごめんなさい、サボってました」
「せやな、見りゃ解るわ」
あまりの剣幕にしょぼくれる円依を、泉は足蹴にするように更に追撃する。それから沈黙したまま円依を睨みつけ、そしてそれを呆れの嘆息へ変える。
「まぁええわ、色々言いたいことはあるけど、円依は自分で苦労しい」
「ごめんなさい」
「ええっちゅうてるの! そんなことより、なんでいうてくれなかったん?」
「え?」
「……ほれ」
いきなりのことだった。
泉は表情を呆れから少し照れくさ気なものへと変えた。
何があったのか、疑問に思うまもなく、泉が“それ”を取り出した。
“それ”は丁寧にラッピングされた、手のひらに収まる程度の小箱だった。
「え? な、なんで?」
思わずその光景に、円依は目を白黒させる。
泉がなぜか円依にプレゼントを贈ろうとしている……という光景で、これは果たして合っているのだろうか。
「――誕生日、一昨日やったんやって?」
ハッとした。
今まで、自分が感じていた倦怠感も、違和感も、不和もすべて何もかもが、一瞬にして氷解した。そうだ、そうだ、これだったのだ。
「あ……」
円依はあまり誕生日が好きではない。
特にここ最近は、父親が無理をして帰ってきて、その帰りに母親がついていく日、という認識しかない。だから一昨日のことも、昨日のことも、ほとんど意識に残っていなかったのだ。
思い返せば、主治医である荒川先生にも、しっかりプレゼントはもらっていたのに、そうとは言われなかったものだから、気づかなかったのだ。
「えっと、気に入らんかったらゴメンな?」
泉の言葉は、誕生日を祝うものだということを前提として話している。
対する円依からしてみれば、それは余計なお世話だとでもいうのに。
「……あは」
中身はペンダントのようだった。首にかけるもので、淡いブルーの光沢が、透き通る空のようだった。
色々と、言いたいことはあるけれど。
円依はそれを、まぁいいかと放り投げた。
目の前に泉がいて、ここは自分の家で……そんな事実が、円依の感覚をあっという間にねじ曲げた。
「……んふ、んふんふ、ありがと」
そんな笑みと言葉は、自然と漏れて形になった。
泉は円依の様子を、綺麗な空の用に思える笑みで、見守っていた。
まぁ色々と、円依の本性といってもいいのかな。
人を見る目があって、本質が見抜けて、でも色々と面倒くさがりというか、足りてない、みたいな人です。
ところで麻雀講座とか需要あるだろうか、割烹でやってみたい。