今まで、何かを失うことなど考えても見なかった。
ただ前に進んでいれば、なんの問題もなかった。自分の人生は至って平凡で、少しだけ他人より得意なものはあるけれど、決してそれをひけらかすような生き方はしてこなかった。
自分は単なる一人の少女で、どこにでも居る普通の女の子なのだ。それが少女の――清水谷竜華の半生なのだ。
だから、何かを失うことなんて、これっぽっちも思ってはいなかったのだ。
……それが少しだけ、揺らぎそうになった時がある。
去年の事だ。去年の夏、怜が倒れた。あとに残るものではないが、死者が出ることもある危険な病にかかり、病院で寝たきりになったのだそうだ。
それを聞かされた時、竜華は初めて、失うことを知った。
自分たちがインターハイへ行っている最中、怜は自身の死と戦っていた。自分の知らない場所で、自分にとっての最高の親友が、失われるかもしれない。そんな恐怖を、竜華は初めて味わった。
怜が病弱なのは今に始まったことではない、昔から病と付き合ってきていたし、竜華もそれをサポートしていた。
けれども、竜華にとって、怜の病はどこか遠くにあるような気がしてならなかったのだ。例えばそれは、画面の向こうに映るドキュメンタリーを、家族と食事を摂りながら見るような、そんな感覚でいたのだ。
それもそうだろう、ただ体が弱いだけ、今まで平然と自分達に付き合ってきた少女が、まさか死ぬなんて、誰も考えたことはない。
竜華にとって、それだけ怜の病とは、実態の知れないものだった。
それが、去年の夏に変貌した。
自分たちが遠い所に居る時に、親友すらも失うことが、起きうるのだと、竜華は初めて認識した。
初めて、恐怖を覚えたのだ。
『ウチと一緒に、全国行かへんか?』
インターハイから帰ってきて、初めて怜と会った際、竜華はそんな言葉を怜へと投げた。それは自分の事を幽霊部員だという怜へ、一石を投じるためにかけた言葉ではあったが、はたしてその根底に、失う恐怖はどれだけ在っただろう。
竜華はいつしか、共にいたいと思うようになった。
いつまでも怜とともにいたい。怜を失いたくない。そんな感情を、持つようになったのだ。それは友人を失いたくないという極々単純な感情出会ったが、とても薄く細い線とは言えないものだった。
それだけ怜は、竜華にとっての一番だったのだ。
もちろん、それだけが竜華にとってのすべてではなかったが、竜華が全国を目指すモチベーションのほとんどは、怜に由来していたといってよいだろう。
それが清水谷竜華の人生において宿った、たったひとつの不安だったから、怜を失うことが怖くて、それを振り払おうとして、竜華は、今も麻雀を握っている。
♪
若干のインターバルを持って、次鋒戦がスタートする。竜華はダルそうに椅子へ倒れる怜を最後まで心配そうに接してから、対局室へと到着した。
既にそこには白糸台、新道寺、阿知賀の三校における次鋒が、そろい踏みとなっていた。
場決めの結果、東家が宥、南家が竜華、西家が菫、北家が美子となった。
――東一局、親宥、ドラ表示牌「南」――
第一打と理牌を終え、竜華はフゥ、と一息を入れる。
(怜、大丈夫やろか、先鋒戦大変やったもんな、点もいっぱい取られてもうた、ウチが、ウチががんばらんと)
――竜華手牌――
七八①③④⑥⑦⑨11東白發
微妙、ではないが阿知賀の松実宥と二筒と八筒の存在を考えれば、鳴いて手を作っていくのが正解だろう、幸い上家はその阿知賀である。
竜華/ツモ七・打白
(せやけど、ここは高い手を作りたい、一向聴まではダマで行く!)
竜華/ツモ切り北
もし一向聴までに、二筒と八筒を引き入れることが出来たなら、そのままリーチを仕掛けても問題はないだろう。残る五筒は、出和了りは期待できずとも、ツモ和了りは十分期待できる。
しかし、ここで竜華は思わずうめいた。
竜華/ツモ白
(何でそこが来るねん!)
竜華/打白
手が進んだ場合、東か、白か、發か、このどれかを出すことになる。どれも役牌、ダブ東を恐れて先に処理するか、はたまた抱え込むかの違いはあるだろうが、白と發に優先度はない。
完全に裏目だ。そして、悪いことは続くものだ。
竜華/ツモ白
「…………っく!」
思わず呻きながら目を閉じて顔を離し、叩きつけるように白を切る。
(……こういうことは、よくあることやけど、でもいまである必要はないやろ! ウチがムダヅモしとるウチに、他はガンガン手が進んどるのに)
二―五―八筒が揃えば、平和も付き、リーチをかければ満貫クラスの手、だというのに手は遅々として進まない。
数巡後。
(よし、二向聴、五筒ひいたから、後は鳴きや。……まだ、二筒も八筒も出とらへんけど)
――竜華手牌――
五(赤)七八九①③③④⑥⑦⑨11 ⑤(ツモ)
(対面、新道寺はオリ、二巡前の下家西切りを警戒しとるんやろな、聴牌気配は上家と下家、上家は親やけど)
――宥捨て牌――
①9東發西4
⑤6南發
――宥手牌(竜華)――
□□□□□□□□□□ 中中中
(最後の手出しは六索、その前の四索と合わせて、多分面子オーバーやな。西を切っとるから対子になってることはない。加えて)
――菫捨て牌――
二八中1一九
西1⑤(赤)
(赤五筒が一枚切れとる、新道寺も赤五索を切っとるから、打点はそう高くない。となると切るべきは危険牌の三筒やのうて、赤五萬、これが当たることは、阿知賀のチカラを考えても、殆ど無い!)
あたったところで、2900程度なら、ここで攻めずにどう攻める。下家の異様な捨て牌も、十中八九チートイツだろう、その上で、赤五筒と西を切っているなら、あたっても怖いはずはない。
(これは絶対に通る、せやから……!)
竜華/打⑤
――その時、だった。
宥の手が、そっと動く。考えるまでもない、牌を倒す動作だった。
「……ロン」
「――は?」
――宥手牌――
四六②②②⑤(赤)⑥⑦⑧⑧ 五(赤) 中中中
「……5800」
竜華の顔に、驚愕が浮かんだ。
――続く東一局一本場、白糸台の菫が早々にチートイツをツモ、さらに東二局もそうそうに新道寺がツモ、リーチもかけない不可解な安手は、親被りも合わせて、竜華の神経をえぐっていく。
しかもその二局、どちらも竜華の手牌は二向聴にまで進んでいない手、しかもタンピンや役牌すらつかないような屑手ばかりだ。
(調子がいい時悪い時、自然と和了れる時和了れない時、麻雀に浮き沈みがあるんは当然やけど、でもなんて今何や、なんで……何でぇ)
――東三局、親菫、ドラ表示牌「7」――
竜華が不調を嘆く中、菫は好配牌で聴牌までこぎつけていた。
(現状千里山は手が芳しくない、か。恐らくは調子が振るわないのだろう。今は射抜かなくてもいいか……? いや、阿知賀が上がってくるのであれば、先に落としておくのも悪くはないか)
とまれ、今の狙いは阿知賀一択。
決勝へ進むための最大の障害、照を持ってして、あの役満を止められないのだから、阿知賀という高校は白糸台の脅威になることだろう。
であるならば、決勝までにその憂いはかき消しておきたい。
(別に阿知賀を三位に落とす必要はない、阿知賀の本質を見極められれば、そこに弱点があるのなら、そこを打てばそれでいい)
白糸台の目標はあくまでも全国優勝。照の提案も在るように、根本的に白糸台のスタンスは“最終的な勝利”なのだ。終わりよければ全てよし、とはよく言ったもので、白糸台はそのスタンスを地で行く存在だった。
(阿知賀のエースは先鋒と次鋒、松実姉妹両名。照に食らいつくだけでも驚異的だが、ドラがない状態だと跳満和了で照が追いつかれるというのは、こちらとしても点が稼ぎにくいな)
対して阿知賀の松実宥が持つ支配力は、打ってみて解るが脅威的だ。いつもならば最良だった選択も、松実宥の特性によって無効化される。
第二回戦で千里山の清水谷竜華が和了っていたように、今現在自分がこうして和了っているように、他人の手を縛るようなものではない。
いうなれば、自分の土壌に相手を無理やり引きずり込むような、そんなチカラなのだ。
(ならば……これで!)
――菫手牌――
三三四四五五(赤)④⑤⑤⑤(赤)345
高め跳満の三面張、自摸りやすい赤い牌に加え、四筒は菫が狙う阿知賀からこぼれてくる牌。
打点としては安くなるが、自摸っても良いし、出和了りでもよし、阿知賀以外からの出和了りも望めるだろう。
宥が牌を自摸る。そうしてからしばらく考えると、手出しで自摸を選択する。若干迷っての――
宥/打8(ドラ)
ドラ、八索切り、聴牌気配であることは間違いないが、しかし菫の顔が芳しくない。
(まさか、まだ聴牌していないのか? ドラを切った以上、オリということはないはずだ。そうなると、あのツモは一体なんだ? 何の手を張っている……!?)
菫/ツモ⑤(赤)
(……む)
ドラだ、コレでさらに打点が跳ね上がる。高め倍満にまで膨れ上がった手を、みすみす逃す理由もない。
迷わず打牌を選択した。
菫/打⑤
「ロン! ――12000」
(……何?)
突然のことだ。菫の打牌に呼応するかのように、宥が手牌を倒し、点数を制限する。
(――四筒を三枚使っているだと? ――何が起こっている)
菫が、思考の渦へ取り込まれる。
意識が正しく保てないほど、それは深く自身に突き刺さる。結局菫が、最後まで確かな力を持つことはなかった。
――東四局、親美子、ドラ表示牌「1」
竜華/ツモ切り白
(手が進まへん)
竜華/ツモ切り8
(なんで、なんでや、なんで……)
竜華/打北
その瞬間だった。
竜華の視界が、あらゆるものが、一瞬にして激変する。何が起こったのかと確認する暇もない。気がつけば、竜華という存在は、鋭い閃光に撃ち貫かれていた。
そう、文字通り“射抜いた”。弘世菫が、清水谷竜華を。
「――ロン、8000」
――菫手牌――
2(ドラ)345(赤)67999南南南北 北(和了り牌)
「へ……!?」
――菫捨て牌
98東白⑧南
8
完全な迷彩だった。そもそも、索子のみに固まった手牌は、いかようにしても変化しなかったのだ。
既に北は二枚切れていた。
自摸ったのなら、出さないはずがないのだ。そこを狙っての一発。交わすことなど、不可能としか言い用のないものだった。
(こ、こんな――! こんな事って……!)
最も精神的にダメージの深い、竜華に北が渡るのは、ある意味当然だったのかもしれない。
竜華は相対的に敗北したのだ。如何なる理由があったわけではなく、ただ必然的に。
そして、
「――ツモ、二本場は、500、700です」
『前半戦、終了ー、白糸台が逃げ、阿知賀が追う次鋒戦前半は、白糸台の勝利で幕を閉じました! 厳しい立場の新道寺と千里山、この二校はその命運が大きく別れたか!』
一位白糸台:144700
二位阿知賀:140000
三位新道寺:65200
四位千里山:50100
(――ウチらが、最下位)
竜華の頭には、必要のない思考と、どうしようもない悪循環が塊となって襲いかかっていた。
怜のこと、自分のこと、千里山のこと。
(……トップ、とれへんのかな、このまま沈むしか、ないんかな)
どうしようもない、どうすることもできない。
その発端に、自分がいればどれだけ良かっただろう、自分の手落ちで負けていくなら、如何に惨めで居られただろう。
――竜華は正しい打牌をした。少なくとも竜華にとって、その打牌は間違いではなかったのだ。
ただ、和了れなかった。
それだけなのだ。
(……怜)
思考の外に、浮かび上がる感情の群れ。
――やがてそれは形になって、結果。
「竜華――!」
竜華の中で、ナニカが弾けそうな瞬間に、ふとそれを抑えこむものがいた。言葉が投げかけられ、竜華はふと、そちらへ目をやる。
怜がいた。
――円依が使っていた車椅子に体を預け、こちらを見上げる、怜がいた。
怜が大きく敗北し、更に自身もあることから精神的に追い詰められているが故の竜華の不調。
三年ブーストすら無効化されて、その上で丁度調子の沈みにぶつかったっていうのは、ある意味しょうがない部分もあるのかも。
最初の竜華の心情は、だれも想像がつかないけど、けれども想像してしまうことそのものですね、客観的にも怖いです。ちなみに入院は知ってたけど死にかけたのは帰ってきてから聞かされたイメージ。