円依の親番。
“それ”を予感していたのは、千里山のメンバーだけであった。――いや、画面越しという条件付けをすれば、感染していた風越の大将や、宮永照に天江衣などは、それを触り程度には感じ取っていた。
他にも、小鍛治健夜は開始した時点で、それがどういう理屈か、すべて瞬時に把握していた。しかしそれを解説として、語ることはなかった。
必要がないのだ、いずれタップリと、語る時間があるのだから。
「……はじまったか」
そんな事情を知る千里山メンバーの控え室。そこでは若干の戦勝ムードと、どこか緊迫した、覚悟めいたものが同在していた。
竜華が重苦しいため息とともに、ぽつりと言葉を漏らす。どうしても、あれには苦手意識が先行するのだ。
浩子、セーラはそれぞれ同様に苦しげな表情を浮かべている。怜と泉は少しだけ反応が違った。
怜は恐ろしく真剣な表情で、モニターに食いついている。普段なら体重をどっしりと預ける竜華の膝枕から、少しだけ頭が浮いていた。
泉は少しだけ嬉しそうな表情で、モニターの円依に魅入られていた。恋する乙女とも言えるほどであり、とてもとても、穏やかな顔をしていた。
怜と泉、両者の立場は大きく違う、怜は“壊れた”円依を知っている。逆に泉は“壊れた”円依を聞いてしかいない。
故に、怜は円依の“前進した姿”を目に焼き付けようとするし、泉はその姿を、とても嬉しそうに見つめていた。
モニター越しに映る円依は、少しだけ前を向いていたのだ。
今の円依と、昔の円依、前向きな円依と、後ろ向きな円依。彼女の中に存在する二つの円依がこの時、初めて前進する円依が後退する円依を上回ったのだ。
一度、円依はその心を壊している。後ろ向きの円依は、彼女の中で一度死んだ。けれども再構築された彼女の心には、そんな弱い円依が、どうしてかずっとこびりついていたのだ。
そんな円依を少しだけ、今の円依が上回る。あの理不尽を乗り越えて、ようやくここまで来たのだ。
(がんばれ! がんばれ! がんばれ!)
モニターに食い入る二人の表情には、共通した思いがあった。――声援と、安堵である。
かくして、そんな二人の想いを乗せて、準決勝大将戦、絶体絶命の状況から、円依の親番が始まる――
♪
――東四局、親円依、ドラ表示牌「8」――
「リーチ」
六巡目のことである。
円依がこの局を先制するかのように、“最初の”リーチをかけた。
――円依捨て牌――
一⑨東西白9(リーチ)
(……困ったな、現物になる肺、前巡に切っちゃった。――捨て牌から全然手が読めない)
淡は困ったように自分の手と、円依の捨て牌を眺め返した。ここまで自身の手は順調に前へ進んでいる。
故に、このようなリーチは少し困る。
――淡手牌――
①①①⑥⑦⑧南南北北白白發 中(ツモ)
(……対子は、この段階だと落としたくない。役牌も、私なら重ねられるから、必然的に切れるのは筒子。――となると、中張牌の六―七―八筒子ラインは絶対に切れない。それならいっそ一筒なら……)
改めて円依の捨て牌を見なおして、一考。数秒の時間を要し、それから淡は頷いて納得を付けた。
(うん、一筒だ。一筒はまず当たらない、はずだ)
淡/打①
「――ロン、12000」
しかし、そんな淡の判断を、吹き飛ばすかのように、円依の宣言が卓上へ響いた。淡は思わず驚いたように声を上げ……そして。
(事故った……)
――円依手牌――
二二三三四四②③45(赤)677 ①(和了り牌)
己の不運を、呪うのだった。
――東一局一本場、親円依、ドラ表示牌「七」――
「リーチ」
再び円依が動く。
ここに来て四巡目のリーチ、流れを悟った三者は、少しばかり冷や汗を垂らす。
先ほどの和了りで千里山の点数は71400。ここで連荘を許せば、阿知賀と白糸台は、その立場を危ぶまれることとなる。
しかし――
(……どうすんのこれー!)
穏乃は一人、頭を抱えていた。
ここまで早いリーチは、あたってしまえばそれこそ事故だ。しかしそれ故に当たる訳にはいかない。ここまで阿知賀の連続和了が続き、その点数も無視のできないところにまで達している。
“役満一つで逆転を許す”など、まったくもって冗談ではない。
(……となると――)
――円依捨て牌――
①⑨北①(リーチ)
(危なくないのは、間違いなく筒子……でもその筒子――現物の一筒を、前巡落としちゃったから……)
――穏乃手牌――
六八九④④④⑦⑦345白發 發
(とりあえずはオリる、發を暗刻に出来ればまた挑むけど、いまなら十分、これでいい……筋の四筒、そうそう当たることは、ないはず!)
穏乃/打④
その瞬間だった。穏乃は自分のたもとからにじり寄る、おぞましいばかりの“黒”を感じた。
そう、自身を喰らい尽くすかのような闇、その感触とすら言えない感覚が、穏乃の体を冒し尽くす。
(な、なに――これ……!)
まるで、自分自身が、“それ”の接近を許してしまったかのような、おかしな自覚に、穏乃は何度も思考を回転させる。
意味がわからない。
理解が追いつかない。
そこにあるものを、認識する暇がない。
そう、気がつくことはできなかったのだ。
その瞬間、円依の姿を、自身の懐で確かめるまでは――
「ロン、24300」
――円依手牌――
③③③③⑤⑤⑥⑦⑧⑧⑨⑨⑨ ④(和了り牌)
理解する。
把握する。
自覚する。
振り込んだのだ、千里山の、瀬野円依に。
そしてそれは、もはや絶対不可避のものだったのだ。
穏乃の瞳に、自身を見つめる円依の顔が、どうしようもなく捉えられた。
――東四局三本場、親円依、ドラ表示牌「南」――
淡は不用意な失点を犯した阿知賀の大将に、正直なところ失望を禁じ得なかった。この出和了りにより、それぞれ点数は、阿知賀が112200点、千里山が95700点だ。
両者の点差は、既に二万点を切っている。満貫ツモでも逆転を許し、現状でも残りの南場と半荘一回を、プラスで折り返して見せるなら、逆転も当然視野に入ってくる状況だ。
(だめだなぁ、そんなんじゃ。……しょうがない、私がこの親番、早々に流してあげよう!)
明朗快活、直球勝負が座右の銘、そんな大星淡の笑みは、いつだって晴れやかだ、友人が落ち込んでいようとも、先輩が悩んでいようとも、淡のやるべきことは変わらない。
勝って笑って帰ってくる。そして優勝するのだ、白糸台で。
――淡手牌――
四五六六七八①④89東東東
(完璧だ、かんっぺきすぎる! 東が来てるから、北と三元牌が来てくれる、ムダヅモはしないから、四巡目に確定聴牌! 止められるもんなら止めてみろ!)
そして、そのとおりに、北と白を連続でツモ、聴牌とする。既に四翻が確定あしているためリーチはかけなかった事に加え、ダマで迷彩をかけたような状態からの聴牌、通常ならば和了れない道理はない。
しかし――
淡/自摸切り一
ここまで、五連続の自摸切りである。既に二段目に折り返した河も、半分は過ぎようかというところ、淡の心中に焦燥が走る。
ここまで一度も字牌を引けて来ていない。淡の場合、三度に一度は字牌を引いて、それを元手に更に手を進めていくのが淡のやり方だ。
この場合、その土台に手をつけることができないのだから、からまわる淡の手のひらは、どうするすべもなかった。
そして――
円依/打⑤(赤)
(――聴牌気配!)
ここまで、だろう。コレ以上無理をすれば阿知賀の二の舞、それだけは絶対に避ける必要がある。
(満貫……程度かな?)
なんとなく、そういった気配に淡は聡い。これは力を持つもの共通の感覚だと、淡は判断しているが。
さすがにコレ以上千里山に点をくれてやる訳にはいかない。そして自分が点数を失うわけにも。
――淡/打東
ここはオリ、阿知賀が攻めるか、はたまた新道寺が和了るか――自分ではない、自分であるべきではないのだ。
ここまで和了れなかったのならば、もはや自身に流れはない、故に、オリ。
淡の選択は、平時であれば正解だった。この段階でのツモはほぼ間違いなく円依の当り牌、ムキになって押して振り込む“流れ”。
――だが、
穏乃/打北
淡の心中に激震が走る。穏乃、ノータイムによる自摸切り、淡の目線からはその打牌に一切の迷いが内容に見えた。つまり、押していれば出ていた、北は阿知賀にとって歯牙に賭けるほどのこともない牌、故に、出た。
(……っ! やってくれるじゃん)
続く円依は手出しの萬子落とし、つまり聴牌していなかったのだ。あの一打、完全な迷彩といっていい。淡は回避しようのない地雷を誤認させられたのだ。
理解する。納得する。恫喝する。
それはそれはケモノじみた笑みであった。淡のそれは、強者として、魔物として、敵と相対したその瞬間の笑みだった。
そして、
それは――
数巡後に、大きな恐怖へと歪むこととなる。
「――リーチ」
淡はその後もオリを選択した。
現物であった東を切り、更に二巡卓を回した。そしてこの局面にまでたどり着いたのである。
(――え? なんで、リーチ?)
淡は理解が追いつかなかった。
円依がこの局面にいたってリーチをかけてきたのだ。しかも、自摸切り、語るまでもなく不可解なリーチである。
(……長野にいる、龍門渕の天江衣が、ハイテイ直前に自摸切りリーチで一発をつかむことができるっていうのは、聞いたことがある。正確には“ハイテイで上がることを知っている”チカラだそうだけど、これも同じようなもの…………!?)
ならば、このリーチに一体なんの意味がある。
(いや……そんなチカラに目覚めたとか、そんなことありえない。後天的な“チカラ”がどれだけ体に負担がかかるか、そんなの考えるまでもないじゃん! 今まで持ったことのない感覚を、ムリヤリ脳にインプットさせるなんてそんな……)
だから、これは覚醒ではない。淡は円依のそれを今までの円依に通ずる打ち方だと判断した。
不可解なリーチ、まるで何かを惑わすような。
(――そう、これはあくまで延長線上、瀬野円依の打ち方は“幻惑”。他人に植えつけた幻想を利用して、大きな一発をかますチカラ――!)
つまり円依のチカラ――打ち方には“対象”が必要だ。誰かを直撃させるのだから、直撃する相手が必要になる。ツモ上がりもあるそうだが、その場合は全員をオリさせる幻想を使うだろう。
この場合狙われるのは――
(……私ではない。あの聴牌の迷彩で瀬野円依は私をオリさせた。つまり、私に動いてほしくないってこと)
実際流れは来ていなかったとはいえ、あそこで円依がオリさせなければ阿知賀が淡に振り込んで、この東四局は終了していた。
――しかし、円依は淡にオリを選択させた。故に円依が、淡を狙うことは絶対にない、“ありえない”。
(この場合、“私の弱点”は攻める阿知賀にも、私以外を狙う千里山にも関係はない、むしろ、攻める阿知賀にとって、あれは福音、“私の弱点”のもう一つの作用!)
淡のチカラは非常に使い勝手の良い、柔軟かつ強力なチカラである。しかしそんな淡のチカラにも、弱点は存在する。
淡がオリたときにのみ露呈するその弱点は、しかし淡がオリるという状況かにおいて、むしろ他者をサポートするチカラとなる。阿知賀の北切りは恐らくそれにあたり、むしろ阿知賀を助けているのだ。
ツモは、現物ではない。現状淡の手に安牌はない。
円依の打ち方が幻惑であるのなら、筋、壁、その他メカニズムとしての安牌は幻想、現物というルール上の安牌を除いて、すべてが危険牌と同等の危険値となる。
それでも、淡の北は、話が別だ。
(どちらにしろ、この北は当たらない、千里山の狙いはほぼ間違いなく新道寺からの直撃――終わらせるつもりだ、新道寺を飛ばして!)
そう、淡は考えた。
“ありえない”。絶対にこの一打で、振り込むことはありえない。それも確信をして、確固たる自覚をもって、円依という存在を意識しながらも、完全に警戒の外においた状態で。
考えたのだ――“ありえない”と。
(この北で、千里山に振り込むことは――ありえないんだ!)
それは、そう――誰もが思うことだった。
千里山の面々は誰もが知っている。円依と正面から相対した時、もっとも考えてはならない思考は何か、そう。
「ロン――18600」
ありえない、と考えることこそが、円依という存在に完全に囚われた典型なのだ。
意識の向かない背面からの奇襲。これにより淡の表情に、驚愕の色が無造作に塗りたくられた。
そう、淡の思考に、それは浮かんだ。
(――ありえない。ありえない! あ、ありえないッ!)
次局、再び振り込んだ淡は、二本場の時点で得ていた首位という立場を剥奪され、千里山に、首位の座を明け渡すことになる。
ここまで、それぞれの点数が大きく変質した。
千里山:122900
阿知賀:112200
白糸台:100100
新道寺:64800
沈みに沈んでいた千里山。
しかし、ここに来てその立場は大きく変わった。――狂気とかした英雄、伝説を作るもの、瀬野円依。
牌を叩くその手の隙間から、幽鬼めいた目線が敵を捉える。
――その進撃は、止まるところを知らない。
解説なんかはまた次回。
準決勝は闘牌一話、あとしまつ一話、で残り二話です。
次回更新は連休中、とりあえず全体的にはそれで一段落です。