咲 -Saki- 千里山伝説   作:暁刀魚

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『楽しかった日々』/『あるがままの日々』

 ある夜の事だった。

 泉は円依と談笑を続けていた。それは例えば円依の故郷でのことであったり、ここ半年の思い出であったりだ。

 共通することは、そのすべてが過去のことであるということか。

 

「ねぇねぇ、泉。泉はさ、感じたことある? 毎日を一生懸命生きて、密度の濃いものにしようとして、それなにき気がついたら、いつの間にか月日が経っている、なんてこと」

 

「あるでー、いっぱいあるでー、なにせウチは毎日忙しいからなぁ、時間なんて、あっという間に放り出してまうねんな」

 

 楽しそうな物言い、円依は少しそれに差しこむように、物憂げな嘆息を見せた。泉が何度か目を瞬かせて、円依の顔を見る。

 

「なんか、辛くない? そうやって今を過去に変えていって、気が付けばうずたかく過去がつまれて、それを眺めるのってさ」

 

「辛くないで、……なんちゅうかな、正直わからん、答えなんて考えたこともなかったし。……でも、楽しいで? 辛くなんか、ないで?」

 

 語りかけるように、言い聞かせるように、泉はそっと隣りに座る円依の肩を、何度もやさしく撫でるように叩いた。円依はそれを少しだけくすぐったそうに、目を閉じて快活な唸りを上げると、そのまま勢い良く泉の布団へと倒れこむ。

 倒れてゆくさなかに漏れる円依の声が、サウンドの様に辺りへ響く。――ぽすん、と気の抜けるような音が円依をそっと受け止めた。

 

 それからシン、と静寂があたりを包んだ。天井を、その先に映るであろう月の影を眺める円依は、ぼんやりと、辺りを浮かぶ雲のように、まどろみを見せた。

 “確信”がない。在るのは単なる不完全。マイナス染みた意思の不明瞭が円依の心に沈黙を呼んだ。

 

 切り開くまでのその間、泉はただ円依の言葉を待っていた。体をベットに預けて両腕で支え、パタパタと足を揺らす様は、木漏れ日で川のせせらぎに身を委ねるかのようだ。

 自然体。泉はなんとでもない様子で、円依の側にいた。ずっとずっと、側にいた。

 

 そしてようやく、円依が口を開いた。泣きそうになるほどか細い声で、すすり泣くように、円依は声を震わせた。

 

「…………辛いよ。私は、辛い。あまりにも楽しかった日常が、私のすべてを塗り替えていく幸福が、過去に変わるのが、私は辛い」

 

 円依という少女は、今までの人生で、どれだけ“楽しい”と思って暮らしてきたことがあっただろう。親しかった者たちはいる。しかしその者たちは、円依の中核に入ることはできなかった。

 それは立場の違い、年齢の違いによる偶然で、しかしそれ故に、円依の本質を慰めることはできなかったのだ。

 

 助けられることはあっても、救われることはない。

 守られるうことはあっても、癒されることはない。

 円依の側にいた人達は、手を伸ばすことしかできない。円依はそれに気づかずに、一人で閉じこもったまま伏せている。必要なのは、救うもの。円依の横に立ち、救われぬ円依に、救いの手を知らせる福音。

 

 それは例えば、泉のような少女だった。

 

「――私は、円依の親友になれてよかったと思ってる。こうやって親友になったから、円依の隣でわかっていられる、笑っていられる。それはきっと、円依のそばにいることで、一番シアワセなことだから」

 

 泉はそう言いながら、円依と同じように布団へ勢いよく倒れこむ。

 

「円依は、誰よりも今が楽しいんだとおもう。だから過去が怖くてしょうがない。でもな円依、過去がどれだけ積み重なろうと、今が消えるわけやないんやで?」

 

 布団に伝わった振動は、そのままそっくり円依を包む。ゆっくりと円依の顔が、隣の泉へと向いていく。

 

「私はまだのまだまだやから、円依に何かを教えるような事はできない。でも、これだけは知ってて欲しいんや。セカイで一番シアワセなのは、きっと今を楽しんでいる人だから」

 

 円依がそうであって欲しい。

 泉はすこしだけ、笑って浮かべて、そしてずいっと円依へ顔を近づける。慌てたように、気恥ずかしさが襲っているのか、円依は顔を赤らめて手を前に突き出す。

 それを泉は受け止めて、そっと指を絡めると、円依の言葉を真正面から待つ。

 

「……解んない。それだけじゃ、解んないよ」

 

「だったら、誰かに聞いてみるとえぇ、人生の答え合わせなんて、いつやってもええんやからな」

 

 泉は無理だ。円依の何かがわかるほど、人生というものを泉は知らない。何かに別れを告げて前に進むなんてことを、泉はマダしたことがないのだ。

 

「教え伝えるんが人生ってもんや、自分で考えろなんて、責任放棄の大馬鹿やで」

 

 無責任な物言いで、茶化すように泉はいった。

 

「――せやから、今日はもう寝よか、みんな寝とる。ウチらも、明日に響いたら大目玉やで」

 

 どこまでも透き通るようなハリのある泉の声が、円依を芯から溶かしてしまう。

 眠気もあったことだろう。ぼんやりと円依は頷いて。

 

「うん」

 

 体を起こすと、自分の布団へ改めて倒れて行く。

 やがて、二人の少女はまどろみの中へと消えていった――

 

 

 ♪

 

 

 タオルを一握りでもって大きく絞り、勢い良く水の飛び散る音が、人の少ない大浴場に、長く太く響き渡った。

 跳ねて飛んだ雫を、払うように体を一つ古いながら、怜はゆっくりと湯船に浸かる。それからぐっと一つ伸びをして、やがてその熱へとその身を委ねた。

 

「朝の湯船に身をひとつー、加えて一つの湯けむり事情ーっと」

 

 特に意味もなく、即興の歌詞が、リズムに乗って飛び出てくるのは、なんと呼べばいいのだろう、怜は目一杯顔をほころばせ、体中から抜けていく何かを感じていた。

 

「下手っぴ!」

 

 そんな怜の心中に、冷水をぶち撒けるかのような一言が、ふと後ろから聞こえてきた。軽やかな声で、そこに気負うような色は全くない。

 

「だーほ、これがいいねん。トーシロにはわからんやろ」

 

「私の家は歴史のある名家です。小さい頃から、バイオリンなぞを嗜んでたりもするんですよ?」

 

 多芸なことだ。怜は嘆息とともに振り返る。見知った顔がそこにあった。

 瀬野円依が一人その場に立っていた。

 

「ん? 立っててええん?」

 

「よほどダウナーでなければ、家にいる時とかは義足を使ってますよ、リハビリだってしてますし」

 

 豊満な肢体を覆うように、片手で胸を抑えながら、そこから垂れる真白のタオルは、そのまま下方の湯気へと消えていた。

 足元はよく見えない。まぁ、特に確かめる必要はない。義足姿の円依など、一年前に見飽きるほど見ているのだから。

 

 湯船にゆっくりと足をつけながら、円依は足元に垂れるタオルを巻き取っていく。やがてひとつの形にすると同時に、円依の姿は薄く白い湯船へと消えていた。

 

「にしても入浴を希望とは、よく決断したなぁ」

 

「人数が多いからって申告制になってるのをうまく利用しまして、監督も私の事情はしってますから、一人一緒に入ってくれるヒトを付けることでOKくれました」

 

 その一人が、泉ではなく怜であったことは少し意外だったようだが。

 

「で、思うところもありまして、こうやって園城寺さんに同席願ったというわけです」

 

「ふぅーん、で、話ってなんや? いや言われとらへんけど、そういうことやろ?」

 

 バレていたか、と円依は頬をかき、それから顔を霧状の天井へとぼんやりむけた。若干の間を持って、どうとも言えない感情を言葉に絞りだす。

 

「――もうすぐ、インターハイも終わっちゃうんだな、って思って」

 

「あぁ……」

 

 なんとなく、怜はその言葉の意味を理解した気がした。

 というよりもわからないわけがない、円依の言葉はそのままそっくり、怜が言うこともできるのだから。そんな円依の様子に、時は思わず苦笑する。

 よくもまぁ自分にそんな話題を持ちかけたものだ。円依にはまだ個人戦がある。だが自分は団体戦だけ、少なくとも怜の方が、先にインターハイを終えてしまうというのに。

 

「…………なぁ、円依」

 

 失礼な話だ。そうやって憤慨の思考を浮かべて、それに棘が全くないことに怜は気がついた。それはそうだ、円依が今まで、どんな生涯を送ってきたか、怜はそれを知っているのだから。怜はそんな円依の感情を、確り理解しているのだから。

 

「あんま、気にせんほうがいいと思うで。……人間、不思議なもんでな、過去のことは、懐かしい思うことはあっても、やっぱり今が一番大事やねん。せやから、今が終わったら、次の今に向かっていくねん」

 

 確かに、今の日常は、円依にとっても、誰にとっても夢の様なものだろう。楽しい日常、ユカイな仲間、コレほど充実した半年を、怜とて知らなかったのだ。

 それが円依ともなれば――

 

「ちょっとだけ、円依がそうやって思うのはウチにもわかる。でも、ウチは気負ったことは一度もない。必要もないと思っとる」

 

「それでも! …………それでも、嫌なんですよ、楽しいと思った日常が、いつの間にか過ぎてゆく事に、一日が、気が付けば数十、数百と浪費されていくことが、どうしても――――嫌なんです」

 

「どれだけ楽しもうと思っても、世界中の人間がそのとおりに生きていけるわけやない。円依、あんたの過去は、悪いもんやないはずや」

 

 今までの、良い過去が在るのなら、どれだけ今が変わろうとも、その過去は不変として残り続ける。

 だから、だから怜は笑うのだ。

 最初で最後のインターハイ、最初で最後の決勝戦。最初で最後の――仲間たち。

 

 怜に迷いはない。

 

 決勝戦で宮永照に勝利して、千里山に点棒を持って帰ってくる。――二巡先を呼んだ時、初めてわかったことがある。

 ただ我武者羅に勝利を求めるだけでは、自分のまっすぐ進む道を、無茶だけで乗り越えようとするのは、不可能だ、と。

 時には回り道をして、無茶ではない、正しい姿で先へ進むのだ。

 

 ――三巡先、誰にも話したことはないが、一度だけ怜は練習をしたことがある。すぐに倒れてしまって、皆に迷惑をかけはしたが、皆は自分を支えるための方針を、その時そっと教えてくれた。

 

 監督は……気付いているかもしれない。最初に顔を合わせた時、随分と様子がおかしかったし、こちらを気にかけているようだった。

 円依もそうだ。帰って来い。強く在って、帰って来い。怜は円依に、そう言われたのだ。

 

「今はもっと純粋に言える。――“ありがとーな”、そうやって相談してくれて、私も“ちょっと、楽になったわ」

 

「……はい」

 

 円依はそっと頷いて、怜はぼんやりと、霧の中に揺らめく自分と、白く映える水面をそっと見て呟いた。

 

「きっとな、過去って後悔やねん、苦しいことばっか覚えてるねん。でも、ウチらはこうやって生きている。過去を後悔に変えないために。きっとそれは、そんな後悔の過去たちを、――楽しかったと、言い切るために、生きているんや」

 

「………………………………はい!」

 

 そうやって、二人は湯船に体を預けた。

 暖かなぬくもりは、あの時よりも確かに感じた。

 

 

 ♪

 

 

 着慣れた制服に手を通す。

 靴下を一気にはききって、軽く立ち上がり具合を確かめる。

 ニヤリと一つ笑みを浮かべて、そっと車椅子へ腰掛ける。

 

 いよいよだ。

 

「――うし!」

 

 いよいよ、始まるのだ。

 

「――行こうか、最後の闘いへ!」

 

 誰もが夢見、誰もが目指す。

 そんな場所へ、

 

 円依は、過去と未来と今と自分と、自分の中にある感情を、後悔へと、変えないために。

 

 自分の中にある思い出を、楽しかったと、言い切るために!




答えを知らない泉と、答えを知らなきゃいけない怜。
円依は自分の思いを携えて、答えを探しに決勝卓へ向かいます。

ついにここまで来ました。次回、起承転結の結、決勝戦のスタートです。
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