さて、どうしたものか。
仕事を探さなければ、それすなわち無収入であり、食べることに困るだろう。餓えを凌ぐ為プライドを捨て、草の根を食むようなひもじい生活を送る……なんてのはまっぴら御免被りたい。
自分にはどんな仕事が出来そうなのかを考えながら、歩きだした。
とりあえずは、人が多く流れていくのに身を任せて、散歩のようなペースで歩きながら辺りを観察していると、
平たく薄い円に加工された油石のようなものには、朱でミミズがのたくったような字が書かれている。それが字によって別の役割りを持った駒だというのは経験則から分かったが、それだけだ。好奇心がどんどん萎えていくのを感じた俺は、また人波の中に戻った。
「……お腹空いたな」
思い返せば昨夜に食べた味噌おでんを最後に、何も口にしていない。というか、睡眠が足りていない。
何故ちくわの中で寝なかったのか、今更に後悔をしても、もう遅く。緊張の連続で無理矢理に引き出された元気の帳尻合わせが、今の疲労として返ってきた。血の気が引いて、視界が揺らぐ。
「あっ……これ、駄目なヤツだ、うっ」
一瞬の隙に巴投をくらったような浮遊感と、俺を置き去りにして回り始めた景色。
俺はおぼろ気な意識の中、体育の授業中にペアを組んだ柔道部の友人から習った受け身の仕方を走馬灯のように思い出していた。
『いいか?脇の下に手刀を入れて、手をつかずに前転したら思いっ切り手ひらの面でバァーーンッと畳を叩く!!』
上手く出来ただろうか。柔道部の友人の像が、サムズアップして透けていく……合格点は貰えたらしい。
気が付くと俺は、仰向けになった全身で、和かな陽光を浴びていた。体の力が抜け切って、とても気持ちがいい。
抗えない睡魔にもう、何も考えられなかった。
◆
「えぇー、っとぉ……?」
「おお良かった、気がついたか。心配したんだぞ」
疑問符だらけの頭に、額を手で押さえながら恐る恐る声をかけると、鮮明で透き通ったとてもイイ声で返事が返ってきた。
だが、初対面の人からの、身内だけに見せる自然な笑みをさも当たり前のように向けられる覚えは記憶にない。面食らってしまった俺は、体が硬直する。
そもそも、ここはどこなのだろう。
寝ぼけた頭も次第に起きてきて、心当たりを探そうと記憶を辿っていけば、そういえばあのときに眩暈を起こして倒れて、そのまま道で寝てしまったんだったーと他人事のように思い出す。
それが自分のことだとはっきり認識したとき、嫌な汗が噴き出してくる。
こうなってしまったのは、異世界に来てからの時差のせいも少しはある……と言い訳にしても、人通りのある場所でいきなり寝てしまうなんて失態は、自分にとっては一生の恥じであることに変わりなく、はにかみ屋な少女のようにカッと赤面する。
それから気分はエンジェルフォールもかくやの急降下をみせ、滝壺があったら底にずっと沈んでいたいような憂鬱な気分に、手は顔を覆い自然と深く長い溜め息が漏れた。
「うあぁぁ……ぁ、最悪だ」
「こらっ、お前というやつは……、はぁ。人が心配したと言ってるのに、最悪は無いだろう。道端で転がっていたお前を背負って、ここまで汗をかいて運んでやったのは誰なのか、教えてやらねば礼の一つも言えないのか?」
自分のことだけでいっぱいいっぱいで、ここにもう一人いたことを忘れてしまっていた。百面相の一人芝居が悪い誤解を招いたことを悟った俺は、慌てて訂正する。
「えっ?……ああ、違う違う、それは関係なくて。最悪なのはこっちの話でさ。誰かは知らないけど、本当にありがとう。運んでくれて?だよね。助かりました」
俺は頭の下に敷かれていた座布団を退けて上体を起こし、床板の上で正座を作って頭を深く下げる。三秒ほどの静止の後、頭を上げると呆けた口に珍しいものをみるような眼で見つめられていた。
「……それは私をからかっているのか?知らないことは無いだろう」
困ったような笑みで、すぐに気づくような冗談がバレたのだからと、俺から種明かしをするのを期待されていたようだが、口を噤んで何も答えられない間が暫し空くと、それはだんだんと剣のある目つきに変わっていき、疑われているのがひしひしと伝わってくる。……その間、俺は状況を把握するために時間を費やしていた。
少し言葉を交わしてなんとなく分かったことが、彼はおそらく、俺に瓜二つでちくわの中で遭遇したあの男と俺とを勘違いしていて、なおかつ瓜二つな男と縁深い間柄だったということだ。俺が迂闊に余計なことを話し出すまでは、その態度の全てに親しみが込もっていたのを覚えている。
俺は勝手に納得がいったけれど、知る由も無い彼には今から弁解をしなければいけない空気が出来ている。さて、ここは正直に答えるべきか。否──
「どうやらあなたは、一方的に私のことを知っているご様子で……それが他人の空似でなければですが。自分は今、多田力也と名乗っていますが、それを聞いた──」
「知らぬ名だ」
言葉の先を読んで両断する、冷ややかな怒気を孕んだ短い否定に、うぐっ、と息を飲む。表情筋が強張るのを感じたが、まだ俺の話を聞いてくれているこの好機を逃してはいけないので、気合いを入れ直して再び口を開く。
「なるほど。聞き覚えは無い、と。……これは信じていただけないかもしれませんが、話しをさせてください。実は、今朝目が覚めてからというものの、それ以前の自分に纏わる、あらゆる記憶がさっぱり抜け落ちておりまして」
「記憶が無い?」
「ええ。目覚めたら過去の記憶が無いんです。それはもう、何もかもが。まるで浮世から一人取り除かれたような心持ちで……とても恐ろしかった。それからは部屋をひっくり返して、誰か、何か知っているものがないかと右も左も分からないままに外へ飛び出して。迷い続けて。その宛の無い道半ば、疲労で倒れてしまったようです。……そして、見知らぬ恩人であるあなたに拾われて、目の前にいる、という状況なんです」
「そんなことが、いやしかし、本当に……近くでよく顔を見させてくれ」
「どうぞ、構いません」
構わないとは言ったが、パーソナルスペースが違うようで無遠慮に鼻先が近づいてくる。無意識の内に半身後ろに仰け反ると、「動くな」と叱られてしまった。……ただじっと観察され続けているのも居心地が悪く、つまらないから退屈しのぎにと、こちらからも彼の顔を観察することにした。
例えるなら、アニメテイストに美化された那須与一とか、周瑜のようだというべきか。アジア人特有の切れ長な目は涼やかで、唇は薄く口回りに髭の気配が無い。髪は男にしては長い黒髪で、色白の肌は日に焼けても赤くなるだけだろうと容易く想像ができる。
嫉妬するだけ無駄なタイプの美男子だった。
そんなこんなで心の中で盛大に舌打ちしたところを不意打ちに、俺の腕が掴まれて、胸の高さまで上げられる。
彼の細い目が刹那の間、見開かれたのをみた。
「っ!その着物は、何度か見た覚えがある。この前一緒にすき焼きを食べに行ったとき、菊助が着ていたものに違いない……」
「そうですか」
「肉を箸で摘まむときに、小皿の醤油で袖に染みをつくっていた、そう、これだ。ははっ、気が抜けるととことんなやつだと、あのときは思ったものだ。……本当に、何も思い出せないのか?ついこの間のことなのだが」
「その……分からない。話ぶりを聞くに俺は、菊助って名前なのか。なんだか、他人の名前みたいな響きだ」
「そうか。そうなのだな……、!私の名は分からないのかっ、話は出来るのだから、物の名前のように覚えていることはあるかもしれないぞ!」
「……すみません」
「そうか……、別に、お前が謝ることでは無い」
それからは会話が途切れ、重い沈黙が降りる。すっかり気落ちした彼の様子に良心の呵責を感じ、胃が痛む。
俺は自分の保身のため、エゴに突き動かされて平然と嘘をつき、記憶を無くした『菊助』であると騙ったのだ。それは人間の生き方として、許された行いではない。
だが、だからといって本当のことを言えただろうか。
『菊助』は俺と同じ神隠しの目に遭っているのを、俺は知っている。七夕ちゃんが言っていた神隠しと距離の関係性を考えれば、『菊助』は異世界からきた俺とは違ってこの世界の住人。上位神とやらの元に直接誘われている可能性が高かった。
それが何を意味するのかを俺はまだ正確には把握していないが、七夕ちゃんから聞いた神の寵愛、独占欲。座敷牢から神に信仰を捧げ続け、老いていく人間のイメージが瞼の裏を過った。
……ちくわの中で『菊助』とすれ違ったのは、いくつもの偶然が重なった結果かもしれない。だが、たからこそ、俺は因果めいた何かを感じずにはいられなかった。
「──あぁ、お前の目を見ていて分かった。本当に、私のことを忘れてしまったようだ。……今は力也といったか。突然私のような者に知り合い然とされて驚いただろう?だが、私と菊助は気の置けない無二の友人で、喜びや辛苦を二人で分かち合った仲だったのだ。……それは真実で、変わらない。そして、記憶の有無で人の魂の在り方までもが変わることは無いと、私は信じている!だから、また一からでいい、私の友人になってはくれないか?」
その言葉に胸が張り裂けそうで、息が苦しい。それでも俺は震える声で力強く、言葉を探しながら答える。そうしなければならなかった。
「その……菊助のことを、そんなにも想ってくれて、ありがとう。記憶の無い俺がありがとうって言うのは、本当は筋違いかもしれない。白々しいと怒りを覚えるかもしれない。けど、俺にしか言えないことだとも思うんだ。……本当に、ありがとう。変わりきったこんな俺だけど、また友達になってほしい。この気持ちも揺るがない真実だと、俺は信じていたい」
「うっ、ううっ……酷いやつだ。そのようなことを言われては……あぁ!本当に酷いやつだお前はっ、勝手に記憶を無くすのだからッ!!そのくせ、そのくせに……、何一つ変わっていないのだから……うわぁぁぁん!!わ゛た゛し゛は゛ーーっ!?」
「うわぁっ!?」
◆
突然腕が俺の両肩へ伸びてきて、ガッシリと掴まれた。
それからは顔を伏せて、少し痛いぐらいに肩を何度も叩いてくるのは、何か言いたいことがあるようにもみえる。
俺はそれを、忍耐の心でただ受け入れるのに徹してしばらくすれば、肩を叩く手も止んでボチボチ落ち着いてきたらしい。今度は手ぬぐいを取り出しのを見てから、俺は明後日の方を向いて胡座をかいた。
空を仰げば刷毛で薄くひいたような雲が、遥か上空の風に吹かれて、巻いて、散っていくのと、流動的に変化している。
ただ、青空には変わらず太陽がさんさんと輝いていて、異なる時間が流れているのだな、と感じた。
「
「へ?……あぁ、名前が」
「そうだ。まだ、名乗ってもいなかったからな。……力也について、私もいろいろ考えてみた。それでな、大切な話がある」
横に並んで座った気配はしていたが、振り向くことはせず。今はスッキリとした表情で語っているのが、柔らかな声音の雰囲気から察せられた。
「ん、分かった」
「大切な話というのはだな、力也が今借りている長屋を引き払って、しばらくは私と一緒にここに住むのはどうだろうかと、真剣に考えてほしいんだ」
ゆっくりと時間をかけて、俺は静かに口を開いた。
「……ここって、
「そうだ」
菊助が住んでいた長屋や見てきた町並みから考えると、この家は一代で興したとは思えない程度には立派であり、なので二つ返事にそうだと返ってきたのは純粋に驚きだった。
「もしかして、高名ななんとかの御曹司だったり?」
「いやははっ、そんなに期待されてはもてなしに困ってしまうな。……物置になって使っていない部屋もいくつかあるし、それは後で片付ければいい。そのときはもちろん私も手伝うのだが……、どうだろうか?」
もう候補の部屋とか決まっていそうな話の進み具合にブレーキをかけ、否定的な視点から、後の
「えーっと、その、うん。……本音を言えば、お世話になりたいと思う。けど、大変だぜ?人の一人や二人、増えるとなるとそれはもう勝手が違うしさ。一緒に暮らしてる家族にも迷惑をかけるし、やっぱり──」
「その心配はいらない、私は長いこと一人暮らしなんだ。だから迷惑をかける家族はいないよ。……父は先の戦争で。母はお産が悪く、私を産んですぐに亡くなったと、祖父に教えてもらったことがある」
自分の失言に気が付いた俺は、唇を噛む。
「ごめん……酷いことを言ってしまって、悪かった」
「忘れてしまったのだから、仕方ないさ。それよりも!もう気にやむことは無いのだから、決まりでいいんじゃないか」
ばつが悪そうに俺が言うのとは対照的に、
「そうだなぁ……そうなんだけど。変な道具が増えたり、貧乏風が吹いても、恨まないか?」
例えば予告なしに爆発する柄杓だったり、貧乏神も裸足で逃げ出す無一文の付喪神だったり。……聞かずにはいられなかった。
「そのときは、そのときに考えるさ!そうだろう?」
その楽観的な考え方と胸を張る姿につられて、俺もなんとかなるんじゃないかという気がしてくるから不思議だ。
そもそもの、人間の器の大きさが違うのだろう。
それはさておき、俺の心はもう決まっていた。
「それじゃあ世話になるよ、ありがとう。俺はお前がいいヤツ過ぎて、少し心配になってきたところだ」
「むっ、私を世話好きで底抜けのお人好しと思ってはいないか?もしそうなら、それは違うと言わせてもらおう。私は誰にでもそうするわけじゃないし、例えば枯れそうな花を見て心を痛めることがあっても、水を与えはしないし、その必要もないと考えている。なぜなら」
「はいはい、分かったから」
「いや、それは分かっていないときの顔だ。人の話は最後まで聞けとガミガミガミガミ……」
どうやら面倒なスイッチが入ってしまったようで、俺は話し半分に聞き流して、話題を変えようと試みる。
「あぁー、はい。以後気をつけます。それで、空き部屋の話もあるわけだけど」
「そうだ、いいことを言ったな。そのことなんだが、私に考えが──」
・・・・・・。
それはひとまず後に回してさ。そろそろご飯にしようって、言おうとしたんだけどなぁ……。
俺の思いは
筆の調子がいいときにまた、書き直すことがあるかもしれません。