夏のおでんは火傷が怖い:練物語   作:鴨鶴嘴
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4話 幽霊みたいなエトセトラ

 微睡みの中の寝返りで、ふと目が覚めた。

 すっかり夜暗に馴染んでいる瞼は、ほんの数ミリ小指を動かす程度の意思力で閉ざせば、またいくらでも眠れそうな気配であった。けれど、障子紙を透かした向こう側。柔らかな星明かりの静けさが綺麗で、呼吸をするように自然と、それを見ていた。

 

 気まぐれな風が吹いて、庭の柳がさざめく葉擦れの音。

 

 崩さないよう気を使いながら布団を抜けだしたら、熱っぽい体を確かめるよう腕に力を込めたり抜いたりして、寝返りで崩れていた服の肩の位置を整えた。

 足の爪先から畳を迎えるようにして、物音を最小限の軋みに抑える。夜中に気配を殺して歩くのは、さながら幽霊になったようで可笑しさがある。

 障子の縁を掴んで、人一人が通れるぐらいに横へ滑らせる。部屋の中よりも湿気った外の空気を吸い、開けた障子はそのままに縁側へと踏み出した。

 手頃な場所を探して歩んだ先には大きな木の柱があって、それを背にして座り込んでみる。

 ・・・・・。

 ここまで気まぐれに身を任せていたけれど、布団の中にいた方が居心地がよかった、というのが本音だ。粋人を気取るのはこのぐらいにして、早々と布団の中に戻ることを俺は決めた。

 

 燐光もすっかり消えて、ただの柄杓にしか見えないそれが枕元にある景色は、ちょっと可笑しい。下がっていた布団をその端を摘まんで上げて、彼女の耳(?)に掛かるぐらいにしたら、大きなあくびと背伸びを一つ。このまま夜明けを待つことにした。

 

 何倍にも長く感じる時間が流れて、醒めている頭が瞼の裏のスクリーンに取り留めのない光景を映す。

 暇なときに過去を振り返って反省するのは、誰にでもあることだろう。……一人反省していると、あのときとった自分の行動に驚いたりするのだから、二十歳を過ぎたら人は変わらないなんて言葉はいい加減なものだと思った。

 ……あるいは。こんなことがなければ、これから社会の歯車に組み込まれて痛感するはずだったのかもしれないが。

 

「ん、(はじめ)か……?」

 

 人の気配がしたので独り言を漏らすと、縁側を歩く何者かの気配がピタリと消えた。いや、正確には消えたのではなく、どうやら立ち止まったらしい。障子には人の影が落ちていた。

 

『私は長いこと一人』

 

 あのとき(はじめ)はそう言っていたけれど、結構なお屋敷だ。使用人の一人や二人、雇っていても別段おかしくはないだろう。ここにきて一人も、紹介されてはいないけれど……。

 俺の不安を煽るように庭の柳がまたさざめいて、女のものと見える長い髪の毛が宙に踊る。

 障子の向こうを確かめるべきか──確かめよう。決心が付くのと同じく、障子越しの女はその細い声で俺に話しかけてきた。

 

「旦那様、ではありませんね。……の、お客人ですか」

 

「はい。独り言のつもりが聞こえたようで、すみませんが忘れてください。何もないんです」

 

「……ええ。私もあなたには何もありませんから」

 

 幾つの言葉を交わしたのか、はっきりとは覚えていない。気づいたときには足音は随分遠退いて、聞こえなくなっていた。俺は少し乱暴に布団に潜り、冷えた体を温めた。

 

 ◆

 

「昨夜はよく眠れましたか」

 

「ああ、お陰様でね」

 

 畳の上に投げ出された俺と、投げ出した七夕ちゃんとの朝一番の会話である。

 今に至るまでの理由は単純明快、寝ぼけていたら七夕ちゃんに布団を引っぺがされたのだ。それを理解した後に立ち上がり、布団一式を畳んで積んだら、隅に寄せた。

 

「私は日課がありますので、お先に。お昼には戻ります」

 

「あい分かった。じゃあね、いってらっしゃい」

 

「はい!いってきますね」

 

 眩しい笑顔を見送って、今度は自分の身支度を整える。履物を取りに玄関へ向かう途中、廊下で(はじめ)と顔を会わせた。

 

「おはよう……ん、元気そうだな。一夜を過ごして何か不自由はなかったか?」

 

「大丈夫だ、ありがとな。……いや、ちょっとしたことを聞きたいんだけどな、使用人は雇っていたりするのか?ほら……色々大変だろう。手伝えることがあったら俺を手足みたいにこき使ってくれていいんだぜ」

 

「……そうだな。昔は家の中にも何人かいたが、今は見張りの役に男を一人雇っているよ。それはさておき、何か困ったら、そのときはお前にまた頼ることにしよう」

 

「任せとけ……そうか。んじゃ、俺は用事があるから行くよ」

 

 話しながら玄関にまできていたので、ここらで話を切り上げようと思い、目配せを送る。なぜか(はじめ)も横についてくるのを少し疑問に思っていたが、その疑問は視線を察した風の(はじめ)が答えてくれた。

 

「言い忘れていたが、私も今日は務めがあるので屋敷を空ける。今のお前は隙が多いのだから、悪意を持って近づく人間には気を付けるんだぞ」

 

「お前は俺の母親かっ!てな。大丈夫だーって」

 

「ふむ……どうやら自覚が足りていないらしい」

 

 説教の空気を感じ取った俺は、恐る恐る顔色を窺う。そこには皮一枚で守られた、菩薩のような顔があった。

 

「分かった気を付ける。だからそんな恐ろしい顔をするなよ。な?」

 

「やれやれ、分かったならいいんだ。またあとで会おう」

 

「ああ」

 

 門の前で別れてからは思考を切り替えて、俺はさっそく調べものに取り掛かった。

 

「そこの幅の広い道の先には、お城があったりするんですかね?」

 

 話好きそうな茶屋の奥さんに、お代を払う際にそれとなく聞いてみた。

 

「やだね、滅多なこと言うんじゃないよ。この先にはお社があるのさ。旅の人かい」

 

「すいません、不慣れなもんで」

 

 頭を下げて早々に立ち去ると、俺は奥さんが指差した方、お社のある場所へと向かう。

 半時も歩けば、平地にある森のようなのが近くに見えるようになって、両手には木々が鬱蒼とする踏み固められた道の、そのさらに奥へ奥へと進んでいく。

 石段を目の前にしたところで、疲労した足を休める為にそろそろ休憩をしようという考えが過る。考えながら手拭いに額の汗の滴を吸わせて、石段の先を仰ぎみた。

 

「うわぁ……。体が第一、それがいい」

 

 追い越して階段をいく人達の流れから外れると、木陰に吸い寄せられて、木に背を預ける。ここは涼しい風が吹き抜けるようで、しばらく休めばだいぶ調子が戻りそうだった。

 

「ねぇ、お兄さんはさっきから何をしているの?」

 

「ん、休憩をしているんだよ。日向は暑いからね」

 

「……ふーん」

 

 ぱっと見小奇麗な身なりの子供が話しかけてきたので適当に返事をしたのだが、さっきから視界に入ってきては注がれる子供特有の無遠慮な視線が気になって仕方ない。話かけてほしいのだろうか……きっとからかっているだけだろう。無視無視。

 

「……どうも君は一人のようだけど、君のことを親が探してるんじゃないかな?そろそろ戻ってあげた方がいい」

 

「うん。じゃあお兄さんが、かか様のところまで連れてって!」

 

 良心的な提案を提示してあげたら、この子はどうも、迷子らしい。

 どうして俺がそんな面倒を、と喉元まで出掛かったが、グッと堪えて言葉を選んだ。

 

「悪いが他をあたってくれ。そこの優しそうな老夫婦とか、頼めば同情して親身にしてくれるだろうよ」

 

 ちょっとキツめの言葉になったが、これぐらい言えば子供でも“自分に優しくしてくれない方の人”だと理解してくれるだろう。

 休憩を終えた俺は石段へと向かおうとすると、何かに服をギュっと掴まれた。……何かとは、流石に白々しいか。振り向けば予想どおりの子供の姿がそこにあり、予想外に涙を溜めてひどく傷ついた風の顔でしゃくりあげていた。

 

「どうして、ダメなの?ひっく、ひっく」

 

「あーーーー、その。俺は親切振り撒くような殊勝な性格じゃないんだよ、きっと」

 

「意味がわかんないよっ、どうして意地悪するの?わかんないよぅ……」

 

 煙に巻こうとして空回りした結果、静かに泣き出した子供の姿をみて、子供の目線の高さに膝を曲げる冷静さの反面、心をかき乱されていた。涙に弱いのは、万人に共通することだろう。

 階段から俺を虫ケラのように見る先程の老夫婦の視線が痛い。……はいはい、分かってるって。

 

「うっ、ひっく、ううっ……」

 

「俺の声、聞こえるか。話したいことがあるんだ。ずっと泣いてちゃ、俺には待つか、去ることしか出来ない」

 

「ん゛……ぇ?」

 

「少し落ち着いたか。この手拭いを使っていいぞ、ってか、俺が拭いてやるから。じっとしてな」

 

 顔の起伏を流れて乾きかけのそれを下から宛がうように吸わせて、目の下を横へと抜ける。それをくすぐったそうに受けるのをみて、なんとも言えない、気恥ずかしい気持ちになって、子供の手に手拭いを渡した。

 

「鼻は自分でかめるよな」

 

「うん」

 

「それやるよ、だから遠慮なく好きに使えって」

 

 チーンと鼻をかんで、盛大にぐっしょりになった手拭いをみて、俺は苦笑いしながらそういった。

 

「う……汗臭い」

 

「やかましいわ。そこは遠慮しろよ」

 

「ふぇっ?」

 

 反射的にツッコんでしまい、驚かせてしまった。ぶわっと涙がまた溢れ出す兆しに俺は、矢継ぎ早に言葉を続けた。

 

「嘘嘘、冗談。泣きそうになるな。さっき俺が汗拭いたんだよ、悪かったな!」

 

「……いいよ」

 

 手拭い越しにこもった声を聞いて、胸を撫で下ろす。

 乙女心と秋の空、かな……たぶん誤用。マインスイーパーのように、地雷の場所に予め旗を立てれやしないだろうかと、くだらない考えが頭を過ぎった。

 

「よし。君の親はどこにいるのか、だいたいでいいから分かる?」

 

「階段の向こう……でも」

 

「十分だ。灰色の脳細胞を持つ、この気分屋名探偵が母ちゃんのところまで連れてってやるさ」

 

「?……うんっ!」

 

(ツッコミが欲しいなぁ……)

 

 手を差し出すと握り返してくれたので、手を繋いで階段前へ、上る際に手を繋いでいては危ないので一度手を離したが、登り終えると今度は向こうから自然と手を繋いでいた。

 

「それで、母ちゃんはどんな人なんだ」

 

「かか様は優しくて、力持ちで、あとね。いつも笑顔!」

 

「そうかそうか、なら母ちゃん譲りの笑顔なんだな」

 

「えへへ」

 

「今頃母ちゃん必死になって探してるだろうから、早く見つけないとだな。どの辺りではぐれたんだ」

 

「かぐらでん?って、かか様が言ってた。そこで待つようにって言われていたけど、でも……」

 

「細かい理由はいい、親に反抗して冒険するのもいい経験だしな。後でしっかり叱られろ。さてと、神楽殿か。母ちゃんは今日どんな色の着物を着てるとか、何を身に付けてるとか、覚えてるか?」

 

「いつも白い衣を着てるよ。えっと、あとは分かんない」

 

「そうか。……ん?」

 

 目測にして約三十メートル前方、人波が途切れて視界が通った一直線の先には、鬼気迫る雰囲気を纏った白い衣の巨大な女性が、明後日の方向へと通り過ぎていった。……額に脂汗が滲む。

 

「さっき言ってたけど、君のお母様は力持ちなんだってね。どのくらい?」

 

「うんっ、力なら大人の男の人が束になっても負けないって、この前笑いながら言ってた!」

 

「たぶん見つけた」

 

「ほんとっ!」

 

「ああ、見失わないように追うぞ。あっちだ」

 

 後ろ手に手を繋いで小走りに人波を駆け抜けていくと、松並木の下り道の先に白い衣をお互いに確認した。

 

「かか様だ!ありがとうお兄さんっ」

 

「よかったな。じゃあ俺はここまでだ。後は一人でいけるな」

 

「どうして?一緒にいこうよ」

 

「実は急ぎの用事があったんだ。だから、君の母ちゃんと話をする時間も惜しくてな。それじゃあ、元気で」

 

「でもっ」

 

 初めに会った時のように、俺の服をぎゅっと掴まれた。母親のところまで一緒に来てほしい気持ちは分かる。

 それでも、あの母親とエンカウントするのはヤバいと、俺の本能が警鐘を打ち鳴らしていた。作戦:いのちだいじに。

 

「聞き分けろって。言いたいことがあるなら、もう今しかないぞ」

 

「えっえっと、ありがとう。あと今度これを返しに──」

 

「おう、またな」

 

 キザな台詞の恥ずかしさもあって、小走りになって来た道を駆け足に上っていく。そろそろいいだろうと足を緩めて振り替えると、ちょうど事の顛末を確認することが出来た。俺の心の中の石川五右衛門も、「絶景かナァー!?」と変なテンションで囃している。

 

 その時の気持ちはあまり覚えていないけれど、意味もなく深呼吸を繰り返していたのは覚えている。……きっと肩の荷がようやく下りて精々するとか、そんなところだろう。

 

 ◆

 

「──ということが、今日はあったんだ」

 

 (はじめ)との夕食の話題に、迷子のことを話していた。始めはハラハラ、楽しそうにしていたのだが、話終えたときには眉をひそめて、顔には“不服”の二文字が書いてあった。

 

「不満そうだな」

 

「うむ。迷子の親が見つかったのは良かった。ただ、急ぎの用事と嘘をついたのは、大人の対応としていかがなものかと思う。その子の母親は、子の話を聞いてお礼を言いたいと思ったに違いない。なのにお前は、浅慮にも、逃げ出したから……。その相手がいないとなると、目には見えなくとも心に貸しと借りが生じる。多少恥ずかしくても、お前はあの場で清算するべきだったのだ。分かったな?」

 

「はい。すみません。……反省しました」

 

「よし。そうだ、おかわりはいるか?」

 

「この空気でも動じないお前は、やっぱり大物だよ……。ちなみに皮肉だからな。それはそれで、おかわりはいっぱい欲しい」

 

「?お前も、たまによく分からないところがある。お互い様だな」

 

「んー、要するにだ。どんな気分でも、なんだかんだでご飯が美味しいという事実に変わりはないってことだ!」

 

 青い鳥は食卓にあり、だな。

 

「そうか、私は作ったご飯が美味しいと言ってもらえて、嬉しいよ」

 

 食事を終えてそれからは部屋に戻るのだが、先に部屋に戻っていた七夕ちゃんがぐで~ん!と、どこかから擬音が聞こえてきそうな寛ぎっぷりを遺憾無く発揮しているのだから頭が痛む。何故だろう、話が違う。

 

「戻ったんですねぇー、力也さん。そうそう、今時間出来ましたよね。ちょっと今日私があった話を聞いてくださいよっ!」

 

「布団敷きながらでいいなら聞くよ」

 

「はい、構いません。実は今日、顔見知り程度だった私と同じ、付喪神の方と町で偶々会ったんです!」

 

「へぇー、そうなのか」

 

 俺は敷布団の四隅に神経を注ぎ、布団と枕を掴む。

 

「それで、どんな方なのかといいますと、それは私が話すよりも当人の口からの方が理解が早いと思いますので、今紹介しますね。(すずり)六連(むつれ)(しずく)さんです」

 

「来てるのっ!?」

 

 驚きのあまり、俺は敷いたばかりの布団をちゃぶ台返しの要領で半分に折ってしまった。ぐしゃぐしゃになってしまったので後でやり直しになるだろうがいやそれよりも!

 

「どうも紹介に与りました。六連雫です。七夕さんから多田さんのことはすでに聞き及んでいて、一方的に知っている感じです。あははは……突然ですみません」

 

 頭の横に指を揃えた手を当てて、ぎこちなく笑う素朴な彼女は黒い着物に身を包み、長い髪を一房にまとめて肩に垂らしている。

 どうして七夕ちゃんに言われるまで正座して座っている彼女に気づかなかったのか。少し疑問には思ったが、まずは居住まいを正して自己紹介をしようと思う。……してやったりの顔をして笑っているそこの柄杓ゥー、後で覚えていろよ。

 

「取り乱してしまってすみません。そこの柄杓にどんな風に聞いているのかは知りませんが、多田力也です。どうもよろしく」

 

「こちらこそ」

 

「それで、話の続きがなんだって?」

 

 やや刺々しく、七夕ちゃんに途中だった話の続きを催促すると、それとは関係ない忍び笑いが横から、六連雫という付喪神の方から聞こえてきた。

 

「今、笑いどころあった?」

 

「すみません、私笑い上戸なんです。変にとらないでくださいね。あはははっ、ちょっとしたことがおかしくって」

 

「そのうち力也さんも慣れますよ。私はもう慣れました。さて、どこから話しましょう……そうですね。私の日課は省いて、その後のことなんですが、なんやかんやあって、雫さんと世間話をしていたんです。最近はどこどこの付喪神が消えたとか、新しい付喪神が産まれたとか」

 

「そこは人とは変わらないな」

 

「それからは自分達の身の上話になって、私は力也さんの話をしましたら、雫さんが一度会ってみたいとおっしゃったので、問題なさそうなので連れてきました」

 

「なるほど、分からん。話をはしょりすぎだって。身の上話からどうして会ってみたいになるんだよ。あと雫さん笑い過ぎだから」

 

「あはははっ、すみません」

 

「ほら、私達は付喪神ですから。さっきのことを思い出してください。私に言われるまで雫さんの存在に気づかないまま、布団を敷こうとしましたよね?」

 

 ついさっき、疑問に思ったことを七夕ちゃんに指摘されて、考えてみる。あのとき彼女の存在に気づけなかった理由が、俺の疲労や彼女の影の薄さによるところではないとしたら……。

 

「ん?そういえば、なるほど。言いたいことは分かった。つまり雫さんは、だいぶ弱って消えかけていたってことだ」

 

 

「あはは、そうなんです」

 

 

 渇いている彼女の笑い声が、無性に俺を苛立たせる。

 

「……それで、なに?」

 

 俺の値踏みするような視線に、雫さんは一瞬笑顔が崩れて真顔になり、スタンバイスマイルを取り繕った。……彼女が複雑なのは、今の反応で察した。だから俺は、雫さんの方を向いたまま、焦点だけを遠くへと飛ばした。

 きっと彼女は、俺の瞳孔の変化さえも見ている。笑い上戸は彼女の方便で、処世術なのだろうと、なんとなくだが分かった気がする。

 

「──ふふっ、嫌われちゃいましたね。面白そうな話を聞いて、友達のもとへ冷やかしに来ただけなんです。事実確認もできましたし、そろそろお暇しますね。夜分に押し掛けてすみませんでした」

 

「お気になさらず。七夕ちゃんは見送ってあげなよ」

 

 俺がポーズをとるだけで自己完結するなら、それでもいいと思った。

 

「ちょっと!?力也さんもっ!……この馬鹿ッ!」

 

 部屋を出た雫さん。分かってるんなら、どうして!と突き刺さるような七夕ちゃんの視線が飛んできて、左へ躱す。肩がぶつかる。

 これは七夕ちゃんに恨まれたな、とは頭で理解している。俺にとっての貧乏神はこの一件で愛想を尽かして出ていくのだろうなと、縁側に置いてあった桶を拾い上げる音を聞いて、半ば確信していた。

 この関係が終わるのは惜しいとは思っても、七夕ちゃんに恩返しに優しくする俺であろう、とは思えない程度には、俺にも曲げられない意地というものがあるのだ。

 終い終い、寝たら忘れる。いつもそうしてきたじゃないか。

 

「えっ……?」

 

 切り替わった頭で布団を敷こうと膝をついた矢先、畳の縁に染みがあったのにふと目がいった。それは───七夕ちゃんの桶に由来する水気であった。俺は濡れた手で縁を触り、濡らしていたのが湿度の関係で乾き切っていなかったのだ。───肩がぶつかった拍子にこぼれた、七夕ちゃんの涙だと気づいた。

 

「はぁ?あれで泣いていたのかよ……マジでアホなんじゃねーの。あいつ」

 

 思考が巡る、それは袋小路の筈だった。

 思い出が蘇る、それは彼女の表情だった。

 血液が煮え滾る、それは──その答えは心にあった。

 

「……こっちは大馬鹿野郎だったっけ」

 

 三十六度五分の体温で、俺は走り出していた。

 

 夜暗に一燈を提げて、歩く人の背を睨む。追い越して、息を荒げて顔を覗きこむ俺は気味悪がられたが、他人を気にかける余裕は既になかった。雫さんの歩行速度が4km/hだと仮定して円のイメージを──不毛な行為だと思考を切り捨てる。

 

「はぁ……はぁ……くそっ」

 

「お水どうぞ」

 

「ありがと……ふぅ」

 

 絶妙なタイミングで水を手渡されたものだから、自然と飲んでいた。酸欠な頭も、一息つくと冷静さを取り戻す。誰だこいつ?

 

「あっ、飲むんですね。それ、毒ですよ」

 

「んッくぁ……!?」

 

 言葉を発しようにも、発声に必要な力が入らない。自律神経が狂ったのか、交互に来る猛烈な暑さと寒さの波に悶え苦しみ、脂汗が噴き出す。手に持っていた器を落とし、地面に転がった俺を見下ろす少年の足を、左手で強く握り締める。

 

「早く、楽になっちゃいなよ」

 

 顎の辺りに鈍痛があって、血の味が口に広がる。

 そして、俺の意識は暗闇の中で途切れたのだった。




□□111
112×1
1×211  ──perfect!!──






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