時折、割れるように頭が痛む。
まるでここを知っているかのように。けど、俺の思い出す限り、そこは知らない場所の筈。
一度来たことがあるかのような懐かしさがあった。
「――っ」
「どうかされましたか、マスター」
「いや、大丈夫」
ここは特異点だ。生きる事を考えなくちゃ。
幸い、無視できない違和感程じゃない。本当にごく小さな。巨大な絵画の片隅に付着するシミのようなモノ。だから大丈夫。
“あぁ、でも”
痛む。
頭の中が酷くかき混ぜられているかのように。
傷む。
何か大事なことを、忘れてしまっているように思った。
悼む。
ずっと傍にいた誰かを、思い出せないような気がする。
「……」
「マスター、行くぞ」
「あぁ、今行く!」
理由は分からない。思い当たる節もない。
何でか妙に、泣きたくなる。
第四特異点ロンドン――霧の都の地下で、俺と立香は人理焼却の張本人である魔術王と対峙していた。
「……魔術王」
「マスター、下手に動くな。既にここの全ては奴の間合いだ」
汗が垂れる。意識しなければ呼吸すら止まってしまいそうな程。
サーヴァントとは比較にならない重圧が、心臓に直接圧し掛かって来るようだった。
俺を庇う様にアルトリア・オルタが立つ。少しだけ、呼吸が楽になった。
「堕ちた聖剣か。――尚も輝きを失わぬ星の欠片。
だが無意味だ。我が光帯の前では星の輝きなど一部にすぎん」
「……ならば受けてみるか、魔術王」
バイザー越しに彼女が魔術王を睨みつける。いつもなら皮肉で返すはずの彼女の言葉はいつになく少ない。
彼我の距離は充分開いているが、彼女の魔力放出ならばすぐに埋められる。周囲のサーヴァントを見る。
ジャンヌ――彼女なら、攻撃のタイミングを合わせられる。防御はランスロットがいるから問題ない。
ようやく動き始めた頭で、戦術を組み立て始める。――だが、それはもう何の意味もなさなかった。
「数だけは多いな。手間ばかりかかる……。丁度、良い。我が力の一端、つま先ほどであるが、見せてやろう。
有象無象の現象よ――跪け」
――瞬間、全てのサーヴァントが地に倒れた。その総身に重圧がかかっているかのように。
英雄と呼ばれた者達、カルデアで最高の戦力を持つサーヴァントが皆、地面に這い蹲っている。
立香もマシュもその重圧に耐えられず、四つん這いにならざるを得なかった。
そんな中で俺だけが立っている。まるで、これから見世物にされるかのように。
「――余興だ。貴様らがどうあがこうとも、何一つ変わらない事を教えてやろう」
魔術王とは充分に間合いが空いていた。
ならば、何故。すぐ目の前に、その魔術王がいる。
咄嗟の事に、体が反応できない。
「――っぁ」
頭を鷲掴みにされた。万力で締め付けられているような鈍い痛み。
猶更ひどい頭痛が、さらに増していく。
「マス……ター……ッ!」
「放せよっ……!」
魔術王の視線が、彼を射抜いた。
どす黒い感情が篭ったその瞳に、息が詰まりそうになる。
けど、そのどこかに。小さな光があるようにも見えるのは一体なぜだろう。
「……愚かだ、お前は本当に人理を救済すると言うのか」
それは先ほどまでとは違う声だった。人類でもサーヴァントでもなく、俺個人に向けられた声だった。
懐かしさを覚えたのは何故だろうか。
「それが貴様の存在を否定し、そして行き着く先が決定的な死であってもか?
お前が守るべきモノが、例えどんな形になろうと、お前自身を拒絶するとしても?」
――。
息が止まる。
初めて聞いた筈なのに、何故かどこかで受け入れている。やはり、この結末はどうあっても避けられないのだと。
あれだけ死にたくないと思っていたのに、その現実を何故こうも、容易く受け入れられる――いや、違う。
この感情を、この恐怖を。そしてそれを押し殺した何かを、少なくとも俺は知っている。
けれど、言葉が出てこない。
『待って、待った、待ちなさい。どういう事だ、魔術王。
人理を修復したら、アラン君が、死ぬ……?』
「フン、やはりか。墓場まで持っていくつもりだったな。
元の歴史で、この残骸は既に死亡している。それが人理焼却と言う例外で生き延びただけに過ぎん」
――あぁ、そうか。そうだったのか。
どう足掻いても、結局俺は死ぬ事を避けられないのだ。
そんな事実を突きつけられたと言うのに、体は不思議なほど落ち着いている。
『違うっ! 人理修復前に彼が生きていたことは皆が知っているんだぞ! デタラメを――』
「やはり変わらないな人間は。都合のいい結果だけを求め、積み重ねられた悲劇を諦観し、最後には目を逸らす。そうして、意味のない死ばかりを積み重ねていく」
魔術王の瞳が俺を捉える。
その最奥に吸い込まれていくような錯覚。そこで俺はようやく、魔術を使われているのだと気付いた。
だがもう、振り払うには遅すぎる。
「あぁ、そうだ。ならば教えてやろう、お前の生前を。お前が逸らしている記憶を」
瞬間、視界が暗転した。
――
死んだ筈の生を繋ぎとめる。そのような奇跡を以て、そこから地獄は始まった。
死にたくない。
初めまして、マスター。私は一夜の夢の様なもの。貴方の望むがままに叶えてあげましょう。
どうかこの時が、永遠に続いてくれればいいのに。
今日も酷い面構えだな、マスター。まるで大悪党だ。
あら、心底酷い顔ですね、マスター? まるで悪人面、大悪党みたいよ。
あの、マスター。どうかお気になさらず。
――
終わりに近づく道程だった。生き残りたいと、地獄の中で願った。
ヤツらに絶望を下せ。
そんな、何で、こんな事に……!?
そこまでだ、ビーストⅠ。
お前達には、生きていて――。
俺も、そっちに行けるかな。
――
如何なる暗闇の中にあろうと、鈍く光を放つ色を見た。
自分の死が、誰かの道に繋がっている。
なら、私はそれだけで良かったんです。
そなたが、思うがままに生きよ。
でも、そんなボクのてを、とって、くれたから。
私はカルデアの方達からたくさんの事を貰いました。それを少しでも返したいから。
俺はマスターだから強くはないけど。それでも、苦しんでいる誰かがいるのなら。それに手を差し伸べるくらいは出来るし。
――
自分と言う色を知った。恐れていたのは、死ぬ事では無く、何も残せない事だった。
これ以上、望む事は何もない。
俺の欲しい結末はここにある。
いずれ辿る、
あらゆる運命を辿ろうとも、人理修復の最期に必ず俺は死ぬ。
どんな並行世界だろうと、それは変わらなかった。
「……ぁぁ……」
全部、思い出してしまった。彼女が、消えるまでの瞬間すらも。
結局、俺の覚悟に意味はなく。何もかもを忘れて、本当の獣に成り果てたのだ。そうしてカルデアに倒された。倒された以上、今度こそ消滅する運命にあったのだ。
それを見てしまった彼女は、そんな俺を救うために。世界そのものを書き換えた。その代償に彼女は消え去ったのだ。
たった一人の死にぞこないの我が儘で呼び出され、利用され、結局彼女は満足に何かを全うする事もなく消えた。
「……」
夢は悉く、醒めて消えるのが道理。けどこれでは、彼女があまりにも報われない。でもその結末を招いたのは、誰でもない俺自身だ。
消えるのは、死ななくてはならなかったのは。俺だったんだ。
「……」
視界が定まらない。
頭を何かが渦巻いていて、何もかも塗りつぶされた。
真実を突き付けられた。肉体よりも心が強く、悲鳴を上げている。
失ったモノの大きさに、ようやく気づいた。
「ようやく思い出したか。どんな記憶だ? 希望か、絶望か。それとも虚無か。
まぁ、どれでもいい。――幕を引こう。それがどのようなカタチであれ、貴様には明確な終わりしか存在しない。眠りながら消えるがいい」
『ロマニ! 早く彼の離脱をっ!』
『やってる! ああっ、くそ……!』
魔術王が俺の体を吹き飛ばす。
藁屑のように吹き飛んだこの体は地面を何度も転がって、ようやく止まった。
あぁ、そうだ。魔術王の言う通りだ。俺のした事にも、そして俺自身にも価値はなかった。
既に俺は死んでいた。だから、その時点で生命の意味なんて途絶えていたのだ。
抗う気なんて、これっぽちも起きなかった。
「……」
『そうか、陣地作成……! だからこちらからの操作は受け付けないんだ!』
『! まさか、レイラインに干渉されてるのか!? これじゃあ、離脱は無理だ!
アラン君っ! 逃げるんだ!』
魔術王が指先を俺に向ける。数秒後に訪れるのは今度こそ逃れられない死だと、いやでも分かる。
そして、これが俺の結末。何も残せなかった、哀れな男の――。
我儘で誰かを振り回し、利用し、そうして裏切って、最後に何かを全うする訳でもなく消滅する。
そんな都合のいい俺だけが、消えずにただここまで生き延びてしまった。
だから、これは報いなのだろう。全てを裏切った者に相応しい末路なのかもしれない。
「……」
『聞こえないのか!? アラン君っ!』
『違う、魔術の干渉を受けたんだ! このままじゃ……!』
その指先に魔力が集い始める。けれど、不思議な事に恐怖は無かった。
もう、終わろう。
ここで死んでも、きっとカルデアは大丈夫。魔術王は俺だけを始末して帰るだろうから。
もうここで、歩みを止めてしまっても――
“――本当に?”
「……え」
空耳だろうか。聞き覚えのある声がした。
吹き飛んだ拍子に服から零れたのか、一枚の呼符が頭上を揺らめきながら落ちてくる。
確か、前にダヴィンチちゃんから貰った物の残り。受け取る代わりに、しっかり保管出来るようにと念押ししたのだったか。
“残るものはあるわ。例え消え去ったとしても、夢の名残はあり続ける”
「――」
“貴方自身が手を伸ばせば、まだ届く。さぁ、貴方の望みを、教えて”
彼女の声がする。冷たい魂が鼓動を打つ。心に血が通い、囚われかけていた理性を取り戻す。
危うく誘導されてかけていた――否、都合のいい道を選ばされていたと言った方がいいか。
「……そうか」
かつて死を恐れていた感情は闇に溶けた。
守るために振るった力はこの手から消えた。
寄り添っていた雪はもう、どこにも見えない。
だけどまだ、
もう彼女はいないけど、彼女と共に歩んだ体はここにある。
だから、まだ。夢は続いている。
「――ありがとう」
震える手を、精一杯伸ばした。
呼符に指先が触れる。それは冷たくて脆い、まるで粉雪のよう。
一枚のソレを、強く強く握りしめた。もう二度と、離さないと。
“幾度の夢から覚めようとも、必ず貴方に会いに行く。だってそれが、サーヴァントの務めですもの。
さぁ、行きましょうマスター”
きっと、この先も地獄なのだろう。そうしてこの体はまた欠けていくのだろう。
でも、思い出せる人々がいて、懐かしい風景がある。
何度でも手を伸ばせるし、何度だって立ち上がれる。
この生命は余りにも無意味で、無価値で。何も残されていなかった。
だが、器は彼女が貸してくれた。故に生命は意味を示した。
夜が明ける。降りしきる雪はただ近くに。月下は闇を照らす。
「証を示せ、我が運命」
この体はきっと、誓いのために生きていた。
風が吹き荒れる。
彼が呼符を手にした瞬間、いくつもの虹色の円陣が出現しまばゆい光と夥しい魔力を放ち始めた。
それは見違えるはずもない。英霊召喚の儀。それもかなりの力を持ったサーヴァントが呼び出される時に匹敵する。
『なんだ……一体、何が……』
風がやんだ。
中心に男が一人佇んでいる。白い羽織と下に着込んだ黒い着物、首元に巻いた赤のマフラー。
腰には一振りの刀が差してあり、左手にはナイフが握られていた。
その眼が蒼く光る。体には魔術回路が浮き上がり、溢れる魔力が紫電となって体表を奔る。
視線が見据える先は魔術王。その眼差しに揺らぎは無い。
「――久しぶり、だな。魔術王」
その声は掠れていて、まるで焼き付いているようだった。
まるで別人ではないかと思う程。長く旅をしてきて、擦り果てたようにも聞こえる。
「無様な。サーヴァントを宿したか。だがそれでどうなる。
冠位に歯向かうなど――いや、待て。貴様、一体何をした? その霊基は何だ?」
「何をしたか、なんて。お前なら分かるだろ。そしてオレがこれから何をするかも。
こんな人間、お前は何度も見てきただろうに」
「――無謀だ。大人しく醒めて消えるが、貴様の幸福だと何故気づかない。
死に怯えながら生きるなど、ただ苦しむだけだというのに」
「簡単だ、死よりも怖い事がある。
だから、オレはここにいる」
その男は、一本の刀を手に、ただ静かに魔術王を見つめた。
自分の我欲で、彼らの思いを引き裂いた。
自分が生き残りたい一心で、魔術王の裏切りに手を貸した。
それが過ちの始まり。
俺という魂が犯してしまった、罪。
だからこれは、願いなどではなく。
もっと、独善で、矮小で。
どうしようもない、自分に向けた。
――
――奇跡を欲するのなら、汝。
自らの力を以て、最強を証明せよ。