東方ヤンデレ短編集   作:触手の朔良

4 / 10
挿絵を描いてみました。


人魚の恋

 朝靄(あさもや)が色濃く立ち込める霧の湖。一艘(いっそう)の小舟が浮かんでいた。

 何の為に? この様な刻限に里を出るなど、危険を犯すのだろうか。

 小舟には二人の男児が乗っていた。そして小舟の多くを占有しているのは大きな手網だった。

 聡明なる読者諸兄は理解された事だろう。

 漁だ。彼らは魚を獲る為に陽も昇る前から舟を出したのだ。

 何もこんな時間に、と思うなかれ。魚も多くは昼行性である。日没から朝に掛けては彼らも眠って――というと語弊があるが、そう考えて貰って構わない――いるのだ。その活動は緩慢であり、手網漁と相性が良かった。

 二人の男は手網を持ち、タイミングを合わせて湖に放り投げた。

 流石に手慣れたもので、手網の先々に着いた重しはキレイな放物線を描き、ポチャンと一滴をあげてからその身を水中に沈めていった。

 

 

 先にも述べたように、魚の多くは昼行性であると。つまりは夜行性の類もいるという事だ。

 では人魚は? 人魚はどうなのだろうか?

 魚人であれば解らないが、上半身が人間と、さして変わりのない人魚ならば、人間と同じく夜は眠ると考えるのは自然な事だろう。

 わかさぎ姫は霧の湖を寝床にしている人魚である。

 勿論、釣り人の仕掛ける餌になぞ引っかかる様な阿呆ではない。平素であれば、人の投げる手網にもだ。

 詰まる所、深い眠りに就いていた人魚姫は、哀れ人の手に落ちてしまった。

 

 

「おぉっ!? こいつは大漁だぞっ!」

 引き揚げる網の手応えに、漁師の一人が色めき立つ。

 片や○○も、言葉にする事は無かったが同様の思いだった。

 えんやこらと。二人は今迄に無いほどの重い網を意気揚々と引き揚げる。

 段々とその全容を露わにしていく手網。掛かった魚が網ごと舟に載せられるも、重さに反して数は大した事が無い。

 ならばまだ見えぬ網の底に、大物が掛かっているに違いない。

 二人は力を振り絞り手網を引いた。

「きゃぁっ!?」

 ――きゃぁ?

 場にそぐわぬ、黄色い悲鳴が響く。

 男二人は互いに見合った。

 お前が叫んだのか? いやいや、そんな馬鹿なことがあるかい。

 彼らは恐る恐る、引き上げた手網へと視線を落とした。

「うわぁ!?  に、にに人魚だぁ――!?」

 漁師が腰を抜かした拍子に、小舟が大波を立てる。

 ○○もまた、人魚を前に固まってしまっていた。

 恐ろしさ故にではない。彼女の美しさにだ。

 艶やかな青髪。潤いをたっぷりと保った肌。東洋人離れした目鼻立ちのくっきりとした顔立ちは、正しく魔性と呼ぶに相応しい。

「あの――」

 停滞した場の中、遠慮がちに人魚が口を開いた。

 その声もまた、何と可憐なのだろうと○○は思った。

 耳朶を震わせるのは、軽やかな鈴の音を想わせる美声。いや、彼女の場合、清らかな沢の音とでも言おうか。

「すいませんけど、解放して、くれませんか……?」

 人魚は眉を八の字にし、極力こちらを怖がらせぬよう、優しく語りかけてきた。○○はそう感じた。

 だが、相方の目にはそうは映らなかったようで。いっそ弱々しいとも取れる人魚の態度に、相方は余裕を取り戻すと口元にいやらしい笑みを浮かべる。

「こりゃぁ大漁だ! 人魚といやぁ、その肉を食えば不老不死になれるっていうじゃねぇか!」

 その言葉を聞き人魚は肩を震わせる。その顔には恐怖が浮かんでいた。

「待って下さい! 人魚を食べれば不老不死になれるなんて、根も葉もない迷信です!」

 人魚は必死な訴えは却って逆効果で、漁師の男は増々笑みを深めた。

「ははっ! そんな事ぁどっちだっていいのさ! 物珍しい人魚の肉ってだけで高く売れるだろうよ!」

 いよいよ以って人魚の顔が絶望に染まった。

 陸に上げられた人魚の、何と無力なものよ。

 今や彼女は俎上の鯉ならぬ船上の人魚であった。

 力なく項垂れる人魚の髪から、水滴が悲しげに滴り落ちていた。

「いや待てよ? バラして売っちまったら詐欺だと疑われちまうか? いっそこのまま、どっかの好事家にでも売っちまう方が――」

 相方の漁師はバラ色の未来を夢想していた。そんな彼の耳に不穏な音が届く。

 ボチャン――と。

 ……嫌な予感がする。彼は不安にざわめく胸を抑えながら、ゆっくりと振り返る。

 空っぽの手網。大きな波紋を残した湖面。

 それを理解した時、男はぎゃぁとそれはそれは大きな――紅の館に住まう吸血鬼すら起こしてしまう程の――声を上げた。

 

 

 辛くも水中に逃れた人魚、わかさぎ姫が思うのは先の事、先の人。

 ――何故だろう?

 考えても考えても一向に答えが出ず、疑問は膨らむばかり。

 いや、膨らんでいるのは疑問だけではない。

 その正体を確かめるべく、わかさぎ姫は湖底に潜っていく我が身を翻し、再び水面を目指す。

 ――何故、彼は私を助けてくれたのだろう?

 思い返すは先ほどの光景。

 囚われた私を救うべく、そっと網に切れ目を入れてくれた男性の姿。

 もう一人の人間のように欲に溺れるでもなく、助けてくれた彼の姿。

 暗い暗い湖底から、わかさぎ姫の体が徐々に浮かんでゆく。

 陽も差して来たのだろう。水中から見上げる湖面は眩いばかりの光を乱反射させ、わかさぎ姫は目を細めた。

 そしてそっと、小舟から少し離れた位置で水面から頭を出す。

 舟の上は未だぎゃぁぎゃぁと喚き立てている男。

 そんな相方を諌めんとする○○の姿――。

 そう認識した瞬間、彼女は沸騰しそうな熱を感じて、慌てて水中に潜った。

 今迄生きてきた中で、感じたことのない感覚に彼女は戸惑いを隠せない。

 何かの攻撃を受けた? 混乱の只中で、彼女はまずそのように判断した。

 じっと身を潜め周囲の様子を伺う。追撃してくる気配は見られない。

 水中は平穏そのものであり、依然としてわかさぎ姫の胸中だけが嵐の如く乱れていた。

 己の中で暴れる感情の正体が(よう)として掴めず、わかさぎ姫は再度浮上した。

 先程よりも慎重を期して、目より上だけを水面から出す。

 不自然に切られた網でも見つけたのだろうか。船上では二人が、激しく言い争っている。

 わかさぎ姫の心は、申し訳ないという感情の他に、別の感情が芽生えていた。

 ○○を見詰めていると切ない様な、苦しい様な。だけど決して不快ではない。ずっと浸かっていたくなる様な甘く、気怠げな感情に支配された。

 ぽぅっと呆けるわかさぎ姫。

 しばし見惚れていると、危うく○○と視線がぶつかりそうになる。彼女は慌てて水中に身を隠した。

 ――見られた!? 見つかってしまっただろうか!?

 斯様な危機感を覚える反面、彼女は全く相反する気持ちがあった。

 見られたい、気付いて欲しい、という気持ちだ。

 それに気付いた時、わかさぎ姫は自覚した。

 あゝ――私は、恋に落ちたのだ。

 

 

 人魚を救けてからというもの、○○の周りでは不思議な事が起こった。

 漁に出るとよく魚が穫れるのだ。今迄に無いほどに。

 それも決まって、自分一人で漁に出た時にだ。

 ○○の運気にあやかろうと別の漁師が一緒に来るとさっぱりであった。舟を別けても、同様である。

 これには皆も首を傾げるしか無かった。

 故に○○は自然と、一人で漁に出る事が多くなった。

 今日もまた、○○は一人せっせと手網を引き上げている。大漁の余り網は重く、男手一つで引き揚げるのは非常に体力を用いた。

 そんな彼を、少し離れた場から見詰める瞳がある。

 勿論、わかさぎ姫だ。

 ○○の大漁の正体は、何てことはない。○○の網に彼女が魚を追い立ててやっただけだ。○○の隣に別の人間の姿を確認すると、控えただけだ。

 結果彼は、わかさぎ姫の目論見通り一人で来る事が多くなった。

(そろそろいいかしら……?)

 わかさぎ姫は湖面を波立てぬ様静かに移動し○○の舟に近寄った。

 ○○は知らない。自分の手柄が、誰かの手助けによるものだと。

 彼の助力になる事。それ自体はわかさぎ姫にとって無常の喜びであったが、彼女は黒子のままで終わるつもりは無かった。

 要はそれをネタに、距離を縮めようという心積りだったのだ。

 だからこそ、彼女は種を明かす必要があった。私のおかげなんですよ、と。

 それは十分な成果を得られただろうと、わかさぎ姫は判断したのだ。

 もうすぐ○○とお話が出来る。

 夢にまで見た願いが現実となろうとすると、彼女の心に余裕が生まれた。

 つまりは悪戯心である。

 わかさぎ姫は今一度その身を沈め、○○の視界から大きく外れる。そして気付かれぬよう背後から近付くと、必死に手網を手繰る○○に声を掛けた。

「あの、もし――?」

 ○○は心臓が喉から飛び出る程に驚いた。

 何せ湖上のど真ん中である。周囲に自分以外の人影は無く、話し掛けるなんて思いもしなかったからだ。

 ○○はひどくバランスを崩し、不安定な足場では立ち直す事も出来ず、抵抗虚しく湖に吸い込まれていった。

 これにはわかさぎ姫も驚いた。驚かしてやろう、というちょっとの下心があったとはいえ、まさかそこまでとは思ってもみなかったからだ。

 素早く身を翻したわかさぎ姫は、水中で暴れる彼を抱えると舟上に放り投げた。

 色気もへったくれもない再会となってしまった。冷静さを取り戻したわかさぎ姫が真っ先に思った事がソレだった。

 その事を残念がると同時に、彼が無事な事にほっと胸を撫で下ろす。

 さて。その○○だが、呆然とした様子でこちらを見詰めていた。

(どうしようどうしよう!? なんて声を掛けたらいいのかしら!?)

 会ったら話したい事がいっぱいあった筈なのに。何と話そうか考えて来た筈なのに。

 先の騒動でさっぱりと頭から抜け落ちてしまった。

 百面相する人魚を前にしたら、○○の方が却って落ち着いてしまう。

「君が、助けてくれたのかい……?」

 助けたのは、確かに自分だが、その原因もまた自分なのだ。

 ○○の声音は決して責める様な色合いは帯びておらず優しげであったが、恥ずかしさにわかさぎ姫は小さく頷く事しか出来なかった。

「そうか……。ありがとう」

 ずぶ濡れになりながら微笑んだ彼の笑顔は、強くわかさぎ姫の胸を打ち、この人を好いた事は間違いで無いのだと強く思った。

「あの、……ごめんなさい。私のせいで」

 意を決して、わかさぎ姫は頭を下げた。

 ちょっとした悪戯のつもりだった。だけどここまでするつもりは無かった。

 己が主張の、何と浅ましい事よ。今更ここまでするつもりは、なんて言われてみろ。只の言い訳にしか聞こえないではないか。

 素知らぬ顔して恩人の地位に納まる事も出来たろうが、彼女はそうしなかった。彼女はそこまで面の皮が厚くはないし、何より○○に嘘を吐いたままというのはどうにも我慢ならなかった。

 馬鹿正直に己が罪を自白し終え、わかさぎ姫はとてつもない羞恥に襲われた。

 今すぐにでも泡となって消えたい。そう、強く願った。

 ○○はしばし無言で、人魚を見詰めている。突き刺さる彼の視線が一層自分を責めている気がしてならない。

 勿論それはわかさぎ姫の肥大化した被害妄想に過ぎぬのだが、覚妖怪でも無ければ相手の胸中など(おもんばか)る事なぞ出来やしない。

 ややあってから、○○は口を開いた。

「もしかして、俺の漁を手伝ってくれていたのは君かい?」

 彼の口からわかさぎ姫が思ってもみなかった言葉が飛び出す。同時に彼女が伝えたかった話題だ。

 それ故に彼女は鯛よりも顔を赤くし、金魚の様に口をパクパクとする他なかった。

 表情は時に言葉よりも雄弁に物を語る。

 人魚の反応を見て得心のいった○○は相好を崩した。

「あぁ。やっぱりな」

 眩いばかりの彼の笑顔を前に、わかさぎ姫は自らの熱を冷ますべく頭の天辺まで水に浸かった。

 じゅぅじゅぅと、周囲の水が湯気だってしまわないか。そんな馬鹿な心配をするぐらいに彼女の脳は茹だっていた。

 しかし何時迄もこうしている訳にはいかない。

 何の為にこの身を晒したのだと自らを叱咤し奮い立たせる。

 だが彼を前にするとわかさぎ姫の頭は真っ白になり、碌に言葉も話せないのだ。

 そんな人魚を前に○○はクスリと笑う。

「俺は○○。君は?」

 ○○は膝を折り人魚へ手を差し伸べた。ともすれば彼女は、再び潜って逃げてしまいそうだったからだ。

 差し伸ばされた手と○○の顔を交互に見、わかさぎ姫もおずおずと手を出した。

「私の名前は――」

 わかさぎ姫が考えていたロマンチックな再会とは程遠い再会となったが、こうして二人の交流が始まったのだった。

 

 

「最近機嫌がいいよね。何かいい事でもあったの?」

「えへへ……。そう? 分かる? 分かっちゃうかしら?」

「うわ、露骨過ぎてムカつくわね……」

 仲の良い妖怪とのガールズトーク。

 今泉影狼が普段の様子と異なるわかさぎ姫に声を掛けた。

 その全身からは見るからに幸せオーラが発せられており、赤蛮奇はウンザリと息を吐いた。

 三本の矢と言うか文殊の知恵と言うか。弱小妖怪とて集まれば結構な脅威になるのではないか?

 通称草の根ネットワーク。

 時折こうして集い、日夜弱小妖怪の地位向上を考えているのだ。

 まぁ大抵が、女三人寄ればというヤツで、禄な意見など交わされないのが常である。

 興味無いと言わんばかりにそっぽを向いた蛮鬼に影狼は苦笑を零し、改めてわかさぎ姫に向かい直る。

 そこにはえへえへと、幸せそうな笑顔の人魚がいた。

「えへへ。実はねぇ――」

 わかさぎ姫は事の経緯を話した。

 時に自慢げに。時に切なげに。

 馴れ初めから今に至るまで何をした何を話しただとか、○○の優しさを延々と話した。

 最初は羨ましげに聞いていた影狼も、余りの長話に次第表情を曇らせてゆく。

 このままでは、日が暮れても話し続けるかもしれない。

 そんな馬鹿みたいな危惧も、熱に浮かされているわかさぎ姫を見れば現実のものになるのもそう遠くない。

 影狼はもう一人、うんざりしているだろう蛮奇に視線を向けると、驚きに目を丸くした。

「……ちょっとどうしたのよ蛮奇?」

 どうしたのだろう?

 影狼の戸惑った声に、わかさぎ姫も一旦話を止め蛮奇を見る。

 他人の惚気を聞いて、楽しいと思うかつまらないと思うかは人それぞれだろう。

 蛮奇の顔は、そのどちらでもない、苦虫を噛み潰した様な表情だったのだから二人が不思議に思うのも無理はない。

「ねぇ、お姫。アンタの良い人、○○って言ったわよね」

「う、うん……」

 良い人、と。まだそこまでの仲ではないのだが、蛮奇の纏う雰囲気に気圧されわかさぎ姫は頷いた。

 蛮奇は益々表情をキツくし、ふっと諦めたように息を吐いた。

「ちょ、ちょっと。蛮奇……?」

 流石に只事では無い事を察した影狼が、わかさぎ姫に気を遣って尋ね役を買って出た。

 蛮奇も蛮奇であーとかうーとか唸り、気まずげに頭を掻き毟っていた。

「お姫。驚かないで聞いてね」

 そう前置きし、蛮奇は口を開く。

「その、○○ってヤツ。今度結婚するのよ」

「え――?」

 曰く、○○には婚約者がいたのだと言う。

 曰く、近頃漁の調子が良く、ようやく結婚資金が溜まったのだと言う。

 曰く、近日にでも式を挙げるのだと言う。

 固まったまま動かない、わかさぎ姫の耳に入ったか解らぬが、蛮奇の話を要約するとそういう事だった。

 全てを話終え、気まずげに顔を伏せる蛮鬼。

 影狼もまた、何と声を掛けたら良いか考えあぐねている様子。

「嘘……。嘘よ嘘よ嘘よ!!」

 凍っていた時が動き出したか、わかさぎ姫はヒステリックに叫んだ。

「うそうそうそうそ嘘吐き! 蛮奇ちゃんは嘘吐きだわ!」

「姫っ!」

 信じたくない――。

 その気持ちは同じ女として分からないでも無いが、友人を嘘吐き呼ばわりするのは看過出来ない。

 影狼はわかさぎ姫を諌めるべく声を荒げるも、それを制したのは誰あろう赤蛮奇だった。

「うそ……、うそよ。だって……」

 わかさぎ姫は心ここにあらずといった様子で呆然と、何も無い空間を見詰めひたすら譫言(うわごと)をつぶやき続けていた。

 

 

 蛮奇から衝撃の告白を受けて幾日か。

 偶然かどうか、湖に○○が姿を見せる事は無かった。

 事の真相が解らず、わかさぎ姫は憂鬱な日々を過ごした。

(○○とお話したいな……)

 光の届かぬ湖底は真っ暗で、彼女の寂しさを一層掻き立てる。

 ○○が来ていないか。それを確認する以外何もする気が起きず、暗い湖底でわかさぎ姫は一人眠りに就いた。

 さて。夜を経て朝を迎え、わかさぎ姫は今日も湖面から周囲を見回す。

 ここ連日めっきり彼を見ていなかったからか、彼女の心は後ろめたさに覆われていた。

 期待はしていなかった。それ故に○○の舟を見つけた、彼女の嬉しさは一入(ひとしお)であった。

 急ぎ舟に近寄り○○の姿を確認する。

 ○○もまた、珍しく激しい音を立てて接近するわかさぎ姫に気付く。

「やぁ、わかさぎ姫。久しぶり」

 湖の精もかくや、○○の笑顔は実に爽やかなものだった。

 それだけでわかさぎ姫は、心を覆っていた曇天が晴れてゆくのを感じた。

 だが――。

「ん、どうしたんだい?」

 蛮奇の言葉を思い出し、彼女の心は直ぐに曇り空に覆われてしまう。

 ――○○が結婚する。

 その言葉が頭にこびりつき、久しぶりの再会も素直に喜ぶ事が出来なかった。

(ううん。そんな筈ないわ)

 わかさぎ姫は頭を振り、噂の真贋を確かめるべく○○に尋ねようとして、遮られた。

「あの、さ。わかさぎ姫に聞いて欲しい事があるんだ」

 何だろう、と。呑気な感想は抱けなかった。

 そう語り始めた○○の顔が、照れた様な恥ずかしそうな――嬉しそうな顔をしていたからだ。

「君には色々とお世話になったからさ。きちんと話しておかないと、と思って」

 ――嫌。

「実は今度、里の娘さんと結婚する事になってさ」

 ――嫌、イヤ嫌!

「これが結構いいとこの娘さんでさ。器量もいいし、俺には勿体無い人なんだけど」

 ――イヤイヤいやいやいやいや嫌嫌嫌嫌いヤいや嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ッ!!

 そんな笑顔で話さないで!

 私の、見たことのない笑顔で話さないで!!

 今にも耳を塞ぎたいのに。逃げ出したいのに。わかさぎ姫の身体は金縛りにあった様に動かなかった。

「これも全部、君のおかげだよ。君が漁を手助けしてくれたおかげで、彼女の心を射止められたんだ」

「私の、おかげ……?」

「そうだよ。君の――わかさぎ姫?」

 その言葉を皮切りにして、わかさぎ姫の身体は自由を取り戻した。

 そうして彼の言動が頭の中で木霊し、笑いを抑える事が出来なかった。

 火がついた様に笑い始めたわかさぎ姫に、驚き、心配そうな表情を浮かべる○○。

 そんな想い人を前にしても彼女は笑いが止まらなかった。

 だって、考えても見て欲しい。彼の為、彼の為と思ってしていた行為が、真逆敵に塩を送る真似になっていたなんて。

 知らず私は真綿で首を絞めていたという訳だ。これが笑わずにいられようか。

 ケタケタと笑うわかさぎ姫。その姿に次第、○○は恐怖を覚え始めた。

「ねぇ○○――?」

 その火がふっと、突如として消える。

 無意識の内、○○はわかさぎ姫と距離を取っていた。といっても狭い舟上である。その距離もたかが知れている。

「私もお祝いをしたいのだけど、いいかしら?」

 その内容とは裏腹に、その口調はのっぺりと抑揚が無く、○○の恐怖を助長した。

「ねぇ、どうしたの○○? どうして避けるの?」

 その指摘と同時、○○の踵が舟の縁にぶつかった。

 ○○が己が背後を見たその瞬間――!

 わかさぎ姫の身体が湖上に躍り出た。

 水の爆ぜる音に振り向いた○○の視界いっぱいに人魚の身体が迫る。

 抵抗する間も無く、彼は水中へ引きずり込まれてしまう。

 ごぼっ――!

 ○○の口から空気が漏れる。貴重な空気が。

「私の家に招待してあげるわ。(おか)では見れない、素敵な景色が見えるわよ?」

 水中にあっても不思議とわかさぎ姫の声は響いた。美しい、聞く者を虜とする声が。

 冗談じゃないと、当然○○は抵抗する。重くなった手足が水を叩く。

 

【挿絵表示】

 

 陸に上がった人魚の、何と無力な事か。水を得た人魚の、何と力強い事か。

 ○○の腕を握るわかさぎ姫の力は、その細腕からは想像も出来ないほどに強い。

 その上に彼は呼吸が出来ないのだ。激しかった抵抗も次第に影を潜めてゆく。

「暴れないで○○。そう、暴れないで。……うん、いい子ね」

 最早藻掻く力すら失った彼の瞳には、今迄で見た中で一番美しいわかさぎ姫の笑顔が映った。

 それすらも段々と、ぼんやりと像を失い、遂には彼の命は暗い湖底に呑まれてしまった。

「○○……」

 ぴくりとも動かなくなった愛し子を、陶然とした表情で見詰めるわかさぎ姫。

 彼の身体は未だに暖かく、彼女はぎゅっと、大切に大切に亡骸を抱きしめた。

「愛してるわ○○。あなたが亡くなっても愛し続けるわ。その肉が腐り爛れようとも、骨だけになろうとも、愛し続けるわ」

 そうしてわかさぎ姫は、苦悶の表情のまま固まった彼へ口を付ける。

 その唇は矢張り暖かく、少し固く。

 されど彼女の心に温もりの火を灯した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。