『おなかすいた……』
夜通し歩き続けていた私は、空腹と喉の渇きを感じていた。
太陽は既に中天に昇り、喉の渇きを増進させる。
もうこの場に倒れ込みたい。
そんな思いを抱きながら、その場に足を止める。
そんな時、キーキーと耳障りな声が頭上から響いてくる。
見上げるとそこには、コウモリのような姿をした魔物が一匹。
『あれは、ドラキー?』
その魔物の特徴が、おぼろげに記憶の中に残っている。
あれはアレンと出会ってすぐの事だったか。
銀色の髪の女性に教わったような覚えがある。
「キーキーキー!」
幼い頃の記憶を手繰り寄せる。
あの人は誰だったんだろう?
ローラ様のお話を聞いたような覚えもある。
「キーキーキー?」
「キーキーキー!」
物思いにふけりながら、ふと上を見上げる。
先程のドラキーの仲間だろうか?
見る間に数が増えていき、何か作戦会議をしているようだ。
『いいなあ、あの子達には仲間がいて……』
それに比べて、私は一人ぼっち。
『お父様、お母様、マリナ様……、皆どうか無事でいてください』
しばし目を閉じ、祈りを捧げる。
私を逃がしてくれた少女の優しい笑顔が心に浮かぶ。
心を決めた私は、再び歩き始める。
「キーキーキー」「キーキーキー」「キーキーキー」
心が折れそうだった私に、歩く気力を呼び戻してくれたドラキーに礼を言おう。
見上げる私の目の前には、十数匹の群れを成すドラキーの姿。
『えーと。これはどういうことなんでしょうか?』
まるで私を取り囲むように頭上を飛び回るドラキーの姿に違和感を覚える。
それは異様な光景だった。
小さなコウモリのような魔物達が、飛び回りながらも一心にこちらを見据えているのだ。
明らかに友好的な雰囲気ではない。
「キー!!」
リーダー格なのか、一回り大きなドラキーが甲高い声を上げる。
一斉に高度を下げてくる他のドラキー。
身の危険を感じた私は、急いでその場から走り出す。
「キーキーキー!」
走る私の後ろから、ドラキー達が追いかけてくる。
『いーやーーーー!!』
これは間違いない。
捕まったら食べられる。
身近に迫った命の危機に、空腹だったのも忘れて走り続けた。
目の前には大河が広がっていた。
いや、人間の姿で見れば小さな清流でしかないのだろう。
だが、小さな子犬の身では濁流渦巻く大河にしか見えない。
遠くから死を招く声が近付いてくる。
『ドラキーの特徴、特徴といえば……』
幼い頃の記憶を必死で手繰り寄せ、助かる方法を模索する。
『そうだ! 肉が硬くて不味い! ……で、それが何の役に立つの?』
自分が食べられる側なのに妙な事ばかり頭に浮かぶ。
私はこんな所で死んでしまうのだろうか?
あーうー、私、まだキスもしてないのに!
『助けて、アレン!』
勇者になって私を助けてくれると言ってくれた少年に叫ぶ。
声の限り、何度も叫ぶ。
しかし、その声は遠吠えとなって辺りに響くだけ。
その時、近くの藪がガサガサと音を立てる。
まさか、ひょっとして、助けに来てくれたの?
『アレン?』
その声に反応するかのように、ソレは姿を現した。
そう大きな顎とわきわきと動く何十本もの足を持った生き物が。
『誰か、助けてーーー!!』
ドラキーの群れと大ムカデに囲まれ、絶体絶命のピンチに陥った私は、喉が裂けんばかりに声を張り上げる。
その時、遠くで誰かが叫んだような気がした。
そして次の瞬間、私は訳もわからぬまま、川の中へと吹き飛ばされた。
この時冷静ならすぐに判った事だろう。
私を吹き飛ばしたのが、イオの爆発であった事を。
口や鼻から水が流れ込んでくる。
もう私は死ぬんだ。
お父様、お母様、マリナ様、兵士の皆さん。
ごめんなさい、私はここまでのようです。
アレン……。
最期に貴方に逢いたかった。
諦めかけたその時、唐突に水から引き上げられる。
咳き込みながら見えたのは、真っ青な空。
そして、大きな手のひら。
「フィー! 頼む!」
青年の声と同時に、私の身体は宙に舞う。
「りょーかい!」
投げられたと認識する前に、そのまま少女の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
思わず見上げた私の目には、銀髪を肩で切り揃えた女性の姿が映る。
きれいなひと。
私の頭の中にはそんな言葉が浮かぶ。
あまりの美しさにどこか神々しささえ感じる。
彼女は私に優しく微笑みかけると、不意に真剣な表情で魔物達を見つめ返す。
「このまま見逃してくれるなら、これ以上あなた達に危害は加えない」
少女は、言葉が通じてるのかどうかも判らない魔物相手に説得を始める。
だが当然の事ながら、魔物達はその言葉に耳を貸そうとしない。
いや、大ムカデは手近な所で飢えをしのぐ事にしたようだ。
さっきの爆発で息絶えたのだろう、地面に転がったドラキーの死体に喰らい付く。
そして、そのまま森の奥へと去って行った。
「キー! キー!」
一方、仲間を殺されたドラキー達は、リーダー格の声で統率を取り戻す。
上空を旋回して再びこちらに攻撃を仕掛けようとしているようだ。
「ごめんね、あなた達に恨みは無いんだけど……」
天に向かって突き出された右腕に魔力が凝集されていく。
「バギ!」
呪文を唱えると同時に、上空を飛び回るドラキーの群れを突風が掻き乱す。
風に触れた者が次々と切り裂かれ、血を撒き散らしながら地面に落ちていく。
まさに一瞬の出来事だった。
もう、周りに動いている魔物はいない。
改めて少女を見る。
見た所、私と同い年くらいなのに、私よりもずっと強い。
それに、この子どこかで見覚えがあるような……?
「ふう、こんな感じでどうかな、お父さん?」
お父さん?
少女の言葉に違和感を覚える。
私を助けてくれた男の人は、それほど年のいってない青年の声をしていたはずだ。
けれど、少女の声に答える者はいなかった。
「お父さん?」
振り向いた私達の目に青年の姿は映らなかった。
ただ、川面に二本の棒状のものが生えているのだけが見える。
「はあ……またやってる」
呆れたようにため息をつき、額に手を当てる少女
ソレが何かに気付いた私は愕然とする。
足……、足ですよ、アレ!
どうやら、私を助け上げたものの、勢い余って頭から突き刺さってしまったらしい。
見る間に、その足が力を失って、緩慢な動きに変わって行く。
早く、助けないと……。
もう、私の為に誰かが死ぬことなんて許せない。
どういうわけか、焦る様子も無くため息をつきながらも川に向かってゆっくりと歩を進めていた少女が、突然立ち止まり振り返る。
『どうしたんですか?』
疑問の声が口をついて出る。
「うん、誰かに見られてたような気がしたんだけど」
『私は何も感じませんでしたけど?』
「気のせいだったのかな?」
『多分……』
……あれ?
『ひょっとして、私の言葉解ります?』
「ひょっとしなくても解るよ?」
彼女は私の目を正面から受け止め、首を傾げる。
この仕草、確かに見覚えがある。
『あの……フィー、ですよね? 私はセリア、ムーンブルクの王女セリアです』
もう十数年も会っていない友人の名を呼ぶ。
果たして、彼女は覚えているだろうか?
そして、こんな子犬の戯言をどれだけ信じてくれるのだろう?
「えっ? セリア?」
まじまじと私の顔を見つめた後、彼女はこう言った。
「しばらく見ない間に変わったね。そういう趣味にでも目覚めた?」
あっさりと信じてくれたのはいいけど、友人関係は見直した方がいいかもしれない。
私は心底そう思った。
「大変だったんだ。よく頑張ったね、偉い偉い」
私の説明を聞いた彼女は、そう言いながら頭を撫でる。
その感触にどこか心地よいものを感じながら、逆に尋ねる。
『それで、フィーは何故こんな所に?』
私がそう口に出すと、彼女は口を開きかけ、突然何かに気付いたかのようにうろたえ始める。
その様子に、私も大切な事を思い出した。
おそるおそる川面を見ると、そこに揺れていたはずの二本の足が無くなっている。
その事を口にしようとしたその時、フィーが空に向かって手を合わせ、声を張り上げる。
「お父さん、ごめんなさい! すっかり忘れてた!」
その声に答えるかのように、何者かが翼をはためかせるようにゆっくりと降りてくる。
地上に降りた青年は、ひるがえったマントを振るうと、その場にひざまずき天を仰ぐ。
「ああ、シアちゃん。俺達は娘の育て方を間違えたらしい。こんなに薄情な子になってしまって……」
あてつけるように空に向かって祈るような仕草を見せる青年に、フィーは怒りを示す。
俗に言う、逆切れというものだろう。
「だから、謝ってるじゃない! そんな事だから、お母さんに追い出されるんだよ!」
その言葉に青年はゆっくりと立ち上がり、彼女の両肩に手を置く。
「フィー……」
「な、なに? わ、私達、親子なんだから……。そ、それに……」
青年は、意味不明の言葉を口にする彼女を無視しておもむろにこめかみの部分を両こぶしで挟む。
そして、ぐりぐりとこぶしを動かしながら叫んだ。
「追い出されたのは八割方、お前のせいだろうが!!」
「痛い痛い痛い、ごめんってば! 私が悪かったです!」
痛みに悶えながら再度許しを請う姿に、再会した時の神々しさは欠片も感じなかった。
「そっか、大変だったな」
私の説明を聞いて、青年はうんうんとうなずいている。
もちろん、彼に私の言葉が通じる事は無く、フィーという通訳があっての事だ。
彼女だけに言葉が通じるのは、彼女がエルフという種族だからだそうだ。
何でも先祖がえりを起こしたとかで、動物や魔物と会話する事が出来るらしい。
『どうしてこんな所にいたんですか?』
先程はうやむやになってしまったが、どうしても理由が知りたかった。
母親と喧嘩して家を追い出されたという事はさっきの遣り取りで判っている。
ただ、何故ここにいたのかという説明にはならないのだ。
「ただ道に迷った、じゃダメ?」
『何か隠さなければならない理由でも?』
はぐらかそうとする青年を問い詰める。
すると、意外な事実が判明した。
何と、あの襲撃のさなかに逃げ出した兵士がいたらしい。
「大体の事情はそいつから聞いてたんだよ。だからムーンブルクに向かう途中だった」
『……で、結局道に迷ったんですね?』
その言葉を通訳した後、フィーはうなだれる。
そして、青年は言い訳がましく言葉を連ねる。
「いや、だって、マンドリルとか見えたら遠回りしたくなるだろ? それを繰り返してたら……」
『迷ったと?』
今度は二人してうなだれてしまう。
でも、おかげで私は助けられたのだから、運が良かったと言えるだろう。
『その兵士の方はどうされたんですか?』
「あ、ああ、ローレシアに送っといたよ」
これまたどこか歯切れが悪い。
さらに質問しようとしたら、私のおなかの虫が鳴いた。
「さ、さあ、そろそろお昼ごはんにしようか!」
その言葉でこの場は治まってしまい、結局聞きたかった事は聞けずじまいだった。
腹ごしらえも終わり、私達はムーンペタの街に戻る事にした。
完全に道を見失っていたからだそうだ。
空の上から見る分には、それほど遠い所にいるわけではないらしい。
「ルーラで戻らないの?」
フィーが当たり前と言えば当たり前な事を父親に尋ねる。
「似たような景色ばっかりだろ? 魔力を使い切っちゃって」
森の一角に戻るのに、何度もルーラを唱えたらしい。
確かにこの景色をイメージするのは難しそうだ。
「……仕方ないなあ。疲れたでしょ? セリアは私が抱いていってあげるね」
ひょいと抱き上げられ、フィーの腕の中に収まる。
私は、その温もりと安堵感からか、いつしか眠りについていた。