世界最高の魔法使い。
ローレシア王国の初代王妃様。
勇者様と共に魔王と戦い、その勝利に貢献した立役者。
彼女の呼び名は数多い。
中でもひと際有名なのは、守護者という呼び名であろう。
ローラの日記の中にも彼女についての記述は多い。
銀色の髪と紅い瞳を持つ、絶世の美女。
強大な魔力を誇り、その余りの強さゆえに老化すらも防いでいると言われている。
100年経った現代でも、姿が変わらない事は特筆すべき事項だろう。
ちなみに勇者様が現代までそのままの姿で生存しているのも知られてはいる。
ただ、理由については『勇者だからそんな物だろう』で済んでいるのは、彼の人徳であろうか。
閑話休題。
13年前の事件において、ローレシア王国に現れた魔物をほぼ彼女一人で撃退した事は記憶に新しい。
一方、ムーンブルクは多くの犠牲者を出しながら、何とか撃退に成功した。
この事を踏まえると、彼女の能力が突出している事はおわかりいただけると思う。
彼女がムーンブルクに居てくれれば、今回の惨劇は逃れられたのではないだろうか。
そんな思いで胸が一杯になる。
果たして彼女は私の願いを聞いてくれるだろうか?
……だが、それもこの窮地を凌いでからの話だ。
今私の身体は地面に向かって落ち始めている。
おそらく目的地が近いのだろう。
『そこの鳥さん、私を受け止めてもらえませんでしょうか?』
近くを飛ぶ鳥に話し掛けても、色好い返事は返ってこない。
むしろありえない物でも見たかのように、一声鳴いて飛び去っていく。
その反応も当然だ。
私も犬が空を飛んでいるなんて信じたくはない。
『ああ、これが夢だったら……』
そんな嘆きすらも風の音に紛れて消えてしまう。
どんどん地上が近付いてくる。
どうやら最期の時が来たようだ。
私はその時に備えて、ぎゅっと目をつむった。
……身体中が痛い。
その中でも頭が特に痛い。
まるで誰かに思い切り頭を鷲掴みにされているようだ。
そっと目を開いてみる。
私の目に映ったのは、人形のように整った容姿をした銀髪紅眼の少女。
ただ人形と違うのは、怒りに染まった形相と彼女から伸びた一本の腕。
その腕は、私の頭の上で視界から消えている。
『……夢かな』
再び目を閉じようとすると、少女がさらに力を込めてくる。
『痛い痛い痛い痛い!! 何するんですか、いきなり!』
私が叫ぶと、少女はその手を突然離す。
一瞬の浮遊感の後、地面に尻餅をついた。
「それは、わらわの台詞じゃ!!」
耳がおかしくなるかと思うほどの大声。
その声に気圧されて、私は何も言う事が出来なくなる。
「……わらわの朝からの労働の集大成、この山のような洗濯物を台無しにした罪は万死に値する」
周りを見渡すと、地面のあちらこちらにシーツや衣服が散乱している。
この洗濯物の山がクッションとなって、私の命を救ったのだろう。
「―――よって、これより死刑を執行する」
物騒な事を呟きながら、再びこちらに手を伸ばそうとする彼女をまじまじと見つめる。
この容姿、誰かに似ているような気がする。
銀色の髪、整った容姿……もしかして!
『……フィー?』
先程まで一緒に居た親友の名を呟く。
その声を聞き、少女の手がピタリと止まる。
「娘を知っておるのか? おぬし、何者じゃ?」
彼女の言葉に心底耳を疑った。
『えーーっ?! 本当に貴女が守護者様なんですか!? 何かイメージと全然違います!』
私の素直な心の吐露に、彼女の眼に再び危険な光が宿る。
「……死ね」
その呟きと同時に、私の意識は闇に閉ざされた。
私、生きてる……?
再び目覚めた時、私はソファーに寝かされていた。
周りに人の姿は無い。
……いや、ドアの向こうから誰かが近付いてくる足音がする。
やがてドアが開き、一人の男の人が姿を見せた。
「あれ、子犬? また姉さんが拾ってきたのかな?」
黒い髪を短く切り揃え、清潔そうな身なりをした青年。
目鼻立ちの整った、凛々しい青年はただ優しげな笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。
『アレン?』
一目で判った。
私がずっと心の中で思い描いていたアレンの姿とよく似ていたからだ。
けれど、私の声が彼に届く事は無い。
彼は人間で、今の私はただの子犬なのだ。
「僕はアレン。君の名前は? ……なんて聞いても、僕には君の言葉は解らないんだよ、ごめんね」
彼は私を抱き上げて、顔を覗きこんでくる。
私はセリアだと何度叫んだ事だろう。
それでも彼には届かない。
諦めかけたその時、彼が呟く。
「……セリア?」
届いた?
そう思った時、背後の扉が開いた。
そこに居たのは先程の少女。
「何じゃ、来ておったのか、アレン」
「お邪魔しています、ひいおばあさま」
アレンの返事に、少女は顔をしかめる。
「その呼び方をするなと言っておろう」
やはり、彼女が守護者様、フィーの母親なのだろう。
アレンがわざとらしく、畏まるようなポーズをつけて言い直す。
「お邪魔しております、アリシア様」
「ふん。そのような所ばかり、あるじに似おってからに」
不貞腐れるような口調ではあるが、二人の顔がほころぶ。
一種の社交辞令のような物なのだろう。
「フィーなら居らんぞ」
アリシア様の言葉に、アレンはがっくりと肩を落とす。
「また喧嘩したんですか?」
「わらわは悪くないぞ。あやつらが共謀してわらわを馬鹿にしたんじゃ」
そう口にしながらも、彼女の顔には怒りは無く、寂しさだけが色濃く漂う。
迷子になって途方にくれている少女のような表情だ。
「そんな事より何の用じゃ、アレン?」
そんな寂しそうな仕草も一瞬の事。
すぐに元の顔に戻って、アレンに尋ねる。
「ええ、実は奇妙な出来事がありまして……」
そう言ってアレンが切り出した話は状況だけを見れば、それほど不思議な話では無かった。
要約すると、森の中で怪我をした一人の兵士が見つかったという話だ。
ただ、医者の見立てによると、高所から落ちて地面に叩きつけられたのではないかと思われるとの事。
そして、何者かによって応急処置が施されていた事。
その二つが大きな謎なのだそうだ。
「高所から叩きつけられた?」
アリシア様がそう声に上げながら、こちらを見る。
そう。私にはその兵士に心当たりがある。
おそらく、勇者様が私よりも先に送ったというムーンブルクの兵士の事だろう。
私も一歩間違えるとその兵士と同じ道を辿ったかと思うと身震いする。
でも、応急処置をしたのが誰かはわからない。
通りすがりの医者でもいたのだろうか?
「実はの、アレン……」
今度はアリシア様が私の事をアレンに話し始める。
おおむね私の記憶と一致している。
やはり、洗濯物の山の中に落ちたらしい。
そのおかげで私の命は助かったというわけだ。
「そういえば、おぬし。フィーの名を呼んでおったな? あの二人に会ったのか?」
『はい、私をここに飛ばしたのは勇者様の魔法による物です』
私は守護者様の質問に素直に答える。
また機嫌を損ねたら、今度こそ本当に命にかかわりかねない。
「しかし、解せんな。あるじも何のためにこのような犬を寄越したのか……」
……あの、ひょっとして私が人間だって事に気付いてないんですか?
私が自分の正体を告げようとすると、それまで静観していたアレンが一つの疑問を口にする。
「いつから犬と会話を交わせるようになったんですか、ひいおばあさま?」
「だから、ひいおばあさまと呼ぶなと言って……む? 言われてみれば、おぬし普通の犬ではないのか?」
そう言いながら、私をアレンの手から奪い、全身を撫で回す。
『ひゃっ! くすぐったいです』
「何やら魔法の気配がするの。形態変化呪文か、それとも呪いの類か」
脇の下に手を入れて抱き上げながら、全身をくまなく観察する。
私はもうなすがままの状態だ。
「アレン、見てみよ。こやつ、メスじゃぞ?」
「あ、本当ですね」
って、どこ見てるんですか!?
私は全身を必死に動かして、その手を振り解く。
『ひどい。……私、もうお嫁にいけない』
「メス犬風情がおおげさな」
神よ、精霊ルビスよ。
何故、私にこのような試練をお与えになるのでしょうか?
当然の事ながら、勇者でもなんでもない私にその答えが返ってくることは無い。
「あの、その子犬の事なんですけど、元々人間なんですか?」
さめざめと泣く私をさておいて、アレンが守護者様に尋ねる。
アレンには私の言葉が理解できていないのだから、当然の事。
でも、どうしてあの時私の名前を呼んだのだろう?
ひょっとして、私の愛が通じたのでしょうか?
愛する二人の間に、言葉なんていらないって感じで……。
「……何か身悶えておるようじゃが、確かにこやつは人間じゃろうな」
はっ?! あぶないあぶない、またやってしまった。
身なりを整えて、床の上に座る。
さっきの痴態は無かった事にしてください。
そんな気持ちを込めながら、アレンを見つめる。
「この子、ひょっとしてセリアなんじゃないかって思うんです」
やっぱり、二人の間に言葉なんていらないんですね。
真実の愛の勝利です。
「おぬしの婚約者か? 何故そう思う?」
興奮冷めやらぬ私とは対照的に、冷静な口調で守護者様が問い返す。
……ですから、二人の愛が奇跡を。
「セリアの事、覚えていますか?」
アレンが私を抱き上げ、じっと見つめてくる。
あの頃と同じ、真っ直ぐな眼差し。
「僕はセリアに初めて逢った時、こう思ったんです」
黒い瞳が私の姿を映している。
私も彼の目をじっと見つめる。
少し手を伸ばせば届く距離に彼の顔がある。
「なんか、犬みたいな女の子だなって」
私は思い切り、目の前にある彼の顔に肉球のついた前足を叩き付けた。
『どうせ、私は犬ですよ』
落ち込む私に、アレンは必死に謝り倒す。
「そういう意味じゃないんだって! ただ、こう庇護欲に駆られるって言うか……」
『アレンが私の事をそんな風に思ってたなんて知りませんでした』
「いや、悪い意味じゃなくて、可愛いなっていう意味で――」
通訳をしてくれていた守護者様が呆れて仲裁に入るまで、アレンの私に対する言い訳は延々と続いたのだった。