「こっちに来ないで……」
微笑みを浮かべる殺人鬼が、マンションの一室で女子高生との距離を徐々につめていく。殺人鬼の笑みは獲物をなぶるようであり、狩りを楽しむようでもあった。
今すぐにでも助けに行きたいのに、俺の身体は床に横たえたままだ。おそらくは先刻、殺人鬼からもらった蹴りが影響しているのだろう。身体がバラバラになりそうな激痛がある。
俺に彼女を護ることはできない。そんな力はない。
なぜならこの身体は、ちっぽけな黒猫なのだから。
一.デッドエンド
「ねえ、シンヤ。聞いてるの?」
「ちょっと待てよ。今、良いところなんだからさ」
駅へと続く帰り道。羽根沢深夜が歩道橋の階段を見上げれば、ロマンがそこに広がっていた。視界に飛び込んでくるのは女子高生の生足だ。見えそうで見えないチラリズムだ。
「久々に一緒に帰ってみれば……。相変わらずの変態なのね」
頭を抱えながらこちらへと軽蔑の眼差しを向けてくるのは、加藤アキという女である。
加藤アキは段を入れたセミロングがよく似合う女だ。顔立ちは凛々しく、女性からの人気も高い。毎年、バレンタインには同性から、両手で抱えきれないほどのチョコを貰っている。
ちなみに深夜が去年もらったチョコは一個だ。大きく「義理」と書いてあったチョコは、アキからのプレゼントだった。もちろんアキから本命チョコを貰えるはずがない。というのも、アキには当時、付き合っている彼氏がいたのである。アキが二股をするなんて、世界が明日に滅びるぐらいありえない。
「あんたねえ。自分のやってることがわかってんの? それって犯罪よ」
「いいからあそこを見ろっ! ヒャッホーウと思わず叫んじまう大秘宝があるぞ」
「あたしが女子高生のパンツなんか見て、どう喜べっていうの」
「パンツとかいうな。パンティーと言え。語呂がすごく悪いだろうがっ」
「どっちでも同じじゃない……」
「いーや、違うな。パンツというと男性下着っぽい。パンティーというと女性下着っぽい。二つが一緒なら『羽根沢深夜は今日もパンティーを装着してる』と表現することになるぞ? うげっ、言葉の響きだけでも気持ち悪いっての!」
怪しげな会話に違和感を覚えたのか、通行人から訝しげな視線が向けられる。「変態」とアキが指を差してきた。通行人に変態が居ると教えているように見えた。
「パンツとパンティーの違いに関して、もっと勉強してこいよ」
「あんたねえ……、さっきから人が静かに聞いてれば調子にのって」
瞬間、殺気が膨れあがり、アキの握り拳がぷるぷると震え始めるのだった。
やばい。どうやら、からかい過ぎたようだ。
「俺がわる――うげっ!」
アキが放った目にも止まらぬハイキックが、深夜の側頭部にめり込む。引っ繰り返って、地べたと激しいキスをした深夜は、頭を抱えて身悶えた。
「う、ぐぐぐっ……」
「やだ、ちょっと強すぎた? シンヤっ、大丈夫っ!?」
怒りから冷めたアキが近寄ってきて、心配そうに顔をのぞき込んできた。
深夜の視線はアキの顔ではなくて、遥か下のスカートへと向けられる。あと、一歩……、もうちょっと右にずれてくれれば……。
「……今日は、青と白のストライプなんだな」
「っつ! このド変態っ!」
真っ赤な果実みたいに頬を染めたアキ。深夜の胸部へ、アキの足底がめり込んだ。
横断歩道を渡るアキは、歩幅を大きくとっており、ずんずんと進んで行く。どうもさっきの歩道橋での一件で、ヘソを曲げてしまったようだった。
「なあ、さっきのは軽い冗談のつもりだったんだ」半分ぐらいはと深夜は心の中で付け加える。「もう二度としないって。許してくれよ」
「どうせ半分ぐらいは本気で楽しんでたんじゃないの?」
むくれたアキが足を止めて振り返った。さすがアキというべきか。良い勘をしている。
「親友」「幼なじみ」の両カテゴリーに属する人間を想像するとしたら、ぱっと浮かぶ人間が一人だけいる。加藤アキだ。
アキのことなら他の誰よりも知っている。動物が大好きで、いつか猫を飼いたがっているということ。朝は寝起きが悪くて、下手に起こそうものなら蹴りをぶちかまされること。今でこそ上手だと評判の料理は、実は練習のたまもので、過去に毒味役だった深夜は数回ほど臨死体験をしているということ。
自分は彼女のことをよく知っている。つまりそれは逆もまた当てはまるということだ。
「ちょっと、近づかないでよ。変態が感染するわ」
「おいおい、変態はウイルス性の病気じゃねえぞ」
「半径五十メートル以内に近づかないで」
「久しぶりに一緒に帰ってみれば、胸板蹴られたり、酷い扱いだな」
深夜は苦笑した。
「あー、いててっ。速く歩くと胸が痛むぞ。ゆっくり歩こうぜ」
「う、うるさいっ、うるさいっ。あれはあんたが悪いんでしょっ!」
アキはつんっと顔をそむけて、また歩き始めてしまった。しかし、先程より、ちょっとばかりアキの歩くスピードは遅い。そんなアキを眺めていると、深夜は腹の奥がくすぐったくてたまらなくなった。相変わらずの不器用め、と内心で笑ってしまった。
それからしばらく冗談交じりの会話が続いた。アキに頭を数回引っぱたかれたりもした。しかし何気なく「最近、彼氏とはどうなんだ」と聞いたところで、アキの顔が曇った。
「どうした? 彼氏と上手くいってないのか? ははあ、倦怠期にでも入ったか」
雰囲気を必要以上に重くしないよう、少し茶化しながら言ってみた。
「……ねえ、シンヤは嘘をつく人間をどう思う?」
「はあ? いきなり何を言い出すんだ」
「あたしは嫌いよ。大嫌い……」
一瞬の間があった。戸惑う深夜を、アキはちらちらと窺ってきたが、やがて「なんでもない。忘れて」と言った。妙に弱々しい笑みを、彼女は浮かべていた。
話を聞いてみるべきか。一瞬、そんな考えが過ぎるが、結局首を突っ込むのはやめた。彼氏彼女の事情に、相談されてもない自分が土足で踏み込むのは間違っている気がした。
アキとは普段から良く喋る仲だ。関係は友達以上、恋人未満といったところか。クラスメートに「お前ら付き合ってるの?」と聞かれたことも一度や二度ではない。
ずっと一緒にいたからアキという少女は友達以上に思えない? いや、そんなことはない。告白をすべきか、そう悩んだ時期があるほどに相手を想っている。しかし、長年連れ添ってきたわけで、今更な感じがある。恥ずかしくて「好きだ」なんて言えなかった。言葉にしなくても、互いは通じ合ってる。そんな風に思っていた。勝手に。
だからアキに彼氏が出来たって知った時は、数秒ほど心臓が停止した。いや、さすがに言い過ぎか。ともかく、それぐらいの衝撃を覚えたということだ。
――あたし、二組の城島君と付き合うことにした。
忘れもしない。去年の九月二十二日十六時三十七分の出来事だ。ぎこちない笑みで「彼氏が出来て良かったな」と返したことを、鮮明に覚えている。
彼女との間には、ある約束があったから、ずっと側にいられると思いこんでいた。でも、それはとんでもない勘違いだった。
時は流れていて、どんな物事にも不変なんてありえなかった。
時計を見れば十九時を回っていた。教師に厄介な仕事を押しつけられて帰るのが遅くなったこともあり、電車を待つホームには、会社帰りのサラリーマンがちらほらうかがえる。
『まもなく一番線に電車が参ります。黄色い線まで下がって、お待ちください』
視線をついと右に向ける。闇夜に浮かぶ電車のヘッドライトが徐々に近づいてきた。
深夜は黄色い線に一番近い位置にいる。電車のドアが開くと同時に駆け込めば、もしかすると席が確保できるかもしれない。電車に乗るなら立ち続けるより、椅子に腰を落ち着けたいところだ。しかも、出来れば可愛い女性の隣がいい。眠くて寄りかかってくる女性を、肩で優しく受け止める。そんな妄想をしていると。
とんっ。柔らかい感触が背中に生まれた。
「えっ?」
突然、電車が目の前に現れた。黄色い線の上にあったはずの身体は、意志とは無関係に黄色い線から外へと飛び出していた。
自分が立っていた場所をみれば、妙に目を惹く人間がいた。パーカーのフードを深く被っていたから、目鼻立ちは確認出来なかったけれど、そいつは口元を愉快そうに歪めていた。
重量が何トンもある鉄の塊と、たかが六十キロ程度の生物。衝突してどっちが勝つ? 答えは小学生にだってわかるだろう。
瞬間的に悟る。ああ、自分は死ぬのだと。
やはり時は流れていて、永遠の不変なんてない。それは命も同じ事だ。
ふと脳裏を過ぎるのはアキだった。自分が死んだら、あいつはどうするだろうか。きっと泣くだろう。だってあいつは泣き虫だから。
ちくしょう、死にたくない。あいつを泣かせるのが自分だなんて耐えられない。まだまだ一緒にいられると思ったのに……。好きって言ってないのに……。
これなら気持ちを伝えておけばよかった。
どんなに過去を振り返っても、時間は巻き戻せない。それでも奇蹟を願う。
神様でも悪魔でも仏でも、なんでもいい。どんな取り引きがあってもいいから、彼女と一緒にいさせてくれ。
……そんな風に願うだけで望みが叶うならば、どんなに世界は優しいことか。
願いが聞き入れられることもなく、深夜の身体は鉄の塊と衝突した。