四.告白
『またペンを使うのか。この前、失敗して怒られたばかりじゃないかあ?』
『うっせえ。気が散るから向こうへ行ってろ』
キャップを外したペンを口に挟み、広告紙に文字を書き続けるナイト。それは字とは呼べず、象形文字のようなレベルだ。
書いている内容は弘樹についてだ。あの男はアキに相応しくない。あんな裏表のある人間がアキの彼氏だなんて耐えられない。
『なんでそんなに必死なんだい?』
レノンは尻尾をゆらゆら揺らしながら、尋ねてくる。
『アキのために決まってんだろ』
『アキ? あの人間のことかあ。なんで人間のために必死になるんだ?』
『それは――』一瞬の躊躇と恥じらいを挟んで『好きだからだよ』
気持ちをストレートに言葉にする。
『ますますわからねえなあ』
レノンは心底不思議そうに首を傾げる。わからねえ、と呟きを繰り返す。
『なにがわからないんだよ』
『相手のことを好きだから、色々してやりたいことまでは理解できるぞ』
『だったら――』
『だけどよう、ナイトが人間の女を好きだとして、その先に広がる未来は、どーいうものになるんだ?』
レノンの悪気のない問いかけに、ナイトは返す答えを思いつかなかった。
『それ、は……』
『お前とアキって娘は、人間と猫なんだぞ?』
全てはレノンの一言が切っ掛けだった。
どんなに相手を好きになっても、猫と人間で愛が成就するわけがない。だとしたら、猫である自分はどうしてアキの側にいるのだろう。人間から猫に転生したことに、なんの意味があるのだろう。
好きだという気持ちを伝えた先に、未来はあるのか。人間同士ならば、お互いを支え合う関係となり、結婚して子を作り、共に歩む道が続いている。だが、猫と人間ではどうなる?
そんな風に考えると、自分の存在が虚しく思えてしまう。
相手がとっても大事なのに、こんなにも近くにいるのに、一人と一匹の距離はどうしようもなく遠い気がした。
「ナイト~。ねえ、ふてくされてるみたいだけど、どうしたってのよ」
ソファー上で丸まっているナイトの身体を、アキがしきりにさすってくる。
揺すられるたびに身体がこそばゆい感じになるが、起きようとは思わなかった。
「……いつ触っても、ここは心を癒してくれるわよね」
アキはついにナイトをおもちゃにして、一人遊びを始めてしまった。
ナイトの肉球を勝手に押してくる。ぷにぷにぷに。このままずっと、いじられ続けるのかなと思いきや、アキは小さくため息をつくと、ぷにぷにを止めてしまった。
「はぁ~」
もう一つため息。重苦しい息の吐き方だった。
ナイトが首をもたげて眺めてみれば、あからさまに彼女の表情は沈んでいた。
『なんかあったのか?』
ナイトは言った。しかし人間には、ニャ~としか聞こえないだろう。
「なによ。心配してくれるの? ありがと」
弱々しい笑みを浮かべたアキを前に、ナイトはぎょっとした。言葉が通じたのかと思うほどの会話のやりとりだったからだ。しかし、実際は言葉が伝わったわけではない。都合の良い言語変換機能が、偶然を生み出しただけだ。
アキはナイトの前足の下に手を差し入れて、ひょいと抱き上げた。アキの膝の上へと乗っけられる。アキの撫でる手つきは、ナイトにまどろみを運んでくるほど心地よい。
突然電話が鳴った。アキの携帯電話だった。
「弘樹君? ……えっ、今からウチに来たいの?」
ナイトの耳がぴくりと反応する。
弘樹のことは嫌いだ。あんな人間を好きになるほうが難しい。弘樹をアキの側に置いてはいけないと、わかってはいるのだ。でも、自分は猫である。人間同士のことに、猫がしゃしゃり出るのはどうなんだ? 人間と猫の境界線を越えてまで、口出しする権利があるのか?
そんな冷めた気持ちが胸の内にぽわっと浮かんでいた。
弘樹の声をきくたびに心がざわめくのは、彼に嘘をついているという負い目があるからだろう。それは電話越しでも、同じ事だった。
アキは嘘つきだ。
友達に、自分に、そして大好きな人に嘘をついた。
友達とは好意を寄せてくれている弘樹のこと。しかし、アキから向けられる好意の気持ちは、彼へと向いていない。
――あたし、二組の城島君と付き合うことにした。
一度ついてしまった嘘が切っ掛けだった。嘘を隠すために、また嘘をつく。アキと弘樹の世界は虚実で構築されていた。
「もしもし? アキさん?」
弘樹の訝しげな声音で、アキはふと我に返る。気がつけば、アキは電話が繋がっていることを忘れ、ぼんやりしていた。
「どうかしたの?」
「ちょっと考え事をしてただけ……。ごめんね」
アキは最初の質問を思い出した。家に行きたいんだけど、と弘樹は言った。
先日、「あいつ」を忘れたくないと再度思ってしまった瞬間、アキは自分の心に「あいつ」が今も住み着いていることを強く再認識してしまった。
その時から、ずっと考えていたことがあった。
それは、積み上げてきた嘘を全て清算しようということ。
弘樹とアキはソファーに並んで腰をかけていた。ナイトの居場所といえば、アキの膝元であった。
二人の会話は普段通り、取り留めもない内容ばかりだった。弘樹は普段と同じく穏和な笑顔だったが、裏を知ってしまったナイトからすると、彼の表情は出来の良すぎる創作物みたいに見えてしまう。
しばらくして会話が一旦途切れる。その瞬間を狙って、アキが切り出した。
「弘樹君、ごめんなさい」
弘樹がただならぬ雰囲気を肌で感じたのか、表情を凍り付かせる。
「あたしね、ずっと嘘をついてたのよ」
「嘘って……、なんのことかな?」
「それは……」一瞬のためらいを挟んで「あたしの好きな人は、弘樹君じゃないってこと」
アキはぽつりぽつりと語り始める。
「あたし、他に好きな人がいたの。バカでマヌケで、どうしようもない奴だった」
矢継ぎ早に出る言葉は悪口ばかりだが、アキの表情は穏やかである。うっすらと微笑み、口調からは、過去を思い出し記憶に浸る、なつかしさすら漂っている。
アキの好きな人が弘樹ではない? だとしたら、どこの誰だ? ナイトの心の奥底が、虫が蠢いているかのように、落ち着かなくなる。
「……羽根沢深夜のことだね?」
弘樹の言葉に、ナイトは鈍器でぶん殴られたようなショックを受けた。
「弘樹君が告白してくれた時、答えはすぐじゃなくていいから、考えてみてって言ったわよね。その間に思いついたことがあったのよ。それは、あたしが誰かと付き合うことになったら、シンヤはどうするかってこと。それで言ってやったわ。あたしは弘樹君と付き合うことになったって」
「……それで彼はなんて言ったの?」
「良かったなって言ったのよ」
アキはぎこちなく微笑んだ。笑顔の隙間から、悲しみ、諦め、そんな感情が覗いていた。
「あたしは、ずっとシンヤの側に居たかった。あいつは優しいから、あたしの側にずっといてくれた。でも、それは今までの話。この先はわからない」
弘樹がごくりと唾を飲み込む。
「時は流れていて、どんな物事にも不変なんてありえないのよ。あたしらは成長して、高校を卒業して、ちょっとずつ大人になっていく。それぞれの生活があって、それぞれの人生を歩んでいく。親しい関係であっても、一緒にいられなくなっちゃうのよね。でも、もしも互いが好きって気持ちで繋がれたら? そしたら心だけは側にあるような気がしない? そう思ったんだけど……」
アキは瞳を閉じて、うつむいてしまう。
「あいつにとって、あたしは恋愛対象じゃないらしいわ。だから、好きって言えなかった」
アキは笑った。悲しいぐらいに澄んだ微笑みだった。
「あたしが好きって思っていても、あいつにはその気がない。これから先、一緒に並んで歩む道はない。でも今のままじゃ、あいつのことばっかり考えてしまう。そんな世界を壊すしかないって思ったの。だから、弘樹君と付き合うことにした。でもね、結局はあいつ――シンヤのことばかり考えちゃうのよね」
今にも泣き出しそうな声だった。
「あたしは嘘ばっかりついてた。シンヤに嘘をついて、自分の気持ちに嘘をついて……、弘樹君のこともずっと騙してた。本当にごめんなさい」
それでも気丈にふるまうアキがいる。泣きたいくせに、それをよしとしない。
恥ずかしいから泣くことを拒絶しているわけではない。その資格がないと、きっと己を責めているのだろう。
なんて馬鹿なんだろう。アキも、そして自分も。
お互いに相手を思ってたのに、どっちも一歩を踏み出せなかった。
本当に馬鹿だ、自分は。
今すぐにアキを抱きしめてやりたい。でも、そのためには猫の身体は小さすぎる。
今すぐに好きだと伝えてやりたい。でも、猫は決して人とは喋れない。
気持ちを伝えられず、抱きしめられず、悲しみの涙すら流せない不便な身体。
もどかしい。自分がこの場にいることに、どんな意味があるというのだ。
「ごめんなさいって……、それは別れるってこと?」
弘樹が声を震わせながら呟いた。
「うん」
「本気なんだね?」
「……うん」
互いが黙ることで生まれる静寂。そこに響いたのは、
「チッ」
聞き覚えのある苛立たしげな舌打ちだった。空耳……というわけではなさそうだ。
「ひ、弘樹君?」
狼狽したアキの瞳に疑問の色が浮かび上がる。
ナイトは弘樹によって首根っこを鷲掴みにされて、遠くへと放り投げられた。
身体の芯まで響く衝撃。自分の身体が地面に叩きつけられたと、半瞬遅れて理解する。
『い、いきなりなにしやが――』
身体が痺れて上手く動けない。それでも首だけもたげてアキを探す。
眼前に繰り広げられた光景に、ナイトは言葉を続けられなかった。
「ちょ、ちょっと……。な、なにするのよっ!」
ソファーの上で両手を押さえつけられて組み伏せられているアキが、涙声で叫んだ。
「乱暴は嫌いだけどね。でも、僕のものにならない君のことは、もっと嫌いだ。だからこういう手段をとるんだよ?」
アキに馬乗りになっている弘樹は笑っていた。醜悪で気味が悪い笑みだった。
「僕は、ずっとずっと君のことを見てきた。君だけを見てきた」
弘樹は興奮していた。
「どんな食べ物が好きだとか、歌手が好きだとか、僕は君のことなら、なんでも知ってるよ。たとえば……、君は着替えるとき、かならず靴下から身につけるよね」
「い、いきなり何を言って――」
「胸がちょっと小さいことも気にしてるね? 胸のサイズはBカップなのに、いつかのためにってCカップのブラジャーを持っている。それを試しにつけて、時々、がっかりしてるよね。でも、僕はそのままのサイズの方が好きだな。他にも聞きたいかい? もう一度言うけど、僕はなんでも知ってるよ」
アキの表情がみるみるうちに真っ青になっていく。
無理もない。アキにとっては自宅での出来事。なのに、それを弘樹は見ていたとしか思えない正確さで言い当てている。
「盗聴や盗撮……。科学の進歩っていうのは素晴らしいと思わないかい? これからは誰かのプレゼントには気を付けることだねっ!」
ナイトの意識はテレビの上に飾られたクマのぬいぐるみへと向く。まさか、もしかして、あのぬいぐるみの中には。
戦慄が身体を走り抜けた。常軌を逸している。弘樹という人間は想像以上に狂っている。
『てめえっ、アキから離れろっ!』
ナイトは渾身の跳躍で弘樹へと躍りかかる。
「こ、このっ! クソ猫ぉぉぉ!」
弘樹の背中に深々と爪痕を刻んでやった。痛みのあまり弘樹は弓のように仰け反った。ナイトにとっての地面が大きく傾く。
上手く飛び退ければよかったが、ナイトの身体はすでに落下を開始していた。不甲斐ないことに側にあったテーブルの角に頭部をしこたまぶつけてしまう。
目の前がぐわんぐわんと揺れる。
ぶれる焦点で探したのはアキの姿だった。ソファーから離れて、壁の隅へと背をあずけている彼女がいた。恐怖からか、彼女の身体はかたかたと震えているようだった。
アキと弘樹を引き離すことに成功した。あとは弘樹をどうにか――。
「ナイトっ、逃げてっ!」
『えっ?』
巨大な影がナイトを覆った。見上げた先にいたのは弘樹という名の巨人である。
弘樹はその凶悪な足を振り上げる。ゆっくりとだが、高々とであった。
この距離なら相手は絶対に外さない。解き放たれた弘樹の右脚は――。
ナイトの胴体を容赦なく蹴り上げた。