五.その爪は誰がために
右脇腹に激痛がある。内蔵を炎で焼かれているような灼熱の痛みだ。肋骨が折れて内臓を損傷しているのかもしれない。
「だ、誰か助けて……」
部屋の隅で身を縮こまらせているアキ。獲物をなぶって遊ぶかのように、弘樹はゆっくりと一歩一歩を踏みしめながら進む。
「助けて……、助けて……」
「羽根沢深夜でも呼んでみるかい? 助けて~ってさ。はははっ、絶対にあいつはこないよ。だって死んでるもんね」
嘲笑う声が室内に響き渡る。
アキ、叫ぶんだ。俺なんか呼ばなくてい。悲鳴をあげるんだ。そうすればマンションの住人が気づいてくれるかもしれない。役に立たない羽根沢深夜なんて呼ぶんじゃない。
「それにしても君は随分と羽根沢深夜に執着してるよね。せっかく君が僕だけを見れるように、殺してやったのに……。結局、生きてても、死んでても羽根沢深夜は邪魔ばっかりするんだから」
『え……』
聞き間違いじゃなければ、今、こいつは――。
「ね、ねえ……。あんた、今、なんて言ったのよ」
アキは爆弾でも見つけたかのように、びくびくとしながら尋ねた。
「何って、羽根沢深夜は邪魔ばっかりするって言ったんだ」
「ち、違うわ。そのちょっと前よ……」
「んんんっ? ああっ、そういうこと」
手の平をぽんっと叩き合わせる。場の雰囲気にそぐわない軽い調子である。
「あいつがいる限り、アキさんは僕を見てくれないよね? 邪魔だったからさ……」
「まさか、あんたっ!」
「押してやったんだ。駅のホームでさ」
弘樹はそう言ってから、夜空に浮かぶ三日月みたいな形に、口元を歪めた。その笑みは、どこかで見かけた記憶がある。
水底奥に沈殿していたものが、投げ入れられた小石のせいで、舞い上がる。あの時の記憶、死ぬ間際の光景が鮮明に浮かんだ。弘樹こそ羽根沢深夜の命をうばった殺人鬼。
「ほんと、呆気なかったよ。もっと抵抗するかと思ったんだけどなあ」
「こっちに来ないで……」
アキの懇願も虚しく、じわりじわりと距離が縮んでいく。
助けてやりたい。でも、この身体はもうダメなのだ。身動き一つとれない。
もしも動けたとして、弘樹には勝てない。それは二度の敗北が物語っている。
アキの短い悲鳴が響いた。恐怖と絶望が混じり合った声だった。弘樹がアキの制服に手をかけて、ワイシャツを破ったのだろう。弾けたボタンが転がっていた。
猫として生を受けて、アキの側にいた日々はなんだったのだろう。
アキの不幸を目の当たりにするためにあったのだろうか。
わからない。だが、もうどうでもよかった。
好きという気持ちを伝えられず、猫の思いは人間には届かない。猫の自分が彼女に与えられるものはない。
出来るのは、ただ側にいられるという一点だけだ。
この身体はもはや死にゆくのみ。死へのカウントダウンが着々と進んでいるのか、意識が薄れていく。
このまま目を閉じれば終われるだろう。
さようなら、アキ。
「助けて……、シンヤ……」
かすれた声。アキが泣いていた。
その声は絶対に隣人連中には届かない。追いつめられて、居もしない人間を呼んだところで、誰に届くというのか。それでも彼女は救いを求める。
シンヤ、助けてと。
ナイトは自分自身に問いかける。助けを求めるアキを放って、自分はどうして死を享受しようとしている?
ナイトの全身の血が加速していく。まだ生きていると言わんばかりに、心臓の鼓動が激しいビートを刻む。
彼女の側にいることしか出来ない? 他には何も出来ない?
違うだろう。自分が望んだのは彼女の側にいるということだ。
好きだって伝えられないとか、思いが通じないとか、そんなことは重要じゃない。
なぜ、彼女の側にいたいのか。
彼女の涙を見たくなかった。彼女が悲しかったら、側にいて慰めてあげたかった。活発な彼女には、笑顔こそがなにより似合う。
なぜ、自分が猫になってまでここにいるのか。
自分はアキの幸せを誰よりも願うからこそ、彼女の側にいる。
彼女と共に生きたい。
自分は彼女の幸せを願う。それを害する弘樹という人間が居る。
喋れるならば弘樹に向かって告げる言葉は決まっている。お前はアキの隣を歩く人間として相応しくない。今すぐそこをどけ。
ナイトの身体は疲れきっている。それでも身体の奥からふつふつと湧き上がってくる圧倒的な活力がナイトを奮い立たせる。
『待ってろ。俺がお前を助けてやる……』
生まれたての子鹿みたくふるえながらナイトは立ち上がる。
『神様にも悪魔にも仏にも奇蹟は望まない。今、あいつを救えるのは俺しかいないっ』
アキに襲いかかっている弘樹へ、ナイトは鋭い眼光を叩きつける。
ナイトは深く深く息を吸って――。
今、そこにある狂気にアキは怯えた。
心優しき恋人であったはずの弘樹が一度仮面を外せば、殺人鬼の顔をのぞかせる。
「あーあ、それにしてもおかしいなあ。ドラマとかゲームだとさ、主人公が傷心のヒロインに優しくするってのが正解なんだけどなあ」
狂人を前にして、アキは拘束から抜けだそうと必死に暴れる。
ぱしんっ、と軽快な音が響く。アキの頬に容赦のない平手打ちが決まっていた。
「ねえ、お願いだから、抵抗しないでよ」
弘樹は叩き続けた。表情は爽やかな笑顔だった。
アキが自由になった両手で顔を隠す。ぱしんっ。強引にアキの腕を引きはがして、頬に平手打ちを当ててくる。アキは「痛いっ」と叫んだ。ぱしんっ。それでも弘樹は止まらない。
ぱしんっぱしんっぱしんっぱしんっぱしんっ――。
「やめて……。もう、やめて……」
消え入りそうな声でアキが懇願する。もはや抵抗する気力も刈りとられ、ぐったりとしながら思うのはただ一つ。
また泣いちゃって、ごめんね。シンヤ。
ついに涙を流してしまった。加藤アキは強くなろうって決めた。でも、ダメだった。
もしも、あいつが今のアキを見たらどう思うだろう。泣き虫だなあって、笑うだろうか。いや、きっと違う。ただひたすらに心配してくれる。そういう男だ、あいつは。
「シンヤ……」
もう存在しない男に助けを求めて何になる。いくら彼を呼んでも意味なんて――。
『アキから離れろ、このクソ野郎がぁぁぁ!』
突然の声音に、アキは心を奪われる。その言葉は、力強く、どこか厳かで。
自分があいつを求めるあまり聞こえた幻聴か? アキの服を剥ぎ取ることに必死だった弘樹が、その体勢のまま固まっている。その表情からするに彼にも声が聞こえた?
アキは弾かれるように振り返った。
そこにいたのは一匹の子猫。四肢を奮い立たせて、立ち上がった黒い猫。
ナイトはこちらへ目を向けながら、ニャーと鳴いた。ただの猫の鳴き声だった。
傷ついて立っているのもやっとだろうに、どうしてかナイトからすさまじい生命力を感じられる。そこにいるのは猫だというのに、どうしてか無意識の内に――。
「……シンヤ?」
ナイトと深夜の姿を重ね合わせていた。
恐怖に押しつぶされかけていた心の奥から、不思議な力が湧き上がるのを感じた。
人間にとっては猫の鳴き声でしかなかったとしても。相手の注意を惹きつけてしまうだけだとしても。ナイトは腹の底から叫んだ。
無我夢中でアキの制服を剥ぎ取っていた弘樹の手がぴたりと止まる。
慌てふためく弘樹が、やがて視界にナイトを収める。弘樹の薄ら笑いが消えていた。
『俺がいる限り、アキを傷つけさせやしねえ。今すぐ、ぶっ飛ばしてやるからな』
「ただの猫の鳴き声しか聞こえないよね。や、やっぱり聞き間違えか。そうだよね、あいつの声が聞こえるわけないもんね」
引きつった笑みを浮かべる弘樹の額に、うっすらと汗がにじみ出ていた。
「そんなに死にたいなら、先に殺してあげるよっ!」
標的を変えることに成功したらしいが、問題はこの後だ。威圧感を持って歩み寄ってくる弘樹は、やはり巨人そのものである。
正面から突っ込んで勝てる相手ではない。こっちは怪我も酷い。もしも今、座り込んだら二度と立ち上がれない自信がある。それほどの怪我だ。気合いで立っているが、飛びかかることは、かろうじて一回出来るか否かだ。繰り出す攻撃は一撃必殺でなければならない。
だが、どこに向かって跳躍しても、避けられる光景しか思い浮かばない。
人間の歩幅であと三歩……、二歩……、一歩……、そこまで弘樹が迫ってきた。
「今度こそ、死ねよっ」
容赦のない、殺気のこもった踏みつぶし。弘樹の右足の裏が、こちらへとまっしぐらに降下してきた。ナイトの身体は痛みが身体中を走り抜け、避けられない。
今度こそやられる!?
『そいつぁ、やらせないんだな』
「ぎゃあああああああ!」
弘樹の表情が痛みで歪んだ。小さな生物が弘樹の足に飛びかかっていた。
『いよう。随分と面倒な敵を相手にしてるみたいだな』
『レノンっ!?』
『これが人間か。近くで見ると大きいなあ。つぶされたら死んじまうだろうなあ』
『ど、どうしてここにっ! いや、そんなことより、危ないっ! 早く逃げろっ』
弘樹の表情は憤怒に染まっていた。噛みつかれた左足が余程痛かったのだろう。彼の敵意がレノンへと移る。
『どうしてって、なんだよう、ナイトはそんなことが知りたいのか?』
弘樹の軸足に噛みついたレノンは、小さな耳を動かしていた。
『命の恩人を助けるのに理由なんざいるのかい?』
レノンは駆け上る。弘樹の洋服を足場にして、器用に、かつ素早くだ。弘樹の平手打ちも、ひらりと交わして、彼の背中へと回る。
こちらから気が逸れている今こそチャンスだ。跳躍のためのエネルギーを、ナイトは後ろ足に溜めていく。狙うは一撃必殺になる急所だ。
顔面を狙いたい。だが、さすがに遠すぎるか。
「ぎゃああああっ!」
またレノンが噛みついたらしい。弘樹の片膝が崩れた。倒れはしなかったが、膝立ちになったため、目標がぐっと近づいた。
目を血走らせた弘樹の手に、小さな身体で精一杯戦ってくれたレノンが握られていた。
レノンは窮地に追い込まれたというのに、ニヤリと笑ってみせた。
レノンの一噛みが弘樹の人差し指を抉る。顎が外れそうなほど、弘樹は口をあんぐりと開けた。目尻には涙すらうかがえた。
照準を弘樹の顔面へとあわせて、ナイトは全身全霊をもって跳躍した。
アキの幸せだけを願う。その幸せを壊す輩は絶対に許さない。
彼女を思うがために振るわれたナイトの爪は、
『うりゃぁぁぁぁ!』
弘樹の顔面を深々と抉った。弘樹は弓のように身体を仰け反らせた。
レノンを握る力を緩め、両手で顔を覆い尽くす彼。狙いすました一撃は、しかし一時的に視界を奪っただけ。時間が経てば回復して、再び襲いかかってくるだろう。
必死に四肢に力を込めて立ち上がろうとするナイト。顔を覆って身悶えている弘樹。レノンは息があるが満身創痍だ。
そんな中で動いたのは弘樹でもナイトでもなくて。
急に感じる浮遊感。床と身体があっという間に離れていく。ふわりと抱きかかえられたその先は、アキの腕の中だった。
「ありがと、ナイト」
破れ掛かったスカート、ワイシャツはないも同然、下着は丸見えの、あられもない姿で。
「あんたのおかげで、勇気が湧いてきたわ」
アキは微笑み、その直後。
弘樹の顔面目掛けて、アキは猛烈な回し蹴りを放った。蹴りは疾く、そして重い。弘樹のが避けられるはずもなく、彼の側頭部にアキの渾身の一撃がめり込んだ。
体勢を崩した弘樹は、偶然にも机の角に後頭部をしこたま打ち付ける。
弘樹の意識は、アキが通報した警察がやってくるまで、目覚めることはなかった。