当たり前の後ろの外側 作:吉椿
「チョコレートどうぞー」
「チョコレートをお配りしておりまーす」
彼女との待ち合わせ場所に向かう途中、駅の付近に差しかかると何やら賑やかな声が聞こえてきた。
(そうか、今日はバレンタインだったな)
ダウンコートのポケットに手を突っ込み、襟の中に首をうずめてうつむき加減に歩きながら、
何かのキャンペーンで配っているのだろう。少しだけ視線を上げて見ると、紺色の制服や反射材がついた黄緑色のベストを着た人が数人、片手にカゴを提げ、道行く人に小さな包みを手渡していた。どうやら警察のようだ。
「はい、どうぞ」
「あ、どうも」
目の前に差し出された包みを反射的に受け取る。くれた相手を何の気なしに見上げて、渉はギョッとした。
その女性警察官は、お馴染みの制服を着てはいたが、その肩から上にある頭部は、鮮やかな緑色の頭髪に、大きな犬の耳が生えていた。顔のほとんどが茶色い毛でみっしりと覆われ、鼻の付け根から両頰の中心を通って顎までのちょうど菱形を描く部分だけが人間の肌になっていて、まるで覆面マスクのようだ。
(なんだ? 警察官……なのか?)
目を見開いて凝視しながら通り過ぎる渉に対して、犬耳の警察官はにこやかな笑みを浮かべて手を振った。少し離れると、フサフサした尻尾も振られていることに気付き、渉は二度驚いた。
(なんだったんだ、今のは)
歩きながらも、犬耳の警察官のことが頭から離れない。
(コスプレか? 最近の警察はすごいな。ずいぶん思い切ったことをするもんだ)
というものの、奇抜な頭髪と犬耳以外の顔の作りが妙にリアルだったのが気になる。
(本物? まさかな。最近のマスクはよくできているんだろうな)
「えーっ、ちょっとちょっと! どこ行くの!」
「え?」
女性の慌てた声で我に返ると、いつの間にか待ち合わせ場所に辿り着いていて、その待ち合わせ相手の前を今まさに通り過ぎようとしていた。
「なんで気付かないわけ? さっきから手ぇ振ってんのに」
口を尖らせて下から覗き込むように見上げてくる。
「ごめん、考え事してた」
感情があまりこもっていなさそうな詫び言を言いながら、彼女である
「さっき駅前でこれもらったんだけど」
ポケットから透明のビニール袋を取り出して見せた。
「何? チョコレート? えー、私があげる前に他の女にもらったの? えー、ちょっと、ひどくない? それー」
真奈実は渉の胸をポコポコと両手の拳で叩いたが、冗談のつもりで笑っている。
「警察が配ってた。ていうかすごいのがいたよ」
「すごいの?」
渉は犬耳の警察官の話をした。
「あ、それってもしかしてこれのこと?」
真奈実が包みを指で突く。袋の中には市販のチョコレート菓子と一緒に、先ほどの犬耳の警察官を模したアニメ調のイラストに「テワタサナイーヌ」と名前が書かれた紙が入っていた。
「テワ、た、さな、イーヌ?」
真奈実がたどたどしく読み上げ、
「だって」
と渉の顔を振り仰いだ。
「そうか、これなのか。これの本物がいた。ていうかそいつにもらった」
「へえー。何、コスプレ?」
「だと思う。でも顔がすごくリアルだった。今は精巧なマスクがあるんだな」
「ふーん。あー、でもなーんか見覚えあるんだよねー、この犬のおねーさん」
その夜遅くに帰宅した渉は、テーブルに並べた四つの包みをじっと眺めていた。
一番大きな、ピンクの不織布の袋に赤いリボンが掛けられた包みは、昼間真奈実がくれた手作りチョコ。小さくてカラフルな紙バッグと、カラフルな包装紙にリボンのシールが貼られているのは、アルバイト先の女性達にもらった義理チョコ。そしてもう一つは犬耳の警察官が配っていたものだ。
どれから手をつけるべきか、優先順位で悩んでいた。
やはり真奈実のから食べるべきだろうか。しかしもったいなくもある。惜しみながら、真奈実の愛を感じながら、じっくりと味わいたい。
かといって、お互い特に何とも思っていない相手のものに先に手をつけるのも気が引ける。別に食べた順番を報告するつもりもないのだが、彼氏として誠意ある行動を取りたいという、渉なりのけじめのつもりだった。
「とりあえず、これはどうでもいいか」
まず手を伸ばしたのは犬耳の警察官が配っていた市販のチョコレート菓子だった。悩むのに飽き始めていて、とにかく選択肢を減らしたかった。透明の袋から取り出し、個包装の赤いパッケージを破る。
チョコレートでウエハースをコーティングした菓子を、サクサクと音を立てて食べながら、袋に一緒に入っていた紙を眺めた。
袋に入っていた時は菓子に隠れて見えなかった部分が露わになり、「知らない人にお金をテワタサナイーヌ!」という、名前と掛け合わせたメッセージになっているのが分かった。
なるほど、「手渡さない」と犬を掛けているのか。渉は納得して頷く。
「手渡さない」と言っているキャラクターに手渡されたというのもおかしな話だ。しかも「わたる」という自分の名を混ぜると、実にややこしいことになる。
「テワタサナイーヌから渉に手渡されーる」
一人つぶやいて失笑する。
袋の中にはもう一つ、リボンの形に折られた花柄の紙が入っていた。折り目を確かめて丁寧に開いてみる。
「電話での お金の話 それは詐欺!」
「子どもや孫から『携帯電話をなくした』『かばんを忘れた』と電話があったら、元の番号にかけ直しましょう」
オレオレ詐欺への啓発メッセージが書かれていた。
「ご両親と連絡を取り合っていますか? 対策について家族で話し合いましょう」
若者向けのメッセージもあった。そういえば最近電話をしていないな、と渉は記憶を手繰る。テーブルの上のスマートフォンに視線を移し、おもむろに手を伸ばす。画面を何度かなぞって、耳に当てた。
「もしもし?」
六コール目で出た電話の相手は、意外そうな声を出した。
「寝てた?」
「ううん、起きてたよ。何? 電話なんて珍しいね」
電話の向こうの真奈実の声は、やや弾んでいるように感じられた。
「昼間警察にもらった紙に、たまには連絡しろみたいなことが書いてあって」
「ん? なんで?」
「オレオレ詐欺が流行ってるから」
渉はおどけるでも、自分の行動に疑問を持つでもなく、いつも通り淡々と説明する。
「それでなんで私?」
「いや、そういえば最近親に電話してないなと思ったんだけど、真奈実とのやり取りもメッセージばっかりだっただろ。たまには電話もいいかと思って」
「あはははははは」
電話口から笑い声が響いた。
「なにそれー。相手違うから。お母さんにするでしょ、普通。いや、嬉しいよ。嬉しいけどね?」
また笑い声に変わる。電話回線を介しているゆえにくぐもってはいるが、少し掠れ気味の、尖ったところのない、いつもの笑い声だ。渉は笑われているにもかかわらず心安らいだ。
「ていうかオレオレ詐欺ってまだなくなってなかったんだね」
「確かに。結構騒がれてたから減ってるのかと思ってた」
「でもさぁ、分かるよね、声。こうやって電話でしゃべっててもさぁ、渉だって分かるもんね」
それは今まさに渉が感じたことだった。頷く代わりに深い瞬きを一つする。
「子どもの声を忘れるほど連絡してなかったんだろ」
「てことはやっぱり渉もお母さんに電話するべきだよ」
真奈実はくすくすと笑う。
「そうだな。明日にでもかけてみるよ」
「あっ、ねえねえ、チョコ食べた?」
反射的に包みに目が行く。
「いや、まだ」
「えー! なんでよー」
「もったいなくて」
ため息とも笑いともつかない吐息が聞こえてきた。
「なんかさぁ、いつも無表情な割には変なところで義理堅いよね。そういうところが好きなんだけどさ、手作りだからあんまり日持ちしないよ、多分。おいしいうちに食べてよね!」
「分かった」
これで悩みが消えた、と渉は安堵した。
「そういえばあのキャラクター」
「ああ、犬のおねーさん? なんだっけ、テワ……タ?」
「テワタサナイーヌ」
「へえー、スラスラ言えちゃうんだー」
真奈実がからかう。
「ファンになっちゃった?」
「いや、名前のからくりが分かった。『手渡さない』と犬を掛けてたんだ。そう考えれば覚えやすい」
「ああ、なるほどねー」
軽い調子で応じる。
「で、何を手渡さないの?」
「金。知らない人に」
渉は倒置法のように答えた。
「そりゃそうでしょ。当然だよ。知らない人にお金を渡しちゃダメでしょ」
「多分オレオレ詐欺に関係あるんだろ。オレオレ詐欺の紙と一緒に入ってたし」
「なんでオレオレ詐欺に知らない人が関係あるのかな」
渉はほんのいっとき考える。
「詐欺だからな、息子だと思ってるけど実は知らない人ってことだろ。犯人に渡すなっていう意味なんじゃないか」
「あっ、そうかぁ」
だけど、と真奈実が突然吹き出す。
「手渡しちゃダメって言ってる人がチョコレート手渡すって面白いよね、しかも相手が渉って」
渉が先ほど考えていたのと同じことを言い出した。
「テワタサナイーヌから渉にテワタール」
愉快げに笑う真奈実の感性が自分と近いことに愛しさを感じ、表情には出さずに渉は一人喜んだ。