昔の夢を見ている。まだ幼く、身長も周りの子どもたちと変わらなかった遠い昔の記憶だ。
決して面白いものではない。孤独に暮れた幼少時代など思い出したくもないのだから。
やがて夢の中の少年は青年となり、果ては屈強な狩人へと成長する。その過程で誰かが隣に立つことはなく、孤独なことに変わりはなかった。
しかし夢の主は、狩人にまでなった自分に対して満足していた。
苦しくてどうしようもなかった子どもの頃とは違い、腕一本でのし上がった先には、どこまでも広がる大自然が自分の世界を満たしていたからだ。この世界でならば、一人でも生きていけると、そう思えた。
振り返ることなく進み続けた人生。いつしか男は、孤独から孤高になっていた。
「......ル......さん」
そんな漠然とした夢に音が響く。
「......ルロ、さん」
自分の声ではない。落ち着きがない高い声は、少女のもののようだった。
男はまどろんでいる意識を持ち上げ、ゆっくりと夢の世界から脱け出していった。
▼
「カルロさんっ」
G級ハンターの大男、カルロが目を覚ますと、依頼主である少女の顔が至近距離にあった。
強い風の音が聴こえる。少女から視線を逸らすと、手を伸ばせば届きそうなほどに近い雲がすぐそこを通り過ぎて行く様が、小窓から見える。
どうやらまだ気球船に揺られて目的地に向かっている最中のようだった。
カルロは起こされた不機嫌さを隠そうともせず、少女に文句を言った。
「なんだ。到着まではまだあるはずだ」
「探していましたのよ。せっかく気球に乗っているのに景色を見ないなんて勿体ないですわ。ほら、少し寒いけど、すっごく綺麗なんです」
アニータは自分が雇ったハンターの手をぐいぐいと引っ張って、気球船に付いてる仮眠室から外へ連れ出そうとする。もうすぐ成人になろうというのに、落ち着きのなさは幼子のようだ。
カルロは鬱陶しそうに、掴まれた手を振り払った。
「一人で見てくればいいだろう」
見るからに嫌がっているカルロの率直な拒絶にも堪えることなく、アニータは顔をキラキラと輝かせて、さらに手を引いた。
「もう二時間は見ましたわ。まだまだ見足りないけど、貴方も見た方が良いと思って」
無邪気なアニータの言葉に毒気を抜かれたのか、カルロは呆れたようなため息をついた。剣呑さを幾分か緩めて、アニータの期待がこもった瞳を見据える。
「俺は見飽きている。ハンターだからな。気球での移動も何回もしたことがある。それよりも、いざって時に備えて体力を温存しておきたい」
しっかり断ると、ようやく自分が浮かれていたことに気付いたアニータが顔を赤くする。
彼女の両手にはそれぞれ、双眼鏡と小鳥用の餌として細かく千切ったパンくずが入った袋を持っていて、いかに空の旅を満喫していたかが分かる。
「ごめんなさい。私、自分の考えでばかり......」
しおらしいアニータの謝罪。
この少女は貴族特有の高慢ちきかと思っていたが、案外、道理というものを知らないだけで素直な奴なのかもしれない。カルロは少し、見方を改めた。
折り畳んでいた足を伸ばして起き上がる。気球船の簡易寝床ではカルロの大きな身体は収まりきっていなかった。壁と床に固定されているベッドがぎしりと軋む。
「あの、別に寝てらしてもいいんですのよ」
「目が覚めた」
カルロはそれだけを言うと仮眠室を出て、デッキに上がった。アニータも遠慮がちにあとに続く。
よく晴れた日に気球船から眺める景色は素晴らしく美しい。
緩やかな山がいくつも続き、その合間を細い川が流れている。温暖期に向かう途中の緑は明るく萌え、遠目からもその瑞々しさが分かる。気球船に平行に漂う薄くて小さな雲が、時おり身体を通り抜けていくのが実に清々しい。
「素敵ですわね。今すぐにでも降りてお散歩したい」
アニータが靡く髪を押さえて言った。
その気持ちはカルロにもよく分かった。仕事などと野暮なことを言わずのんびり過ごしたくなる、麗らかなピクニック日和だった。ピクニックなどと言うと、アニータは集会所の件によろしく、怒ってしまうのだろうが。
「ほら見て。大きな川の中に島がありますわ」
アニータの指差す方を見ると、確かに川の中央に楕円型の陸地が浮かんでいる。
それを質問と受け取ったらしくカルロは説明した。
「中州だな。川の土砂が積もって出来る」
「あ、学校で習いましたわ。そう、あんな風になっているのですね。本から想像したのとはだいぶ違うわ。私も乗れるかしら」
「あの大きさなら、俺でも上がれるだろう。意味はないが」
カルロが付け足した言葉に引っ掛かりを感じたアニータが、そんなことはないと言う。
「川の真ん中に立つだなんて、ロマンがありませんこと? それになんだか詩的だわ」
そんなものだろうか。カルロは中州に立つ自分とロマンを頭のなかでくっ付けてみる。
カルロが想像している間にも、アニータは次々と新しい発見をし、その度にカルロにそれがなんなのか聞いては教えてもらった。
そんなやり取りを繰り返していると、執事がアニータを呼びながら現れた。
「お嬢様、何をされているのですか?」
「カルロさんと景色を見ていましたの。どうかしましたか」
上機嫌なアニータに目を細めて、執事は頭を軽く下げた。
「そろそろ昼食に致しませんか。あと一時間もすれば着陸するようですので、その前に」
執事の言葉に従って、アニータとカルロは仮眠室の裏に併設されているダイニングへ足を運んだ。
三名のハンターたちはすでに食べ始めていて、五人の護衛兵と執事はアニータを待っていたのか、まだ食事に手を付けていなかった。気球船の乗組員であるアイルーも隅で魚の干物をかじっている。
「これは......」
席について、執事が持ってきた食事を見てアニータが硬直した。
「干し肉とライ麦パンとオレンジです」
簡素すぎる執事の説明に、アニータは震える声で聞いた。
「......スープは?」
「気球船の上では火を使えないのです」
「じゃあ、食後のケーキは」
「ある程度保存が効く物しか、ギルドの船には積まれません。ああ、でもお菓子でしたら、クルミ入りのビスケットがあります」
アニータは完全に沈黙した。あまりのカルチャーショックに頭が追い付いていかなった。
そんな少女の横でカルロは何の問題もなさそうに干し肉を食い千切っては噛み締めている。執事や護衛兵も、不動のアニータに断ってから食べ始めた。
しばらく冷たい食事を見つめていたアニータだったが、意を決したように、ようやく手を付けた。
「っ......!かったいですわ、これぇ!」
それから時間をかけ、アニータが食べ終わったのは目的地に着く直前だった。
▼
「ここが、森丘なのね」
気球船から大地に降り立ち、草原の香りを深く吸い込んだアニータは、感慨に浸った。もうすでに大冒険をした気分になる。だがこれからあと三日間、ここで過ごすのだと思うと心を奮わせるものがあった。
空が高い。あんなに近くにあったはずの雲が、今はずっと遠くにある。
数時間ぶりの地面の感触は、なんだか自分が生まれ変わったみたいに新鮮に感じた。
「きゃっ」
アニータが突然口を覆った。ひどく驚いた視線の先には、岩陰から飛び出したケルビがいた。
こちらを見つめる、つぶらな瞳が愛らしい。それなりに距離はあるが、アニータの声に長い耳をピンと立てて、微動だにせず人間たちを警戒している。
「すごいっ、すごいすごい! とっても可愛い!」
はしゃぐアニータに、ケルビは一目散に逃げてしまう。
それを夢中で追いかけようとして、アニータは派手にスッ転んだ。「ぎゃびっ」と麗しの令嬢にあるまじき、潰れた蛙のような声が漏れる。
「お嬢様!大丈夫ですか!?」
護衛兵たちが駆け寄る。アニータはよろよろ身体を起こそうとしながら、なぜ何もないところで転んだのかと不思議に思った。
「お嬢様、やはりハイヒールでこのような場所を歩くのは無茶です」
助け起こしてくれた兵士に言われ、アニータは衝撃を受けた。
なるほど。確かに踏みしめる感触が街道とは違う。平行に思える地面は所々凹んでいたり、逆に盛り上がっていたりと大変歩きにくかった。
思えば自分は、家と学校を往復するだけの生活しかしておらず、石畳の道以外を歩いたことなど数えるほどしかなかったのだ。そもそもハイヒールが街道でしか使えないだなんて想像すらできなかった。
顔を蒼白にさせたアニータは執事に泣きついた。
「どうしましょう。せっかく来たのに、満足に歩けもしないなんて」
「そんなこともあろうかと」
執事はそう言って、自分が持ってきていたカバンから靴を取り出した。小さくて踵も高くない、今のアニータにはぴったりの歩きやすそうな靴だ。
「さ、どうぞ」
アニータは履き替えながら、羞恥で顔を真っ赤にする。己の世間知らずっぷりがどれだけ酷いかを、思い知らされてしまった。
「どうして出発前に教えてくれなかったのです」
ふて腐れたお嬢様に、執事は穏やかに笑った。
「私がお嬢様のお荷物に手や口を出しても、聞き入れてくださらないと思いまして」
「そんなこと......」
そんなことがないとは言い切れないアニータ。自分でも張り切りすぎていた自覚はあった。きっと、他の靴を持っていけと言われても、一番のお気に入りを履いていくと意固地になっただけだろう。
「その通り、ですわ。ごめんなさい。苦労をかけますわね」
「勿体ない御言葉です」
履いた具合を確かめてみる。サイズはしっかり合っていて、新品なのに足によく馴染んだ。歩きやすさも、ハイヒールとは比べるべくもない。
気球が上空へと浮かび、去っていく。
「おい、もう行くぞ」
それを見つめていたアニータは、待ちくたびれたカルロの呼び声に振り返り、草木が広がる自然の中を歩き出した。
▼
森丘とはギルドが付けた狩り場の名前であり、ここら一体の土地は正式にはシルトン丘隆と呼ばれている。高低差がほとんどない丘と草原が連なり、西側にはシルクォーレの森が横たわる、生命豊かな土地である。
ギルドが狩り場として管轄している地はその中の一部だけで、そこから出れば地図にも載っていない土地が延々と広がっている。
つまり今アニータたちがいる場所は、大自然に見えてその実、人の手が入った土地と言える。その証拠に気球船の発着場所とハンターたちが使うベースキャンプはしっかり設置されているのだ。
お嬢様と彼女を守る男たちの一行はそのベースキャンプに向かっていた。
気球船の発着所は小高い丘の上の拓けた草原にあり、そこから川沿いに下へと降りていく。そうして川の縁をずっとなぞれば、やがて岩肌に空いた洞窟に着く。その中が、ギルドが定めたベースキャンプとなっているのだ。
「川だわ。ねえカルロさん、触ってきてもいいかしら」
「キャンプ場所へ行くのが先だ」
アニータが何かにつけて寄り道をしようとしてはカルロが止める。キャンプに行く道中だけでも、アニータを魅了するものは多くあったのだ。
そうしてお嬢様を引っ張るように進んでいき、ようやくベースキャンプに辿り着いた。
自然にできた岩のアーチに興奮してさっそく潜ろうとしたアニータを、カルロがまた止めた。持っていたアニータの荷物(アニータの力では運べなかった)を降ろし、じっと聞き耳をたてる。
「どうしましたの?」
「喋るな」
相変わらず失礼に聞こえるカルロの言い方に少しムッとするが、カルロは今までになく真剣に岩のアーチの向こうを探っていた。岩肌に耳をつけ、それから伏せて地面の音にも注意する。
十秒ほどそうして、立ち上がったカルロは、何事かと見守っていた周りに対して掠れるような小さな声で話しかけた。
「奥にランポスがいる」
それに真っ先に反応を示したのは、三人組のハンターたちだ。
「嘘だろ? ギルドが管理しているキャンプ場所だぜ」
「とにかく、一旦離れるぞ」
一同はカルロの指示に従ってその場から、慎重に距離を置く。しばらくしてようやく事態が掴めたのか、アニータが口を開いた。
「ランポスって、あのランポスですよね? 大人の男の人以上に大きな、肉食竜」
カルロが頷く。
「そうだ。数は三匹いる」
「すげえな、G級は。音だけで数も特定できるのかい。それでどうする。殺るか?」
「いや、俺が追い出してくる。お前らは近くの物陰に隠れていろ」
言うがいなや、カルロは一人でキャンプ場所へ行ってしまった。残されたアニータと護衛兵は不安そうに彼の背中を見送る。
三人のハンターは、雇い主である執事へ目配せをした。
執事はただ首を横に振り、森の奥にそびえるこの辺りで一番高い山を、じっと見つめた。
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「もう大丈夫だ」
間もなくして、カルロが待っていたアニータたちに言った。
カルロの手並みは鮮やかだった。しかし、その時のことを思い出して、アニータは笑わずにはいられなかった。
ベースキャンプは、岩のアーチから10mほどの洞窟を抜けた先の、まるで上から円柱状に岩をくり抜いたようなスペースにある。天井はないが、石造りの部屋を思わせる。
カルロはその上へ登り、ランポスたちに姿を晒したのだ。
太陽を背にして、大きな葉っぱを両手いっぱい持って広げた。何か巨大な鳥をイメージしたのだろう、奇天烈な甲高い声で鳴き喚きながら、さらには葉っぱの羽ばたきに合わせてダメ押しの煙玉が投げ込まれる。
大の男が白い煙が立ち込める中で、葉っぱを振り回しながらクエクエッグォグォと喚き散らす。
常に無表情のカルロからは想像もできない奇行だった。
珍妙としか言えない有り様だったが2mほどもある大男がそれをやると結構な迫力があり、ランポスは一斉にキャンプ地から逃げ出していった。
「ねえ、カルロさん。くふっ、うふふ。ああいうのは、よくやりますの?」
「何を笑っている」
そう、褒め称えるべき鮮やかさだった。
だがアニータはそれどころではなかった。無表情に戻ったカルロを見ると、治まってきていた笑いが一層強くなって込み上げてくる。
しばらくカルロの方は見ないようにしようと、アニータは俯いて震えながら思った。
煙幕が晴れたキャンプ地に入ると、嫌な臭いが鼻を刺した。腐りかけの肉の臭いだ。
その原因がキャンプ地の真ん中に、無造作に放られている。ランポスに食い荒らされていて原型を留めてはいないが、それはケルビの死骸のようだった。
アニータがショックのあまり後ずさる。そんな依頼主の様子は気にもとめず、カルロが状況を説明した。
「ランポスどもは、ここで死んでいたケルビを食っていた。だが、それは本来はありえない事だ」
「そうだなぁ。ギルドのベースキャンプはモンスターが入ってこないよう、色々な工夫がしてあるからな」
三人組のリーダー格が同意する。
彼が言うとおり、ハンターが安全に休めるよう、ベースキャンプにはモンスターの侵入を拒む工夫がされている。単に侵入しづらい立地を探すのはもちろんのこと、モンスターの棲息域なども調べて何処に設置するかが検討される。場合によっては丈夫な扉を付けたり、さらにランポスなどのモンスターが嫌う臭いがする植物を周りに植えたり、生育が難しそうであればベースキャンプにそれを直接塗ることもある。
とにかく安全を第一に考えて、やれることは何でもやる。それがベースキャンプの在り方だ。
「そもそも、ベースキャンプにケルビの死体があること自体おかしいぜ」
その男の言葉に、カルロはああ、と答えた。
「ケルビは狭い場所、とくにこんな袋小路は嫌う。まず入ってこない。とすれば......」
「俺たちの前にキャンプを使った誰かが、ケルビを狩ってそのまんま放っておいちまったんだろうな。この腐った臭いは、そんなに日は経ってないだろうがよ、これに釣られてランポスたちは寄ってきたんだろうぜ」
危なかったと、カルロは思った。ランポスの爪は凶悪だ。一撃で人間を容易く殺せる。もしも、アニータが我先にとベースキャンプに入っていたら、大惨事になっていただろう。
そもそも何故、ケルビの死体があったのか。
ベースキャンプを使用する際の注意事項として、ギルドはこうした獲物の放置をしないよう厳しく言っている。なぜなら今回のようにキャンプ地に危険なモンスターが入り込むし、最悪、そこがモンスターの巣穴になってしまう場合も考えられるからだ。
しかし今回、そのルールを無視した輩がいる。
早急にケルビをキャンプ地から引きずり出し、なるべく遠くへ捨てる。死体を置いておけば、ランポスたちはまた必ず食いに戻ってきてしまう。それに、死体をそのままにしておくというのも、色々と気が滅入る。
カルロはケルビを捨てて戻ってきて、未だにショックから立ち直れないアニータをちらりと見た。
「こんな、ひどい......なんで......」
腐臭はそれほど酷くはなく、すでにキャンプ地に入ったときの半分ほどに薄れている。しかしアニータは虚ろな目でケルビの死体があった場所を見て、うわ言のように呟いていた。
「お嬢様」
その後ろに立って、執事がアニータを慰める。
「仕方がないのです。生あるものは、いずれ皆死んでしまいます。それがあのように無惨な結末であっても、珍しいことではありません」
「......知っています。そんなこと」
アニータは弱々しく答える。
「そんなこと、知っていたはずなんです。でも、やっぱり、私は世間知らずなんですね。実際に見たら、知っていたことと、全然違って」
震える少女の肩は、何かを懸命に飲み下そうとしているようであった。執事はそれ以上何も言わず、ベースキャンプの掃除をしに下がった。
「ケルビの血が服に着いたから川で洗ってくる」
そう言って外へ出ようとするカルロに、ハッと振り返ったアニータが声をかける。
「あっ、待ってください。私も、川に行きたいです」
「......晩飯の食料もついでに捕ってくるから、戻るのは夕暮れ時くらいなるぞ」
「私は構いませんわ。ねえ、いいでしょう?」
カルロはアニータの瞳を見た。
好奇心はあるが、気球船からここに来るまであった浮かれ気味の熱がなりを潜めている。動物の死を見た彼女の、複雑な感情が揺らいでいるようだった。
アニータが執事の方を向くと、執事は「まあ、いいでしょう」と言ってくれた。
「分かった。ただし俺のそばを離れるな。それから、兵士ども、お前は付いてくるな」
アニータのすぐ後に続こうとしていた五人の衛兵たちが、カルロの言葉に憤慨した。
「なにを言う! 我らもお嬢様の護衛係りだ。それとも何か、この機会にお嬢様にいかがわしいことでとしようと企んでいるのではあるまいな」
睨み付けてくる兵士を、カルロはまるで相手にしない。
「その鎧でガチャガチャ音を立てられた迷惑だ。それと下手に大人数で群れれば、さっきみたいなランポスに目をつけられもする」
ハンターであるカルロの指摘に、護衛兵たちはぐっ、と言葉に詰まる。
それに助け船を出すように執事が横から言った。
「まあ、夕刻に戻られるのならば、大丈夫なのでしょう。それに彼は契約主義者として有名ですからな、依頼主を傷付けたりはしないでしょう」
自分達より目上の人間にそう言われてしまえば、兵士たちからは何も言えない。
カルロが悔しそうな彼らを意にも介さずキャンプ地から出て行く。アニータも大人たちのいさかいにオドオドしながら、カルロに付いていった。
▼
シルトンの川の透明度は、いくつかの詞や言い回しに取り上げられるほどに素晴らしい。その水を使うことをこだわりにしている料理人もいるほどだ。
そんな世界有数の清水で、カルロは血を洗い落としていた。底の浅い川に膝まで浸かって上着を大雑把にもみ洗いしている。
彼についてきたアニータは川にあれほど興奮していたにも関わらず、今は川原に座って顔を両手で覆っていた。どうやら視界を塞ぐ仕草のようだが、指の間に隙間をつくり、ばっちり目の前の光景をガン見している。
上着を一枚脱いだカルロは上半身裸となっている。長身に見劣りしない引き絞られた筋肉と、それを支えるいかにも強靭そうな骨格が彼の身体には備わっていた。
最初、裸になり始めたカルロに対して小さな悲鳴を上げて何事かと混乱した。箱入り娘に男の裸体は、上半身だけとは言え刺激が強すぎた。
「待って待って」と叫ぶアニータを鬱陶しそうに無視して、カルロは川へと入った。呆然としていたアニータは、「むしろこの場で不自然なのは私なのかも」という考えに至り、どうしようもなく、ただ草むらに腰を下ろしてG級ハンターの肉体美を盗み見るしかなかった。
堂々と見ることはできない。それをしてしまったら貴族の、元より乙女としての恥だとアニータは考える。
そんな誇り高い彼女の頭には目を逸らしたり後ろを向いておくという選択肢は微塵もなかった。
「......いつまでそうしているんだ」
カルロに振り向かれて、アニータはサッと目を隠す。人差し指と中指の間を閉じるだけ。瞬きにも満たない早業であったが、カルロには彼女の様子は筒抜けだった。
「見てません、見てませんわ」
「そんなに珍しいか」
珍しくないわけがない。幼少の頃から、父とすら風呂に入ったこともないアニータにとっては恐らく、人生初に見る男の身体である。
しかもそれが並みでないとくれば、まじまじ見てしまうのも仕方がなかった。
そう、仕方がないはずよ、アニータ・リオハート。少女は胸の内でそう唱える。
「......思っていたより、傷は少ないのですね」
物語の中の英傑たちは皆、屈強な肉体にその経歴とも言える古傷を負っているのが常だった。アニータのなかではそんな傷だらけの、いかにも歴戦の戦士然とした体が英雄のイメージであった。
しかし実際に見てみれば、カルロは想像よりもずっと健常な身体を保っているようだ。さすがに全く無いわけでじゃないが、それでもG級という、非凡の領域に辿り着いた男にしては傷跡が少なかった。
「重傷を負って、生き残れるほど甘くはない」
そう言いながら川から上がってきて、洗い終わった服を固く絞って木の枝に干す。
流石に慣れてきたのか、アニータは横目でカルロを見ながら話を続けた。
「怖くはないんですか?」
「何がだ」
アニータはカルロに追い出されてキャンプから出てきた三匹のランポスのことを思い出す。
あの時はカルロの奇行にばかり考えが行ったが、物陰から見たランポスは、遠目からでも恐ろしいものだった。ひょっとしたら動物の全てと仲良くなれるかもしれないなどと思っていたアニータは、人間を越えるサイズのトカゲを見て、あれらには自分は獲物でしかないという恐怖を膨らませた。
「いつか、そんな重傷を負うかもしれません。いえ、一歩間違えたら重傷などでは済まないかも。死ぬかもしれない環境に身を置くことが、怖くはないのですか」
「......分からん。長いこと続けすぎて、麻痺しているのかもしれん」
カルロはいやに真剣なアニータの瞳を受けて、真面目に返さざるをえなかった。正直なところ、哲学めいたことを考えるのは苦手な性分だ。
しかし、この少女は答えを探しているらしい。
自分の心に確固とした基盤を築きたいと、真っ直ぐな視線が語ってきていた。その感情は、彼女とはまったく違ったの生き方をしてきたカルロにも馴染みのあるものだった。
「だが俺は俺の意思でこの世界にいる。俺が決めた道を前に進むだけだ」
「そう......なんだか、羨ましいですわ」
アニータの寂しげな呟きは、川のせせらぎに消え入りそうなほど小さい。
「お前は、何がしたくてここに来たんだ」
その質問はアニータの核心を穿った。キャンプをしに、などという答えで済ませられる質問ではない。
アニータはやけに飲み込みづらい唾を喉に押し込んだ。
「成長、するためですの。私はあまりにも世間知らずだと、お父様が言いました」
「お前は成長したいのか」
カルロの問いの切り口は鋭い。アニータは静かに首を振った。
「それは......分かりません。けど不安なの。このキャンプが終われば大人の仲間入りをして、許嫁の方と結婚して......決まっているはずの道なのに、さっぱりそこにいる自分が想像できないんです」
土手に咲く花をそっと撫でてみる。
花にも不安はあったりするのだろうか。土と太陽の恵みを受けて育ち、そしていつかは種を残して枯れ落ちる。決まりきった一生を不安に思うことは珍しいことなのか。自分が認めることができれば、納得さえできれば解決する問題なのだろうか。
たとえ誰も、実の父でさえ、自分を省みてくれないとしても。
「分からないわ。何も、分からない」
アニータはそれっきり膝を抱えて黙ってしまった。
隣に腰を下ろして足を投げ出したカルロもまた、彼女の現状を知らないがために、かけるべき言葉など分からなかった。出てきたものと言えば、アドバイスや慰めなどではなく、
「川に入りたかったんだろう。行ってくるといい」
カルロに言われて、アニータは細い清流を眺める。
「......そうですね。ちょっとだけ」
重い腰を上げて、川に近づき恐る恐る手をその中に浸してみる。
常に流れ続ける川の水は、アニータが予想していたより冷たかった。ビックリして手を引っ込めかけるが、緩やかに流れる水の感触が気持ちいいことに気が付く。
足も入れたらどんなだろう。
靴と長いソックスを脱ぎ、スカートをたくしあげて爪先からゆっくり川に入ってみる。これもまた冷たく、ひんやりした感触が背筋を上って身体を震えさせた。しかし慣れてみれば心地が良い。足裏で触れる丸まった石の滑らかな表面が印象的だった。
「素敵......あっ、カルロさん、見てくださいな。魚が泳いでるわ。この子はなんていう名前ですか」
いくらか元の調子を取り戻したアニータの呼び声に、カルロは内心で安堵しながら、彼女が指差す川面を見ようと立ち上がった。
▼
アニータとカルロがベースキャンプに帰ったときには、日が暮れかけていた。四方を岩の壁が囲んでいるキャンプ地は暗くなるのが早く、執事たちはもう火を焚いていた。
「おおっ、お嬢様。心配していましたよ」
「やい貴様、本当に変なことはしていないな」
喰い気味に食って掛かる護衛兵たちに返事をすることもなく、カルロは抱えていた獲物を焚き火の側に降ろした。
「お疲れ様です。それが、今晩の食材というわけですな」
カルロが持ってきたもの、一頭のモスを見て執事が口髭を擦る。
モスとは背中が苔むした小柄の豚だ。苔は直接モスに寄生しているわけではなく、モスが身体に塗たくっている泥に生えている。その茂り具合で個体の年齢が分かる。
「10人前くらいなら十分だろう」
カルロは執事の横にある、大きな葉っぱに乗せられた木の実や山菜を見た。三人のハンターたちが採ってきたらしい。かなり豪華な食事になりそうだ。
「ねえ、本当に食べますの? 本当に?」
不安げにアニータはカルロの袖を引っ張る。ここに並べられた食材を食べたことが無いわけではないが、見たことがあるのは料理された美味しそうな形だけであって、採ってきたそのままの状態は馴染みがないアニータは本当にこれらが食えるのかとたじろいでいた。
「今から作る。黙って待ってろ」
なにせ、モスを仕留めてからキャンプに戻る道中でもしつこく聞かれていたので、カルロは鬱陶しそうにしながら料理にとりかかった。
苔を削ぎ落とし、既に血抜きを済ませてあるモスの腹にナイフを入れて臓物を取り出す。そのグロテスクさにアニータは「ひいっ」と悲鳴を漏らし、護衛兵たちもどよめいた。
腹を水で洗い、塩を擦り込んでから果実とキノコ、茹でて灰汁抜きした山菜を詰めこむ。そしてのりこねバッタで切り口を止めて、あっという間に下拵えが終わった。料理人も顔負けの手際に一同は舌を巻く。
「あとはタレを塗りながら焼くだけだ。おい、もっと火を強くしろ」
カルロの指示に従って皆が動く。アニータはキャンプの物置から長い鉄串を探しだしてきた。錆びていないことから察するに、ハンターたちはよくこれを使ってご飯を作っているらしかった。
鉄串に刺さったモスが遠火で炙られる。カルロはランポスたちを追い払った時よりもずっと真剣に、一定の速さで串を回転させる。
ハチミツで作ったタレを塗る役はアニータが務めた。最初はモスがあまりに可哀想で躊躇っていたし、実際にやってみてムラなく塗るのは存外に難しかったが、仕事を任されたことが嬉しかったのか、額に汗をかきながらアニータはやり遂げた。
初めは惨めな姿をしていた豚が、茶褐色にこんがりと焼けている。香ばしい香りがキャンプ場を満たし、否応なしに口いっぱいに生唾を湧かせた。
「スープも出来ました」
もう一つ火を起こしてモスの胃袋のスープを作っていた執事が言った。
日は完全に沈んで夜も深まった頃に、お嬢様一行の食卓は整った。たった二品ながら、圧巻のボリュームを誇るご馳走がアニータの脳髄を打った。今までにパーティーなどに出席し、多くの豪華な料理を食べてきたアニータだったが、それらとは違った野性味溢れる旨さが堪らない。
「これも知らなかったわ。温かいものが食べられるって幸せなことですのね」
思い出すのは気球船での昼食のこと。あの味気ない食事のあとだから、余計に美味しく感じる。
アニータたちは心からモスに感謝しながら、腹を満たしていった。
▼
「星は見えませんのね」
食べ終わったアニータはしばらく経っても苦しいお腹を気にしつつ、のっぺりと暗い空を見上げている。彼女の隣に立つ執事が、同じようにして上を仰いで答えた。
「雲が出てきてしまいましたから。カルロ様が雨は降らないとおっしゃっていたので、その点については心配なさらずともよろしいですよ」
「明日は、見えるかしら」
少しの間を挟んで、執事はアニータに笑いかける。いつもと変わらない、優しくも何を考えているか分からない笑顔だった。
「ええ、きっと。そろそろ寝ましょうか。皆さんも寝てしまいましたし」
「あら、まだカルロさんが起きていますわ」
アニータが小さくなった焚き火の方を振り向けば、その番をしているカルロと目が合う。少女のアニータや初老を過ぎている執事はともかく、他のハンターたちさえ差し置いて遥かに多い量を食べたにも関わらず、カルロはけろりとしていた。
「彼は見張りをしてくれます。他のハンターたちと交代でされるらしいので。さあ、お嬢様はお休みください」
しかしアニータはまだ眠たくないのか、その提案に渋った。
「私はもう少し起きていますわ。あなたは先に寝ても構いませんのよ」
カルロの方を見ながらそう言うアニータに、執事は一礼した。深く深く、たとえ仕えている相手だとしてもそこまでやるのかと言うほどに、恭しくお辞儀をした。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。お嬢様もできればお早めにご就寝ください」
そう言って執事が天幕の中に入ったのを確認してから、アニータは小声でカルロに話しかけた。
「そちらに行ってもよろしくて?」
「......好きにしろ」
もう失礼な口調も気にはならなくなり、アニータは腰かけていた簡素な椅子ごとカルロの隣に来て、静かに座った。
炎が時おり火の粉を散らす音だけが、夜闇に響く。
「夕食の時はびっくりしましたわ。だってカルロさんたら、鼻まで食べるんですもの」
「美味いぞ。お前も食えばよかったのに」
詰め物の部分や肩肉などを食べるアニータたちの傍らでカルロは積極的に鼻や足といった末端の部位を頬張っていた。
彼にしては珍しく積極的に、食ってみろと勧めてきたが、まだ野生初心者のアニータには厳しいものがあった。断った際の、少し残念そうなカルロは印象深かった。
しばらく火の粉を吹く炎を見つめながら、他愛もない会話をぽつりぽつりとしていた。
気球船で手摺に止まっていた鳥に餌をやったこと。底の平たい靴が歩きやすくて好きになったこと。魚を捕まえようとしても素早く逃げられてしまったこと。死んでしまったケルビやモスが可哀想だったが、夕食は美味しかったこと。
そんなことを喋っていて、アニータは不意にとても幸せな気持ちになり、うっとりと言った。
「私、来て良かったですわ。出発の前はずっと不安だったのに、今は楽しくて仕方ないんです」
カルロは黙ってアニータの言葉に耳を傾ける。彼女はまた、悩んでいるのだろうかと。しかし隣に座る少女を見ればそれは杞憂のようであった。
「お父様に見てほしいって、その一心でした。けどこんな自然の中にいたら、なんだか遠い過去の、なんでもない悩みに思えてきて」
「そうか。良かったな」
素っ気なく返すカルロ。アニータはそんな無愛想なハンターに笑ってみせた。
「貴方のおかげです。最初はどうなることかと思いましたけど、貴方が付き添って、私が聞いたことを丁寧に教えてくださって、胸のつっかえが小さくなった気がするの」
「俺は仕事をしているだけだ」
「それでも、いいんです。あと二日間、よろしくお願いしますね」
どことなく嬉しそうなアニータに、カルロは頬を掻きながら頷いた。
しばらくして交代のハンターが起きてきて、カルロとアニータを交互に見やってから、快く寝ることを勧めてくる。
自分専用に建てられたテントに入り、寝床に潜ったアニータは明日のことで頭がいっぱいになった。
明日も美味しいものが食べられるかしら。今度こそあの可愛いケルビと仲良くなりたい。きっと星も見られる。今日より遠いところへ足を伸ばして、そこでまた、カルロに色々なことを教えてほしい。
今や結婚を控えた貴族のご令嬢ではなく、アニータは一人の少女となっていた。キラキラと輝くような楽しみを胸に抱き、夢の世界へと意識を落とす。
自分をちゃんと見てくれる人がいる。そう思うだけで安心して眠ることができる。温かく幸福な夜が、アニータを迎え入れた。
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そんな夜に、火竜の咆哮が轟いた。