「……慰安のため、風俗に、売春宿へ行きたい、ですか」
先程までの元気はどこへやら、向かいのソファーに机を挟んで座る古鷹の鈴虫のような小さい声が、それでも自分達以外誰もいない執務室では確かに聞こえる。
想定では羞恥から顔色は赤く染まると思っていたが、そんなことはなかった。流石古鷹。これしきの事じゃ少しも動揺しないらしい。
これはシミュレーション以上の効果があるやもしれない。いけどんいけどん押せや押せ。今が好機ですと俺の中の軍師が太鼓判を押す。多分技能は太鼓持ち。それって軍師って言わない気がするがそれはそれ。これはこれ。
「だから古鷹、ちょっとこの書類にサイン「駄目です」
……あるぇー? オカシイ。シミュレートではここで「しょうがないですね、提督は」とか言って呆れながらサインもらうハズだが。心の中で首をひねり再シミュレートする。……うん。いける。後4手でいける。おぉ自分の頭脳が恐ろしい。太鼓持ちの軍師もイケますぞとゴマをする。万が一悪手を指したとしても、その時は甘んじてお叱りを受ければいい。
神の視点たる誰かから見れば、そんな思考がまさに悪手であることに気付いただろう。端的に言えば油断をしていたのだから。
腹心、重臣、右腕。おおよそ考えられる信頼を意味する言葉だろうと自分と彼女の関係は相応しくない。それが古鷹に対する我が方の評価である。
叱られても命の危険から最も遠い彼女に何の警戒心が必要なのか。
そんな慢心が災いする。しんと静まった執務室に氷のような声がした。
「提督は、風俗なんかに行っちゃ駄目です」
初めてのようでいて、聞き慣れた声だった。信じられないが、目の前の彼女、古鷹の声だ。
あまりの事に何も言えない。不知火や初月が言っているならまだ分かるが、古鷹がこんな抑揚のない声を出せるとは想像も付かなかった。
呆然とする自分に古鷹は更に続ける。
「誰ですか?」
ポツリと、しかし静まり返った執務室に響く声で古鷹は尋ねてきた。
「誰が、提督を風俗なんかに誘ったんですか?」
いっそ、机を叩くと言ったわかりやすい行動の方が嬉しかったかもしれない。
古鷹は先程からぴくりとも動かず、上官の自分を今にも絞め殺さんばかりに睨みつけている。春の陽気さを感じる茶色の御髪から絶対零度を覚える瞳が覗く。
いつもならばホニャホニャした丸い瞳で見つめてくる古鷹が、鉄板すらも貫かんばかりの鋭い眼光、視線そのもので問い掛けてきている。
あな恐ろしや。最も注意すべきは古鷹が自分を睨みつけていることでは無い。左眼の探照灯に光が灯っていないことである。
古鷹は興奮すると探照灯の名残なのか左眼が光ったり、電流が走ったりする。まるで犬の尻尾の様でこれはこれで非常に可愛らしいのだが、その左眼は今、電流どころか一粒の光すら漏らさず沈黙している。
ハイライトがオフどころじゃない。眼光の反射すらない。物理法則に反している。感情を露わにしながらも、凪の海面の如く感情であるという矛盾の境地。もしやこれが、風の便りで聞いた無念夢想の極みだろうか。そんな無意味な思考を目の前の脅威から目を逸らそうとするのは、況や生存本能と思ふ。
つまり、その、一言で表せば危険じゃな?
「……提督も男の人です。そういうのに興味があるのは仕方ないと思ってます」
古鷹は一歩も動かず、机を隔てたソファーへ腰を下ろし、腕も膝の上に手を合わせてピクリともせず尋ねてくる。
「でも、だからと言って不特定多数の男性と関係を持った女性と性行為を行うのは、秘書艦として看過できません」
有無を言わさぬ不許可の言葉に、怒気は感じられず、失望も感じられず、普段の彼女から思っても見ない感情―――殺意を表していた。
「許可は、出しません。貴方を誘ったのは誰ですか。教えて下さい」
悪魔に魂を売った本能と理性が目の前の堕天使、いや魔王に手を取り合って怯えている。制御不能な奴らが子犬のように震えてる。まぁかく言う俺も、古鷹の琥珀のような瞳に映る己が顔に死相が見えているのだがね。
息をするのも許されぬ一瞬が、五月雨のごとく過ぎていく。鉛よりも重い空気の中、顔には脂汗とも冷汗ともつかぬ何かがしたり落ちながら、何とか生きるための、生き延びるための言葉絞り出して答えた。
「……じょ」
「……じょ?」
「冗、談だっぞ〜ぉ? はは、ハハハ、ヤダなぁ古鷹。俺がそんな場所に行くはずないだろぉ〜? ハハハ、ハハハ……」
―――終わった。
絞り出して出た答えがコレとはお釈迦様でも頭を振るだろう。実際気の早い魂はoh my godと呟くTシャツジーパンスタイルが仏陀の姿を空見した。
浮気した男の常套句だと誰もが思うだろう。何故なら、誰よりも俺がそう感じるのだから。
哀れ也、青二才。されども指揮棒一本で成り上がりの自分には、こんな言い訳しか思いつかぬ。
スマヌ、すまぬ。同期の友らよ。私は一足先に地獄へと落ちてゆく。
故郷の友よ。どうか、どうかパソコンのHDDを我と共に焼いてくれ給え。
氷の視線が天を仰ぐことすら許さない。ふふふ。まさか死因が信頼した部下の後ろならぬ表弾とは知略に名高き今孔明でも思いつかぬだろう。
駆け足で流れ始めた走馬灯の一つが訴えるように脳内でリフレインを始めた。
『爆発によるショック死、あるいは刺傷による失血死です』
大淀。今ならその言葉理解できる。それって後ろ弾ってことね。すげぇよ大淀は。この場にいない彼女へ最敬礼し、たった二人の軍事法廷の絶対的存在である彼女が今、その裁決を下し――
「なーんだ!」
「ヱ?」
「古鷹の早とちりだったんですね。良かったぁ!」
―――夢を見ているんじゃなかろうか。こんな漫画のようなご都合主義がありえるのだろうか。え、まさか。ひょっとして、もしかして。
「もう駄目ですよ? あんなデリカシーの無い冗談は」
もしかして。
「提督も日々の疲れでストレスが溜まってるのは分かりますけど、こんな事一般的にセクハラって言うんですよ?」
もしかしてこれって!
「もぅ! 聞いているんですか、提督! こんな冗談は私はともかく他の娘には止めてくださいね!」
「い、いや〜! すまんなぁ! つい学生時代を思い出して下品な冗談を言ってしまった。アッハッハ! 許せ許せ! アッハッハッハッハ! アッーハッハハッハッハハッハッハ!(生き延びてるぅー!! やっふぅーーぃ!↑↑↑)」
生の実感を全身で味わいながら、腹の奥底からの大笑い。これにはお釈迦様も生きてて良かったねとニッコリスマイル。気の早い魂はもう体に戻っているのか仏陀の姿も見えなくなったが万事OK塞翁が馬。今までどこにいたと問い質すのも今は置いておこう。
ありがとう仏様。
ありがとう神様。
そして何よりありがとう古鷹様。おぉ、生きてるって素晴らしい!
唯一無二の史上最も価値ある生命。
されど、それを斬って捨てるが武人の宿業。
「あゝされど」
「だがしかし」
「だからこそ」
我らは生命の儚さを、生命の暖かみを、生命の尊さを誰よりも知る。
生命を惜しまず、名を惜しむのが帝国軍人の誉れと言えど、今を丈夫に生き行く我が生命に、感謝をせぬのは道理が通らず。
願わくばこの生命、彼女達とともに歩めることを祈るばかりである。
「そ、それに、ですね」
「あっはっは! んー、何だ古鷹? 遠慮せずに言ってくれ。そうしてくれた方が馬鹿なことを言った俺としても気が楽だ」
「いえ! その、もし必要になっても提督の慰安なら、その、不肖ながら、私が……ご奉仕、させて頂きますし……ね?」
「は? いや、そんな部下と懇ろなんて常識的に考えて、駄目に決まって「撃て」んだろぉああああああああああなぁんでぇええええええええええええええ!?」