真夜中の京阪電車で僕は梓を抱きしめたかった   作:忍者小僧

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1999年

「あ、ジャズだ」

 

通学中の京阪電車で、唐突に声をかけられた。

ヘッドフォンをはずして振りかえる。

そこには可愛い女の子の顔が。

僕より少し年下だろうか?

猫みたいな瞳と、黒髪のツインテール。

体躯は小柄。

中学生か高校生か迷うところだ。

僕は頭を下げた。

 

「ごめん。音が漏れてた?」

「あ、ううん。怒ったんじゃなくって」

 

女の子が首を振った。

 

「ただその。直立猿人だなって」

「あ。知ってるんだ、この曲」

「うん」

「珍しいね」

「ジャズは好きだから」

「へぇ」

 

凄く意外だった。

僕は小さいとき、たまたま路上でジャズのライブを聴いてからジャズが好きになった。

それ以来、いろいろと聴いている。

でも、そういう奴って学校にはほとんどいない。

洋楽を聴く奴は多少いても(それも少数派だ)、ジャズとなると、壊滅状態だ。

それが、小柄な女の子が、ジャズ、しかもチャールス・ミンガスを知っているなんて。

だから、ついつい言葉が口をついて出た。

 

「すごいな。その歳で本格的にジャズを聴いてるなんて」

 

すると女の子が唇を尖らせる。

 

「あっ。さては私のこと中学生だと思ってるでしょ?」

「違うの?」

「残念でした。この春から高一です。まぁ、ちょっと背は低いけどね」

「そうなんだ。ごめん」

 

僕はまた謝る羽目になった。

 

「僕の学年は……」

「見たらわかるよ」

 

女の子がくすりと笑う。

 

「私とおんなじ一年生でしょ? 制服もカバンもまだ真新しいもんね」

 

なんとなく言い出せなくなってしまった。

僕は実は高校3年生だ。

背が低くて童顔だから、時々実際よりも年下に見られる。

制服とカバンが真新しいのは、大事に使っているからだ。

親が潔癖症なこともあって、汚すと注意される。

君よりも年上だよ、と伝えてもよかったんだけど、わざわざ勘違いを指摘するのが面倒だった。

どうせ二度と会うこともないだろうし。

……そう思っていたんだけど。

なんと、翌日も同じ電車で鉢合わせた。

見覚えのあるツインテールが、手すりのそばにいる。

 

「あ。昨日の人だ」

 

女の子が片手を挙げて挨拶する。

 

「また会ったね」

 

にっこりと微笑むとやっぱり可愛い。

僕は少し照れて問いかける。

 

「うん。もしかして、いつもこの時間に乗ってる?」

「ううん。昨日から」

「へぇ。何で?」

 

少し興味が引かれた。

 

「これだよ。これ」

 

女の子は背中に背負っていた大きな楽器ケースを指差す。

 

「楽器?」

「ご明察。軽音部に入ったんだ」

「へぇ。朝錬?」

「そうなの」

「けっこう真剣なクラブなんだね」

 

その言葉に反応して、女の子が「はぁ~」とため息をつく。

 

「それがね、聞いてよ」

「なに?」

「私ね、軽音楽部に入ったのって、きっかけがあったんだ。新歓行事でライブを聞いたからなの。すっごく上手かったんだよ、先輩たち」

 

大げさな身振りで、エアギターをする。

 

「それがね、実際に入ってみると、ダラダラだらけてばっかり。ちっとも練習しないの」

「え? そうなの?」

 

それで上手いんだったらむしろ才能あるんじゃないのかな。

 

「それじゃ、朝錬は?」

「それも名ばかり。授業前のまったりタイム~とか言ってお菓子食べてるの」

「あはは。なかなかの脱力系だね」

「笑い事じゃないよ」

 

女の子がジト眼で僕を睨んだ。

 

「私はもっとちゃんと練習したいのに……」

 

まぁ、高1でチャールス・ミンガス知ってるぐらいだし、かなり音楽には思い入れがあるんだろうな。

 

「そりゃ災難だったね」

 

僕はちょっと慰めてあげようと思った。

 

「でも、新歓ではちゃんとした演奏してたんでしょ?」

「うん……」

「だったら、やるときはやるんだと思うよ。まだ部活入ったところなんだし、これからだよ、これから」

「だといいけどなぁ……」

 

そのとき、特急が京橋に止まるアナウンスが流れる。

僕はそこでJRに乗り換えて、玉造の高校まで通学している。

 

「あ、僕ここで降りるから」

「そうなんだ。それじゃね」

「うん」

「なんか、愚痴聞いてもらえてすっきりした。君、名前なんていうの?」

「羽鳥洋介だけど」

「そっか。私は、佐伯梓だよ」

 

 

それからも、通学時に京阪電車に乗るごとに佐伯梓と話すようになった。

僕は墨染から普通電車で丹波橋まで行って、そこで特急に乗りかえる。

その特急にいつも佐伯梓が乗っている。

たぶん、出町柳から七条までのどこかに家があるのだろう。

いや、もしかしたら地下鉄とか叡電とかから接続してきてるのかもしれないけど。

まさか滋賀から通学してたりして。

それはさすがに遠いか?

うぅん、でもまぁ、同級生に和歌山から通学してる奴がいるしなぁ。

 

「どこに住んでるの?」と問いかける勇気はなかった。

こんなことを告白するのは恥ずかしいが、僕は高校3年生にして、女の子と交際したことがない。

男子校に通っているというのが最大の理由だと思うのだが、男前でないことや、生来のオタク気質も要因だと思う。

ジャズにのめり込むのもそうだし、アニメとか漫画も好きだ。

クラスで少し浮いている。

共学だったとしても彼女などできていないかもしれない。

そう考えれば、佐伯梓という女の子と知り合えたのは僥倖だ。

奇跡と言ってもいい。

小柄で、美少女で、高1で、時々生意気だけど基本的には話しやすくて、しかもジャズ好き。

メタルスライム並みのレアキャラだ。

こんな子と毎日一緒に電車に乗れるというだけでラッキーだと思うべきだろう。

変に高望みするべきじゃない。

なもんだから、僕と梓の会話はたわいのないものに終始する。

丹波橋から京橋までのおよそ30分間、会話のテーマはほとんどが音楽。

梓は、自分がやっているバンドの話(先輩への愚痴がわりと多い)。

僕は高校では放送部に入っていたので、こだわりの選曲とか、新しく仕入れた曲とかの話(まぁ知識披露)。

あっというに時間が過ぎる。

毎日、通学時間が待ち遠しくなった。

 

「佐伯さんさ、どちらかと言えばジャズよりもロックのほうが好きなんだよね? やってるバンドもロックみたいだし」

「うん。ジャズはね、父さんの影響なんだ」

「お父さん?」

「ジャズバンドのベーシストなの」

「えぇ!? 凄いじゃない!」

「そうでもないよ。趣味の延長みたいなものって本人が言ってるし。ジャズに特化したお仕事がそもそもあんまりなくって、スタジオのセッションメンで食いつないでいるようなものだし」

「それじゃ、どっかのアーテイストのバックにお父さんの名前がクレジットされてたりするわけ?」

「うぅん、たまにね」

 

梓ははにかむように微笑んだ。

 

「もうやめよ。恥ずかしいから。それより、昨日はアート・ペッパーの復帰後のアルバムを聴いたよ。羽鳥君、復帰後って聴いたことある?」

「ちょっと聴いただけかな。若い頃みたいな雰囲気じゃなくなってるんだっけ?」

「そうだね」

 

梓が考え込むようにあごに手を当てた。

 

「音が男らしくなったかな。でも、男らしさが隠してるだけで、よく聴けばあのアート・ペッパー特有の繊細さがグッと奥に隠されているの」

「そうなんだ」

「今度、貸して上げよっか?」

「え、いいの?」

「もちろん」

 

女の子から何かを借りるなんて初めてだ。

うれしい反面、緊張する。

 

「それって、CD?」

「あ、LPだ」

 

それじゃ聴くことはできそうにないな。

がっかりもしたけど、ほっとしている自分がいる。

 

「ね、羽鳥君の家のオーディオ装置って、セパレート?」

「一応セパレートだけど」

「それじゃ、レコードプレイヤーだけ買ったらアンプに接続できるよ。中古だったら数千円のもあるはずだし。今度買いに行こうよ」

「買いにいくって、どこへ?」

「大阪の日本橋」

 

おぉう、ディープな場所を知ってるね。

しかし、これは思わぬデートのお誘いだ。

 

「わかったよ。小遣いも余ってるし、買ってみようかな」

「それじゃ決まりだね」

 

そこまで会話したときに、ちょうど特急が京橋に着いた。

 

「いつ行く?」

 

僕の問いかけに、梓が即答する。

 

「う~ん、明日」

「明日?」

「うん。だってちょうど土曜日だし」

「あ。そっか」

「淀屋橋駅に12時に待ち合わせ!」

「改札だね?」

「うん」

 

 

大阪の高校に通ってはいるけど、淀屋橋で降りたのは初めてだった。

京阪電車の大阪側の終点駅だが、降りてみると、地下の駅なのであまり開放感はない。

行き交う人はビジネスマンが多い印象だ。

観光客や学生も多い出町柳(京都側の終着駅)とはかなり雰囲気が違う。

しばらく待っていると、ボーイッシュな短パンにTシャツを合わせた梓が来た。

 

「ごめん。待たせちゃった?」

「いや、まだ少し過ぎたぐらいだし」

「どこにいるかわからなくて、ちょっと探しちゃった。ホントごめんね。どの改札口にするか決めておけばよかった」

 

僕も降りてみて気がついたのだが、淀屋橋駅にはいくつもの改札口があった。

この頃は携帯電話を持っている学生なんてほとんどいなかった。

待ち合わせというのは、存外骨の折れるミッションだったのだ。

 

「仕方ないよ。電車降りる直前に短い時間で決めたし。それよりもさ、さっき路線図を見たら、大阪市営地下鉄の日本橋駅って、北浜から接続されているみたいだけど?」

「ちっちっち」

 

ドヤ顔で梓が指をふる。

 

「羽鳥君。いわゆる電気街の日本橋は、実は恵美須町のことなんだよ」

「へぇ~」

 

僕は路線図を再び見る。

 

「でも、恵美須町も北浜から接続だよ?」

「いいの! 北浜周辺にはあまり食堂がないから、淀屋橋に集合にしたの!」

「あ、そうなんだ」

「さ、行こ? せっかくお昼に集合したんだから、先にご飯食べようよ」

 

梓は、間違えた照れ隠しなのか、先行して前を歩いていく。

階段を上って地上に上がったら、大きな川が広がっていた。

 

「うわっ。すごいな。これって淀川?」

「どうなんだろ。淀川って場所によって名前が変わるよね?」

「うん。そういう意味だったら鴨川だって高瀬川だって淀川だよね。全部琵琶湖から繋がってるから」

「この辺は確か堂島川っていうんじゃなかったかなぁ」

 

それは、僕の中の大阪のイメージを壊すに値する風景だった。

普段、京都から特急で京橋に行って、そこから玉造に向かうという下町生活の中では見られない、スケール感のある光景。

立ち並ぶモダンなビル郡を引き裂くかのように雄大な川が流れている。

モダンなビル郡の間に、洒脱で浪漫的な明治・大正期の洋風建築が残っている。

はっきり言って、かっこいい。

僕は思わず見とれてしまった。

 

「ここで集合して正解だったでしょ?」

 

梓がにやっと笑った。

 

「確かに。これはすごいね」

「さ、向こうにマクドナルドがあるから、そこでお昼にしましょ」

「台無しだね」

「私たちは学生なんだから、そんなぐらいが妥当です」

 

こういうところ、梓は凄くしっかりものだ。

マクドナルドでチーズバーガーをぱくつきながら、訊いてみた。

 

「佐伯さんは、けっこうこの辺に来るの?」

「ううん、たまにだよ。父さんが日本橋にレコードを買いに行くときに、時々一緒にいくぐらい」

 

あぁ、そうか。

お父さんに連れられてか。

なんとなく、合点が行った。

 

「男の子と二人きりでいくなんて、生まれて初めてだよ」

「え?」

 

思わず僕は顔を上げる。

梓が、いたずらっぽく舌を出した。

こういうところ、やっぱり猫っぽい。

僕は苦笑いした。

 

「そんなこといわれても別に意識なんかしないよ」

「何だ、つまんないの……あ、そうだ」

「なに?」

「日本橋って、エッチな漫画とかも売ってるみたいだけど、買っちゃダメだよ?」

「か、買わないよ!」

「絶対だよ。見るのもダメ!」

 

しかしそうか。

エッチな漫画か。

噂には聞いたことがある。

世の中には、同人誌とかエロゲーというものがあるらしい。

セガ・サターンでこっそりとイヴ・ザ・バースト・エラーときゃんきゃんバニーをやったことがある。

あれのオリジナル……PC版が売ってるのだろうか。

梓は気がついていないみたいだが、僕はゴクリとつばを飲んだ。

 

お昼を終えると、北浜まで歩き(地下で繋がっていてすぐだった)、堺筋線に乗った。

10分もかからないで恵美須町についた。

あ、有名な通天閣の近くなのか。

 

「見たい?」

「まぁ、別に」

「渋沢工房があるよ」

「なにそれ?」

「知らない? 有名なジャズのインディメーカー」

 

基本50年代と60年代が好きだから、最近のジャズにはあまり興味がないからなぁ。

通天閣側はやめておいて、電気街側に出る。

梓は行きつけの店があるらしく、僕を案内してくれた。

中古レコード屋とオーディオショップが併設された店の店主にぺこりと頭を下げる。

 

「いつも父がお世話になっております」

「おぉ、梓ちゃん。今日もキュートだねぇ。あれ? 今日はお友達と? 珍しいね。しかも男の子。もしかして、彼氏?」

「ち、違いますよぉ」

 

顔を赤くして否定する。

 

「それで、今日は何か探しに来たの?」

「あの……実はレコードプレイヤーを……うむむ……」

 

梓が陳列された機器を睨んでうなり声を上げる。

 

「お、思ったよりも……高い……」

 

そう。

それは僕も思った。

数千円のものなんて置いていない。

一番安いので1万2000円だった。

 

「ど、どうしよう……私が誘っちゃったし……なんとかしなきゃ……」

 

なにやらぶつぶつ呟いている。

妙に責任感があるなぁ。

 

「あのさ、なかったら仕方がないから」

 

僕がそう言おうとした矢先、梓が店主に頭を下げた。

 

「あの、この人にレコードプレイヤーをもう少し安く売ってもらえないでしょうか!」

 

真剣な顔で梓が指差したモノ。

それは置いてある中で1番安い1万2000円のプレイヤー。

 

「え? それかい? う~ん、すでに特価だからねぇ……」

「そ、そこを何とか! お願いします」

 

見ているこちらが恐縮するぐらい、深々と頭を下げる。

背が低いから、なんだか小さい子が怒られてるみたいだ。

店主が、梓の真剣な表情を見て、それから僕をちらりと見て、微笑んだ。

 

「なるほどね。いいよ、まけといたげるよ。8000円でどう?」

「やったぁ! ありがとうございます。羽鳥君、安くしてくれるって!」

「ひゃっほう!」

 

大喜びする梓に合わせてハイタッチ。

本当は5000円ぐらいのジャンク品でいいやって思ってたんだけど、ここまでしてもらって買わないわけには行かない。

僕はなけなしの一万円を店主に渡した。

店を出るとき、店主が僕にウィンクした。

なにやら、いやらしい笑顔をしている。

おっさんが、ちょいちょいと手招きする。

なんだよ。

 

「いい子だろ、梓ちゃん」

 

こそっと耳元にささやく。

 

「ええ。そりゃまぁ」

「大事にしろよ」

 

いや、だからそう言う関係じゃないってば。

 

「なに話してたの?」

 

入り口で待ってた梓がきょとんとした顔で問いかける。

 

「なんでもないよ」

 

僕は照れ隠しにスタスタと歩き出した……が。

重い。

レコードプレイヤー、送ってもらえばよかったな。

 

そのあとは、適当に中古レコードショップを冷やかしたりしながら、恵美須町駅に戻った。

再び北浜に移動してそこから京阪特急に乗る。

いつもと逆で、丹波橋で梓と別れることになった。

別れ際に、梓がレコードを一枚渡してくれた。

 

「はい、これ。約束のレコード」

「どおりで、大きなトートだと思ったよ。そこに入れてたんだね。先に渡してくれてもよかったのに」

「それって、背の低い私が大きいトート持ってるのは滑稽だってこと?」

 

ジト目で梓が睨む。

僕は苦笑する。

 

「違うって。ただ大変だったんじゃないかなって」

 

すると梓が、照れたようにぷいと目をそらした。

 

「だって、もしもレコードプレイヤー買えなかったら渡す意味ないし。羽鳥君、買った後はプレイヤーが重そうだったから」

 

そういう気遣いが実に彼女らしくてほほえましい。

 

「ありがとう」

 

僕が礼を言うと、梓は少しこちらをむいた。

 

「お礼なんていいよ、別に。私が貸したかったんだし」

 

レコードを受け取って、僕は特急から降りる。

テレビつきの特急が、京都の中心地へと走り去っていく。

窓越しにちらりと見えた梓が、手を小さく振った。

僕も手を振り返した。

普通電車を待つために、駅のベンチに腰掛ける。

夏が近づいていた。

じわじわとした暑さが肌を刺す。

初めてのデートを終えたという感覚があった。

僕、なんか変なこと言わなかっただろうな?

梓は不快感を感じたりしなかっただろうか?

うぅむ、他人の気持ちだから、僕にはわからん。

一応いつも通りに接したつもりだが。

考えても答えの出ないことに悩んでいると、京都方面行きの普通電車がやって来ていた。

急いでそれに乗り込む。

車内はがらがらだった。

適当に好きな席に座る。

頭の中に、さっき行った恵美須町のことが思い浮かんだ。

初デートの達成感とは別に、少し気になったことがあったのだ。

恵美須町には初めて行ったが、いろんなものが売っていた。

梓が一緒にいた手前、今回、回った場所はレコードショップとオーディオショップだけだ。

だが、他にも総合家電店やパソコンショップ、そして怪しげなゲームソフトショップ、同人ショップ、アニメショップなどの看板が見えた。

それらは京都の寺町や新京極商店街では見かけたことがないものばかりだった(いまでこそ虎もメロンもあるが当時は無かったのだ)。

 

アダルトゲームや同人誌か……。

買ってみたいなぁ。

僕ももう高3だ。

背は低いほうだが、私服だったらばれないかもしれない。

……よしっ。

明日だ。

明日、もう一度一人で行ってみよう。

 

翌日の日曜日、僕はできるだけ大人っぽい服に着替え、髪にヘアワックスを塗りつけ、もう一度恵美須町に向かった。

京橋までは定期を持っているが、そこから恵美須町までは電車賃もかかる。

この二日間で電車賃だけで合計2000円近く消費している。

レコードプレイヤーも買ったし、もうほとんど小遣いはない。

使えてせいぜい3000円だ。

僕は絶対にせめてなにか一つは収穫を得て帰るつもりで駅を降りた。

行き先はほぼ決めていた。

降りてすぐの雑居ビルに、『ぽち』と書かれたゲームショップがあった。

ソフトランドと銘打ってあり、すぐにパソコンソフトのショップだとわかる。

昨日のうちに目をつけておいたのだ。

薄暗い雑居ビルの階段を登る。

妙な背徳感があった。

安っぽいドアを開けると、簡素なつくりのテナントに棚を並べて、面置きでゲームが並べられている。

頭がくらくらした。

どれもこれも、『エロゲー』だ。

 

卑猥な絵が描かれたパッケージがずらりと並べられている。

数人の男がそれらのパッケージを真剣そうに眺めていた。

僕は、彼らを真似て一つを手に取る。

一際可愛い絵柄が目を引いたのだ。

タイトルは『戦巫女』と書いてあった。

開発会社は……アリスソフト。

いかにもな名前だな。

パッケージを裏返す。

巫女さんがいろんな特訓をしている絵が描いてある。

巫女さんを鍛えるゲームみたいだ。

謎な内容だな。

だが、そこには卑猥な絵がかかれていなかった。

え?

これはどういうことだろう。

他のゲームには、そういう絵が所狭しと並んでいるんだが。

あえてエッチシーンを載せないことで焦らしプレイを強いているのか。

それともまさか、これは18禁じゃないのか?

僕は頭を抱えた。

ううむ。

いくら考えてもわからない。

かといって、店員さんやお客さんに訊くわけにもいかないしなぁ。

恥ずかしいし、もしもそれで「ん? 君本当に18歳以上?」ってなっても嫌だ。

ため息をついて、『戦巫女』を棚に戻した。

しょうがない。

いったん別の店に移動しよう。

店を出るとき、壁に貼ってあったゲームポスターが眼に入った。

か、可愛い!!

なんてゲームだ、これ?

タイトルは『With You』。

これだ!

これが欲しいぞ!

だが、よくよくポスターを見ると、発売日はまだだいぶ先だった。

何だよ、宣伝か。

 

『ぽち』を出ると、今度はもう一つ目をつけておいたショップ『えるぱれ』に向かう。

こちらも同じように雑居ビルにテナントを構えていた。

入ってまず感じたことは『狭い!』ということだ。

同じぐらいの広さのはずなのだが、こちらのほうが断然狭く感じる。

それもそのはずで、単純にお客さんが多いのだ。

『ぽち』と違って『えるぱれ』は同人誌の店だった。

ひしめくようにやや小太りの男たちが、平積みされた同人誌を読んでいる。

ん?

『読んでいる?』

そう。

どいつもこいつも、一様に脇目も振らず、同人誌を読んでいた。

しかも長い。

立ち読みなんてレベルじゃないぞ。

僕は、適当に空いていた同人誌を手に取る。

 

「な、なんとこれは……!」

 

見本と題されたそれは、全頁がそのまま読める仕様だった。

いいところで封がしてあるかと思ったのだが。

完全解禁じゃないか!

ある種の衝撃が僕を襲う。

ちょっと待ってくれ。

同人誌みたいな薄い本、全ページ自由に読めるようにして置いていたらどうなる?

考えるまでもないじゃないか。

≪この場で読み終わってしまう≫

今まさにその現象が、店内で起こっていた。

どの客もこの客も、とにかくひたすらに目に焼き付けるようにエロ同人を立ち読みしている。

いや、読み尽くしている!

 

「こ、これが、大人の世界なのか?」

 

僕は驚愕し、震え、手元の同人誌をパタンと閉じた。

どうする?

このままここで僕も立ち読みをするか?

そうすれば安くすむ。

しかし、長時間滞在するのは危険だという恐怖もある。

長時間滞在して、もしも何か咎められたらどうする?

17歳だということがバレたらどうする?

僕は悩みになやみ、結局そのとき手に持っていた同人誌を購入することにした。

こけこっこ☆こま、という作家さんが描いたサムスピのナコリムの同人誌だった。

一色刷りの表紙に、裸のナコルルとリムルルが描いてある。

本当はもっといろいろ吟味したかったが、仕方がない。

恐る恐る、それをカウンターに突き出す。

店員は、何も言わず淡々と会計を済ませてくれた。

拍子抜けするほどに簡単に買えてしまった。

ミッションの成功に小躍りして階段を下りた。

駅の公衆トイレまで走り、耐え切れず、個室で買ったばかりの同人誌を開けた。

早く読みたい、というよりも、自分の成し遂げた行為を確かめたかった。

薄い紙包装を開けると、確かにそこには同人誌があった。

 

「買った。買えちまった」

 

背筋が震えた。

その場で読んでしまいたかったが、なんだか怖くなり、すぐに紙包装に戻した。

そして急いで、墨染まで帰った。

 

一冊同人誌を買ってしまうと、さらに欲しくなる。

だが、これ以上のリスクを犯す勇気はなかった。

とりあえず、今はこれで我慢して、18歳になったらもっと買いまくろう。

僕は、大学は首都圏の大学を受けよう、とこのとき心に決めた。

第一志望は関々同立だったのだが、それをMARCHに変えた。

なぜなら、東京には秋葉原があるからだ。

もともとアニメに興味があったが、その方向への趣味が爆発した瞬間だった。

僕は、悶々とアニメの美少女たちのことを考えて日々を過ごすようになった。

時折、佐伯梓のエロいポーズが脳裏に浮かぶこともあった。

だが、それはぼんやりとしていた。

女の子の裸を見たことがないから、想像がつかないのだ。

それに知っている女のことでそういう想像をすることに気が引けた。

僕は髪をくしゃくしゃと掻いた。

梓を汚すのはやめよう……。

 

ちょうどその頃、アニメ版のTO HEARTの放送が始まった。

深夜帯でアニメをやるということ自体が当時は珍しかったが、その原作がしかもアダルトゲームだということに衝撃を受けた。

時代は変わってきたのだ。

そう思った。

僕は、音楽への興味を次第に失っていった。

音楽を聴いている時間があればアニメを見たりゲームをしたりすることのほうが増えていった。

 

そんな僕の変化は、梓にも伝わったのかもしれない。

ある朝、梓が僕を覗き込むようにして言った。

 

「ね、最近、音楽。良いのあった?」

「え? そ、そうだなぁ」

 

僕は言葉につまってしまった。

特に何も思いつかなかった。

 

「うぅん、エリック・クラプトンとか?」

「最近じゃないじゃん」

 

梓がジト目になる。

僕はしどろもどろ言い訳した。

 

「いや、ほら。あれだって。去年出た新しいアルバムがよかったんだよ。ピルグリムっていう」

 

そのこと自体は事実だった。

1990年代後半は、古いミュージシャンが久々にいい新作をたくさん出した時代だった。

クラプトンのピルグリム、ビー・ジーズのスティル・ウォーターズ、クリス・レアのロード・トゥ・ヘル・パート・2、ボズ・スキャッグスのディグ、スティングのブラン・ニュー・ディ。

それらの芳醇なサウンドを、僕は今でも頭にすぐ思い浮かべることができる。

あの頃の時代の特別な空気感を伴って。

 

「ふぅん。そうなんだ」

 

梓は半信半疑という表情。

 

「本当だよ。ピルグリムってさ、巡礼って意味なんだけど。ロックなのに、どこか静謐さもあって、深くて。ジャケットも神秘的なんだぜ。貞元が描いてるんだ」

「貞元って?」

「あれ? 知らない? エヴァンゲリオンの貞元」

「あぁ。なんかあったね、そういうの。男の子がちょっと見てたっけ」

 

しまった。

梓はアニメとかに全然興味ない人種だった。

それに、僕は世代的に放送時ちょうど中2だったから、シンジ君たちと同い年。

妙な連帯感もあって、どハマりした。

しかし、一般的にはエヴァを見て騒いでたのってもう少し年上の層だろう。

一方で梓は今高1だから、僕よりも2つ年下だ。

エヴァが放送されたとき、小6。

それはまぁ、実感ないわなぁ。

しかし、小6梓か。

ちょっと見てみたいぜ。

そんなことを考えていると、服の裾を引っ張られた。

 

「もう。京橋着いちゃうよ?」

「あ、本当だ。ごめんね、梓。また明日」

「べーっだ」

 

梓が舌を出す。

僕は苦笑いするしかなかった。

 

そんなこんなで冬になり、受験シーズンが近づいて来た。

僕の成績は予想以上に下がり、狙っていた大学に同格できるかどうかはかなり難しい状況だった。

ひとえに、煩悩に取り付かれすぎた結果だろう。

もうすぐ冬休みだが、遊んでいる暇はなさそうだ。

嫌な気分で落ち込んでいると、特急列車がやって来た。

いつもの車両に乗り込むと、いつもの通り梓がいた。

梓は1年生だから、受験は関係がない。

気楽でいいよな、と思ったのだが、なにやら緊張した面持ちをしている。

 

「おはよう。どうしたの?」

「あ、悩んでるの、顔に出ちゃってた?」

「うん。嫌なことでもあった?」

「嫌なことじゃないんだけど……」

「話してみてよ」

「うん……」

 

梓が、長いツインテールの先をいじる。

 

「あのね、来年早々に、ライブハウスに出るんだ」

「へぇ。凄いじゃん」

「でも……その。そういうのって初めてだから、なんか緊張して。上手くできるかな。対バンの人怖くないかな、とか。いろいろ考えちゃって」

「あぁ~。なるほどね」

 

それは確かに、あるあるだ。

 

「どこのライブハウスに出るの?」

「神宮丸田町の京都メトロ……」

「うわっ。わりと有名なところだね」

「うん。ウチのクラブの伝統で」

「へぇ~。ま、武者修行だよ、武者修行。戦って、大きく成長するつもりで行ってきな」

「むぅ~。なんか子ども扱い。同い年のくせに」

 

梓が口を尖らせる。

君が勘違いしてるだけで、本当は僕年上なんだけどね。

 

「ねぇねぇ、羽鳥君」

「なに?」

「見にきてよ。ライブ」

「え?」

「なんか、客席にいてくれたら、勇気出ると思うから……」

「いいの?」

「うん」

 

確かに、梓の弾いてるところって興味がある。

それに、頼られてるのも悪くない気分だ。

 

「オッケー。行くよ。応援してやる」

「ほんと? ありがとう。絶対来てね。誘ったんだから。約束だよ」

「いつ?」

「2月12日。土曜日」

「まだ先だね。空けておくよ」

 

この軽々しい言葉を、僕は後悔することになった。

冬休みに必死になって勉強をしたのだが、成績はそれほど浮上せず。

センター試験では大失敗をしてしまった。

国公立はもう狙えない。

私学で、ある程度得意科目に絞った学部を受験するほうがいい。

なんとしてでも、首都圏の大学に合格したかった。

秋葉原に行きたかった。

だが。

狙いを絞った大学の受験日程を見て、愕然とした。

梓が誘ってくれたライブの日だった。

申し訳ないけど、ライブを見に行くのは無理だ。

断らなくてはならない。

しかし。

僕の通っている高校は、受験対策のためか、2月になるとほとんど登校する必要がないようにカリキュラムを組んでいた。

そうなると、わざわざ学校で勉強をする必要はない。

僕みたいに、追い込みがやばい人間の一部は、家で勉強をするようになる。

僕は一月早々、梓との電車での待ち合わせをすっぽかしてしまった。

この上、さらに顔を合わせて「ライブに行けない」と伝えるのは心苦しかった。

受検で頭が一杯で、ほかの事で悩んでいる余裕もなかった。

電話で伝えようかと思ったが、この時になって気がついたのだが、僕は梓の電話番号を知らなかった。

僕たちは、毎日一緒に京阪電車に乗っていたのに、こんなにもある意味では希薄な関係だったのだ。

結局僕は、受験日まで学校には通わず、京阪電車で梓と会うこともなく、何も伝えないままにライブの約束をすっぽかしてしまった。

こうなるともう、ひたすらに気まずい想いが頭を支配してしまう。

受験が終わった後も、学校へ行くときは、いつもと違う時間の電車に乗るようになった。

そうやってやりすごすうちに合格通知が届いた。

僕は、首都圏の私立大学に合格したのだった。

小躍りして喜んだ。

これでさまざまなわずらわしい物事から開放されるような気がした。

卒業式の後、すぐに東京に移った。

小金井に下宿を決め、必要なものを運び込んだ。

アパートの小さな部屋に、送り込んだダンボールを開けていくうちに、レコードが出てきた。

アート・ペッパーだった。

梓から借りたものだ。

借りっぱなしになってしまった。

他のレコードと一緒に東京に持ってきてしまったのだ。

 

「可愛くて、いい子だったなぁ」

 

不意に激しい胸の痛みが襲った。

それは後悔や郷愁という言葉に似ていた。

懺悔と言い換えてもよかった。

もう少し僕が踏み込んでいれば。

僕たちはもっと仲良くなれたのかも。

けれども僕はあの子にふたつ嘘をついた。

ライブに行くということと、同じ学年だということだ。

あの子は今日も京阪電車に乗っているのだろうか。

僕が、実はもう高校を卒業していて、今日から東京で暮すなんてことも知らずに。

 




1999年のエピソードはこれで終わりです。
一歩踏みこめなかった恋はあっけなく終わってしまいました。

あの時代の青春を思い出しながら書きました。

次は2000年代のお話です。

※時代ごとに章分けしているので短編連作としています。
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