ある日僕は、新作のポスターを貼ってもらうために営業で秋葉原を訪れた。
さまざまな雑用を一手に引き受けているFさんと二人で車から降り、いくつかのゲームショップを回る。
そんな時、アニメショップの壁に貼ってあるポスターのひとつが目に付いた。
「え?……これって」
僕は、その場に凍り付いてしまった。
そこに、懐かしい女の子がいたからだ。
佐伯梓。
遠い過去、高校生の頃に仲がよかった女の子。
いつも一緒に京阪電車に乗っていた女の子。
小柄で、ツインテールで、ちょっと猫みたいで、ギターを抱えていて。
あの頃の彼女が、そこにいた。
いいや、そんなはずは無い。
僕は首を振った。
それは、絵だった。
アニメの絵だ。
現実の女の子ではない。
どうやら、放送中のアニメの宣伝らしい。
『けいおん!』とロゴが入っている。
これがタイトルだろうか。
佐伯梓にそっくりの女の子は、5人いるヒロインたちのひとりのようだ。
すみっこに描かれているから、主役格ではないのだろう。
しかし、似ている……。
タイトルからして、軽音楽部を舞台にしたアニメなのか?
状況までおんなじじゃないか……。
僕が絶句していると、Fさんが少し怒った声で向こうから呼んだ。
「おい、羽鳥君、何してるんだ。次の店に行くよ」
「あ、す、すいません」
僕はあわてて彼の後を追う。
小走りで追いつくと、彼が問いかけてきた。
「どうしたの? 急に立ち止まって」
「あ、いや、その。ちょっと、気になるポスターがあって」
「へぇ? 他社のゲーム?」
「違います。アニメみたいでした」
「どんなの?」
「けいおん!っていう……」
「あぁ、けいおん!ね」
Fさんがニヤついた。
「なんだ、羽鳥君も日常系見るんだ」
「日常系?」
「あれ? 知らない?」
「最近のアニメには疎いもんで」
「日常系ってのは、特に何もせずダラダラするのを描いてる作品だよ。英語圏だとCute Girls Do Cute Thingsって言うみたいだけど」
「へぇ……」
最近はそういうのが流行ってるのか。
でも、学園モノとかも考えてみればそうなのでは?
「それじゃ、昔のTo Heartみたいな感じですか?」
「それはちょっと違うな。恋愛モノだと、攻略っていう目的があるだろ。そういうのすらないのが日常モノだよ」
「で、けいおん!ってのはまさにそれだと」
「今のところね。すごいダラダラお菓子食べてるだけだし」
「バンドものなのに?」
しかし、その言葉にもデジャヴがあった。
僕の脳裏に、10年前の佐伯梓の言葉が蘇る。
『まったりタイム~とか言ってお菓子食べてるの』
僕は、背筋に寒さを感じた。
「あの。その作品って、今度始まるんですか?」
「もうやってるよ。今2話まで放送したところ」
「へ、へぇ……。人気作なんですか?」
「まぁ、注目作ではあるよね。京アニの新作だし。でもマイナーな4コマが原作だからなぁって言われてたんだけど、始まってみたらすごい作画と演出でさ。特に、エンディングが最高なのよ。今期の期待作だね」
「京アニ?」
「京都アニメーション。知らない?」
「す、すいません……」
「びっくりだな。仕事柄、知っといたほうがいいんじゃないの? AIRのアニメ版製作したところだよ」
「え、そうなんですか?」
「そうそう。CLANNADもハルヒもそこだよ」
とんでもない人気スタジオじゃないか。
グラフィッカーのM君の家に遊びに行ったときに、彼が同人誌作るからとか言ってハルヒを流していたのを思い出した。
しかし、京都か。
まさか、そんなところにまで類似点があるとは……。
その日の仕事は、あまり身が入らなかった。
頭が熱を含んだようにぼんやりとした。
足元がリアリティを無くし、ふらふらと漂うようだった。
仕事が終わると、スーパーで夕食と缶ビールを買い、アパートに帰った。
出来合いのものを買ったので、料理をしなくて済んだ。
僕はインターネットに接続し、京都アニメーションについて調べた。
所在地は木幡の周辺か……。
京都というよりも宇治じゃないか。
しかし、京阪沿線だ。
確か宇治行きは中書島から乗換えだったな。
木幡で降りたことはほとんど無いが、宇治には子供の頃から、何度も遊びに行っている。
僕の脳裏に、宇治川の橋や中州や、大吉山の光景が浮かぶ。
小学生のとき、両親と一緒に源氏物語のスタンプラリーに参加しことも思い出した。
懐かしいな……。
たしか、スタンプを全部集めたら機織り風のしおりが貰えたんだっけ。
僕は、缶ビールを開けた。
飲むのは久しぶりだった。
めったに飲み会が無い会社だったし、毎日疲れていて酒を飲む気にもなれなかったのだ。
久しぶりに飲んだビールはやけに美味かった。
喉をするすると通っていく。
あっという間に一本飲んでしまい、もう一本買っておけばよかったと後悔した。
その週、僕は数年ぶりにまともにアニメを鑑賞した。
もちろん、けいおん!だ。
「へぇ……面白いじゃん」
僕は眼を見張った。
一昔前のアニメと、まったく違う。
なにが違うって、空気感や臨場感だ。
派手なアクションがあるわけではないのだが、細かい動きやカメラワークが実に繊細で凝っている。
まるで実写映画のような不思議な立体感がある。
そこに、『その世界の日常の空気』が描き出されている。
これは……すごい。
内容云々ではなく、とにかく演出がすごい。
さらに、僕の心をわしづかみにしたのはオープニングだった。
「これって……京都じゃないか」
いかにも学生が思いつきで撮ったプロモーションビデオを装ったその映像に、背景として幾度も出てくるのは見慣れた京都だった。
ことさらに琵琶湖疏水記念館の近くが出てきたとき、激しい郷愁が僕の心臓を打った。
なんて懐かしいんだ。
涙がこぼれそうになった。
いや、気がついたら泣いていた。
上京してからもう、およそ10年になる。
ずっと見ていない景色が、そこにあった。
まさか、アニメを見て泣くことになるとは。
しかもこんな、たわいも無い内容のアニメで。
たわいも無いからこそ、過ぎ去った日々を思い起こし、ノスタルジーを掻き立てられるのだろうか。
エンディングまで見終わって、僕はひどく満足して、ベッドに身を横たえた。
アパートの無機質なルームライトをじっと見つめる。
墨染の実家の、和風な電球が懐かしかった。
僕は、息をついた。
「しかし、あの佐伯梓に似た子は出てこなかったな……」
ポスターに出ていたツインテールの少女は、第3話には登場しなかった。
どういうことだろう。
もっと後になって登場するキャラクターなのか?
それとも、あれは僕の見間違いか何かだったのか?
毎日の仕事が忙しすぎて、少しおかしくなっていたのだろうか。
まぁいいさ。
そのおかげで、素晴らしいアニメに出会えたのだから。
僕は眼を閉じた。
そしてそのまま、眠りに落ちた。
明日も仕事が早い。
疲れを取らなければ……。
※
予想外にけいおん!に感動した僕は、それからもテレビ放映の鑑賞を続けた。
5週間が過ぎた。
その日、第8話目の放送が始まって数分後。
僕はテレビの前で絶句していた。
画面の中には高校の合格発表の場面が映し出されている。
そこに、セーラー服に身を包んだ佐伯梓がいた。
いや……勿論、これは佐伯梓ではない。
そんなことはわかっている。
たまたまよく似たアニメキャラだ。
しかし、やはり本当に似ている。
雰囲気がそっくりだ。
先週の「次回予告」に、このキャラクターは出てこなかった。
だから不意を突かれた形になった。
どうやら、僕の見間違いではなかったらしい。
梓によく似たキャラは、このアニメの登場人物なのだ。
彼女が、合格者の受験番号が乗せられたボードを見て一言呟く。
「あった……」
その声。
声まで、どことなく佐伯梓を思い起こさせる。
そっけないような、少し生意気なような、あの懐かしい声だ。
僕は画面の前で、息を呑む。
もっと見たい。
このキャラクターを見たい。
だが、すぐに画面は次の場面に移り変わる。
くそっ。
サブキャラクター程度の扱いなのか?
その心配は杞憂に終わった。
彼女は、後輩キャラクターとして、軽音楽部に入学することになる。
そこまでの過程が第8話で描かれている。
第8話を見終わった後、僕は、呆然としていた。
この日も、缶ビールを一本だけ空けていた。
ほとんど空になった缶を握りつぶし、ベッドを背もたれにしてもたれかかる。
「なんてこった……」
無意識のうちに、呟きがもれた。
「なんてこった……名前まで、同じだとはよぉ……」
そう。
そのキャラクターは佐伯梓と同じ、梓という名前だった。
ただし、苗字は違っていた。
中野梓。
それが、彼女のフルネームだ。
「これはなんだ? 僕へのあてつけなのか?」
缶ビール一本で少し酔いが待った僕は、天井をあおぐ。
いつもと変わらない無機質なルームライトが光を放っている。
「あぁ、くそっ」
やり場のない変な気持ちが、胸の奥にじわじわと溢れてくる。
本当に不意打ちだった。
あの、10年前に置き去りにした佐伯梓にそっくりな女の子を、こんなふうに見るなんて。
何なんだよ、この変な気持ちはよぉ。
あごを撫でると、ざらりとした無精ひげの感触がした。
その感触を確かめることで、少しだけ現実感が戻ってきた。
気を確かに持てよ、僕。
僕はもう、27歳だ。
いい年をした大人だ。
子供から見たらおっさんと呼ばれだしてもおかしくない年齢だ。
それが、アニメ一本に対して、こんなにも取り乱してどうするんだ。
佐伯梓?
もう10年も前に少し親しかっただけの女の子じゃないか。
ただの偶然の連続に、何をイライラしているんだよ。
「あぁ~ぁ。馬鹿らしい」
眼を閉じて嘆息する。
しかし、眼を閉じた闇に、梓が思い浮かぶ。
それは先ほど見たアニメの中野梓の方だった。
中野梓。
容姿や名前、声だけではなく、行動も似ているように感じた。
友達にジャズ研はどうだったかと訊かれて「ホンモノのジャズとは違ったかな」って返すところの口ぶりなんて、そっくりだ。
あの少し上から目線というか、どことなく生真面目で評論家ぶっていてちっちゃい癖に背伸びしていて……。
そういうと、新人歓迎のライブを見て、軽音楽部に入部を決めたというエピソードも同じだ。
その結果、ダラダラとあまり練習をしないクラブに入ってしまうというところまで。
「なんだってんだよ、これはよぉ……」
僕はまた、独り言を呟く。
こんなものを僕に突きつけて、何がしたいんだ、製作者様どもはよぉ。
いや、違う。
勿論こんなのは、ただの僕の思い込み。
似ていると思うから、どんどんとそのように見えてしまうだけなんだ。
実際にはそこまで似ていたかどうか、疑わしい。
僕の思い込みかもしれない。
だってさぁ、そもそも。
もう佐伯梓の顔もちゃんと明確には思い出せないじゃないか。
※
今となっては、順序はよくわからない。
思い出すことができない。
佐伯梓は、どんな容姿をしていて、どんな声をしていたのだろうか。
彼女はどこまで、けいおん!の中野梓に似ていたのだろう。
佐伯梓と会わなくなってから10年が経過している。
その中で、僕は本当に鮮明に彼女のことを覚えていただろうか。
忙しい毎日の仕事の中で、ほとんど忘れかけていた時期もあったのではないのか?
確かに、最初に中野梓の絵を見たとき、即座に佐伯梓を連想した。
それぐらいには似ていたのだろう。
けれども、僕はもう佐伯梓に出会う機会はない。
仮に今の彼女に出合うことがあっても、もう25歳のはずだ。
あの日の彼女はもうどこにもいない。
その一方で、中野梓は、毎日同じ姿で描き出され、そして人気に応じて増殖を続ける。
中野梓は、登場後すぐに人気キャラクターになった。
巷やインターネット、至るところで中野梓の画像を見かけるようになっていった。
そんな中で、僕の記憶の中の佐伯梓は、どんどんと薄れていく、侵食されていく、置き換わっていく。
中野梓に。
はじめ、佐伯梓に似ていたはずの中野梓は、いつの間にか僕の中で、佐伯梓を食らい尽くし、融合を果たし、僕の中の彼女そのものになる。
僕は、佐伯梓を思い出そうとしても、そこに中野梓が重なっていく。
僕の梓は、次第に中野梓になっていく。
僕は、中野梓を求め、電子の海に彼女の画像を探し、アニメ雑誌のポスターを壁に貼り付け、CDや、フィギュアを購入する。
僕は、以前よりもずっと深く、中野梓/佐伯梓を、求めるようになる。
物語の中で、悔しいことがひとつあった。
それは梓と唯の関係だ。
はじめは頼りない先輩だったはずの唯が、いつしか梓の中で大きな存在になる。
梓登場後の物語の、ひとつの主軸だ。
二人の関係は、いやおうなく、僕と佐伯梓の関係を想起させる。
僕と佐伯梓が、本当は高校3年生と高校1年生だったことを想わせる。
僕はあのとき、佐伯梓に、年上であることを告げることができなかった。
ずっと同級生のふりを演じ続け、そしてそのまま別れてしまった。
もしもあの時、高校3年生であること、卒業してしまうこと、受験生であることを伝えていたならば。
僕と佐伯梓の関係は、中野梓と平沢唯のように深く、永いものになっていたのだろうか?
この、『ありえたかもしれない未来のヴィジョン』は、僕のオブセッションになった。
僕は、27歳にして、17歳の頃の淡い恋の過ちを、深く悔やむようになった。
僕はどうして、梓と恋人同士になれなかったのだろう。
僕はどうして、梓ともう一度出会えないのだろう。
僕はどうやったら、梓にもう一度出会えるのだろう。
人生をやり直したい。
軌道修正したい。
そんなことばかり考えるようになった。
だが、それは無理というものだ。
そんな中で、ひとつの空想実験のようなものが、僕の新しい趣味になった。
僕と梓は、もう少しで再会できるかもしれない、という空想だ。
たとえばある日曜日。
僕は久しぶりの休日を楽しむために街へ出かける。
場所はどこでも良い。
たとえば恵比寿の写真美術館に行くことにしようか。
僕は、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真の前に立ち、それに見入っている。
その瞬間、僕の真後ろを梓が通り過ぎるのだ。
僕は気がつかない。
梓も僕に気がつかない。
彼女は、ブレッソンの写真を通り過ぎ、奥の部屋に掲示されているロラン・バルトの論考を見に行ってしまう……。
あるいは、ある平日の深夜。
僕は、仕事が終わった後、ちょっとした打ち上げのために大宮の駅前の居酒屋に行く。
雑居ビルの二階にある、広めの大衆居酒屋だ。
僕が階段を上った直後、そのビルの前を梓が通り過ぎる。
彼女は、そのビルの向かいの地下一階にあるライブハウスで、定期的にジャズを弾いている……。
そう、僕たちは、遠く離れてなんていない。
いつだって、ほんの数メートル先にいる。
すれ違う瞬間なんて、たった数センチ・数ミリの時だってある。
僕は、わずかに運命を変えれば、梓に出会うことができる。
恵比寿の美術館で、深夜の大宮で、雨降りの新宿で、明け方の始発駅で。
どこでだって、もう少しで出会うことができる。
僕と梓は、まるで惑星と衛星だ。
こんなにも近くですれ違い続ける運命なんだ。
僕は、眼を閉じ、夢想する。
ある晴れた日に、特別な奇跡が起こり、僕はふと後ろを振り返る。
すると、振り返った僕の少し向こうに、同じように何かの偶然で、こちらを振り返った梓がいる。
僕たちは、とうとう出会いを果たす。
けれども、その梓の姿は。
今はもう、ほとんど中野梓になっている。
ようやく主人公は、けいおん!という作品と出会いました。
あの作品を初めて見た時に感じたことを思い出しながら書きました。
次で最終章です。
この物語に最後までお付き合いいただければ幸いです。
2017年、現在のお話です。