運命というものはいたずらだ。
2012年の秋に、僕は唐突に解雇され、職を失った。
その結果、もう二度と戻ることはないだろうと思っていた関西に戻ることになった。
僕が梓のオブセッションに捕らわれた頃から、次第に会社の経営状況の危機が耳に入りだしていた。
ゲーム業界の新陳代謝は早い。
そもそも、PCのアダルトゲームというフォーマットそのものの市場が先細りになってきていた。
ロウプライスやダウンロード販売、同人ソフトと、裾野が広がり、求められる作品のボリュームも変化していた。
フルプライスの商業作品というものを上手く成立させるには、製作時のコストダウン・素早い発売サイクルを実現させるための雇用形態など、以前以上に工夫が必要になってきていた。
そういった潮流の中で、僕が勤めていた会社も社員数の見直しに踏み切ったのだ。
悔しかったが、仕方ないと思う側面もあった。
梓のオブセッションにとらわれ出してから、以前よりも仕事に身が入らなくなっていた。
僕は仕事よりも、中野梓のグッズを集めることに心を傾けていた。
そういった態度は透けて見えていたのだろう。
能力的な問題もあった。
もともと、専業的なライターというわけでもない。
これだけの期間、やっていけただけでも運がよかったのかもしれない。
まぁ、それからいろいろとあったのだが、関東ではなかなか新しい職が見つからなかった。
フリーのライターとして独り立ちできる自信はなかったし、もうゲーム関連の仕事はいいや、という気分だった。
僕は12年ぶりに関西に戻り、自営業を始めた。
その辺の経緯を書くと、それだけで長くなってしまう。
ここでは書かないでおこうと思う。
今やっていることは、コンサルタントの真似事のようなものだ。
幅広く名を売って、いろんな企業やらなにやらの予算決算だの、仕入れ状況だの、商売のやり方だのに提言をする仕事だ。
提言をまとめて書類にして提出するわけだが、ここでライターをやっていた経験が意外なぐらいに生きた。
要するに、丁稚上げでも誇張でもなんでもいい。
それらしい考察と、説得力のある書き口の提案ができれば良いわけだ。
もともと、幅広くいろんな知識を得ることが好きなのも役立った。
口を挟む企業のそのジャンルの最新の動向を調べ、それらしい提案をする。
ポイントは「1歩掘り下げること」だ。
こんなんで大丈夫なのかと思うこともあったが、評判は悪くない。
そもそも、同業他社を見てみれば、僕よりもいい加減な連中がうようよいた。
きっちりと最新動向を調べて、実現可能かどうかを検討した上で提言しているだけでもマシなほうなのだ。
苦笑するしかない。
関西に戻ってきたとき、関東との空気の違いが薄れていて驚いた。
8年前、親戚の葬儀のために帰った時。
難波に着いた夜行バスから降り立った瞬間、蒸し暑くどことなくいがらっぽい大気に驚いたものだが。
関西でも排ガス規制が進んだからかもしれない。
昔はもっと違うと感じたものが、今はそこまでの違いを感じない。
勿論、差異は未だにたくさんある。
街並み、文化、そこに住む人となり。
景観で言えば、土地に高低差が少ないというのも大きな違いだ。
そこは今後も変わらないだろう。
そして、電車の中が騒がしい……。
それは、関西を長く離れて戻ってきて、初めて気がつくことだった。
関西に戻ってきたが、実家に戻るという選択肢は考えなかった。
それは、なんとなく嫌だった。
そこはもう、僕からは遠く剥離して、別の場所であるような気がした。
12年間もろくすっぽ帰らなかったのだ。
墨染に僕の居場所などあるまい。
そして、京阪電車に乗ることもなんとなく躊躇われた。
なんとなく、だ。
僕は、高槻に居を構えることにした。
高槻を選んだ理由は、大阪の中で京都に近いことと、山や川などの自然が残っているからだ。
駅から徒歩10分ぐらいのところに程よい家賃のアパートを見つけることができた。
高槻は、駅前がすっかり変わっていた。
湯浅電池の工場がなくなり、そこに巨大な大学のビルができていた。
最新鋭の大学施設は、昔ながらの大学と違い、まるで企業のビルのようだ。
大学と駅と駅前の商業施設がペデストリアンデッキで接続されていた。
蜘蛛の巣のように。
僕が子供の頃は、この商業施設さえ無かったというのに。
ボブ・ディランではないが、時代は変わっていくのだ。
日常の移動にはもっぱらJRと阪急を使った。
意図的に、京阪沿線での仕事を避けている部分もあった。
京阪。
高槻と淀川を挟んだ対岸は枚方だ。
僕は休日に河川敷を散歩し、ぼんやりと向こう岸を睨むことがあった。
近い。
こんなにも近い。
だがそこは果てしないほどに遠くも感じる。
自営業というものは、誰かから命令される事がない。
その代わり全てにおいて自己の判断が問われる。
どの契約を選びどの契約を捨てるのか。
それによって今後どのような影響を受けるのか。
あらゆる事が自己責任だ。
やり甲斐は感じるが、これはこれで精神力が必要な仕事だ。
失敗は許されない。
がむしゃらに働くうちにすぐに5年が過ぎた。
気がつくと2017年になっていた。
そんなある日、母親から電話があった。
「あんたね。来週、おじいちゃんの命日でしょ」
「そうだっけ」
その日は、ひどく忙しい仕事が終わった直後で、僕はぼんやりとした頭で受け答えをした。
自営業をはじめてから酒を飲む機会が増えていた。
名を売るためにいろんな飲み会に顔を出していたし、自分でも飲む機会が多くなった。
アルコールが頭の芯に残っていたのかもしれない。
疲れると、それが意識をぼんやりさせるのだ。
「関西に戻ってきてるのに、ちっともお墓参り行ってないじゃない。次の休み、行ってらっしゃい」
「あぁ……うん」
祖父の墓は、京阪電車の七条駅が最寄になる。
次の休みの日、僕は高槻からJRに乗り、京都駅で降りた。
京阪の七条駅は、JRの京都駅から歩くとさほど遠くない。
その日は、たまたま高校ブラスバンドフェスティバルがある日で、JR京都駅のあの伊勢丹のそばの黒い階段は、人でひしめき合っていた。
僕はそれを、ぼんやりと眺めた。
どこの高校かわからないが、ナイト・アンド・ディを弾いていた。
あまりジャズらしくないアレンジだった。
まぁ、ブラスバンド部だから、ジャズ的ではないのは仕方がない。
JR京都駅に来て、いつも真っ先に思い出すのは、伊勢丹の上の方の階に、昔はゲームセンターがあったことだ。
はっきりと覚えていないが、中学3年生か高校1年生の頃、JR伊勢丹京都が開店した。
そんなところで買い物する機会など無かったから、興味が無かったのだが、仲のよかった同級生に「屋上にゲーセンがあるんだぜ」と教えられて、遊びに行った記憶があった。
そんなことを考えながら、学生たちの奏でるブラスバンドを聴いていた。
京都アニメーションは、数年前にちょうど高校のブラスバンド部を舞台にしたアニメを製作していた。
舞台は宇治だった。
大吉山が重要なシーンに出てきて、驚いた。
そのアニメに、まさにこのブラスバンドフェスティバルが描写されていた。
僕は、「まるでアニメみたいだ」と思った。
何だそれは。
思ってから、苦笑した。
こちらが現実だ。
あのアニメは、この現実を取材してそれらしく描いているんだぞ。
それが逆転してどうするんだ。
僕は頭を掻き、その場を後にした。
しっかりしてくれよ、35歳。
ゆっくり歩いても20分かからない距離を歩き、墓参りを済ませる。
まだ陽が高く、それは暑い日だった。
それなりに汗をかいてしまっていたので、適当な喫茶店に入った。
喫茶店には思ったよりも客がいた。
近くに予備校があるらしかった。
学生のグループが、せわしなくおしゃべりしていた。
中年の婦人のグループが、しばらく上品にしゃべったかと思うと唐突に爆笑する、というループを繰り返していた。
僕は、バックパックから本を取り出した。
マイクル・コナリーの新作が翻訳されたので、買ったばかりだった。
ミステリー小説だったためか、思わぬほど読み込んでしまい、気がつくと夕刻に差し掛かっていた。
まぁ、たまにはこういう一日もいいだろう、と思った。
僕は本を閉じ、すっかり氷が解けたアイスコーヒーのグラスを一瞥して、会計を済ませて店を出た。
夕焼けが、街を黄色く染めていた。
目に付く位置に、赤提灯があった。
ちょっと引っ掛けるのも悪くないかと思った。
付き合いで飲むか、自宅で一人で飲むかばかりを繰り返している。
外で一人で飲むというのは、珍しい体験だ。
赤提灯をくぐると、早い時間だったが、それなりに客が入っていた。
先の店と同じだ。
客層は高齢者が多かったが、大学生風の男たちもちらほら混じっていた。
僕は、大学生の時に感じたことを思い出した。
京都で育ったのに、東京の大学に行ってしまった僕は、京都で酒を飲む機会を逸してしまった。
京都の大学に通い、コンパに興じる同級生たちを、うらやましく感じたのだ。
あの時のリベンジをするチャンスだと思った。
とうとうそのチャンスが巡ってきたのだ。
僕は、生ビールを一杯頼み、あてを注文する。
ビールを飲み終えると、今度は日本酒を冷で飲みはじめた。
良い気分だった。
15年ぶりの夢がかなったのだ。
酒に強くは無いので、ちびちびと飲んだが、それでも次第に酔いが回ってくる。
僕はいつもの空想をした。
たった今、この赤提灯の暖簾の向こうを。
僕の梓が、通り過ぎるのだ。
楽しそうに、唯たちと談笑をしながら。
僕は、暖簾を開き、外に出れば彼女の後姿を見ることができるだろう。
けれどもそれは、夢のようなものだ。
彼女は、永遠に触れることのできない妖精だ。
そう考えると、なんだか可笑しかった。
僕は、一人笑いをした。
勿論、人前だし、小さくだ。
予想以上の楽しい時間を過ごし、赤提灯を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
もう真夜中だった。
闇夜にぼんやりと浮かぶ京都タワーがひどく遠く感じられた。
今から、JR京都駅まで歩く気力はすっかりと失せていた。
酔いが回り、足元がおぼつかなかった。
僕は辺りを見回した。
向こうにマクドナルドの明りが見えた。
それは、京阪七条駅の出入り口のすぐそばのマクドナルドだった。
自然に足がそちらに向いた。
川の香りがかすかにした。
駅に隣接する川から、心地よい風が吹いていた。
久しぶりに、実家に帰ろうかな。
ここから墨染なら、京阪に乗ればすぐだ。
そうだ。
実家に帰ろう。
僕は、ふらつく足で、プラットフォームに通じる階段を下りた。
久しぶりに見る京阪の改札口や券売機が、強い郷愁をさらにあおった。
僕は、切符を買い、改札をくぐり、列車を待った。
特急をひとつやり過ごすと、普通列車がやって来た。
淀屋橋行きの普通列車だ。
懐かしい、緑の車両を見ると、視界が滲んだ。
それは、わずかにこぼれた涙だった。
深夜だからだろう。
車内はがらがらだった。
僕は、倒れこむように座席シートに座った。
嫌な酔っ払いが乗ってきたと思ったのだろう。
向かいの席に座っていた若い男女がこちらを一瞥した。
僕は、驚いた。
向かいの席の女が、梓に似ているように見えたのだ。
小さな体躯。
黒い髪。
生意気そうな瞳。
そしてツインテール。
だが、彼女は、隣に座っている若い男に抱きしめられていた。
それは僕の梓ではなかった。
よくわからなかった。
頭がグルグルと回った。
もう一度一瞥すると、若い女はさほど梓に似ていなかった。
髪型や背丈が近いだけだ。
若い男が舌打ちをした。
僕に睨まれたと思って不快感を感じたのだろう。
僕は眼を伏せた。
そして眠ったふりをした。
そのまま、どれぐらい乗っていたのだろう。
墨染を通り過ぎてしまった。
列車はどんどんと駅を進み、やがて中書島に着いた。
僕は、その駅で降りた。
頭が痛んだ。
僕を降ろした列車は、大阪の方角へぐんぐんと過ぎ去っていく。
だがそれは、深い闇に飲み込まれて消えていくようにも見えた。
僕は、戻らなきゃ、と思った。反対の斜線から、京都に戻らなきゃならない……。
ふらふらと歩くとき、宇治方面行きの路線に、列車が止まっているのが見えた。
それは時間帯的に、最終の列車に違いなかった。
もしもそれに今飛び乗れば、僕は木幡に行くことができる。
そう思った。
木幡。
京都アニメーション。
梓。
中野梓。
いや、違う。
……佐伯梓だ。
そこにたどり着けば、僕は、僕のずっと探しているあの日の梓に会えるだろうか。
もう一度、あの日のすれ違いを、過ちを、やり直すことができるだろうか。
僕の脳裏に、今やっとはっきりと、佐伯梓の顔が浮かんだ。
あの日のままの彼女が、あの生意気そうな目で、僕を睨んだ。
「羽鳥君。やっと思い出してくれたね」
すねたような声。
「ごめん。20年近く経っちゃった」
僕は、申し訳なさそうに呟く。
「いいよ。許してあげる」
「本当?」
「うん。ちゃんと、言うべきことを言ってくれたらね」
「言うべきこと?」
「そうだよ。羽鳥君、ずっと私に言いたかったことがあるんでしょ? 言いたくて、でも言いそびれちゃったこと」
僕は、うなづく。
「いくつも、あるよ」
「言ってみて」
「まず、その。ごめん。僕は嘘をついた。本当は同級生じゃなくて、年上だったんだ。僕はあの時、3年生だった」
「それから?」
「それから。僕はもうひとつ、嘘をついた。君が誘ってくれたライブ。あの日は、受験だったんだ。それで、行けなかった……」
「それだけじゃ、無いよね?」
佐伯梓の瞳が、僕を見つめる。
黒目がちの、あのかわいらしい瞳が。
僕は、ありったけの勇気と声を振り絞った。
「一番、伝えたかったことがあるんだ。僕は――」
――君が、好きだ
その言葉を、発するのと同時に、宇治行きの最終列車が発車した。
鈍く激しい列車の車輪音は、僕の言葉をかき消して行った。
京都方面行きのプラットフォームに立つ僕をあざ笑うかのように、いや、無表情に、その列車は、深い闇の中に消えていく。
僕は、ぽつねんと取り残された。
そして、関東のアパートでよくやったように、ぼんやりと天井を見つめる。
無機質なルームライトではなく、古びた照明灯と、そこに群がる虫が見えた。
(完)
お疲れ様でした。
これで、このシリーズは完結です。
あずにゃん、けいおん!、京アニ、京阪電車、過ぎ去った日々。
そういったすべての物事に愛を込めて書きました。
この物語を読んでいただけた方の心に少しでも何かが残れば幸いです。